■フェイズ32「近代9・竜宮王国とパックス・ブリタニカ」

 新王国(※一般には立憲王国と言われる事が多いが、第四王朝と言われることもある)成立から第一次世界大戦までの十数年間の間に、竜宮王国とイギリス連合王国の関係は、竜宮側の否応に関係なく進んだ。
 19世紀後半から以後半世紀は帝国主義の時代であり、特に1880年代から第一次世界大戦を迎えるまでがその全盛だった。ヨーロッパは世界を自分たちの都合で世界中を勝手に分割支配し、世界中の富を集めることで繁栄に沸き返った。そうした繁栄の時代をイギリスは「パックス・ブリタニカ(英国による覇権)」、フランスは「ベル・エポック(良き時代)」などと呼んだりもした。
 そうした中で、竜宮王国はイギリスのパックスの中に半ば含まれる状態に甘んじなければならなかった。
 1896年の新国家成立と共に外交関係の更新が行われ、両者の間には一応の平等条約が結ばれた。だが竜宮王国は依然として従の立場であり、イギリス連合王国の半ば衛星国のような立場に甘んじなければならなかった。でなければ、イギリスの事実上の保護国に転落している新竜王国の同胞がどういう目に合うのか想像に難くなかったからだ。
 これは1880年代頃の竜宮の急速な退勢とアメリカの隆盛が大きく響いており、新国家と新体制ができても取り返す事が様々な理由でままならなかったからだった。一番の問題は、竜宮の外郭地が、イギリス、アメリカ、ロシアという最強級の列強と接していることだった。こづき回されるのが、当たり前といえば当たり前の状況と立地だったのだ。日本のような、一見他者を恐れないような強引さで突き進んでいれば、ほぼ間違いなくもっと酷い事態を自ら招いていただろう。
 また、この段階で国丸ごとがイギリスに完全に飲み込まれていなかったのは、本国で既に産業革命が行われ相応の軍備を持っていたからだった。GDP自体も長らく日本よりも高く、竜宮人の多くがヨーロッパ一般程度には豊かだった。逆に、強すぎる列強のパワーゲームに晒された事が、近代化を行いある程度の国力を持つ筈の竜宮の退勢を呼び込んでいたのだ。状況としては、18世紀半ば以後のスウェーデンが少し近いかもしれない。
 そうした中で竜宮は生き残り選択として、イギリスへの追従を選んだ。何しろ他の選択肢が、アジアへの進出を強めた領土欲しかないロシア帝国と、個人主義を抱えたまま帝国主義政策を取るアメリカ合衆国だったのだ。三つの国のどれもがどん欲で強欲だったが、既にイギリスが一番マシとなっていたが故の選択だった。本来ならイギリスが最も酷いのだが、この場合イギリスが既に膨張限界に達しつつあることを竜宮の中枢部が正確に把握していたが故だった。
 当時の竜宮では、「最悪の中の最善」と言ったほどだ。

 竜宮とイギリスの関係に変化の兆しが見え始めたのは意外に早く、1899年に「ブール戦争」が予想外に泥沼化したからだ。
 ブール戦争は、南アフリカのトランスバール、オレンジ自由国で見つかった天文学的な量の黄金を手に入れるべく起こされた、非常に帝国主義的な侵略戦争だった。この戦争でイギリスは、オランダ移民が編み出したコマンド戦法に予期せぬ苦戦を強いられる事で、戦争に深入りせざるを得なくなった。ここにロシアの強引な南下政策が加わって、「栄光の孤立」を自ら棄てさせることになる。
 それが結果として、1902年日英同盟の締結に繋がった。
 この結果は竜宮に直接的な関係は大きくはなかったが、日本とロシア、そしてロシアとイギリスの対立のおかげで、イギリスとの外交関係を結びやすくなった事は確かだった。
 そして日露戦争での日本の判定勝利によって、ロシアの勢いは落ちた。特に日本の手によってロシア海軍が一時的であれ文字通りの全滅をした事は、竜宮にとっても大きな変化だった。
 日本海軍が、自らの二倍の規模を持つロシア海軍を根こそぎ撃滅してしまうなど、戦争前は誰も予期しなかった大事件だった。おかげでロシア人の海軍は、長らく海軍の再建ができなくなったほどとなった。
 一方で、日露戦争後も日本は大国(一等国)を目指して軍拡を続けたが、竜宮はヨーロッパの中小国家のように一定以上の競争を行う気はなかった。人質を取られているイギリスの機嫌を損ねる事になりかねないからだ。逆に一定の発展と強化に対する自助努力は続けられた。帝国主義の時代においては、舐められた最後だということは深く理解されていた。
 その事は、1907年にアメリカのセオドア・ルーズベルト大統領が開始した「グレート・ホワイト・フリート(Great White Fleet=GWF)」による世界一周で早くも思い知らされていた。最新鋭の戦艦16隻によるGWFが竜宮本国に来たのは1908年7月の事で、竜宮本国では盛大な歓迎が行われた。当時戦艦4隻、装甲巡洋艦3隻しか主力艦を保有しない竜宮に他の行動をとれるわけがなかった。
 一方では、竜宮本国の様子を多くのアメリカ人が見るほぼ初めての機会となって、双方の偏見と感情的な対立を低下させる一因になったと言われている。実際、洋上から見える白亜に輝く竜宮王都の壮観な姿は、この時のアメリカ人の記録に数多く残されることになった。航海の最後に訪れた蛮族の都は、遠目にはまるでおとぎ話に出てくる白亜と水晶(ガラス)の町だった。
 しかし竜宮は、GWFにアメリカのアジア・太平洋への野望とアメリカの底無き欲望を感じ取り、ドレッドノード級の新鋭戦艦のイギリスへの発注と、その型の自国での建造計画を始動させた。
 また前後してイギリスへの接近外交が熱心に行われ、1907年にはイギリスとの協商関係を結ぶ事に成功する。
 もっともイギリスが竜宮と協商条約を結んだ一番の理由は、太平洋での植民地の調整を行うためだった。パプア地域は既に竜宮からイギリスに売却という形で譲られていたが、北米の新竜王国はイギリスの事実上の保護国となったが竜宮の影響はかなり残されたままであり、イギリスもあからさまな圧政や植民知的統治は行わなかった。新竜王国は竜宮に対する人質だったからだ。粗略に扱って人質の価値がなくなっては、イギリスとしては元も子もなかった。列強の中で最も多くの領土を持ちノウハウと余裕があるイギリスだからこそと言える状況であった。
 またアラスカなどの北辺のも多数のイギリス利権が入り込んでおり、石油の見つかったスンダ地域のブルネイ島では、イギリスのごり押しで竜宮との間の合弁会社が石油の採掘が始まりつつあった。
 こうしたイギリスの利権を確固たるものにしつつ、竜宮自身が他国に侵略されたり影響を強められたりする事を避けるのも、この時の協商関係の目的だった。当然イギリスとしては、最終的に竜宮王国を飲み込むか半植民地にするのが目的だった。竜宮は近代的な工業力と軍事力を持つが、植民地を全部はぎ取ってしまえば所詮は北太平洋にぽつんと浮かぶ小国でしかないからだ。そして自らの市場無くして、この当時の近代国家がやっていく事は極めて難しいと考えられていた。
 一方の竜宮もイギリスの意図を承知で、即物的に自分たちを丸飲みして自分たちの色に強引に染め直そうとするロシアやアメリカから逃れるため、イギリスを頼らざるを得なかった。イギリスのパックスは、支配層を自分たちにすげ替えるだけの場合が多いから、ほんの少しだけアメリカよりもマシだった。まさに最悪の中の最善が、竜宮にとってのイギリスだった。
 もっとも一方の竜宮にとっても、イギリスの覇権(パックス)には利点があった。共存共栄とはいかないが、日本などと連携するよりも効果は大きいと当時は判断されていた。
 それにユーラシア大陸北東部やアラスカなどの北辺が辛うじて維持されているのは、間違いなくイギリスの影響が強いからだった。おかげで1910年には、ロシアとの間にも協商関係と国境線の確定に関する条約を結ぶことができた。新大陸で新竜王国が間接的ではあるが竜宮の手にあるのも、イギリスが間接的なパックスを与えているからだった。もしそうでなかったら、既にアメリカ合衆国に併合され、自由という名の破壊と欲望の嵐が吹き荒れ、国土はアメリカ色に強引に塗り直され、竜宮人は二級、三級の市民に落とされていただろう。それに比べれば、外交や軍事の権利が奪われることぐらいまだ我慢できる事であり、我慢しなければならない事だった。
 そして20世紀に入ってからのイギリスにとって、現状の竜宮が弱すぎるのも考え物となりつつあった。
 北太平洋を中心に海上警備を主軸とした竜宮の海軍力は、イギリスのアーシアンリングを安上がりなものとする要素として、徐々に欠かせなくなっていた。何しろドイツ、アメリカの隆盛が著しく、辺境にまで細かく手当が回らなくなっていた。
 しかも同盟国の日本は、日露戦争以後特に決戦型海軍に特化し始めたので、年を経るごとに竜宮海軍の価値は高まった。何しろ竜宮には巡洋艦が多く、各地の拠点も細やかに整備していた。それに竜宮は太平洋随一の海運国でもあり、拠点の多さや運用のノウハウの豊富さ船員の質の高さなど、多くの点で太平洋に勢力を持つ欧米列強を凌いでいた。竜宮自身の存在こそが、アメリカとロシアのアジア・太平洋進出を阻止している一因であった。
 しかも北太平洋上に存在する竜宮王国本土には、十分な港湾設備、軍港、艦艇造修設備、工廠、大規模な近代造船業、さらには近代製鉄を始めとするほとんど全ての重化学工業が存在しており、イギリスにとっては地球の反対側での要としての地位を急速に高めた。むしろイギリスが頼り始めていたと言っても間違いないだろう。
 日露戦争後の日本が帝国主義的活動を強めた事で、日英同盟が徐々に形骸化したのと対照的に、自らの勢力圏保持に徹して帝国主義的な膨張を行わなかった竜宮とイギリスの関係は強まった。イギリスにとって都合の良い相手が竜宮となったからだ。
 しかも竜宮が新国家、国民国家としての体制が整い、上向きとなった国民の意欲の向上と共に国力も国威も上向き始めると、イギリスとしても徐々に竜宮に対する態度を対等なものへと移行せざるを得なくなってくる。
 これは1911年に改訂された第二次英竜協商条約にも反映されており、いつしか竜宮はイギリスを介した国際関係の枠組みに深く組み入れられるようになっていた。

 しかし竜宮にとっての一種の安全保障でもあった「パックス・ブリタニカ」は、徐々に形骸化しつつあった。
 ブール戦争以後のイギリスの選んだ外交選択そのものが如実に現しており、竜宮や日本と対等な立場での外交関係を結ぶこと自体が、イギリスの覇権後退を現していた。
 また20世紀に入ると、アジアでの帝国主義的な動き、民族主義的な動きの双方が活発なものとなり、竜宮が時代を問わず常に求めてきた平和の海は危険にされされようとしていた。
 1910年には、朝鮮王国が完全に日本に併合されて地図の上から消滅した。1911年には中華地域で清国が倒れ、新たに中華民国が勃興し始めた。東南アジアのほとんどもヨーロッパ・アメリカの植民地となり、辛うじて独立を保っているのはタイ王国だけとなった。数百年間竜宮が勢力圏としてきたブルネイ島も、現地王国の保護国化によって竜宮の実質的な植民地となり、東南アジア各地に住んでいた多くの竜宮系日系人がブルネイ島などに逃げ出す形で移住した。特に日系人人口の多かった対岸のインドシナから逃げ出した数は多く、ブルネイ島以外の各地竜宮領にも数多くが流れていった。
 また広大だった太平洋も、全て列強によって分割された。イギリス、フランス、ドイツが主な支配者で、竜宮の手には結局竜宮本土からハワイに至る島々とハワイから比較的近在の小さな島々、加えて北のアレウト列島しか残らなかった。以前は沢山持っていたのだが、全て切り売りするか脅し取られていた。
 しかし竜宮の一番危惧した事態は、全世界の植民地化ではなかった。太平洋の端と端にあるアメリカと日本が、俄に海上戦力の軍備拡張競争、つまり建艦競争を開始した事だった。しかも時代は弩級(DC)戦艦から超弩級(SDC)戦艦の時代に入りつつあり、超弩級と呼ばれる巨大戦艦の建造には莫大な国費と最先端の技術が必要だった。
 そして太平洋の二大国が大海軍の建設をしているのに、竜宮も座して見ているわけにもいかなかった。何もしなければ、どちらかに飲み込まれてしまうからだ。事実、アメリカは太平洋側の軍備を急速に増強しつつあった。
 とは言っても、無理をして海軍を増強する日本のようなまねはしたくなかった。当面は辛うじて競争に乗れなくもないが、竜宮の国力から考えていずれ破綻することが目に見えていたからだ。相手は、世界最大の工業生産高を誇るアメリカなのだ。竜宮との総人口差は既に約4倍、GDPは5倍以上に開いていた。しかも差は開く一方だった。
 しかし竜宮も、ある程度は競争に参加せざるを得なかった。ヨーロッパでは、ドイツがイギリスの覇権に挑戦するべく建艦競争を行っており、フランス、イタリア、ロシアなども一歩遅れながら追随していたからだ。
 そこで十年ほど前と同様に、イギリスには最新鋭の技術を用いた戦艦の建造が大金を積み上げて依頼された。これがイギリス最新鋭のクイーン・エリザベス級戦艦の準同型艦であり、1913年に2隻の建造が開始された。他にも国内で何隻かの戦艦や巡洋戦艦が計画・建造され、アメリカや日本に舐められない程度の海軍整備が熱心に行われることになった。
 しかし、そうした軍拡競争こそが、次なる時代を強引に切り開く変化へと至らせる事になる。



●フェイズ33「近代10・世界大戦と竜宮」