■フェイズ37「近代14・ファシズムの台頭」

 世界規模での大恐慌という混乱の影響によって、ドイツではナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)率いるアドルフ・ヒトラーが登場する。
 ヒトラーがドイツの権力を握ったのは1933年の事で、以後十数年間は全体主義(ファッショ=ファシズム)が全世界を覆い尽くす事になる。

 ある時代において、全体主義は時代の流れの中心だった。
 全体主義そのものはイタリアが語源で、実際最初の全体主義政権は1923年イタリアの頭領ムッソリーニによって始められた。
 それが欧州随一の大国ドイツへの波及で一躍世界的にも知られるようになり、日本も一部の権力者や軍部の中堅急進派などが中心になって擬似的に全体主義への道を進んだため、世界的な潮流の一つと見られるようになった。
 なおファシズム台頭は、前大戦への不満、無力な現政権に対する不満、共産主義への脅威が主な心理面での母体となっている。そして共産主義革命を警戒する資本家、軍部を中核として、不安を解消してくれる強力な指導者を求める国民の支持が結びついて、ファシズムへと至る。
 また未曾有の不景気の中での資源、市場を持たないという要素が国民の不満と逼塞感情を産み、民族主義と膨張主義を促したと言えるだろうか。
 イタリアではファシスト党を率いたムッソリーニが、ドイツではナチスを率いたヒトラーが出現した。日本も明確な理由がよく分からないうちに軍国主義、全体主義に傾いた。だが日本の場合、暴力の面で流れを主導したのは軍部の中堅将校達で、後は全てなんとなく流されたとすら言えるほどに奇妙なものだった。後に成立した大政翼賛会という名の政治組織がファシズム日本の中核と言われる事もあるが、これは日華事変(支那事変)という日本にとっての総力戦で必要になった挙国一致体制といえる。独裁者とされた東条英機に至っては、多少個性や能力、そして手にせざるを得なかった権力が突出しただけで、単なる調整型の政治家でしかない。彼自身は、妄想を糧とする独裁者どころか、メモ魔と言われるほどの唯物論者だ。加えて言えば、日本ファシズムの根幹と揶揄される事もある「天皇制」という言葉自体が、戦後日本で悪意によって作り出された造語とそれに付随する偏った考え方に過ぎない。
 日本は何となく軍国主義、膨張主義を走りはしたが、世に言うところの全体主義体制とは違っていた。あえて言えば、軍官僚型の擬似全体主義体制だろうか。全体主義体制で言うならば、隣国中華民国の国民党と蒋介石を中心とした支配体制の方が余程相応しい。何しろ日本には、本当の独裁者がどこにもいなかった。つまりは、持たざる国の日本が独裁者無き国がファシズムを目指さざるを得なかったところに、この時代の一面を見ることができる。
 そして工業化を成し遂げた国で、もう一つ持たざる国が竜宮王国だった。

 竜宮では、アメリカでリセッションと言われた1932年から33年にかけての不景気のどん底の頃に、民族主義が大きく台頭した。
 大きな理由は二つ。主要各国が行ったブロック経済と、不景気の中で首をもたげた数十年前まで国民の間で一般的だった反英米そして反ロシア=ソ連の感情だった。
 近代に入ってからの竜宮は、否応なくイギリスとの関係を深めていた。しかし大規模な不景気を前にして、イギリスにとって発展した工業国となった竜宮を自らの勢力圏に持つことは、一時的であれ自国経済にとって大きなマイナス要素だった。何しろこの頃の竜宮は、既にイタリア以上の工業国家な上に、各種資源の多くが自給できる国だった。国民一人当たりの所得も、西ヨーロッパ諸国に準じるほど高かった。既に工業が傾き始めていたイギリスでは、とても抱えることができない国だった。
 このためイギリスは、竜宮は自国の通貨と経済を持ちイギリス連邦ではないとして、自国経済圏から切り離してしまう。それでも完全に切り離さず、一部利害のぶつからない商品や地域ではつながりを残したところがイギリスらしい行いだった。
 また一方、ここ四半世紀の間に急速に関係を深めたアメリカ市場からは、結局ほとんど閉め出されてしまう。アメリカ国内に商品を持ち込むことは可能だったが、どのみち購買力が激減したアメリカで竜宮商品はほとんど売れなかった。そしてヨーロッパ諸国に準じるくらい国民所得が向上している竜宮では、日本のように労働賃金差で高い関税障壁を乗り越えることはできなくなっていた。日本型のみの綱とした絹のような隙間商品もなかった。竜宮にはたいていの商品があったが、列強がたいてい保有している商品だった。
 欧米諸国以外を見渡しても、日本やヨーロッパ諸国に何かを期待するだけ間違っていた。
 そうした状況のため、特に竜宮本土ではイギリス、アメリカに対する不満が高まり、それでも安全保障の問題から両国との友好関係を続ける政府や上層部、上流階級に対して、国民の不満はさらに高まった。またアメリカとは少し前まで伝統的に対立していた歴史を国民が思い出し、特に一部の軍人達はアメリカ外交の危うさを憂いた。
 そしてそこに、共産主義に対する恐怖も加わってきた。
 ソビエト連邦は計画経済によって、見た目には急速に国力を増大させていた。特に第二次五カ年計画によって、重工業の多くで成果が出て、連動して大規模な軍の建設も加速した。
 しかも先の大戦で失われた地域や、歴史的にロシア人のものであるべき場所への領土欲を見せるようになり、ロシア人の目は竜宮が持つユーラシア大陸北東端部にも注がれるようになった。しかもその向こうのアラスカも国家としての全ての面の密度は低く、竜宮を日本より与しやすいと考えた赤い熊の手が伸びてくるようになった。
 これに対して竜宮国内の軍部と強硬派の政治家は軍備増強を叫び、国民は赤いロシア人に対する脅威からそちらの声に流れた。幸いと言うべきか、国内での共産主義活動はごく限られていたが、竜宮では外圧によって共産主義に対する脅威が大きく増してしまっていた。
 そうした国民の不満を代弁したのが、急速に台頭した全体主義者達だった。彼らの後ろには、他の全体主義国と同様に軍部、一部資本家、民族主義者、強硬派などがあった。そして国民の不満の声を代弁する政党が作られると急速に支持を拡大して、1932年の選挙での躍進以後、選挙のたびに竜宮議会内での発言権を増していった。

 政党の名は「新生党」で、竜宮を強く新しく生まれ変わらせるのだと自らを宣伝した。なお新生党は、世界の全体主義政党の中ではイタリアのファシスト党に周辺状況が近かった。民衆からの一時的な熱狂的支持を受けこそしたが、支持基盤としては移り気で弱く、貴族、大資本家、富裕層などからはあまり支持を得ず、王家からも嫌われていたからだ。親英米派と呼ばれるような勢力から疎まれていたことは言うまでもないし、さらには本国以外からの支持も低い場合が多かった。
 しかし、本国の中下層を中心とした国民の支持を受けた新生党の勢力は、ドイツのナチス並の速度で急拡大した。
 通常の内需拡大や公共事業拡大、財政投融資が限界に達しつつあった事が重なり、竜宮王国でも軍拡に転じることになった。ただし赤いロシア人に対抗するのが主な目的なので、軍備は北辺での陸軍力、空軍力にまずは予算が投じられた。そして軍拡を経済に反映させるために機械力導入に力が入れられ、陸軍は機甲装備と補給車両などの充実に力が入れられ、今まで小規模に押さえられていた空軍は相対的に規模を膨らませた。この中の副産物に、北辺での長期哨戒用として数隻の大型軍用飛行船が建造されており、目立つ外観から北の大地を守る竜宮側の象徴として各国にも紹介された。海軍でも、軍縮条約外の砕氷能力を持った艦船の建造が進められ、冬季の北方警備用に砕氷海防艦という奇妙な艦艇も登場した。
 もっとも軍事予算の多くを陸軍、空軍に持っていかれた海軍の不満は大きく、軍の内部に亀裂を深めさせる事になる。
 そうしてまずは国内の軍拡が進められたが、戦争どころか軍事行動を一つもしていないので予算拡大には限界もあり、並行して他国への武器輸出が目指されるようになった。当然と言うべきか内乱中の中華市場が注目されたが、世界中がしのぎを削っている市場でシェアを拡大することは難しかった。売れ行きが比較的好調だったのは銃器メーカーとして世界的に頭角を現しつつあった竜岩社だったが、同社は拠点が新竜のため本国と外郭地の溝を深めるという皮肉をもたらしていた。
 そしてすぐにも政策の行き詰まりが見えてきた所に、竜宮国民の不満を高めさせる事件が起きる。政府が、1935年12月に開催された第二次ロンドン海軍軍縮会議に正式参加した事だった。
 国家の生存戦術としては協調外交は当然の選択だったのだが、国家主義、全体主義に傾いていた国民にとっては現政府の弱腰と映った。しかも隣の日本は条約に参加せずにいたので、その差を政府、政治家の弱腰だと国民は叩いた。そして国民の不満の声を受けて、当時の保守内閣は総辞職。1936年春に総選挙が実施され、新生党はついに第一党に躍り出た。
 竜宮王国における全体主義政権の誕生である。皮肉にも、平和の希求が逆の進路への道を開いてしまったのだ。
 しかし竜宮には、日本と同様にこれという独裁者がいなかった。政党首班には5年前までは政治家ですらなかった新聞記者にして思想家の男(阪東順(バドウ・ジュン))が就いたが、彼は軍人出身の政治家で軍部などと急速に拡大した党の調整を行うためのような存在だった。かなり前から竜宮の自立を訴える国粋主義者として知られ、出自から文才、弁舌は相応に優れていたが、独裁者と呼ぶには不足する要素が多かった。一時は竜宮のヒトラーとすら言われたが、やはり足りない要素が多かった。
 しかも依然として上位者の専横・腐敗に厳しい法制度が充実し、監視機構も維持されていた竜宮では、独裁的な権力を握ることが難しかったし、大幅に法改定することまで国民は望まなかった。
 しかし軍拡に頼る本国の企業連合が強く支持して豊富な資金を党に注ぎ込んだため、それに群がる者は多く、阪東首相が率いる新生党しせは瞬く間に巨大政党となった。
 そして国政を握った新生党政権は、社会保障の充実による低所得者の生活の改善、軍需傾倒による景気回復、自立した国際外交、自存できるだけの海外市場の獲得を旗印として、次々と政策を実行していった。いや、実行しようとした。しかし後者になるほど実現が難しい事は最初から分かり切っており、しかも全ての政策が国の借金を積み上げる事でまかなわれているため、数年もすると完全に行き詰まりを見せるようになった。
 大規模な戦争を始めた日本に対する大幅な輸出増大で産業界は一息は付けていたが、しょせん日本の購買力は知れていた。日本が竜宮から欲しがったのは、鉄鉱石を始めとする鉱産資源、良質の鋼鉄などの金属中間資源、銑鉄、屑鉄、石油精製物、工作機械、各種機械、そして武器などかなり種類は豊富だったのだが、どうしても規模が限られていた。しかも日本は各種機械類の国産を進めたため、軍用機やトラックなどもある程度売れたのだが、どれも日本国内で不足するものに限られていた。
 それでも少しずつ日本との関係を深め、日本の市場へと竜宮資本が入り込むようになった。これは特に、当時大規模な投資を必要としていた満州へとすぐにも流れるようになる。
 一方で、竜宮単独で自立した国際外交をするにしても難しかった。どこかの大国と連携する他ないのだが、全体主義路線の竜宮と組むような国はせいぜい日本だけだった。当時躍進していたドイツへの接近も一応試みられたが、ドイツはアメリカやイギリスとの対立を嫌い、竜宮との関係は通常の外交以上にはなかなか踏み切らなかった。
 自存できるだけの海外市場の獲得は、外交以上に厳しかった。
 先にも挙げたように、竜宮の周りで大規模に進出できる場所は実質皆無であり、辛抱強く耐えてイギリス、アメリカの市場開放を待つより他無かった。そして我慢できなくなって、日本の支那(中華)侵略に荷担するようになった。
 なお、拡張される軍隊を使った膨張という選択肢もあるにはあったが、周りはアメリカ、ロシア(ソ連)、カナダ(イギリス)、日本である。軍隊を増強したところで、国防にしか役立たないのが実状だった。そもそも軍備増強もソ連の脅威に対抗するために行われたもので、だからこそイギリス、日本、さらにはアメリカですらは竜宮の軍備増強にあまり文句は言わなかったのだ。
 しかし、新生党による行き詰まり、軍の勢力膨張、国民の不満の増大が重なることで、一つの頂点に達する。

 1939年5月5日、王都昇京で軍事クーデターが発生した。
 首謀者は、陸軍の中でも強硬派のリーダー格だった播紅竜将軍(バン・コウロン、階級は中将)。クーデターには多くの陸軍部隊が参加し、非常に計画的なものだった。後に判明した史料によれば、新生党が政権を取れるかどうかと言う頃からクーデター計画があり、新生党が傾く中で党内でも勢力を拡大させていた。そして政党による巻き返しが不可能だと彼らは判断し、この時のクーデターに至ったとされている。
 当然ながら、非常に強硬路線の政策を掲げた。
 播将軍は、議会の停止、一時的な軍政の実施、親英米姿勢の強すぎる現国王の退位、同じく親英米派の貴族の政治権威の剥奪、政財界のしかるべき再編成の実行をまずは発表。そして日本と連携する事による中華市場の獲得、さらには東亜新秩序の建設を謳った。
 これに対して竜宮本国の国民は、逼塞感情に喘いでいたこと、不景気の元凶と考える英米への反発、その英米への依存を棄てようとしない保守派への悪感情などから、クーデターを支持した。新生党とその支持者も、一部の者は以前からクーデター派に水面下で属しており、それ以外の者も何も出来なかった党首や幹部の多くを人身御供に出して、そのままクーデターへと合流した。
 現国王の退位には国民の間でも流石に批判や異論も出たが、抜本的な変革のためにはやむを得ないというアジテーションに乗せられた一時的な感情の方が勝った。

 しかしクーデター政権には、竜宮の国権の上で決定的に欠けているものがあった。この事は、竜宮に大きな混乱をもたらすことになる。
 そして竜宮が全体主義への傾倒か保守路線の維持かでのたうち回っている間に、世界は着実に戦争へと向かっていた。



●フェイズ38「近代15・戦乱の予兆と竜宮分裂」