■フェイズ04「決戦の結末」

 西暦1600年9月16日午後0時半頃、東軍総大将である徳川家康は、関ヶ原の自軍勢が本格的な総崩れになる前の全面撤退を決意。東軍は、戦線を維持しつつ最低限の秩序を保って戦場からの離脱を開始する。
 しかし既に敵に半包囲された状態から、敵からの攻撃、追撃を受けつつの撤退は困難を極めた。しかも西軍は、勝利の勢いに乗った総攻撃のただ中であった。
 そして退却を決意したが、既にこの時点で総崩れと言っても過言ではなかった。撤退の難しさは、かつて浅井長政に裏切られた織田信長の軍勢以上と言えるだろう。
 しかも既に東海道、東山道方面の自軍は崩れ去っており、そこには敵の半数近い大軍勢が犇めいていた。そちらに進めば完全に包囲下に置かれるようなものであり、どう考えても自殺行為でしかなかった。つまり撤退経路は伊勢街道しかなく、そこを通る場合には大垣城の近くを通らねばならず、赤坂、岡山方面に残した1万の自軍も半ば見捨てなければならなかった。また、東山道の先にある岐阜城への撤退も難しく、現在も西進を続けている徳川秀忠の東軍主力部隊との合流も難しいものとなる事を意味していた。

 そして唯一の撤退経路を選んでも、撤退は困難なものとなった。何しろ合計10万人の大軍がひしめき合いながら戦っているさなか、しかも逃げる側の東軍が半包囲された状態からの撤退であるため、困難度は非常に高いものとなった。
 しかも、南宮山方面の西軍が東軍の動きを見て足を早めており、包囲の輪が閉じられるのは時間の問題だった。それ以前の問題として10万もの大軍に追撃される東軍将兵の心理を考えると、全軍崩壊する危険性も極めて大きかった。
 西軍総大将の石田三成が、十万の追撃戦は初めて見るという言葉を残したと言われる状況だ。
 そこに最後の一押しが加わる。
 北国街道方面に、西軍増援部隊の幟が見えたという報告だった。この報告は瞬く間に東軍全体を駆けめぐり、戦列を離れ我先に逃げ出す将兵が続出した。
 この時点で東軍の多くの部隊の統制はなくなり、当然ながら東軍は多数の兵士が討ち取られ、秩序なく逃げ出す中での撤退戦となった。
 しかも前衛部隊を構成し、事実上の殿(しんがり=最後衛)を行わなければならない徳川恩顧の大名たちの脱出はいっそう難しかった。多くが正面で敵と戦闘中であり、背中を向けた途端に殺されるのがオチだった。後退の途中で、率いていた軍勢が完全に壊乱した大名も一人や二人ではなかった。中には逃げ損ねて、討ち取られた大名もあった。
 しかし東軍の撤退が伊勢街道一本に絞られ、望むと望まざるに関わらず戦力集中が行えたため、まだ包囲されていない箇所から東軍の戦力は続々と脱出していった。
 そして組織だった撤退、秩序を一時的に放棄した個々での撤退共に、一両日中の合流場所は大きな総構えを持つ清洲城が選ばれ、東軍諸将は徳川家康以下凄惨な撤退戦を行っっていった。
 この頃の清洲城は、一種の軍勢と物資の集積拠点として高度に整備された城であるため、軍勢がいったん集まるには都合の良い拠点だったからだ。少なくとも既に東軍が半ば破壊してしまった岐阜城よりも、合流拠点としては相応しかった。

 そして東軍の撤退戦が続く午後1時頃、ついに南宮山方面の軍勢が関ヶ原中央に本格的に到着し始め、包囲の輪を完成させていった。包囲は午後2時半頃にほぼ完成し、その中には1万以上の東軍が取り残されることになった。
 この時点で、西軍は既に逃げた東軍の追撃部隊も編成しつつあったが、既に関ヶ原での戦力差は西軍の圧倒的優位にあった。各所では戦闘を放棄して降伏する東軍が相次ぎ、中には主将自らが代表となって軍勢丸ごと降伏した大名も出た。
 そしてここで事件が起きる。
 南宮山付近での戦いであまり活躍できないと考えた長宗我部盛親勢は、一計を案じて軍勢をいったん北に戻し、昨夜西軍部隊が使った伊勢街道へと入っていった。
 長宗我部盛親は東軍が逃げるのは伊勢街道しかないと考え、いち早い追撃戦を行うことで武功を上げようと画策したのだった。もともと東軍に入るつもりで大坂に来たところを西軍に無理矢理参加させられたものだったが、勝利に乗じるのは戦国の作法のようなものだった。
 そして彼らの部隊が伊勢街道に入ろうという頃、東軍が撤退開始したという報告を受ける。
 そこで長宗我部勢は、鉄砲隊を街道沿いの脇に伏せて置き、主力が半ば囮となって鉄砲隊の前に敵の撤退する部隊を持っていくようにした。正面から布陣しないのは、死にもの狂いで逃げる軍勢の前に立ちふさがっても損害が大きくなるだけだからだ。そこで伏兵でまずは勢いを殺いで、その後脇からすり減らそうと言う思惑での布陣だった。
 そして敵の騎馬を中心にした高級そうな武者の群に対して鉄砲の第一斉射が浴びせられ、密集している方向への集中射撃のため多くの者に命中、落馬した。
 これで逃亡中の東軍の統制は一層乱れ、そこに弓矢を射掛けるなどして混乱を助長する。そして最初の混乱が異常なほどだったのだが、混乱の中に突撃するわけにも行かないので、さらに射撃を行って追い打ちするしかなかった。逃亡者の濁流に飲まれ、自軍を瓦解させるわけにもいかなかったからだ。
 その後も次々に逃げのびてくる東軍に対して、長宗我部勢はとにかく投射兵器を投げかけ続けた。このときの長宗我部鉄砲隊は、まるで的が次々にそして勝手に飛び込んでくるような有様で、少しするとその死屍累々の山を避けて逃亡するようになり、むしろ長宗我部勢本隊の方が危険を避けるため位置を変えなければならなくなった。
 この戦闘を、後に「鳥打ち」と言うようになる。
 そして東軍の脱出が半ばを過ぎて西軍の追撃部隊が通りかかる頃になると、長宗我部勢は鉄砲隊の餌食になった者達の後始末と確認、そして追撃の二つに分かれて動き始めた。
 そしてそこで驚愕の事実を発見する。
 最初に集中的に狙撃した辺りで、徳川家康とその供回りの死体を発見したのだ。徳川家康自身は2発の銃弾を受けて既に死亡しており、その周りで鉄砲で負傷した武士など逃げることもままならない者と忠義者の十数名が主君の亡骸の守りについていた。
 長宗我部勢は大量の死体を前に戦意が萎えかけていたので、最初は少し遠巻きに生き残りに降伏を進めたが従わなかったためにやむなく全ての者を討ち取り、その後確認された徳川家康についても「みしるし」と証拠となる文物を一部はぎ取った上で、特別にその地で丁重に埋葬した。他にも有力な徳川家臣の死体や重傷した姿もあり、ことごとくが長宗我部勢の手に落ちることになった。漁夫の利どころか、一番の大金星だった。

 一方の追撃戦でも、西軍諸将、特に吉川や毛利秀秋といった遅れて戦闘参加した武将が熱心になって行った。
 関ヶ原での戦闘は午後2時頃に沈静化に向かい、夕刻が近づく頃には大垣城の伊勢街道方面でも静まった。
 だが西軍の追撃は深夜まで続き、伊勢街道から清洲にかけての街道沿いを中心に、東軍将兵の首のない死体、めぼしい物が奪われた死体で埋め尽くされた。落ち武者狩りで、付近の農民に討ち取られた武士や雑兵も多数いたと考えられている。
 また南宮山での東軍崩壊を受けて撤退を開始した東軍の岡山の陣と、大垣城を出撃した大垣城勢との間でも開始され、数で劣る大垣城勢の西軍の方が数が少ないにも関わらず、逃げる東軍を追撃するという戦闘が散発的に行われていた。
 なお、この日一日の戦死者の数は、東軍3万人に対して西軍は2000名程度と俗説で伝わっているが、戦死者の比率そのものについてはかなり正確な数字だと研究者の間でも意見が一致している。それよりも、今後の東軍にとって深刻だったのは、主将たる徳川家康を失い、多数の兵士(雑兵)が戦場で逃げ散ってしまった事だった。
 そしてその日の夕刻から、関ヶ原の伊勢街道沿いの一カ所に集まった西軍有力武将達による首改めが行われた。
 そこでの石田三成は、徳川家康の「みしるし」を前に滂沱して喜び、諸将の手を握ったり抱きついたり、何度もお礼を言って頭を下げて回る姿が見られたという。普段の石田三成からは想像もつかない姿に、石田三成に対する評価が少し変化したほどだと言わたほどだった。
 なお、関ヶ原の戦場で討たれた有力な東軍武将は、徳川家康を筆頭に、福島正則、池田輝政、京極高知、筒井定次などで、家康と共に黄泉路へ逝った徳川重臣は、家康と共に銃撃で死亡した本多正純とそして本多忠勝であった。本多忠勝は最後まで包囲の輪のぎりぎりで殿をつとめ、最後は日本最強を二分すると言われた立花勢に対する少数の突撃の中で果てたとされている。

 一夜明けた9月17日、東軍は決戦翌日の昼までに、何とか統制を保っていた武将の何人かが清洲城に再集結した。東軍残兵をまとめたのは、井伊直政だった。
 しかしその数は、武将の数で2割ほど、兵力数に至っては10分の1程度でしかなかった。武将のかなりは生き延びていたが、そのほとんどが守りを固めるという半ば言い訳で自らの居城に向けて一目散に逃げ出しており、清洲城で集まった武将のほとんどは徳川家の者か、成り行きや仕方なくで清洲城に落ち延びた者達でしかなかった。逃げることもかなわず戦場付近に潜伏している武将も一人や二人ではなく、中には完全に雲隠れしてしまった例も見受けられた。
 しかし完敗してなお1万の軍勢を集めた事こそ、むしろ賞賛されるべきだろう。
 また赤坂を離れた部隊の一部は岐阜城方面にも後退し、秀忠の軍勢への遁走を開始していた。今や尾張、美濃近辺で唯一まともな部隊が秀忠軍だったからだ。
 なお、東軍残余が集まった清洲城だが、城郭は総構えを備えた雄大な規模に改築され大坂城にすら匹敵したが、籠城戦をするには不向きな城だった。大きな川に面しているとはいえ、平地のど真ん中にある平城である。また、もともとが戦闘をする城というよりも、濃尾平野に集結する軍勢のための物資集積拠点として整備された合理的発想による城だった。このため戦闘前には30万石の米を始めとして多数の備蓄物資が蓄えられていたのであり、兵力の集中と移動も円滑に行えたのだ。改修された清洲城は、豊臣秀吉が造らせた、実に豊臣秀吉らしい城であったのだ。
 そして兵力や物資を集積するための拠点であるため、城自体の戦闘力は限られていた。大軍がこもっての籠城戦ができなくもないが、相手は大筒(大砲)すら多数有する十万を越える軍勢であるため、短期間で城が破壊、攻略されると予測された。
 当然ながら、東軍残余に清洲籠城の意志はなかった。
 彼らは可能な限り残兵を収容するとさらに東に向けての逃亡に入り、東海道沿いの豊臣恩顧の東軍諸将は自らの判断にゆだねられることになった。
 主将である徳川家康が健在ならば、残兵と秀忠軍を併せた上での再度の濃尾決戦や、東軍諸将をまとめ続けることも出来ただろうが、この時点での徳川では不可能だった。

 しかし戦いは関ヶ原の戦いだけで決まったわけではなかった。
 各地には東西両軍が存在して、場所によっては戦いも続いていた。
 東軍で最も巨大な軍勢は、東山道を予定より遙かに遅れて進んでいる徳川秀忠率いる3万5000だった。しかし濃尾平野に入る直前に東軍の敗北と徳川家康戦死の報告を聞いてすっかり意気消沈し、軍勢に付き従っていた本多正信の献策もあってそのままもと来た道を引き返し始めた。
 9月12日に金沢を出発した前田利長勢も前進を止めて、領国に帰る手はずと、西軍側についた前田利政が西軍首脳への取りなしを始めていた。
 これに対して勝利した西軍は、関ヶ原近辺での残敵掃討を行いつつ、翌日の17日のうちに順次大垣城に再度前進した。その兵力は、大垣の留守兵力と戦場で降った大名も含めて戦闘前よりも若干多い10万人を越えることになった。収容しきれない大軍の篝火は、遠くからも見る事ができたと言われている。
 また翌日もしくは二日後には、丹後から細川幽斎を開城降伏させた1万5000の兵力が合流予定だった。毛利本軍4万も、今度こそ大坂から出陣してもらう旨の書状が、勝利の報告と共に急ぎ大坂城にもたらされていた。伊勢からの軍勢の合流も間近だった。場合によっては、日和見を見せ始めた前田勢が全て西軍となる可能性もあった。他にも近畿から北陸以西の東軍の多くが西軍に帰順することが予測された。場合によっては、東軍のからの離反もあり得た。
 そのため西軍では、活発な情報伝達を行うと同時に、勝利と西軍への参加を訴える書状を携えた使者が日本各地へと派遣された。
 しかも西軍は、徳川勢そのものがかつての徳川ほど強くない事を実感として知った事もあって、攻勢を続ける雰囲気が強かった。日本各地にも、「大勝利」を知らせる早馬が飛ばされた。
 西軍としては、ここで一気に徳川家そのものを滅ぼすつもりであったのだ。
 しかし問題が皆無だったわけではない。軍資金と兵糧の問題が西軍にはあった。
 もともと兵糧不足の西軍に大軍を長期間行動させるだけの兵糧はなく、このままでは短期戦以外は選択できなかった。しかし西軍の「大勝利」によって旗色が変わったことで、大坂の金銀が使用できる可能性が高まった。利に聡い商人達が動き出すことも確実だった。
 そしてここで、西軍の石田三成ら文治派武将達の手腕が生かされた。まずは大坂城に勝利を知らせ、さらには参陣、できうるなら豊臣秀頼の前進を依頼する傍らで、大坂城内の軍資金とそれを用いた兵糧の補給を強く要請したのだ。西軍の多くが、平和ぼけしている大坂からの援軍の期待が薄いことは知っていたが、勝利に対する大盤振る舞いは行うだろうと言う読みがあったからだ。
 そして読み通り、当座の報償と共に軍資金と兵糧に関しては、すぐに送るという返事が西軍のもとにもたらされた。無論、褒美は望みのままという景気の良い手紙も添えられていた。何しろ、徳川家康は死んだのだ。そして兵站業務であるなら、文治派の頭目である石田三成の面目躍如たる活躍の場であった。
 その間西軍主力部隊は、報償と兵糧に関する事を公表して戦意を上げ、さらなる勝利を求めて濃尾平野の前進を開始する。
 先鋒は、関ヶ原での決戦当日に包囲攻撃が大きく遅れた毛利勢、吉川勢で、彼らはまず岐阜城方面へと進撃して東軍の分断を行うことになっていた。 
 そして西軍主力部隊は、取り逃がした東軍残存部隊の追撃に入った。
 次なる前進は、翌日の9月18日黎明前から始まった。


フェイズ05「関東征伐」