■フェイズ18「ウィーン体制下の日本人社会」

 1815年、いわゆる「ナポレオン戦争」が終わった。
 ナポレオンはウィーン会議の途中に華麗な復活劇を遂げたが、それも「ワーテルローの戦い」で潰え、ヨーロッパは「ウィーン体制」と呼ばれる保守的な枠組みの中で一応の落ち着きを取り戻した。

 ナポレオン戦争での日本は、第三回対仏大同盟に加わり、ウィーン会議にも有色人種国家で唯一代表団を送り込むことができた。そして会議では、スペイン領のフィリピンとグァム島を得ることが正式に認められた。
 しかし会議はブリテンの格別の配慮で呼ばれたのであり、別の席上では日本とブリテンの間での領土売買交渉が行われる。ブリテンは、日本が会議に出てスペイン領を得る見返りに、ある場所の売却を求めたのだ。
 会議の結果、17世紀に日本がネーデルランドから奪い取ったマレー半島がブリテンに売却され、さらに日本は対岸のアチェ王国の権利を放棄する事を決める。売却額は500万ポンド(3000万両)で、日本としてはいずれ欧州列強の圧力により維持できなくなるよりも、先に売り払って損害を小さくする道を選んだと言える。ヨーロッパで行われた戦争は、自分たちが行った戦争よりも激しく高度だったからだ。
 それにヨーロッパ陣営内での争いでブリテンが優位に立ち、そのブリテンがインドの覇権を得たと言える状況を前に、マラッカ海峡を越える貿易に利益が無くなっていた事、現地のイスラム系勢力に苦労していた事も、日本側のマレー売却の要因だった。
 またこの時、マレー売却の交換条件でブリテンの持つ優れた技術の譲渡、技術援助、支援も約束されており、以後日本では工業の革新がヨーロッパ大陸に先駆けて進むことになる。
 だがこの時のマレーの取引は、日本側の戦略的敗北だったと見られる事が多い。短期的には、マラッカの港の共同使用権を日本側は売却の条件としたのだが、ブリテンはマレー半島の先端にあるシンガプーラ島(海獅子島)を新たな拠点と定めたため、以後マラッカは急速に廃れていった。
 長期的には、ブリテンが東アジアになだれ込んでくるのを助長した事だった。しかし、19世紀前半の日本にブリテンの強大な力を止める力がないので、当面の被害極限という面では有効だったと言えるだろう。少なくとも日本が当面の標的とならずに済んだことは、日本にとって相応の利益をもたらしていた。
 それに、19世紀前半の段階では、日本人社会全体がブリテンに対して優位に立っている点があった事が、日本人に一定の余裕を与えていた。
 その余裕とは、金融制度にあった。

 日本は18世紀全般に渡って、戦国時代から命脈を保つ優秀な山師集団が環太平洋一帯の金鉱を探し回り、当時としては莫大な量の黄金の上に日本史上最大規模とも言われる派手やかな繁栄を築き上げた。そして欧州世界と中華世界を始め世界の殆どの経済圏が銀を経済の基本に置いていたため、銀を売り金を得る事でさらに黄金を集めた。
 また18世紀後半の戦乱に入るまでは貿易も概ね黒字であり、日本以外の経済圏は日本人が放出する金に注意を払わねばならず、それでも尚日本から溢れる黄金のために、金の下落、銀の高騰の流れが半世紀かけて斬進的に続いた。18世紀の約半世紀の間は、日本は文字通り「黄金の国」だったのだ。
 そして革命後の日本は、新国家の建国と経済の混乱と戦費調達もあって事実上の今で言う金本位制の導入に踏み切り、黄金そのものを国庫に溜めて黄金を担保とした紙幣の発行に切り替えた。紙幣の導入は、ヨーロッパに続くものだったのだが、規模と担保とする黄金の量から、日本の制度の方が遙かに安定していた。
 ウィーン会議の頃には、日本の貨幣制度の変更はほぼ完了しており、世界で初めての近代的金本位制システムを構築するに至る。
 新たな貨幣制度は日本、大和双方で取り入れられたため、以後両国の経済関係も進むという効果をもたらした。そして日本は、南の新大陸である濠州とユーラシア北東端部の北海州、少し後のアラスカの金によりこのシステムの長期的維持を可能として、大和も自国領内の金鉱が金本位制維持の大きな力となった。加えて新大陸各地には銀も豊富に産出したため、やや前近代的ながら金銀という希少金属により19世紀の日本人社会は安定した経済運営を続けることができた。
 ただし日本人達の社会は、自らの制度を世界標準として広めるだけの国力、影響力に乏しいため、自分たちだけの取り決めとした点に大きな欠点も存在した。
 しかし日本が世界に先駆けて金を基本とした経済を作り上げたことには、一つの利点もあった。当時世界経済の中心的役割を果たしていたのは銀だったことだ。
 無論、日本人社会に銀を持っていって金を得るという事も有効だが、日本人側も国が全ての黄金を管理するようになり、しかも日本の大坂、大和の新大坂での為替相場、先物取引市場で厳格に黄金と他の文物の価値がやり取りされていたため、日本で黄金を得ることそのものの旨味は少なかった。少なくとも、金銀交換時の差額で儲けることは難しく、また日本と当時のヨーロッパの間では大量の金を用いてやりとりしなければならない商品も少なかった。
 ブリテンは、日本人社会に阿片を流すことを考えたが、17世紀の頃から日本人社会内でも厳しく取り締まられ、しかも十分な軍事力を持つ相手に喧嘩をふっかける気にもなれなかった。それに日本人社会の中には、ブリテンが付け入る事が出来ないような、既存の阿片、コカの密売組織が存在してもいた。
 またブリテンとしては、「北米戦争」ですら危うかったのに、より密度の低い東アジアでの日本人との関係は、当面であれ友好的に維持するのが賢明な判断だった。
 そしてブリテンは、当初の目的通り清朝との貿易促進と進出を強化するようになり、徐々に行き詰まると阿片の密売という非常手段、悪辣な手を使うようになる。これは、当時の清朝の域内に阿片を栽培する地域が無かったため、日本勢力圏と違っててきめんの効果が見られた。
 これを横目で見ていた日本は、清朝に対して海禁の緩和もしくは開国と産業の革新に向けた動きを行うように何度か親書を出してみたが、清朝からはほとんど拒絶する返事しかなかった。これは日本での政変で民が力を握った事が影響しているとも、天皇という中華世界にとって許し難い君主を再び仰いだ国になったからだとも言われている。恐らく、双方が理由だったと考えられている。またこの頃の日本は、いかにブリテンの国威、軍事力が強大化したとはいえ、流石に清朝が簡単に屈したり揺らぐことはないだろうと考えていた。この時期日本人の方が清朝内の情報に詳しく、4億人もの人口を抱える超大国が揺らぐ可能性はまさに杞憂に等しいと思われていた。このため何度かの謝絶で日本側も引き下がり、清朝よりも余程弱体な筈の自分たちの体制作りを急ぐことにした。

 一方、ウィーン会議後の日本人社会だが、日本、大和双方共に自らの国力、産業、経済の発展と拡大に傾倒していた。
 大和共和国では、日本人以外からも移民を募ると共に、国土の農地開発をさらに押し進めた。また単に農業だけでなく、綿花栽培も加州中部平原、ミシシッピ川南部で行い、それを使った自力での工業化を推し進めようとした。ミシシッピ川西岸の開発も、灌漑の開発と共に徐々に河川から離れ、また稲作以外にも力が入れられるようなった。
 日本人以外からも移民を募るようになったのは、ウィーン会議以後日本人移民が激減していたからだった。それまでは毎年10万人以上、多い年には20万人あった日本人移民は、その後5万人程度に低下していた。これは日本本土が落ち着いた事と、日本本国が自分たちに残された領域の育成に力を入れたためで、日本人移民のかなりが濠州に多く流れていた。
 とはいえ、当時の日本人以外の移民と言っても、東南アジアぐらいしか供給源はなかった。大和の国是としてアメリカからのアングロ系白人移民は受け入れたくないし、ヨーロッパからの移民と言えば当時はブリテンとブリテン支配下のアイルランドしかなかった。アメリカ内の先住民受け入れは継続して行われていたが、そもそも先住民といっても雑多でそれぞれ対立していたので、落ち延びてきた形の住民を受け入れるのがせいぜいで、さらに数も少なかった。また、アメリカから文字通り追放される部族もあったので、そうした人々の受け入れは大和内に反アメリカ感情を醸成させた。
 そして移民による増加に限界があると分かると、一層の多産政策を実施した。堕胎、間引き、嬰児死を法律で禁じ、多産の家庭には政府からの援助金を出して、国民の多産を煽った。また社会全体での妊婦と子供の保護、衛生、医療の拡充、そうした人員増加のための教育に力を入れ、辺境にまで護衛を付けた巡回医が回るようになった。

 日本では、新大陸の独立は経済的に大きな損失となった。また戦乱で国土が荒れたため、その復興も急務だった。
 そして、莫大な黄金の上に繁栄を築いた豊臣政権は消えたが、新たな可能性が出たと言うことで国民意欲は上向きだった。
 また経済面では、国土の荒廃は再編成と再建のための需要という面では有効だと考えられた。また旧体制が崩れ、特権階級の富が国庫に流れ込んだため、国家財政はむしろ健全化していた。加えて日本領各地の金鉱から得られる黄金が、日本での新たな貨幣制度を十分可能としていた。
 そうした中で日本が重視した産業が、製糸業だった。長年の努力によって、生糸の質は既に世界屈指にまで向上し、日本国内での需要を満たすべく大量に生産されていた。これを近代化して輸出産業にするのが、日本での産業革命進展の原動力とされた。また、他国に付け入られる事を防ぐべく、濠州大陸、北海州の開発、移民の奨励を行うことも決められた。
 また様々な工業分野に蒸気機関を取り入れることも積極的に行われ、その中でも日本人が重視したのが実用化されたばかりの蒸気を用いた船の大量導入だった。風に左右されない交通網の整備がいかに効率を向上させるのかを、約200年の海外進出での経験が教えていた。
 特に回船問屋の動きは早く、ウィーン会議の頃には日本最初の蒸気船が動き始めていた。1870年頃までの主力は帆船と汽船の混合型だったが、1830年代には風に左右されにくい濠州、新海諸島の定期航路が早くも開かれていた。
 しかも日本は、東アジア、環太平洋地域に多くの勢力圏を有するため、その交通網の整備と各地での新規産業育成に力を入れた。
 台湾島、南蝦夷、北蝦夷の開発と移民も進み、そこは完全に日本の一地域となっていった。
 スンダ地域、フィリピン、パプア島、東パプア諸島には原住民を使ったプランテーションが各地に切り開かれ、砂糖、コーヒー、煙草、少し後に生ゴムが大量生産され、国内での消費だけでなく余剰分は輸出にも回された。また東南アジアの植民地化が進んだのも19世紀前期で、日本で生産される製品の市場ともなり、濠州で生産された食料の一部も東南アジアに持ち込んで、食料ではなく商品作物を作らせるという圧政が行われた。この時期、各植民地での暴動や争いは日常的であり、日本軍は主に自らの植民地で戦闘を行っていた。海軍の主な仕事も海賊退治だった。このため国民の軍隊として健軍された筈の日本軍は、急速に帝国主義的軍隊の様相を呈するようになる。
 北辺の北海州、アラスカはこの頃価値が落ちていたが、北海州は清朝、ロシアと国境を接するため、屯田兵の入植が精力的に進められ、アラスカはゴールド・ラッシュが起きたように、日本の黄金供給地として重宝された。
 
 一方、ウィーン体制下での政治面だが、日本人社会にはヨーロッパのような面倒はなかった。
 新大陸に誕生した大和共和国は、民主共和制国家として自立していたし、日本も立憲君主国家に衣替えしていたので、ヨーロッパ社会のように現状維持や革命の阻止の必要がそもそもなかった。
 大和は、中南米諸国の独立で多少不安定となったが、中南米の自立も日本人社会にとっては好ましかった。何しろ現地住民の多くが、一部の現地生まれのヒスパニック系を除けば、先住民との混血、先住民が多く、彼ら自身が自分たちを「準白人」としか考えず、白人国家であるヨーロッパ、そしてアメリカすら恐れていたからだ。それは、白人国家でない事イコールいつ侵略されてもおかしくなかったからだ。しかも中南米諸国も、植民地の例にもれず農業、鉱業以外の産業に乏しく、自力で軍備を揃えることが難しかった。しかも権力者の基盤も弱く暴力的な事が多いため、不安定な事が常だった。さらに言えば、当時の中南米諸国は、人口面でも中小国でしかなかった。
 このため比較的大きな人口と自力での産業を持つ大和は、中米、太平洋岸の南米諸国が頼る傾向が強く、大和側もいち早く国交、各種平等条約を結んでいった。
 日本は、ウィーン体制の政治不安からほぼ無縁だった。中南米諸国と国交を結んだのが唯一の変化ぐらいで、あとはロシア人が東に進んでこないか警戒する事ぐらいしかする事はなかった。
 ウィーン会議以後、ヨーロッパの主要各国に公館(大使館)を置くようになっていたが、各国から言われることと言えば、こっちの問題に口を出すなの一言に尽きた。オスマン朝から一度援軍要請があったが、ヨーロッパ諸国の牽制と政治取引により日本が動く事もなかった。
 しかしヨーロッパでの自由主義に向けた動きは、日本人社会にも徐々に影響を及ぼす。日本、大和の双方では1830年頃のフランスでの七月革命、ブリテンでの選挙改正の動きを受けて、民衆の政治への参加が促進されることになったからだ。またヨーロッパでのナショナリズムの昂揚とその考え方が、すでにナショナリズムをある程度達成していた日本にも取り入れられ、国家の団結に利用された。
 そして「革命の第三波」と言われる1848年〜49年のヨーロッパでの自由を求める動きが、北アメリカに次なる混乱を呼び込む原因となった。


フェイズ19「帝国主義化する日本」