■フェイズ20「南北戦争」

 1845年にアイルランドで「ジャガイモ飢饉」が起きると、大量の移民が新大陸に一斉に流れ込んだ。また、1848年から49年のヨーロッパでの自由革命に関連する混乱の結果、ヨーロッパに居られなくなった人々が新大陸へと入り込む。多くが政治亡命によるドイツ民族系の人々で、アメリカは大量の移民者で沸き返った。
 しかも蒸気船という革新的な移動手段の誕生が、人と物の移動を容易としつつあったため、新大陸へと押し寄せる人の数はこれまでとは比較にならないぐらい増加していた。
 ヨーロッパからの移民者数は、1820年代約20万人、1830年代約50万人だったのが、1840年代は約180万人と一気に増加している。1850年代はさらに増えて約260万人となった。しかもアメリカ国内での自然増加率も高いため、アメリカの人口は爆発的に増えていた。白人総人口も、1860年の段階で2400万人に達していた。約40年で、三倍近くに増えている事になる。しかもこれ以外に、黒人奴隷が約300万、先住民が10万人程度いた。

 移民によって成り立つ国であるアメリカにとって、基本的に人口が増えることは喜ばしかった。だが急速に、一つの不安が高まった。簡単に開拓出来る土地、有望な農地となりうる未開発の土地が急速に減少している事だ。
 ミシシッピ川の西側には広大な大平原が広がっていたが、そこは日本人開拓民の土地であり、既に殆どが有色人種によって開発されていた。
 1819年にスペインからフロリダを購入したが、フロリダは温暖すぎてヨーロッパ式農業には相応しくない上に、湿地やジャングルが多く、しかも先住民(インディアン)も多く住んでいた。しかもフロリダ購入では、ミシシッピ川河口部は大和共和国が大金を積み上げて先にスペインから購入していたので、大和に圧力をかけるというアメリカのもう一つの目的は中途半端に終わっていた。
 一方、先住民も、アメリカにとっては頭の痛い問題だった。
 「北米戦争」以後、ミシシッピ川西岸、南部の開発、開拓が進められたのだが、そこにはもともと先住民族が住んでいた。開拓するにしても、先住民を駆逐するか同化するか行わなくてはならず、何事につけても性急なアメリカの選択は、多くが先住民の駆逐だった。だが駆逐先は問題とされた。
 そしてここで大和共和国と交渉を持ち、移民と言う形で大和に先住民の受け入れ行ってもらった。「インディアン強制移民法」という凄まじい法律が通過したのが1830年の事で、大和のアメリカへの悪感情がより強くなる事にもつながった。しかもこの時期アメリカで、白人男性の普通選挙権がほぼ達成されていたことが、日本人達にとって重要だった。先住民の追放は、アメリカの民意だったからだ。
 そしてこれ以後、大和ではアメリカの先住民政策が国内政策に広く利用されるようになり、いまだ平原や山野、森林に割拠したままの先住民に対する宣伝としてまたとない効果を発揮した。
 アメリカ人、白人の侵略を許せば自分たちがどうなるか考えろ、と言う論法だ。このため1840年代からの大和では、急速に先住民の「国民化」が進んでいく事になる。また大和政府も、先住民文化を尊重するという建前と一部実施で農民化(牧畜民化)を押し進め、日本人との結婚(同化政策)も奨励された。
 なお、北米戦争の頃約1200万人だった大和共和国の人口は、基本的に3%程度の自然増加を行いつつ、さらに移民も多数受け入れていた。
 このため人口の増加も約三倍でアメリカとほぼ並んでおり、1860年頃の総人口は約3400万人だった。大和に中華系移民が流れ込み始めるのが1860年代なので、この頃まではほぼ日本人と先住民、一部解放黒人奴隷が人種の全てだった。基本的に当時の大和は、ラテン系以外の白人移民を禁じていたので、世界最大の流域面積を誇る巨大河川のミシシッピ川は人種の断絶を象徴する場であり、非常に分かりやすい人種対立の最前線となっていた。双方の河川警備隊は、常に緊張感に溢れていた。

 そして、アメリカと大和の対立が続く新大陸に変化が訪れる。1845年からのアイルランド移民だ。アイルランドからの移住者の数は、5年間で約80万人にも及んだ。また1848年からはドイツからの移民が大幅に増えて、アメリカ国内で簡単に開拓できる土地は急激に減少し始めた。
 このためアメリカ政府は、開拓民への土地の割り当てに苦労し、大和共和国に対して白人移民、特にアイルランド移民の受け入れを打診する。しかも1845年には、「マニフェスト・デスティニー(明白な運命=Manifest Destiny)」という領土膨張に対する賛美がアメリカ政府から出される。
 これに対して西海岸の櫻芽を首都とする大和政府は、大和国内での人口増加とアジアからの移民の受け入れのため、大西洋側からの移民受け入れは不可能だと正式に返答。国際河川とされたミシシッピ川の両者の間にある渡し船の波止場は厳重に管理され、河川警備隊、国境警備隊は許可無く越境する人間を厳しく取り締まった。大和側が確認していなかった大和国内に潜伏していた白人開拓民は、見つけ次第アメリカへ送り返された。しかし、それでも問題は起きた。アメリカは、大西洋からの最初の入国管理で自分たちの受け入れた移民として登録することなく、僅かな金を与えて大和側に送り込んでいる例が多々見られたのだ。こうした例は、貧しいアイルランド系、ドイツ系移民に多く、アメリカ政府は彼らのアメリカへの送還は成立しないと突っぱねる。
 ここで大和政府も、白人移民もしくは流民への対応と対策を迫られることになり、大和への完全帰化、公用語としての日本語の習得、大和政府への忠誠と義務の宣誓と署名などを条件として、大西洋側から来る白人移民の受け入れを容認。新織安市(旧ニューオーリンズ)とミシガン湖西岸の大岸市(旧ミルウォーキー)、ミシシッピ川西岸の聖都市(旧セントルイス)に、白人専門の入国管理事務所を設けた。同時に、この三つの都市の入国管理事務所で許可を得ないと、大和からは追放されるという法律も整備された。
 そして大和に入ったドイツ系、アイルランド系移民は、日本人があまり開拓していなかった土地を開拓する原動力となり、大和政府によって地域コミュニティーの維持が認められていた事もあって、一旦アメリカに入った同族系の市民のかなりが、厳しい審査を受ける事で、ほぼアメリカを素通りして大和へと再移民することになる。
 ドイツ系、アイルランド系移民にしてみれば、新しい土地の先達がアングロ系か日本人の違いであり、大和の方が言語や習慣の格差が大きく面倒と言う以外はあまり気にしなかった。新大陸の日本人は宗教の違いにも無頓着だったので、プロテスタント、カトリックのどちらでも信仰しやすかったのもその後の移民の流れを助長した。
 なお無論だが、有色人種の国だという事を受け入れた上の人々だけが、大和へと移民していた。

 領土面以外でも、アメリカの憂鬱は続いた。
 北アメリカ大陸には、地下資源が偏在していたからだ。
 アメリカ合衆国領内には、アパラチア山脈北部に掃いて捨てるほどの石炭が眠っていた。しかし他の地下資源は、ほとんど何もなかった。それ以外の資源は、ブリテン領のカナダと何より大和共和国の地下に眠っていた。カナダに石炭はなかったが、良質の鉄鉱石は豊富に見つかっていた。大和に炭田は比較的少なかったが、それはアメリカと比較してであり、産業革命を進める上では十分以上埋蔵されていた。それ以外でも、大和にはうなるほどの鉄があり、金銀銅も南西部の山間部を中心に大量に採掘されていた。
 そして地下資源の偏在は、必然的にアメリカの産業革命の足を引っ張った。鉄、銅は大和かカナダから輸入しなければならず、アメリカの外貨流出となるばかりか、アメリカの産業育成のための保護貿易を妨げ続けた。
 新大陸内でのやり取りなので問題は少ないと言えるかも知れないが、アメリカの政策に従うならブリテン領カナダから買う事は自らの政策(モンロー主義とブリテンとの対立)に反しており、となると相手は宿敵となりつつある大和しかなかった。
 そうしたアメリカの貿易上での劣勢は、産業革命にも影響を与えた。
 大和は、豊富な鉄と必要十分な量の石炭を用いて大量の鋼鉄を作り出し、それで鉄道を引き始めた。敷設開始は1832年で、この点はアメリカの方が先んじたのだが、その後は劣勢の連続だった。巨大な鉄道産業は工業化進展の原動力だが、それを実現する鉄鋼、機械など全ての関連分野でアメリカの劣勢だった。
 また大和は、ブリテンや日本から技術導入を目的とした製品、技術、運用経験などの輸入に躊躇せず、その上で広大な国土での開発という目的で自国開発を進めた。そして巨大な投資につられたブリテン、日本も大和との関係を求め、大和を中心にした鉄道会社はあっと言う間に巨大企業に成長していった。
 国策会社の「大和鉄道株式会社」通称「大鉄」は、まずは太平洋岸とミシシッピ川西岸の開発を重点的に行った。次にそれぞれの中距離都市を結び、1850年代には南北鉄道と東西鉄道、つまり大陸横断鉄道を縦横に走り巡らせる計画を推し進めた。また同社は、アメリカではなくカナダとの鉄道連結による完全な大陸横断鉄道の一日も早い敷設を求め、大西洋と太平洋を結ぶ巨大な物流網を求めるブリテン、日本からも資金を募った投資会社で回転資金を集めて、精力的な鉄道敷設を実施した。
 無論鉄道の敷設は、同時期のアメリカでも爆発的な規模で行われていた。広大なアメリカ大陸の大平原、大草原を開発し各地に点在する都市を結ぶには、鉄道が必要不可欠だったからだ。しかしアメリカの開発はミシシッピ川東岸までで、どうしてもダイナミズムで大和に劣った。国内の鉄鉱石が限られていたため、鉄鉱石を輸入に頼らざるを得ない産業構造も足を引っ張り続けた。しかも大和の奥地の平原が、鉄道の敷設により急速に開発が進んだ。農業生産高は爆発的な伸びを示し、大量の小麦が日本ではなくブリテンやヨーロッパへの輸出に回されるようになった。
 そしてアメリカにとってもっと問題だったのは、両者の国境近くでの物流の変化だった。アメリカはアメリカの都合で、大和は大和の都合で鉄道を敷いていったが、この結果五大湖西岸の大和の都市が大きく隆盛し、アメリカ側のシカゴの価値は大きく下落した。メヒコ湾での制海権などは、もはやアメリカにないも同然だった。鉄の生産と鉄道の普及により、大和のメヒコ湾岸都市では造船業が大きく伸びていた。
 大和の南北鉄道は1854年、新大坂とミシシッピ川の双方から伸びた東西鉄道は1856年に高塩市で連結する。
 そしてこの瞬間、アメリカは自らが新大陸での開発競争にこの時点で敗北したことを悟らざるを得なかった。領域、地下資源、人口、産業規模、総生産額、そして軍事力、全ての面で、アメリカが大和に対して劣勢だった。アメリカの方が、科学技術では勝っているし国家としての密度も高いが、それだけだった。
 仮に戦争になっても、鉄鉱石の輸入を大和とブリテン(カナダ)に止められただけで、アメリカは戦争どころか産業が立ちゆかなくなるし、資源地帯を攻め落とすにしても大和側も十分に警戒していた。
 大和側の方がアメリカの侵略を強く警戒し、自分の側からアメリカに侵略戦争を仕掛ける気はなかったが、相手の方が総合的な国力が大きいのに戦争を仕掛けても勝てる道理がなかった。

 そして大和との競争の当面の敗北は、アメリカ国内での政策に影響を与える。アメリカ政府は保護貿易主義で一層の産業保護を行い、中央政府への権限を集める連邦主義を進めることで、国家の結束と国力の拡充を図ろうとした。しかもアメリカ国内では、自らの理想主義と現実主義の二律背反から、共和党と民主党、連邦主義と州権主義、北部諸州と南部諸州の対立という構図が年々先鋭化していた。有色人種国家である大和の存在のおかげで、奴隷に関する議論は停滞していたし、大和に対する警戒感は強かったが、「それはそれ、これはこれ」といわんばかりに国内対立が進んだ。
 この背景には、やはり大和のアメリカに対する干渉や影響力行使が、貿易面でしかなかったことが影響していた。またインディアン、黒人解放奴隷、アングロ系以外の移民の「棄てる先」として、大和の存在価値がアングロだけによる世界構築を目指すアメリカ中枢の人々や、ブリテンでの暮らしの再構築を願う一般庶民の思惑と合致していたからだった。
 アメリカにとっても、隣の有色人種国家は相応に存在意義があったのだ。またアメリカ政府としては、有色人種国家としての大和を国内団結に利用することも出来るので、そうした点では都合が良かった。
 しかし1850年代後半からおかしくなる。
 南部が保護貿易主義、連邦主義に反発する向きを強めていたからだ。しかも南部は、黒人の棄てる先というぐらいにしか、大和の事をあまり気にしていなかった。むしろ大和を、北部の石頭よりも話しの分かる相手と見ている事もあった。人種差別についても、大和に移民したドイツ系、アイリッシュ系が大和側で南部人と交渉を行うようになると尚更強まった。
 一方北部では、「忌まわしい南部の分裂主義者」として南部への反発がいっそう強まりを見せた。

 1861年に共和党のリンカーンが大統領になると、南部諸州が連邦からの離脱と独立を宣言した。アメリカ連合国(以後南軍)となりジェファーソン・デイビスが大統領となった。
 アメリカの南北分裂であり、そこに諸外国の思惑はほとんど介在していなかった。移民と移民の子孫達は、自分たちの求めるままに分裂を選んだと言えるだろう。隣の有色人種すら、まるで存在しないかのようだった。
 しかし北部諸州(以後北軍)にとって、南軍の行動は許し難い反逆でしかなかった。アメリカの独立の最大の危機であったからだ。国家とは内乱で力を無くして、その後外国に蹂躙されるからだ。そして北軍としては、南軍の独立を許すわけにはいかなかった。
 だが北軍には、大きな懸念があった。諸外国の動きだ。特にブリテン、フランスが南軍を国家承認したら、それで終わりだった。今のところ不気味に沈黙を守っている大和も、情勢を見定めつつ南軍承認に踏み切るだろうし、そうなったら北軍には物理的に止めようがなかった。そしてこの時、大和の存在が北軍の即座の行動を鈍らせた。
 大和がどう動くのか、さっぱり分からなかったからだ。
 そして南軍の独立に対して、大和国内も世論が割れていた。何しろ南軍は、有色人種に限った奴隷を認める国だからだ。しかし北軍と南軍が分かれるのは、大和の国益に叶っていた。分裂してしまえば、アメリカと言う国が大和を侵す事がほぼ不可能となると考えられたからだ。
 しかし自分たちの側から殴りかかるような愚行を行えば、間違いなく自分たちを敵としてアメリカが団結するだろうと予測された。それが良くも悪くもアメリカ人だからだし、その事はナポレオン戦争の頃の「北米戦争」でも思い知らされていた。この頃に大和政府が取っていた一種の専守防衛的戦略も、アメリカ国民を刺激しないためでもあったのだ。
 そうした中で、南軍が大和と秘密裏に接触してきた。条件は、最低でも局外中立、可能ならば武器、工業製品、食料、必要資源の貿易と供給だ。それが無理なら、ミシシッピ川を国際河川として世界世論に訴え中立化してくれるだけでも良いと言ってきた。
 そしてこの話しが北軍に漏れると、戦争か自重かで国論が南軍の撃滅で統一される。北軍は、「アメリカを守るため」の戦いだと国民に訴えた。
 しかし北軍の躊躇と大和という新大陸一の大国の存在が、南北境界の奴隷州であったケンタッキー州を南部に合流させる事になる。
 これで北軍13州、南軍9州で戦うことになった。
 単純な差で見ると、白人総人口2400万人のうち、1800万人が北軍に属していた。しかも工業力、石炭産出量、鉄道敷設距離などで北軍が圧倒していた。
 だが大和政府が、国際河川であるミシシッピ川の軍事利用禁止と大和共和国の局外中立をセットで申し出てきた事は、北軍にとって大きな痛手だった。また北軍は、大和の目的がアメリカの分裂促進にあることを見抜いていたので、単にミシシッピ川を戦場とできないだけでなく、万が一の大和の参戦を警戒せねばならず、西部の兵力は事実上動かせない状態に追いやられていた。

 南北戦争は1861年4月に開戦したが、北軍、南軍共に戦争準備は何一つできていなかった。相変わらずアメリカ陸軍は小規模で、その多くがミシシッピ川の対岸を空しく睨んでいるだけだった。兵も、多くが志願兵による事実上の民兵(市民兵=ニミッツマン)が青い制服(軍服)を着ているに過ぎなかった。全軍の兵器も、一部の輸入兵器を除いて旧式で海軍も小規模なままだった。
 状況は南軍の方がより悪く、正規軍と呼べるような兵力はなかった。海軍など存在する筈もなかった。だが南軍には、出身地の関係で多くの優秀な軍人が南軍に参加したため、兵士を率いる分において南軍が当初有利にあった。ただ南部の場合は、政府組織を一から作るというところから国造りを行わねばならず、前途多難どころではなかった。
 軍組織、兵器、海軍など全ての面で、大和共和国の方が余程まともな軍隊を整備していた。にも関わらずアメリカ軍が貧弱だったのは、大和政府が軍備を可能な限りアメリカ人に見せないように、国土の奥に置いていたからだった。また大和の中枢が太平洋岸にあったことも、アメリカの油断とも言える状況を助長していた。
 大和のことはともかく、開戦当初北軍は短期戦を予測していた。南軍の準備が何もないことを、数字の上で知っていたからだ。しかし、南軍の優れた将校達と士気の高い民兵の群は、スカーフ程度しかまともな統一もないのに非常に頑強に戦い、戦争は長期戦へと移行した。その後戦争は、両者の準備期間と小競り合いにより終始し、冬営を挟んで翌年春に戦闘が激しさを増す。この間南軍は手当たり次第に武器を集め、ここで大和商人達が密貿易で「大活躍」した。大和は局外中立の立場上密輸を取り締まったが、利に聡い商人達を止めることはできなかった。また南北分裂を望む大和国内の世論もあって、取り締まりも徹底しなかったと言われている。
 南北両軍による主戦場は、東部沿岸の互いの首都となるワシントンとリッチモンドを挟んだ狭い場所で、お互い大軍を積み上げて対峙した。
 そして兵力の多さを過信した北軍は、各地で南軍の優れた戦術指導の前に敗退を続け、勝利の連続で勢いを得た南軍が一気に敵首都ワシントン侵攻を企てた。
 こうして1862年9月17日に起きたのが、戦争の帰趨を決することになった「アンティータムの戦い」の戦いだった。
 ここでの戦いに敗北した北軍は、総司令官マクラレンが戦死したことで統制が瓦解。民兵の集団であることを露呈して逃げ散り、戦力的に劣勢だった南軍は一気に進軍し、ワシントン、ボルチモアの両都市を陥落させる。
 その後、北軍首都はフィラデルフィアに後退し、すぐに起きたワシントン奪回作戦までもが失敗すると、北軍将兵の戦意は大きく落ちた。

 そしてワシントン陥落を受けて、ブリテンとフランスが動き出す。ブリテンは、北軍に対して直接的に「負けないだろうが勝つこともできないだろう」と言う趣旨のメッセージを送った。フランスは、欧州的均衡外交を持ち込むことでの自らの政治的影響力確保を目指して、ナポレオン三世が動いた。
 ブリテン、フランスの動きが比較的鈍かったのは、アメリカ合衆国にせよアメリカ連合国によせ、どちらも当時の世界的な政治体制の中にあっては、アヴァンギャルドすぎて危険だと見られていたからだった。南軍の勝利で介入したのも、新大陸に三つ目の共和制国家を成立させることで、一種の均衡状態が作れるのではないかという思惑があったためだ。
 そしてヨーロッパ諸国の動きに合わせて、大和共和国もアメリカ連合国承認の動きを見せ、ここでようやく自らの軍事に関する発言を行う。これ以上北アメリカ大陸で混乱が続けば、国家安全保障上で大和も軍の動員を行わなければならない、と。
 しかしこれが一部でやぶ蛇となった。北部で、ほぼ唯一陸の国境となっているミシガン湖シカゴ北方の国境線で、北軍民兵が大和側に発砲したからだ。しかもその後の戦闘は拡大して、小競り合いと言える状況にまで発展した。
 幸いそれ以上戦闘は拡大しなかったが、これで大和、北軍双方が警戒感を持ち、双方の国民がそれぞれに対する敵意を見せた。
 しかしそれ以上に戦闘が拡大することもなく、北軍はむしろ理性的に行動するようになった。このまま戦争を続けて大和が南軍側で参戦でもしたら、北軍が完全に敗北する可能性が高いからだ。そして南軍による勝利でアメリカは再統一され、北軍経済は壊滅し、さらにはヨーロッパや大和の経済植民地にアメリカ全体が陥るだろうとも予測した。もっとも大和は、事態がここまで進んだ以上、何としても南北分裂で固定したいと考えており、可能な限り慎重に行動していた。大和政府は、アメリカへの敵意を見せる国民の説得も懸命に行い、平和こそが国益に合致し、尊いのだと説いた。ただし、北軍に対しては再度同じ勧告を行うと同時に、鉄鉱石の輸出を止めざるを得ないと言う通達も行われた。

 南北の戦闘は、その後小競り合いをのぞいて起きず、そのまま1862年10月末に終戦となった。
 そして南北分裂の境界が、そのまま両者の国境と定められる。それ以外は白紙条件であり、賠償や割譲その他一切なかった。戦いそのものが、分かれるための争いでしかなかったからだ。
 ただし、一つ問題が浮上した。旧アメリカ海軍の本拠地が、南部領内にあることだ。ニューポートもポーツマスもバージニア州にあるのだが、バージニア州は南部の中心地だった。しかし、それぞれの国土(勢力圏)にあるものは分かち合うのが基本条件なので、結局北部側が軍艦以上のものを得ることはできず、以後自らの拠点はフィラデルフィアに構えるようになる。また海軍では、それぞれ個人の資格で南北双方に分かれることが許され、3割近い水兵が南部へと移り、そのままポーツマスなどの施設を利用した。
 戦後の両国の関係は、ヤンキーとディキシー、反逆者、裏切り者、偏屈、気取り屋と軍を並べて睨み合う事になる。一方他の国々との関係では、北部(合衆国)は戦後政治方針を大転換して、大和共和国との宥和政策を実施した。地下資源と資源、移民の流し先を得るためだったが、政治上でお互いの国が旧大陸と離れた自立を目指しているという点で協力できるというのが建前だった。大和側も不必要に対立することを望まなかったので、南部(連合国)と極端に関係悪化しない程度の友好関係構築に動いた。一方の南部(連合国)は、以後ブリテン、フランスとの友好関係を進め、自力での産業育成を相応に進めつつも、ヨーロッパへの綿花輸出で国を持たせるという状況に置かれる事になる。
 結局、この戦争で一番の利益を得たのは、ほとんど何もしなかった大和共和国だった。


フェイズ21「帝国主義に進む世界」