■フェイズ27「グレート・ウォー(3)」

 北アメリカ大陸での戦闘は、1914年10月25日に突然のように動き始めた。
 周囲を最有力の仮想敵に囲まれていたアメリカ合衆国は、基本的には国境線の防衛体制を固める以外の戦略は取りようがないと考えられていた。しかしそのアメリカは自らが参戦するとすぐに、まるで開戦時のドイツ軍のように余剰戦力の全てを投入してカナダへとなだれ込んだ。

 アメリカがカナダを選んだ理由はしごく簡単だった。
 近隣で最も軍事力が少なく、人口が少なく、宗主国のブリテン本国が身動き取れないためだ。また、大和など他国が援軍を差し向けるにしても、最低でも三ヶ月の時間的猶予があると見ていた。これは、大和や南部が国境となっているそれぞれの大河(ミシシッピ川またはオハイオ川)を強引に渡ろうとしても変わりないと考えられていた。
 日常的に大軍が対陣しあい、要衝を実質的に要塞化しているそれぞれの国に対しては、余程の大軍を用いるか何らかの画期的な新兵器でも投入しない限り、簡単に突破することが不可能な事は、どの国も深く理解している事だったからだ。特にオハイオ川とポトマック川、中間のアパラチア山脈が国境となっているアメリカと南部は、平時から互いに数個軍団が向かい合っていた。アメリカと大和の国境線は以外に接していなかったが、こちらも互いに2個軍団を平時から向け合っている。これらの軍団は、戦時には三倍以上の規模となり、最終的には新たな戦略単位である「軍集団」を形成して互いを牽制することになっている、といわれていた。
 しかしアメリカは、国境線の防備を最小限にして国内の鉄道網を駆使して兵力を集中し、カナダへとなだれ込んだ。

 当時カナダは、ブリテンの自治領だった。このためブリテンの戦いに全面的に協力していた。兵士、物資の多くがブリテンやフランスに注がれていた。このため総人口1000万人に満たないカナダは、アメリカに対して殆ど無防備な状態だった。このためブリテンは、戦前から大和との間に防衛の一部を委託する約束を交わし、開戦と共にそれを実行してもらう予定だった。
 だが大和が動くよりもずっと早く、アメリカ軍が一斉にカナダになだれ込んだ。
 そしてカナダの中心地は、セント・ローレンス川と五大湖沿岸に広がっているため、アメリカ国境から極めて近い位置にあった。約100年前の米英戦争で国境線はかなり南に移っていたが、そうした地域はほとんど人口希薄地帯だった。
 しかし、多くの地域が人口希薄地帯だという事は、ある意味ではカナダに有利に働いた。この時代の軍隊は、鉄道を除けば基本的に徒歩で動かねばならないからだ。ドイツ軍の例に見られるように、一定程度前進すると兵士達は疲れ、後方からの補給が滞り、前進速度が大きく低下してしまう可能性があるのだ。そして対陣する敵軍がいれば、ドイツ軍のようになってしまう。
 アメリカ軍の場合は、敵の姿をほとんど見ない形での前進だった。途中にある小さな各都市も無防備都市宣言を出しての無血開城ばかりで、セント・ローレンス川に至るまで、大規模な戦闘はほとんどなかった。これは、ブリテン側が万が一アメリカがカナダに攻め込んできた場合、対処のしようがないと割り切っていたからでもあった。ブリテン側としては、モントリオールなどセント・ローレンス川で敵の進撃を防ぎ、大和軍が来援するまで持ちこたえるというのが、万が一の場合のカナダでの戦略だった。ただし、カナダからの積み出し港となるノバスコシア半島と中核港湾都市のハリファックス、ニューファンドランド島は何としても守るつもりだったため、当初から一定規模の軍部隊が駐留していた。

 快調に進撃したアメリカ軍は、当初は敵の抵抗を受けずに快進撃したため戦意は非常に高かった。100年前の戦争で奪われた国土の奪回という大義名分も、兵士達の士気を尚一層高めた。
 しかし進撃するにつれて、その士気は徐々に低下していく。
 まずは、敵を見ずにただ前進するだけという点が問題だった。拍子抜けしてしまったのだ。加えて、「奪回」もしくは「解放」した地域の人々は、自分たちの事を既にカナダ人やブリテン人としか考えていなかった。100年も経過すれば当時の人が生きている筈もなく、ブリテンがカナダを大事に育てていたため、ごく当たり前に自分たちを「アメリカ人」とは考えなくなっていた。侵攻してきたアメリカ軍に対しても侵略者と見て反抗的な場合が多く、多くのアメリカ兵を落胆させると同時に憎しみを抱かせることになる。
 ほとんどの場合無血で進んだため両者が激発することは無かったが、アメリカの戦争が少なくともアメリカ人にとって大きな狂いを生じたのは間違いなかった。
 それでも東部海岸では、この当時の国境線(北緯43度)から約200キロ前進するのに一週間余りで到達している。ブリテンの戦略もあって鉄道網がほとんど引かれていなかった事を考慮すれば、これはかなり優秀な数字だった。進撃路に敵がいないとはいっても、僅かな数の現地ブリテン軍、カナダ軍は、橋を落とすなどの妨害工作は綿密といえるほど行っているので、言葉で言うほど前進が楽だったわけではなかったからだ。
 抵抗の比較的強い五大湖のデトロイト方面でも100キロ近い前進が行われ、バッファロー方面から越境した部隊と合わせて包囲されるのを避けるべく、カナダ・ブリテン軍はトロントへと後退した。

 そしてこの辺りから、アメリカ軍の前進と連合軍の展開競争となる。
 大きな理由は、本格的な動員を開始した大和共和国が、後方で編成された戦力を、動員されるそばから師団単位で続々と中部国境経由でカナダに送り込んでいたからだ。
 事前にカナダ救援作戦というものも大和軍内部では作られており、カナダ軍、ブリテン軍も大和軍を自国領に引き入れることに全面的に協力した。
 このため早い場合はトロント前面で、進軍したアメリカ軍は大和軍の姿を見ることになる。セント・ローレンス川一帯への展開も早く、オタワを経由して続々とモントリオール方面に展開した。またカナダ北部の鉄道を使って迂回し、ケベック方面にも続々と部隊が投入された。ケベック方面ではまだアメリカ軍が到達していないため、セント・ローレンス川を越えて、ノバスコシア半島に伸びる鉄道を守備するために展開していった。
 かくして、アメリカ軍がモントリオール前面まで前進する頃には、簡単にはセント・ローレンス川を渡河できないだけの連合軍(大和軍)が展開するようになった。ノバスコシアに伸びる北部には、塹壕が巡らされた戦線までが長く形成されていた。
 しかも大和軍の動きはこれだけではなかった。
 ミシガン湖西部に唯一形成されている河を挟まない国境線で、激しい砲撃戦を展開したからだ。この地は、双方が国境から少し後ろの地帯を要塞化しているため簡単に突破することは出来ないが、大和軍がアメリカ軍を本格的に攻撃したことでアメリカ全土が浮き足立ってしまい、中部諸州からは早くもカナダでの冒険よりも国防を重視するべきだとの声が出るようになった。
 何しろ大和共和国は、万が一総動員をかけた場合、最大1000万を越える巨大すぎる軍隊が出現する国家なのだ。北アメリカ大陸など簡単に制覇し、大西洋を押し渡ることすら可能な国力を有していた。その事は、20世紀に入る頃から多くのアメリカ人が「知っている」事だった。
 もっとも、アメリカが恐れた大和にも悩みはあった。
 何しろ大和は、多民族国家だった。
 大和国民の多くは日系で主要公用語は日本語とされていたが、多くの白人移民も受け入れてきた移民国家であり開拓国家だった。
 白人では最も多いのは自作農を目指して移民してきたドイツ系で、ブリテン系を嫌うアイリッシュ系もかなりの数が住んでいた。20世紀に入ってからは、ブリテン系人種の差別を嫌うように、東欧系やロシアからの移民も増えていた。イタリア系はアメリカに止まるか南米を目指したが、大和に移民した者が皆無という訳ではなかった。
 その大和での主要民族である日系人達は、多くが西海岸部や南部方面に多く住んでいた。笛射(てきさす)の大農場主といえば、多くが日系人の子孫だった。笛射に住む「石油王」の麦畑(一族)や金融王の藪(一族)も、先祖は日本列島出身だ。しかし一方では、国民の今や三割近くが日本人以外で構成されていた。原住民の赤人、解放奴隷の黒人など、白人以外にも数多くの人種がいた。そして全ての人種が、いちおうは法の上では平等で自由に暮らせると言うことに、国民は一定の満足を持っていたし誇りにすら思っている者も多かった。基本的に国が豊かだという要素が国民の満足度を後押ししていたが、問題が皆無だというわけではない。
 白人移民には、やはり人種差別の傾向が強かった。国を挙げた熱心な啓蒙活動と教育で我慢強く指導がおこなわれていたので問題も少なかったが、この政策そのものがミシシッピの対岸二国にとっては、蛇蝎のように憎むべき事だった。
 それでも南部は、まだ国の体制や制度の違いという方便と国家戦略から大和とのつき合いも可能だったが、アメリカとの関係はもはや絶望的だった。何しろアメリカは、自由と正義を謳いながら、それは白人のものでしかなかったからだ。「南北戦争」以後半世紀の間に、解放奴隷とインディアンの多くが大和に移民してしまったほどだ。
 大和とアメリカが別の陣営に属して戦争するのは、むしろ自然な状態だったのだ。

 話しが少し逸れたが、戦場は陸だけではなかった。
 北米の戦場は、海にも広がっていた。そして北アメリカでは、巨大な湖も重要な戦場だった。五大湖のうちスペリオル湖以外は、敵対国同士の国境線となっており、特にミシガン湖とヒューロン湖には、大和、アメリカ双方の湖軍(大和=水軍、アメリカなど=レイク・ネイヴィー)が編成されていた。双方とも河川運用を前提とした、航続距離が短く、喫水の浅い艦艇が多かった。また速度もほどほどで、地上の砲撃を重視した艦艇(砲艦)が多いのも特徴だった。とはいえ、双方の湖軍は相手に対する防御が前提で戦力自体も限られているため、激しく戦うと言うより牽制し合う事に終始していた。水上での戦闘は、やはり海こそが主軸だった。
 海軍となると、基本的に大和とアメリカの関係は薄かった。大和海軍の主軸は太平洋で、大西洋側はメキシコ湾しかなかったからだ。大和海軍がメキシコ湾から出るには、基本的にどこかの国に許可を貰うことが慣例で、移動以外ではカリブ海までの進出がせいぜいだった。大和のメキシコ湾艦隊の主な目的も、メキシコ湾岸の防衛であり、敵海軍の攻撃ではない。そうした能動的な役割は、基本的に本国艦隊である太平洋艦隊が担っていた。
 しかしその太平洋艦隊は、開戦からずっと太平洋方面で日本軍と戦っており、大西洋に回す余裕はなかった。ミシシッピ河口部の新織安や笛射の竜頭屯近辺には軍工廠や大規模な造船所もあり、かなりの数の艦艇が建造されてはいたが、大和海軍全体から見るとせいぜい30%程度の割合でしかなかった。
 だがこの戦争では、南部連合と組むことで大和海軍も簡単に大西洋に出ることが可能となっていた。
 南部の海軍力は三国の中では最も小規模だったが、大和のメキシコ湾艦隊と合わせれば、アメリカ海軍に十分対向できるだけの戦力となる。しかもカナダ方面にはブリテン艦隊も一定規模駐留していたので、開戦時の海軍力はほぼ五分五分だった。世界最強のブリテン海軍の存在と、大和の新織安と竜頭屯でそれぞれ就役したばかりの超弩級戦艦《きぼう》《ひかり》と合わせれば、質の面では連合軍側の方が有利だった。
 海軍戦力の不利は、アメリカ海軍も承知していた。アメリカ海軍は、フィラデルフィアとボストンを拠点として、超弩級戦艦2隻、弩級戦艦2隻、前弩級戦艦10隻、装甲巡洋艦6隻を保有していた。加えて、超弩級戦艦4隻が建造中だった。国際的に見て、戦力は日本海軍と同程度だ。対する大和だが、国自体では1907年から毎年2隻、1913年からは毎年4隻の戦艦を計画した。それまでの分は、前弩級戦艦8隻、装甲巡洋艦4隻有していた。加えて開戦までに1912年度計画艦までが就役していたので、超弩級戦艦4隻、弩級戦艦4隻、弩級巡洋戦艦4隻を保有するまでになっていた。膨張速度はドイツ海軍を超えるほどで、弩級艦12隻の陣容はドイツに次ぐ列強第三位となる。しかも今後2年間は、毎年4隻が就役の予定だった。ブリテンとドイツが自らの陣営に引き入れたがったのも、道理というものだった。
 しかしこのうち、超弩級戦艦2隻、弩級戦艦4隻、弩級巡洋戦艦4隻が太平洋の本国艦隊に属していたため、メキシコ湾には、超弩級戦艦2隻、前弩級戦艦4隻だけだった。
 南部海軍は、ブリテンから買った弩級戦艦2隻、前弩級戦艦2隻を保有していた。ブリテンは、カナダに常に1個戦艦戦隊を駐留させていた。
 北米東部から南部で最も有力な戦艦は、アメリカの《ニューヨーク級》と大和の《みらい級》だ。共に14インチ45口径砲を装備し、《ニューヨーク級》は10門、《みらい級》は9門搭載していた。船体規模、速力は《みらい級》の方が大きく、見た目の外観でも3連装砲塔を装備する《みらい級》はあか抜けていた。何より《みらい級》は、最高速力25ノットを誇る新世代の高速戦艦だった。

 戦争に際するアメリカの海上での戦略は、基本的には艦隊保全だった。海軍力に劣る側が取るごく一般的な戦略で、当時の価値観からすればそれ以外に選択のしようがなかった。しかしアメリカ海軍は、開戦から三ヶ月に限り艦隊保全ではなく全艦隊を挙げての通商破壊戦を自らの戦略に組み込んでいた。
 北大西洋航路を暴れ回る事でブリテンの海運を脅かし、有利な状況が訪れた場合は敵艦艇への襲撃も織り込まれていた。また、機会さえあればチャールストンやマイアミに逼塞するであろう南部海軍を攻撃し、出来るなら各個撃破が出来ないかとも考えられていた。しかし南部海軍に対する攻撃は、大和海軍が早々にマイアミに進出してきたため不可能となり、その分北大西洋での通商破壊戦に力が入れられることになった。開戦と共に、ドイツの通商破壊艦に対する手助けや、ドイツ艦船の寄港も行われた。
 これに対してブリテン海軍は、アメリカ海軍の全力を挙げての通商破壊戦は想定していなかったため、開戦初期は混乱に見舞われた。しかし、当初からカナダのノバスコシア、ニューファンドランド(ハリファックス)に艦艇を入れていた事、南部や大和との連携も最初から考えられていたため、必要以上の混乱はなかった。
 それでも北大西洋上にいた多くの艦船が犠牲となり、ブリテンのアメリカに対する怒りは非常に大きなものとなる。このためアメリカ参戦から一ヶ月ほどが経過した頃、一計が案じられた。要するに、海の狼の群を一網打尽にしようというものだ。
 そして同時期、ドイツの通商破壊艦(水上艦)の対する作戦がうまくいっていたように、洋上に出ていたアメリカ艦隊の捕捉にも成功する。
 通商破壊戦に出撃していたアメリカ海軍の大型装甲巡洋艦《ペンシルヴァニア》と《メリーランド》は、最初は大和海軍の大型装甲巡洋艦《たけみかづち》《ひのかくづち》から逃れるも、ブリテンの巡洋戦艦《インヴィンシブル級》3隻からなる戦隊に捕捉されてしまう。その後、速力と砲力の双方で圧倒的優位に立ったブリテンの巡洋戦艦は、約1時間の砲撃で2隻を撃破、最後はアメリカ側の降伏と自沈で幕を閉じる。
 この戦闘以後、アメリカ海軍は艦隊保全に入り、以後は一度主力艦隊がハリファックスを攻撃しようとした以外、外洋に出てくることは無くなった。一方の連合軍海軍は、南部のノーフォーク、カナダのハリファックスを拠点にアメリカ海軍の本格的な封鎖に入り、アメリカの海での活動は短期間で終息する事になる。

 一方陸上では、楓が赤々と染まる頃、各地で激戦が続いていた。
 宣戦布告から二週間余りで、アメリカ軍はセント・ローレンス川に至り、既に対岸に布陣したカナダ軍、大和軍との間に砲撃戦が展開されるようになった。一部では渡河作戦も実施されたが、アメリカ側が大損害を受けただけに終わった。
 トロントを巡る戦いでは、アメリカ軍がヒューロン湖を越えてカナダ領内に入り、ゲリラ的な後方攪乱戦を仕掛けるなど積極的な戦闘が行われたが、戦線自体は大和軍1個軍が展開することで膠着し、さらに大和軍1個軍が到着するとアメリカ軍の方が追加の部隊を派遣しなければならないほどとなる。当然、アメリカ軍の前進が叶うわけもなく、アメリカ軍の意図は全く叶うことは無かった。
 そうした中で最大の激戦地は、ケベックからノバスコシアに伸びる鉄道を巡る北東部での戦いだった。
 「北緯46度の攻防」とも言われた戦いは、開戦から一ヶ月で双方2個軍を投入した激しい戦闘となるも、当初から塹壕を張り巡らせたカナダ、ブリテン、そして大和連合軍の優位で進んだ。今までの進撃が順調だったアメリカ軍は、当初連合軍の陣地を見ても、特に大きな脅威とは受け取らなかった。
 既にヨーロッパで作られた塹壕線を参考に作られた陣地は非常に強固で、多くの機関銃と重砲が配備されていたのだが、アメリカ軍は軍部隊が揃うと、すぐにも総攻撃を開始する。
 同方面を進撃してきた2個軍の総力を挙げた突撃で、2個軍20個師団、つまりライフル兵20万、騎兵3万の突撃は、歴史上最後の軽装歩兵の突撃とも言われている。
 当時の彼らが十分と考えた一定程度の準備砲撃の後、一斉に突撃を開始したアメリカ軍は、まずは連合軍による味方すら巻き込むほどの近接重砲支援の洗礼を受けることになる。数カ所に分かれ集中的な突撃を受けた連合軍としては当然の選択だったのだが、この砲撃によりアメリカ軍の突撃は停滞。それでも最前線にさしかかったアメリカ軍将兵は、濃密な鉄条網に手間取っている間に機関銃の十字砲火の餌食となった。
 この突撃は「シャーブルックの悲劇」といわれ、一説にはたった一日、一回の突撃で10万の将兵が無為に失われたと言われている。
 これで北東部沿岸を進んでいたアメリカ軍の突撃は完全に止まってしまい、後はアメリカ軍もその場で塹壕を掘って、ヨーロッパの西部戦線と同じ様相を呈するようになる。
 そしてアメリカ軍が「当初目標」として重視したセント・ローレンス川対岸のモントリオールも、激しい砲撃を受けつつも健在のままだった。市民の多くは砲撃を避けるために奥地に疎開したが、その代わりに大和軍の工兵隊が、街をコンクリートと鉄で覆われた都市要塞へと変化させていった。加えて、セント・ローレンス川の北岸は野戦陣地化され、どこも似たような状態だった。

 そして本格的な冬を迎える頃には、北アメリカ各国も一定の動員を完了して部隊を各国境線に配備した。激戦の続くカナダにも、動員が完了したカナダ軍と援軍の大和の大軍が陣取り、アメリカ合衆国そのものが周辺国すべてを合わせると1000万を越える軍隊に包囲された孤立状態に置かれることになる。アメリカの状況は、ある意味同盟国の盟主であるドイツよりも厳しかった。カナダという弱点を克服した連合軍には、既にスキがなかったからだ。


フェイズ28「グレート・ウォー(4)」