■フェイズ30「グレート・ウォー(6)」

 ロシア革命以後、連合側の不利は続いていた。
 イタリアが1917年10月から11月にかけての「カポレットの戦い」において、ドイツの山岳兵による新戦術の浸透突破によって惨敗を喫していた。敗北の様は、まさに総崩れだった。ドイツにその気があれば、北アフリカ主要部が同盟の占領するところとなっていたと言われるほどだった。しかし当時のドイツにとっては、オーストリアの危機を救い、イタリア軍を撃破すれば十分だった。
 そして主戦場である西部戦線では、1917年4月からフランス、ブリテンそれぞれが主体となった攻勢作戦を行うも、敢えなく失敗していた。特にフランス軍の攻勢失敗は、戦略的な影響を与えていた。
 「エーヌ会戦」と呼ばれる攻勢開始から二週間で、攻勢の完全な失敗が誰の目にも明らかになり、度重なる消耗戦による犠牲で既に士気が折れかかっていたフランス軍将兵達へのトドメとなったからだ。
 フランス軍では、一説によると最大で68個師団で戦争停止を求める反乱騒ぎが起き、偶然からその一部がドイツ軍の知るところとなった。当初ドイツ軍は、フランス軍の妙な動きを予想外の新たな攻勢の前触れかと考え、危険を承知で上空に多数の偵察機を多数放ってみた。そこで確認されたのは、まともに戦うそぶりを見せない兵士達だった。中にはパリに向かう集団も確認された。
 そしてフランス兵の反乱を確認したドイツ軍首脳部は、直ちに攻勢を決定する。
 この時、通常の反撃以上の準備はしていなかったドイツ軍だったが、反乱が起きていると考えられるフランス軍の要所に対する攻撃を開始する。ドイツの突然の攻勢を受けたフランス軍将兵は、まともに戦わずに前線を放棄する動きが相次ぎ、僅か一週間で50キロ以上もドイツ軍は前進することに成功する。ドイツ軍がそれ以上進まなかったのは、単に自分たちの補給が続かなかったからに過ぎない。
 ここでフランス軍は、ペタン元帥が中心となって軍と将兵の士気を立て直すが、フランス軍が失ったものは多かった。
 重要拠点のランヌとコンピエーニュは何とか保たれたが、マルヌ河にまで再び踏み込まれ、北側のブリテン軍までが敵に側面を見せないために一部戦線を後退させなければならなかった。
 そしてブリテン軍は、半ばフランス軍の無為の後退の失点を取り返すべく「カンブレーの戦い」を始め、再び戦車を大量投入して突破を図ろうとしたが、準備不足とドイツ軍の反撃によって結果として得るところは無かった。だがブリテン軍の攻撃は無駄ではなく、ドイツ軍に大きな消耗を強いたため、ドイツ軍はフランス軍を攻撃することもできず、東部戦線でも混乱するロシアに対する攻勢を行うことも出来なかった。
 なお西部戦線とは、たいていの場合最後のような結果として犠牲だけが積み上げられるだけ、というような状況が続く戦場だった。

 一方インド洋では、連合が恐れていた事態が1917年秋に発生する。
 ついに日本軍が大船団をセイロンに集結させ、どこかに大規模な上陸作戦を実施するという情報がもたらされたのだ。
 日本軍の目標はどこか? それが連合側というよりブリテン本国の関心事だった。
 インド各地への一斉上陸、インドの限定された場所への上陸、紅海河口部への直接侵攻、紅海前面にあるソコトラ島、それともペルシャ湾、様々な可能性があった。
 一番高い可能性は、インド全土もしくはカルカッタなど重要拠点への侵攻と考えられた。だが当の日本軍は、インドへの本格侵攻は考えていなかった。
 確かにインドはブリテンの力の根元であり、ブリテンの手によって戦争にも有効な鉄道網も発達していた。アジアで最も大軍を投じる環境が整っていたと言える。しかしインドには、インド兵を中心とするも100万のブリテン軍が存在し、何より日本はインドの人の海に飲み込まれて戦略的に身動きできなくなる事を強く警戒していた。それに、インドを占領せずともインドを封じれば戦略的に事足りるし、インドで本格的な独立騒ぎなど起きては日本の不利益になりかねない事も理解していた。日本には、植民地下のアジアを啓蒙する気など、方便として以上では皆無だった。何しろ日本も、基本的には植民地帝国だったからだ。
 このため日本の目的は、インド洋でのブリテンの海上交通路を完全に絶ってしまう事になる。だからこそ拠点となる島を占領して、通商破壊を熱心に行っていた。このため喜望峰周りの航路は完全に寸断することができていた。だが、紅海から中東沿岸を経由した航路遮断には至っていなかった。せいぜい半分程度の遮断であり、アデンを拠点とするブリテンの東洋艦隊のために、日本海軍も積極的な行動を制約されていた。
 しかもブリテンは、アデン=ボンベイ、アデン=カラチルートを軸とした海上交通路では、輸送船が単独で動くのではなく護送船団方式をとっているため、まだ技術的にも未熟な潜水艦による襲撃は極めて厳しかった。その上旧式戦艦や装甲巡洋艦の護衛を付けることが多くなったため、水上通商破壊戦も難しくなっていた。護送船団方式は、1917年1月にドーバー海峡で最初に始められたもので、すぐにもインド洋の戦いにも応用して取り入れられたものだった。

 1917年春以後の海上交通線を巡る戦いは大規模化の一途をたどり、日本海軍が弩級巡洋戦艦群を投入すると、そこは半ば海上決戦の場となっていた。
 ちなみにブリテンから「シュライン(神殿)級」とも言われていた日本海軍の《香取型》弩級巡洋戦艦は、排水量2万5000トン、45口径12インチ砲10門・27ノット程度の能力を有する、弩級艦としては非常に優秀な艦だった。ドイツの同種の艦艇よりも排水量が大きい分だけ航海性能と居住性が高く、その分砲弾搭載量と防御力が若干下げられていたが、ボイラーを重油専用としていたため高い速力を有していた。しかも就役時からドイツ艦よりも高い三脚の艦橋を備えており、戦闘の変化(砲撃戦の長距離化)に伴って戦時の増設も相次いでいた。
 しかしブリテンが投入した新型の《レナウン級》巡洋戦艦は、日本海軍を一世代上回る強力なものだった。排水量2万7500トン、42口径15インチ砲6門・30ノットという高性能を誇っていた。日本側の優位はドイツ譲りの重装甲だけで、このため日本海軍は巡洋戦艦を艦隊決戦用とはせずに通商破壊戦に投入していた。
 そして何度目かのアラビア海での戦闘が、戦場を大きく動かす事になる。
 
 潜水艦の偵察情報に従って護送船団に食らいつこうとした《香取型》弩級巡洋戦艦4隻は、まずは護衛に付いていたブリテン海軍の前弩級戦艦2隻との戦闘に入った。しかし相手が2隻のため、4隻いた日本側は艦隊を二分し、2隻で護衛を潰してもう2隻は増速して船団を攻撃した。
 そして日本艦艇の突撃を受けた約20隻の輸送船は、船団を解いて各個に逃げ出す。そこに頭を押さえ込むように機動した2隻の巡洋戦艦が砲撃を加え、順調に相手を撃破していった。
 だが、ブリテン側の中継拠点のソコトラ島から、日本艦隊接近の報を受けたブリテンの増援艦隊が出撃。護衛戦艦を潰した日本側が、4隻揃って船団を包囲攻撃しようとしているところにインターセプトを行う。
 この時増援で現れたのは、超高速艦の《カレイジャス》《グロリアス》で、《カレイジャス級》巡洋戦艦は大戦最速の32ノットを誇っていた。だからこそインターセプト用として待機していたのであり、期待通り救援に間に合った。ここまではブリテン海軍の思惑通りだった。
 ただし2隻は巡洋戦艦であるにも関わらず排水量は2万トンに達せず、基本的に浅い海面での活動を前提とした極めて特殊な艦だった。主砲は42口径15インチ砲と強力だが連装砲塔2基4門しか装備しておらず、船体の装甲防御力は一部を除いて最新の軽巡洋艦と同程度でしかなかった。
 陸上の古い兵種分類に例えれば、戦艦が鎧をまとった騎士や重騎兵、通常の巡洋戦艦が軽い鎧で重武装の軽騎兵、《カレイジャス級》は鎧のない民兵が早い馬にまたがって強い武器を持っただけ、といえるようなイメージとなるだろう。相手が装甲巡洋艦以下なら圧倒的能力だったが、この場合相手が悪かった。日本の巡洋戦艦は、重武装、重装甲の騎士、いや武士だった。しかも《カレイジャス級》は、本来は迅速にバルト海に展開して艦砲射撃することを考えた特殊な戦闘艦だった。まさに、フィッシャー提督の申し子と言えるだろう。

 自らの速力と砲力を過信したわけではないが、輸送船を守るべく日本艦隊と逃げる輸送船の間に素早く入り込んだ《カレイジャス》《グロリアス》だったが、獲物を取り上げられ怒り狂う日本海軍の巡洋戦艦の集中射撃を受けることになる。
 そして1斉射当たり40発も降り注ぐドイツ生まれの12インチ砲により痛打を受けた《カレイジャス級》だが、運を味方に付けた事もあり防御力の高い主砲塔や司令塔以外の場所を砲撃を受けても、何とか無事にやり過ごしていた。このためブリテン艦隊は、さらなる増援が到着するまで踏みとどまる決意をして、日本艦隊との正面からの砲撃戦を行う。ただし元々バルト海での運用を前提していたため、インド洋で砲撃戦を行うには安定性が悪かった。当然砲弾の命中率は低く、しかも2隻合わせて8門では弾薬投射量でも圧倒的に不利だった。
 しかし互いに距離を詰めた為、両者の砲弾は相応に命中するようになる。そして戦闘開始から約30分後、日本側1隻が大破脱落するも、ブリテンの最速艦は度重なる連打に脆弱な船体が耐えきれずに2隻共に戦闘不能に陥っていた。次々に降り注いだ12インチ砲弾の前に、甲板が易々と貫かれて動力部が破壊されたためだった。このため速度が大きく落ちるばかりか主砲すら動かせなくなり、日本艦隊に随伴していた駆逐艦の雷撃を受けて敢えない最後を遂げて戦闘の幕は閉じた。
 この戦闘のおかげで、ブリテン側は船団の半数近くが最終的に逃げのびることができたため、犠牲の価値はあったと考えられた。1隻の大型艦より、物資を満載した数隻の輸送船の方が価値があると言われる。だがインド洋西部全体で見ると、戦力バランスが日本側に有利になった事は否めず、日本側がこの「勝利」を受けて積極的行動を開始する。
 主目的は、他の同盟国との連絡路、できれば補給路を切り開くこと。つまり中東への進撃だった。
 当然、ブリテンの東洋艦隊が邪魔となるが、日本側が行動を起こせば総力を挙げて阻止に出てくると考えられていたので、そこで撃破する事を画策していた。この戦争で常に積極的だった日本海軍らしいと言えるだろう。

 1917年8月、日本海軍の主力艦隊がアラビア海東部に進出するという情報を前に、ブリテン東方艦隊も出撃を決意。
 以下が、弩級以上の艦艇の主な性能と名称になる。

 ・日本海軍
《伊勢型》超弩級戦艦:45口径14インチ砲12門・25ノット
《伊勢》《日向》《安芸》《出雲》
《播磨型》超弩級戦艦:45口径14インチ砲8門・25ノット
《播磨》《備前》《美濃》《近江》
《河内型》《山城型》弩級戦艦:45口径12インチ砲10門・21ノット
《河内》《摂津》《和泉》《山城》《尾張》 (※1隻欠)
《香取型》弩級巡洋戦艦:45口径12インチ砲10門・27ノット
《香取》《鹿島》《橿原》 (※1隻欠)

 ・ブリテン海軍
《ロイヤル・ソヴェリン級》戦艦:42口径15インチ砲8門・23ノット
 《ロイヤル・ソヴェリン》《ロイヤル・オーク》《リヴェンジ》《レゾリューション》
《レナウン級》巡洋戦艦:42口径15インチ砲6門・30ノット
《レパルス》《レナウン》
各種13.5インチ砲搭載超弩級戦艦:45口径13.5インチ砲10門・21ノット
《キングジョージ五世》《センチュリオン》《サンダラー》《コンカラー》

 これまでとの違いは、双方共に旧式の前弩級戦艦、準弩級戦艦を主力艦隊に伴っていなかった点にある。これは機動性、運動性を重視したためで、上記した以外に艦隊に随伴しているのも新世代の巡洋艦(=軽巡洋艦)と排水量1000トンクラスの大型駆逐艦群だった。大戦という容赦のない戦争と連続した海戦が、著しい技術進歩をもたらした結果だ。
 だが日本側には、旧式戦艦群も別行動を取っており、日本軍はその別行動を取っている艦隊及び船団の目を敵から逸らすために、主力艦隊が大挙出撃したと言える。また《香取型》弩級巡洋戦艦は、牽制も兼ねて別行動を取っており、この時の戦闘では後詰めや予備兵力として展開していただけだった。
 しかしブリテン側は、巡洋戦艦2隻が日本の通商破壊艦艇護衛のためにボンベイ方面に出撃しており、拠点となっているアデンに全てが集中されていなかった。このため日本艦隊も弩級巡洋戦艦群を中心とする艦隊を分派して、ボンベイ方面に向けていた。そして双方ともに潜水艦、飛行船、水上機、航空機、無線傍受による偵察を駆使していたため、互いの姿を逃すことはなかった。
 双方ともに最新鋭戦艦を多数投入していることから、慎重である反面自信を持っていた。両者の感情の違いは、ブリテン側が何としてもインド航路を守るというある種の悲壮感を持っていたのに対して、日本側はブリテンへの12年前の敗戦の復讐心と自分たちが攻勢の側に立っているし勝利を続けているという二つから来る戦意の高さにあった。
 この心理の違いは動きにも出て、日本側が積極的にブリテン艦隊に接近することで戦闘の火蓋が切って落とされる。

 通算で6度目となったアラビア海海戦は、それまでとの戦いに比べると砲撃開始の距離が非常に開いていた。日本側が距離1万5000(当時の最大射程2万2000)メートルで射撃開始し、すぐにもブリテン側が応じた。大戦が始まった頃は8000メートルが基本と考えられていたので、約二倍の距離に開いていた事になる。そうした変化を示すように、各戦艦のマストは大航海時代以上に高くそびえ立つようになっていた。中にはマスト上部に構造物を持ち、艦橋(ブリッジ)というより艦楼(タワー)と言える状態を持つ艦も出ていた。
 そして当時の戦艦は、上面からの被弾をあまり考慮していなかったため、特にブリテン側の戦艦、巡洋戦艦が上面からの砲塔への被弾で爆発沈没する事件が何度も起きるようになっていた。ドイツ系列の大型艦は、水平防御がブリテン艦艇より分厚く、さらに火薬の誘爆に気を遣っていたので同じ事態には至っていなかったが、上面からの被弾に弱いという点で基本的な違いはなかった。
 この海戦も同様であり、日本13隻、ブリテン10隻投入された弩級以上の戦艦、巡洋戦艦のうち、双方2隻が距離1万メートルに縮まるまでに脱落していた。別に砲塔や弾薬庫に被弾しなくても、艦の多くの面積を占める動力部、機関部に上面から被弾すると簡単に艦の速力を失っていた。
 戦闘自体は、終始日本側の優位で進んだ。理由は簡単で、単なる数と投射弾量の違い、さらに遠距離での命中率の差がもたらした結果だった。ブリテン側は数の不利を性能と火砲の威力で補おうとしたのだが、個艦性能でも両者の差はあまり無かった。
 しかもブリテン側は、超高速の巡洋戦艦があるとは言っても、それらは砲力に劣りしかも数が2隻では別個で積極的な別行動を取ることは難しかった。それでも優位な位置を占めようと機動するも、《レパルス》が瞬間的な集中射撃を浴びて短時間のうちに大火災を起こして脱落していた。
 そして14インチ砲弾、15インチ砲弾の応酬となった戦闘は、日本側が二手に分かれて動いていた事、複雑な艦隊運動、両者の接近と離脱によって1時間以上に渡って続けられた。
 戦闘途中から、不利になったブリテン側は戦線離脱を図ろうとしたが、日本艦隊の高速大型艦、巡洋艦以下の水雷戦隊が機敏な艦隊運動を見せて離脱を許さなかった。しかもこの段階で、ブリテン艦隊の退路を断つ形で、日本の増援艦隊が到着する。日本海軍が戦場に全ての大型艦を投じていると考えているブリテン側としては、心理的に奇襲攻撃となる新規艦隊の出現だった。
 増援に現れたのは、全く未知の超弩級巡洋戦艦4隻。その4隻の前衛に新型の軽巡洋艦2隻、大型駆逐艦8隻を従えたペンキの色も鮮やかな最新鋭の艦隊だった。
 超弩級巡洋戦艦は大和共和国から輸入されたもので、基準排水量2万9500トン、45口径14インチ連装砲塔を背負い式で4基8門、最高速力30ノットという非常に高性能だった。また大和共和国もドイツの技術的影響が強いため巡洋戦艦と言っても実質的には攻防走を備えた高速戦艦だった。日本で《金剛》《比叡》《榛名》《霧島》と命名された4隻は、新鋭艦に相応しい三脚楼を備えたモダンなスタイルを持ってもいた。
 随伴した軽巡洋艦は日本海軍が次世代艦として大戦に入ってから建造を開始した《長良型》軽巡洋艦の《長良》と《五十鈴》で、駆逐艦は最高速力38ノット、魚雷6線を有する大型の《峰風型》で固められていた。
 これら次世代艦で編成された艦隊は、今までよりもテンポの速い速度で進撃及び砲撃を実施しつつブリテン艦隊に急速に肉迫し、さらに損害を積み上げ陣形も乱されたブリテン艦隊は、後退から敗走にならざるを得なかった。

 結果として、ブリテン海軍は善戦したと言える結果を残した。
 日本側は2隻の戦艦を失い、3隻の戦艦が大破長期の修理を必要とする損害を受けた。ブリテン側は戦艦3隻、巡洋戦艦1隻を失い、4隻が大破した。
 そして、絶対数において勝る日本側には、無傷の艦、前線での簡単な修理で復帰できる弩級以上の大型艦が全体の半数以上残っていた。これに対してブリテン東洋艦隊の手に残された超弩級艦のは3隻だけで、とても艦隊行動が取れる数ではなかった。しかも日本海軍は、現地である程度の修理は可能だったが、ブリテンの現地の修理能力はまだあまり高まっていなかった。
 つまりブリテンは、インド洋西部、アラビア海の制海権を失ったと表現してよいだろう。
 その証拠と言える状況として、海戦から二週間後にペルシャ湾奥にあるバスラは20万を越える日本の上陸部隊により占領され、インド兵を中心にした現地ブリテン軍は短期間の戦闘で降伏を余儀なくされた。
 そしてここで戦略的変化が誕生する。
 インド洋西部では、日本が守る側に回った事だった。また、日本と他の同盟諸国が遂に直接握手することに成功した事も大きな変化だった。しかも日本軍は、大量の輸送船と艦艇を用いてペルシャ湾までの海路をすぐにも開くと共に、インド沿岸各地への攻撃、封鎖を強化し、アデンの封鎖までも開始した。また日本は、大量の鉄道機材を持ち込み、バスラからバグダッドを経由してトルコ本土へと至る鉄道(簡易路線)を、僅か4ヶ月で開通させてしまう。もともと鉄道建設の進んでいた地域で、トルコ、ドイツ、オーストリアなど各国が全面的に協力して行われた事だったが、日本軍によるブリテンの駆逐と日本からの大量の資材到着がなければ、短期間での達成は不可能だっただろう。

 そして1918年1月、日本本土からベルリンまでをつなげる同盟側によるユーラシアリングが遂に完成する。
 このルートはすぐにも活用されるようになり、セイロンからバスラまではブリテンが行った護送船団を採用することで安全度を高めた上で、ブリテンの執拗な妨害を排除しつつ、大量の物資がトルコ、オーストリア、そしてドイツへと流れ込んだ。
 主に流れたのは日本以外の同盟で不足する、生ゴム、錫などの資源で、次いであまり大規模な地上戦をしていない日本経済圏で余っていた食料、被服などが続々と送られた。主にトルコ軍には大量の武器弾薬も送られ、現地日本軍と共同で周辺の連合軍を攻撃した。ドイツやオーストリアでは、アラビア産のコーヒー豆が非常に喜ばれた。
 そして日本軍はトルコ領内を鉄道で移動し、ユーラシアリングが完成する頃には地中海に達していた。ペルシャ湾経由でトルコに入った日本兵達は、トルコ領内から地中海を臨んだのだ。
 日本及び同盟側の目的は、スエズを通行不能、できれば占領することにある。これでインド側のブリテン軍は根無し草になり、うまくいけばスエズ運河を通じて日本と欧州同盟諸国との連絡が可能になるからだ。
 一方の連合側としては、何から手を付けてよいやら、という状況に追いやられていた。
 それまでインド洋であまり活発でなかった日本軍が、続々とペルシャ湾経由で中東に注ぎ込まれており、その戦力は1918年春までに50万人に達すると見られていた。しかも日本からの兵器の供与を受けて、トルコ軍、ブルガリア軍が強化されていた。友軍が大量の物資と共にやって来たため、両軍のいや、ヨーロッパ中の同盟軍将兵の士気も大いに上がっていた。ドイツをはじめヨーロッパでは、同盟側の援軍が出現するなど誰も予想していなかったので、この時の同盟側の喜びは非常に大きかった。
 対して連合軍の士気は落ちた。
 物理的にも、セルビアのサロニカ戦線、中東のスエズ戦線、ペルシャ戦線の全てに対処できるだけの兵力を送り込むのは既に不可能だった。ブリテンは、アラビア海を通る日本の海上交通線の効率を落とすための通商破壊戦を行うのが精一杯だった。ブリテンのこれまでの帝国主義的強欲が祟り、また日本などによる慰撫工作もあって、アラブ方面での活動はほぼ不可能となっていた。地中海側は若干の例外だったが、それも精強な大軍が投じられてはあまり意味はなかった。
 そして、オリエント世界での劇的な変化は、戦争の終局へとつながっていく事になる。


フェイズ31「グレート・ウォー(7)」