■フェイズ32「ヴェルサイユ体制」

 「グレート・ウォー」が終わりを告げた。
 戦争は1917年内に終わりを告げたので、約3年4ヶ月程度戦われた事になる。そして年の明けた、1918年1月からパリ郊外のベルサイユ宮殿で講和会議が開催された。

 勝者は連合軍だが、敗者は同盟軍というよりもドイツ一国だった。しかし既に単独講和や休戦した国も会議に呼ばれていたので、数多くの国の代表が参集することになった。
 同盟国側としての敗戦国は、ドイツ、オーストリア=ハンガリー、オスマン朝トルコ、ブルガリア、清朝、そしてアメリカ合衆国になる。本来なら主要敗戦国として日本が加わるのだが、日本は同盟国の中で一番早く脱落し、その後連合軍として血反吐をはきつつ戦った。しかも日本の場合は、同盟国として戦った期間よりも連合国として戦った期間の方が長かった。故にこの会議では、勝者の側に座ることを許されていた。そして実質的に敗戦国として裁かれるのは、最後まで抵抗したドイツ一国だった。
 トルコ、オーストリア共に事実上国家が崩壊し、日本、アメリカ、清朝は先に講和し、日本に至ってはその後連合軍となっているからでもある。
 そして勝者となる連合国側としての戦勝国だが、ブリテン、フランス、ロシア、イタリア、ベルギー、セルビア、モンテネグロ、ルーマニア、ポルトガル、大和、アメリカ連合国(南部)、そしてアジアでは日本が加わる。しかし、革命が進展中のロシアは正統な政府が存在しないとして会議に呼ばれず、各国の自治領や保護国扱いの地域が代表を送り込んでいても発言権はなかった。
 ヨーロッパに大軍を送り込んだオーストラリア(濠州)、ニュージーランド(新海)も、カナダ同様に国家としてはブリテンの一部として考えられたため、傍聴こそ許されるもオブザーバーの地位に甘んじた。
 この会議で最も微妙な立場なのは日本で、ドイツ代表の一部からも非公式発言として「裏切り者」などの罵声を浴びせられている。一方の連合軍各国の日本に対する目は、比較的同情的だった。西部戦線で死に物狂いで戦い、そして勝利に貢献したことには一定の評価があった。ブリテンやフランスにとっては、敵国というよりも助けられた友軍、戦友としての印象の方が強かった。大和や濠州など日系地域との関係は少し微妙だったが、会議における日本代表団の態度の潔さが全体の空気を和らげていた。
 日本の全権代表は、会議参加者や報道関係者から「無言の哲人」と揶揄されたように、自らの事については殆ど語ることはなかった。自らの犠牲を誇張したり、戦勝国として賠償を求める姿勢も、日本の名誉を守るという以外では無かった。他国からの質問にも必要最小限の応答しかしなかった。無論だが、ドイツに対して何かを言う事も無かった。
 しかも日本側は、会議前に自ら戦勝国としての賠償は全て辞退する旨を関係各国に改めて伝えていた。
 そして諸外国は、この講和会議を隠居した聖人のごとく過ごすことを決めたような日本の事ばかり相手にしているわけにはいかなかった。日本としては、最後の嵐が過ぎ去るまで頭を低くしておこうという態度だったと取れなくもないだろう。

 戦勝国となった国々の最大の問題は、ドイツからいくらむしり取れるかだった。そしてドイツは、実に980億マルクという天文学的な賠償を課せられた。他にも全ての海外植民地と海外利権を失い、総人口の13%、本土面積の9%の失った。また軍備も一方的で大幅な制限を課せられた。
 そしてドイツが失った領土や利権のうち、朝鮮半島だけが日本の管轄へと投げるように渡された。十年ほど前まで日本の利権だったし、他の国は面倒見る力もなかったからだ。しかし日本代表は、本国との協議の末に朝鮮王国を保護国から主権国家へとする事を決め、これを国際社会も了承した。ただし、朝鮮王国内の経済的利権のかなりは再び日本のものとなったので、額面通りの独立ではない。戦争で疲弊した日本としては、余計な荷物を背負いたくないというだけの行為でしかなかった。
 そして大戦中の日本と連合国の講和はそのまま有効とされ、日本は今まで有していた殆ど全ての植民地を喪失する事が改めて確認された。

 そしてこの時の講和会議以後も、ヨーロッパを中心に世界各地で様々な国際会議が開催され、戦後の枠組みが決められていく。多くの会議は、新たな国境線の策定と新独立国家の承認だったが、パリ講和会議の席上でアメリカ南部連合大統領のウィルソンの提案が、世界を大きく揺るがすことになる。
 南部連合は戦勝国の一角ではあったが、国家としては列強と言えるほどの国力は無かった。しかしウィルソンは、自らの理想主義的信条に従い、「平和に対する提言」を実施。提言に際しては、事前に主要国との会談や根回しを行ったため、原文はもっと革新的かつ理想的だったと言われているが、公表された文書だけでも十分な衝撃力を持っていた。
 「提言」の中で最大級のものは、「全世界規模の国際調停機関」の設立だった。今回に限らず、戦争の原因が諸国間の対立や軋轢にあるので、戦争を回避するべく事前に話し合いで問題を解決しようという組織を、全世界規模で作り出そうというものだった。
 組織名は仮称で「国家連盟(リーグ・ネイション)=国連」とされたが、国際組織設立に各国は乗り気だった。
 そして話しはトントン拍子で進んだのだが、問題点がないわけではなかった。一つには、敗戦国であるドイツ、混乱の続くロシア(ソ連)を加えることが見送られた事。もう一つが、「人種平等の原則」を連盟の理念に加えるかだった。
 「人種平等」に関しては多くの国が一文を書き加えるぐらい構わないと考えていたが、ウィルソンの母国南部連合が強く反対し、これに隣国アメリカも同調。ブリテンも例外地域を認めるならばと、付帯条件を付けてきた。
 また国家理念に反するとして、アメリカ、南部連合は連盟への加盟そのものをそれぞれの議会が否決。
 アメリカの二国が連盟に加わらなかったことで「人種平等」の一文は盛り込まれることになったが、盛り込まれたという以上ではなかった。盛り込まれたのも、環太平洋一帯に存在する日系国家群の存在がなければ、どうなっていたかは分からなかったと言われている。
 国際連盟には、大きな権限を与えられた常任理事国が設置され、これにブリテン、フランス、イタリア、大和が任命された。日本も候補にはなったが、途中まで同盟側だったことを表向きの理由として選ばれることはなかった。欧州諸国としては、これ以上有色人種、日本人に大きな顔をさせたくなかったのが本当の理由だと言われることが多い。

 そして国連が設立して世界は平和に向けて歩みだしたが、混乱は世界中で続いていた。最も大きな混乱は、ロシアの大地で続いていた。
 1917年11月に共産主義政権が成立したロシアでは、その後「赤軍」と言われる革命側と、「白軍」と呼ばれる反革命側の内乱が続いていた。加えて、ロシアに併合されていた少数民族の独立運動が各地で起きており、さらに共産主義革命という危険で革新的な革命の成功を嫌う諸外国が軍の派遣を含めた干渉を実施し、グレート・ウォーが終わった頃のロシアは戦乱終息の出口が見えない状態だった。
 グレート・ウォーが終わるが早いか、各国は干渉を開始した。ヨーロッパ各国は、ドイツや旧オーストリアを素通りしてまでして干渉軍を派遣して、「赤軍」との戦闘に及んだ。しかし諸外国の干渉が、ロシア人の間に一定の団結を呼び込んでしまう。革命戦争が、祖国防衛戦争へと一部変化してしまったのだ。そうした中でも、周辺少数民族の動きはぶれず、自らの独立に向けての動きを加速させた。そうしてヨーロッパではバルト海沿岸のフィンランド、エストニア、ラトビア、リトアニアが独立を勝ち取った。ポーランドは、単に独立を勝ち取るだけでなく、1920年から21年にかけて「赤軍」との間に戦争を実施し、多くの領土すら獲得に成功する。コーカサスや中央アジアでは少数民族の独立はうまく行かなかったが、ヨーロッパよりも過激な地域となっていたのが、旧日本領の東シベリア、日本名北海州だった。
 先にも記した通り、北海州では日本人と現地帝国系ロシア人達によって「北海共和国」が独立を宣言。これを日本、大和などが支援し、現地に革命勢力が皆無のため、強固な独立地域となっていた。しかし有色人種の独立を嫌う赤軍(ロシア人)は、独立の阻止を目指して北海共和国への攻撃を強化し、シベリア鉄道の限られた地域を中心にして激しい戦闘が繰り広げられることになる。
 しかし、極寒の地で暮らしていた日本人達の前に、労働者による俄仕立ての軍隊でしかない赤軍は敗退を重ねた。しかも北海側には、反革命派が当面の拠点、反抗のための橋頭堡としてかなりの数加わっており、その中にはシベリアに送り込まれていたコサックなど有力な軍事力を持つ場合も多かった。しかも大戦が終わると、大和が影響力拡大を狙って無尽蔵に武器や物資を援助するため、戦闘は北海共和国の圧倒的優位で進んだ。義勇兵も各地からやって来て、中には日本や大和の軍籍を外して入り込んだ、実質的な軍事顧問が多数含まれていたりもした。主に援助した日本と大和との間にわだかまりが無いわけではないが、日本人社会の自立と、白人から自分たちの土地を取り戻すという点でブレはなく、環太平洋各地からも多くの日本人義勇兵が北海共和国に駆けつけている。
 戦闘は1918年春から継続的に続いたが、赤軍は敗北を重ねるばかりで、ソ連指導部が北海より正確には太平洋の出口を確保することに固執したため、半ば無意味に続くことになる。
 だが、ヨーロッパ方面で赤軍がポーランドに惨敗を喫すると、ソ連政府は真っ青になった。シベリアでの戦闘も赤軍が圧倒的という以上に不利で、現地の士気は崩壊寸前だった。このままでは北海共和国に西シベリアまで攻め込まれるのではないかと真剣に考えられた。
 結局、1921年秋に事実上の停戦と講和が成立。ロシア(ソ連)側は、旧日本領北海州を北海共和国の領土として承認し、北海共和国にとっての独立戦争は終わりを告げる。
 なお、当時の北海共和国の総人口は、全ての人種を合わせて約400万人程度。国土は広大だが殆どが不毛のタイガかツンドラで、他国の助けが無ければ共産主義化したロシアに太刀打ちする事は極めて難しかった。このため、日本と大和、特に大和の影響力が年々増していく事になる。
 本来なら、シベリアでの戦い、共産主義革命を阻止する戦いには、日本、大和共にもっと干渉したかった。日本人、日系人の勢力圏を押し広げる千載一遇の機会だったからだ。しかしその頃、清朝でも大きな変化と混乱が始まっていたため、そちらに力を注がねばならなくなり、北海の独立で満足しなければならなかった。

 中華地域には、17世紀から清朝または大清国という近世的国家が繁栄していた。版図は数千年の歴史を持つ中華世界史上最大規模に広がり、19世紀に入るまでは世界最大規模の大国として東アジアに君臨していた。
 しかし19世紀中頃に、相次いでヨーロッパ列強の干渉を受けて急速に衰退。だが為政者達は衰退の根本的原因を知ることなくさらに半世紀を無駄に過ごし、グレート・ウォーでは白人への怒りをそのままぶつけるように同盟側で参戦し、首都を奪われる形での降伏を余儀なくされた。
 大清国は1915年6月に連合軍に降伏し、半世紀前に奪われた利権など冗談と思えるほど、多くの利権を戦勝国に奪われてしまった。賠償金10億両の支払いも、国家財政が貧弱な大清国が短期間で支払える金額ではなかった。
 しかも中華地域の住民の感情として、主に戦って破れたのが裏切り者の隣国日本、つまり東洋の国家及び民族と言う点が大きな衝撃となった。
 加えて、ロシア利権の万里の長城以北とされた地域では、ロシアが戦争に必要とする物資を根こそぎ持ち出し、反抗すると容赦なく武力を用いたため、満州、蒙古、東トルキスタンの混乱は急速に拡大した。ロシア人の方は、1917年3月以後ロシア人が急速に姿を消したため事なきを得たが、混乱が広がりすぎて統治能力が無くなってしまう。このため蒙古、東トルキスタンでは、事実上の独立運動が起きていた。裏では日本人達が武器や物資を支援していると言われているが、混乱する清朝に日本人に対して何かをする力はなかった。
 それでも停戦後は、憲法発布の約束、軍の近代化、科挙・軍機処の廃止による官僚制度の近代化などを行おうとする。だが朝廷内の強い反発などを原因として、近代改革は遅々として進まなかった。
 そして何とか大戦が終わりパリ講和会議への出席を果たすも、先の講和会議で大清国が失った利権は、ロシアに対するもの以外は何も取り戻せなかった。朝鮮半島が中華世界に断りもなく完全独立することも衝撃となった。かくしてパリ講和会議は二度目の衝撃となり、中華地域では各地で大規模な暴動が発生。列強に屈する大清国は最早不要で、漢族による民族国家を樹立するべきだという運動に発展していった。
 まだ12才の皇帝溥儀に何かをする力はなく、皇帝に代わって中央で政治を行える者もなく、暴動を扇動する地方の軍閥、有力者が次なる覇権を狙って動き始める。とはいえ、この頃の中華地域には近代国家を作ろうという勢力は弱かった。海外に留学または亡命した人々による組織は存在したが、中華地域内では武力を持たないため、大きな勢力を形成できないでいた。このため当面の民の支持が欲しい有力者と民主主義革命組織が結託し、まずは漢族の国家をうち立てるために動き始める。
 これ以後中華地域の主導権を握る国民党の正式な設立は革命後の事だったが、この頃既にほぼ形を整えていた。

 そして1919年5月、遂に最初の革命が発生する。
 溥儀は退位して清朝は滅亡。民主主義指導者にして国民党党首の孫文が臨時大統領という、国家元首の座に就いた。国号は「中華民国」とされ、清朝が統治した全ての領域を引き継ぐことも併せて表明された。
 しかし、国政を国民党に握られることを嫌った各地の軍閥が反発。特に孫文が華南の出身のため、華北地域からの反発が強かった。しかも北京の紫禁城が引き続き溥儀の居城としてのみ認められたため、首都は清朝時代に副首都でもあった南京に置かれたが、これも華北の人々の反発を強めた。
 そして必然的に、続けざまに二度目の革命が勃発する。
 二度目の革命は、満州、華北を拠点とする軍閥を率いる張作霖によって起こされ、武力を持たない孫文らは国外逃亡を余儀なくされる。これを第二革命という。
 しかし張作霖は、一部軍閥を除いて満州と華北でしか支持を得ることが出来なかった。ナショナリズムと共にデモクラシーにも目覚め始めた人々に、グレート・ウォーを経た列強も今更大時代的な独裁者の出現を歓迎しなかった。隣国日本も、孫文らの亡命を受け入れるばかりか、現状の中華民国を認めることは難しいと公式声明を出している。
 しかし東シベリア(北海州)での苦戦が続く共産主義ロシアが、張作霖を裏から支援。ロシア人はモンゴル、東トルキスタンの利権を得ることの代償として、上海で作られたばかりの非力な中華共産党ではなく、実力者張作霖の支持に出たのだ。なお両者の取り決めでは、中華地域の安定化後に、ロシア、中華共同で東シベリアの日本人と反革命分子を討伐する事になっていた。
 このため北海共和国は、沿海州、黒竜江の国境線を警戒しなければならず、赤いロシア人との戦いに妥協しなくてはならなくなっていた。この点では、共産主義ロシアの目論見は成功したといえ、今度ロシア人は旧清朝領域となる中華外郭地域の取り込みに戦略を移すようになる。要するに、グレート・ウォーでロシアが得た利権を「取り戻そう」としたのだ。そして漢族の支配から逃れたいというモンゴル、東トルキスタンの一定の支持を取り付け、共産主義と共にロシアの浸透が深まることになる。
 一方、中華中央での混乱は、1925年に孫文が死去するとその後蒋介石が国民党をまとめ上げ、一方では共産党が少しずつ勢力を拡大し、これに華北の張作霖を始めとする保守的な勢力による対立が強まり、より一層混沌とした状況を呈するようになる。このため諸外国は、それぞれの勢力を支援したり武器を売ることに重点を移し、武器市場であるだけに列強は中華の混乱が続くことを望み、その結果中華の受ける苦しみは長引く事になる。

 他の東アジア地域でも、状況が以前とは大きく変化していた。
 日本は単独では完全に衰退して元気を無くしていたが、それは帝国主義的という点であり、「日本民族の祖」と言う点で政治的な巻き返しの動きは盛んになっていた。これは、日本が資源や食料を輸入しなければ国が立ち行かないからに他無く、そして入手先を他の日系国家に求めたからだ。しかしその手法は今までのような帝国主義的ではなく、双務的、自由貿易的な方向に向いていた。そして旧宗主国があくまで対等な関係を求めたことに、環太平洋各地の日系国家も好意的で、日系諸国による緩やかな連合とでも呼ぶべき関係が年々強まっていくことになる。この傾向は、旧日本領を新たに植民地としていたブリテン、フランスが良い顔をしなかったが、世界大戦を経た後では遠く東アジア・太平洋に強い勢力を伸ばすことは不可能だった。
 しかも環太平洋の日系諸国の事実上の盟主は、世界最大の国力と経済力を持つに至った大和共和国であり、日本、さらには濠州も十分に列強としての力を持っていた。だが、有色人種と言う点でヨーロッパ列強の反発が、主に自らの植民地統治の為の不都合のため吹き出すようになる。
 しかし食料のない日本、何もかも足りない北海、国力が貧弱な新海、まだ一等国として多くのものが足りない濠州、多くの市場を欲するようになっていた大和、というそれぞれの思惑もあったため、環太平洋での日本人による緩やかな連合体の形成は着実に進んだ。そしてここに、そして白人国家から単独で自らを守れないハワイなどの有色人種による小国が加わり、1921年に「環太平洋経済共同体(リムパック・エコノミック・コミュニティー=RPCC)」が結成される。
 協商や同盟、条約ではない新たな組織は、あくまで平和的な経済流通の促進と文化交流を図るための組織とされた。本部は、当初は日本か大和のどこかの大都市が妥当だと考えられたが、それぞれの国がいらぬ対立を嫌った事、互いに歩み寄りを見せた事から、それぞれの中間点となるハワイ王国の都ホノルルが選ばれた。そしてこの組織の設立と共に、国連委任と言う形で濠州への与えられたパプア島、東パプア諸島を、順次独立させることで各国が合意を見ることになる。これは日本と濠州の今後の対立やわだかまりを解消するために行われた事だったが、組織の方向性の一つを示したとして、内外で高い評価を得ることになる。
 なお本部の置かれたハワイ王国は、日本による進出と移民によって半ば日系国家であり、言語や通貨、単位の多くが日本基準となっているので、準日系国家でもあった。
 そして、数百年間日本の影響下にあったフィリピン、スンダ地域では、日系移民が多い事、ブリテン、フランスが入るまでは言語や通貨、単位の多くが日本基準となっていた事などから、徐々にブリテン、フランスへの不満が高まることになる。

 日系国家の再編成を見た欧州諸国は、結局戦争で最も利益を得たのは日本人達だったのではないかと考えるようになっていた。日本人達の故郷である日本(本国)こそ大きな退勢に見舞われたが、それは同時に帝国主義的観点からは無害な存在になったことを意味している。だからこそ、環太平洋地域に散らばっていった他の地域の日本人移民の子孫達も日本の呼びかけに応え、そして団結の道へと自ら足を踏み入れたのではないかと。
 無論、日本人のテリトリーは、一朝一夕にできたものではない。
 日本人達が、17世紀以後長らく行ってきた活発な海外活動によって、徐々に築かれていったものだった。大航海時代において、東アジア、環太平洋地域は長らくヨーロピアンにとって辺境であり続け、そこに日本人が浸透して、その後も文明競争においてヨーロピアンと競いうる努力と発展を続けた結果だった。
 日本人が果たした役割は、本来なら北東アジアもしくは東アジア全体、もしくは中華帝国が担うものだったかもしれない。だが中華的、中世的停滞にあった東アジアで唯一日本人だけが、欲望の赴くまま外へと膨張し、利便性を求めて産業の革新を進め、そしてよりよい生活と富を求めて遠方に移民していった。こうした点から、日本人は東アジアで最も「俗」と「欲」にまみれた民族だと言われることも多い。
 しかしこの結果、日本人単独だけで一つの文明圏を作り上げるまでに勢力を広げることができた。こうした例はロシア人、スペイン人などごく僅かな民族に見られるだけで、幸運かつ希有な例と見ることが出来るだろう。通常、一つの民族が一つの文明圏作り出すまで広がって多様化する事は、文明の進歩の可能性の上では希な事だからだ。
 そしてグレート・ウォーを経て絶頂から一転して衰退へと足を踏み入れたヨーロッパ諸国に、今後日本人に大きな圧力を与えることは出来ない。恐らく日本人の社会は、今後拡大こそすれ縮小することはないだろう。グレート・ウォーが終わった時点ですら、既に東南アジア、中華地域の一部で日本の文化、文明的な拡大もしくは巻き返しは進んでいる。

 ただし、日本がこれほど強大な帝国(あえて帝国という表現を用いる)を作り上げたのに、その祖となる英雄はほとんど見ることが出来ない。
 日本人の多くは、真っ先に豊臣政権の祖となる豊臣秀吉を挙げるが、彼は巣作りしただけで雛を育てたとは言い難い。まともな膨張戦争、征服戦争も行っていない。大坂御所と言われた中央政府を作り上げたのは有力諸侯の合従連合であり、大商人達が平和と安定そして膨張を求めたため支えたに過ぎなかった。日本の拡大には、アレキサンダーもシーザーもナポレオンもいなかった。日本人達は、300年間かけて欲望の赴くままに地道に広がっていっただけだった。そして大坂御所は、有力者の合従連合であるが故に必要なくなると日本人に捨て去られ、日本人達は呆気なく国民国家へと自らの体制を移行させた。
 19世紀初頭に成立した国民国家は天皇という古代の君主を名目上の戴くも、それなりに優れた指導者はいたが突出した人物はほぼ皆無だった。民意のままに膨張、発展、拡大、そして一時の縮小とその後躍進を経験している。
 グレート・ウォーでも、それぞれの国や地域は勝手に戦っただけで、実際日本と大和は敵として戦った。戦後の話し合いも帝国主義的な覇権主義ではなく、平和主義、王道主義によって新たな道が開かれた。
 そして全てに言えることは、個々の日本人達が豊かな生活を求めた結果として、その「よりしろ」となった日本という民族、国家、文明圏が発展していったと言えるのではないだろうか。
 市民無き民意による巨大民族集団、それが日本人による国家、文明圏を作り上げたのだ。
 日本人達の活動と躍進は20世紀も続く事になるが、今回の話しをここで終えるにあたり、これを一つの結論としたい。



あとがきのようなもの