■フェイズ32「ベルサイユ講和会議」

 世界で最初で、恐らく誰もが最後にしたい「世界大戦」は、予想外と言うべきか、総合的な国力で勝る連合側が、同盟側に敗北する形で幕を閉じた。ただし、最後に参戦しただけの大和共和国の事を最初から考えれば同盟側が有利となるので、戦略的な勝者は最初から決まっていたと言われることもある。
 とにかく、パリ陥落によって世界大戦は終わりを告げ、1918年8月からドイツ軍占領下のパリ郊外のベルサイユ宮殿で講和会議が開催された。ベルサイユ宮殿での、何度目かの講和会議であり国際会議の始まりだった。
 戦勝国は、同盟側のドイツ、日本、オーストリア=ハンガリー、オスマン朝トルコ、ブルガリア、朝鮮、そして大和の8カ国になる。朝鮮は戦争協力により宗主国のドイツからの独立を約束されていたので、会議参加が認められた。日本が奪い返した形の濠州、新海は、日本の一部として考えられたため、日本側が代表団を連れて来るもオブザーバーの地位に甘んじた。
 敗戦国の側に立たされたのは、戦勝国より多い数となった。
 ブリテン、フランス、ロシア、イタリア、ベルギー、セルビア、モンテネグロ、ルーマニア、ポルトガル、アメリカ連合国(南部)、自治領カナダ、自治領南アフリカ、そしてアジアでは清朝が加わって13カ国になる。ロシアや清朝など、既に降伏したり単独講和を結んでいた国も呼ばれていた。
 また、戦費や物資の面で戦争に深く関わった、アメリカ合衆国とイスパニア、ネーデルランドなどヨーロッパの中立国各国も、オブザーバーとして招かれていた。

 交渉の争点は、当然と言うべきか賠償にあった。戦争に勝った側が負けた側から何らかの倍賞を取るのが、戦争のならいだったからだ。
 今回の戦争は「大戦」と言われるだけに、未曾有の規模だった。戦費だけでも、大和の通貨「円」で同盟側800億に対して連合側は1000億に達していた。大和の円を基準としたのは、停戦時点での経済力で大和共和国が世界最大の国となっていたからであり、純金の保有量も世界一になっていたからだった。大和は参戦しただけで実質ほとんど何もしなかったにも関わらず主要参戦国と考えられたのも、世界最大規模となった巨大な経済力あればこそだった。
 また、中立的立場に立つオブザーバーとしては実質的な敗者とも言われたアメリカ合衆国も呼ばれており、同じように多数の中立国も参加し、会議を単なる講和会議で終わらせない工夫が行われていた。
 あまりにも巨大で凄惨だった戦争に対する反省が、戦争に参加した国々にそうさせたのだった。
 なおこれまでの慣例だと、負けた側は相手側の戦費を賠償金として支払った上で、占領された場所などの領土割譲や権益譲渡に応じる事になる。しかしブリテンは、あくまで停戦を提案したのであって敗北したのではないと強弁を振るった。しかし強弁は強弁でしかなく、三国協商国を中心とした連合側が敗者であることに違いはなかった。
 しかし800億もの賠償金を請求したところで、連合側に支払い能力がないのは間違いなかった。既に、国内の全ての財産を散財した上で、外債だけで200億円近くを積み上げているのだ。そんな金は国を何度も破産させないと出てこないもので、物理的に不可能な金額だった。だが同盟側も状況はほぼ同じで、外債だけで100億円の借金を積み上げていた。こうした借金は、ヨーロッパと南北アメリカの中立国も買い込んでいたが、一番買い込んでいたのは経済力のある大和共和国だった。
 大和共和国が、連合、同盟双方から買い込んだ国債の総額は実に150億に達しており、ダントツで世界最大の債権国になっていた。そして戦争中は最も信用度の高い「金(黄金)」で売買や取引を行ったため、太平洋側にある大和中央銀行の金庫には莫大な黄金が積み上げられることになった。あまりの量に、新たに厳重に守られた金庫を備えた建物を新たに建設したほどだった。

 そして講和会議に際して大和共和国は、国を問わず債権の利子を大幅に緩和したり返済期間を大幅に猶予する提案をほぼ最初から行っており、戦勝国に対しても可能な限り穏便な講和条件の提示を提案していた。ベルギーのような戦災の酷い小国などの場合によっては、低利借款に応じる準備を声明したり、一部債権を放棄してもよいという言葉も添えられていた。
 この提案は事前に関係各国で協議され、南北アメリカやヨーロッパの中立各国も連名しており、未来に大きな禍根を残すような賠償請求をしないような努力が最初から行われていた。支払い能力を大きく超えるような賠償は、弊害以外生まないのだと。
 そして中立を貫いた国々にとっては、借金の利子を強欲に貰いすぎることよりも、平和の維持の方が重要だった。その方が、長期的には利益になる可能性が高いからだ。大和は最後に参戦したが、それは利益を得るためではなく破滅的様相を示していた戦争を政治的に終わらせるためだと言えた。
 そして戦勝国側も、貰えるか分からないものよりも、今貰えるもので埋め合わせをした方が得であると考えた。
 このため賠償金は、当初から現物以外では低額もしくは賠償金なしという方向で話しが進んだ。その代わり同盟各国が求めたのが、領土賠償または領土割譲、世界各地の利権譲渡だった。またドイツと日本は、先に単独講和を結んだ国々との間に成立していた条件の再度の確定も求めた。
 つまり連合各国は、国が何度も破産する金額となる賠償金の代わりに、今後の覇権を失うほどの領土割譲を受け入れなくてはならなかった。賠償を支払う側となる連合側では、ブリテンが敗北したわけではなく停戦しただけだと強気の論陣を張ったが、交渉のための強気でしか無かった。
 そしてブリテンとフランスが、主にアフリカの植民地の切り売りと、日本への「領土返還」で応じようとしたため、話しは領土賠償中心で進むことになる。
 広大な領土を既に失っているロシアは強く反発したが、いまだ内乱状態の続くケレンスキー政権の主張の多くは退けられ、その代わり各地域の自主独立で手打ちにすることがドイツ、日本、トルコにオブザーバーと他の敗戦国から提案される。戦勝国側も、ロシアの少数民族問題を自分たちが抱えることよりも、自らの影響力の強い衛星国を作ることで同意した。どうせロシアから独立する国は反ロシアであることが半ば確実なので、この場合ロシアから自立させることの方が利益が大きいと判断されたのだ。
 この結果、旧ロシア帝国からロシアを含めて15の共和国や王国、公国が成立し、一部の領土をそれぞれの戦勝国に割譲する事になった。この中で一番多くの領土割譲を受けたのは、旧領土の返還に合わせる形でバイカル湖辺りの経度までのシベリアの僻地の割譲を受けた日本で、日本は先の戦争の屈辱を完全に晴らすことが出来た。
 また日本とブリテンの間には、大洋州全土の返還とその後の独立承認が行われた。濠州、新海の独立は日本が持ちかけていた形だったこともあり、数年間領土にしただけで足場すらまともに築けていなかったブリテンからは大きな異論も出なかった。
 そうした上で、ドイツはアフリカの各植民地を返還された上で、隣接する多くの植民地の割譲を受ける事になる。この際に、かつての係争地だったモロッコもフランスからドイツに割譲され、ブリテンから南部のローデンシア、ベルギーからコンゴ、ポルトガルからアンゴラ、モザンビークを割譲したことを合わせてアフリカ南部をほぼ全て領有することになった。以後、アフリカ南部の多くの地域は、ドイツ領アフリカ連邦となる。
 日本はアフリカ植民地をもらえなかった代わりに、ブリテンから日本軍占領下のマレーとインド南端のセイロン島の割譲を受けた。加えて、ペルシャ湾のクウェートと呼ばれる地区の割譲を受けた。これは日本がアラブに眠る新たな天然資源獲得を確保したものだが、同時にアジアの安定に日本が義務と責任を求められた結果でもあった。
 フランスとの間には、まともな戦闘が無かったが無賠償ともいかないため、安価でインドシナが売却の形で譲渡される事になった。これで西欧諸国は、東アジアから叩き出される事となった。
 また中欧のオーストリアは、主に戦ったイタリアなどからアフリカの植民地を割譲され、ロシアでの利権獲得などと合わせて辛うじて国家としての体面を施した。
 だが、ブリテンとフランス、特にブリテンはねばり強い交渉を続け、エジプト、インド本土は保持した。日本も、インド洋には興味を示したがインド亜大陸自体には拘らなかった。今の自分たちの限界を超えた場所な事を理解してからだ。フランスはアジアへの展開能力をほぼ失ったが、西アフリカを中心に自らの植民地帝国は何とか保持することができた。全ての海外植民地を失ったのは、イタリアとベルギーであり、両国は以後長い低迷時代を経験する事になる。ベルギーでは、こんな事ならドイツに早々に降伏しておくのだったという議論が長らくされたほどだった。
 一方、ヨーロッパのそれぞれ本国の体制で変化があったのは、戦勝国のオーストリアと敗戦国のセルビアだった。オーストリアは、それまでも議論されていた連邦国家体制への移行が決定し、立憲君主制の連邦国家に再編成する動きが進んだ。一方セルビアは、南部のマケドニアとコソボ地域が独立し、国家自体も王政から共和制へと変更させられた。一部の地域は、領土も割譲された。さらに「戦争を引き起こした責任」を問われ、民族主義者など多くの人々が処罰された。戦争中の多数の死者もあり、以後長らくドイツ、オーストリアの厳しい監視を受けることになる。要するに、スケープゴート(生け贄)にされたと言えるだろう。
 金銭的な賠償だけで済んだ国はアメリカ連合国(南部)のみだが、限定された金額だったにも関わらず南部の戦後経済を大きく悪化させることになった。
 そしてこれで賠償決まり、講和は締結される運びとなる。

 しかし単なる国家間のやり取りだけでは、既に問題解決を図るのが難しくなっていた。オーストリアの連合国家化はまだマシな方で、トルコでは各地のアラブ勢力の独立気運が大きく盛り上がり、周辺部を切り離した筈のロシアでは政治対立による内乱状態が長らく続いた。一番最初に戦争を止めた筈の清朝では、支配層の満州族と主な民族の漢族との間の対立が先鋭化して、敗戦を機会とした立憲君主国家への道のりを大きく阻害していた。
 列強の有する植民地でも、ブリテン、日本を中心に戦争中にある程度の自給を強いられ、それが可能だった地域での自立心も高まっていた。日本の濠州連邦共和国、新海共和国の独立には、そうした流れも存在していた。インドでは、有色人種である日本人達の活躍によって「光」が見えたこともあって、ブリテンとの間で自治や独立を巡る対立が深まった。
 また、主戦場となって国土が大きく荒廃したベルギー、フランスに対しては、国際基金を設けて復興資金が援助もしくは借款されることになった。そしてこの基金は、その後他の戦場となった地域でも一部適用される事になる。
 そして各列強は、莫大な戦費を償還するためにも可能な限りの体制維持を必要としており、強引に旧来の枠組みを維持しようとしたこの時の講和会議を「第二次ウィーン体制」や「ベルサイユ体制」と呼ぶ事もある。

 一方、ベルサイユ会議は、単なる講和会議ではなかった。
 あまりにも凄惨だった戦争に対する反省として、今後大戦争を引き起こさないための国際的枠組み作り、つまり全世界規模での集団安全保障体制作りが行われる事になった。また一方では、行き過ぎた軍備拡張を抑制する試みも行われた。その中で「連合国(The Allies)」ではなく、もっと広義な意味と役割を持たせる組織として「国家連合(United Nations)」の設立が行われることになった。
 「国家連合」には、出来る限り全ての国々が参加することが望まれ、戦争によらない国際問題解決の手段とされた。この組織には、主に事務局、理事会、常設国際司法裁判所、国際労働機関が置かれ、他にも様々な国際機関が置かれることになった。多くの事は戦争中に北アメリカ大陸の水面下で議論され、主に大和共和国が話しを進めていた事で、ベルサイユ会議の各ロビーで議論が交わされた。このため、話しは比較的速やかに進んだ。それだけ列強と呼ばれる国々が疲弊し、戦争に飽きていたからだ。
 組織に軍事的権限や執行組織はなかったが、理事会が決議した場合には国家連合の名の下での国際的な軍事的制裁が可能な権限も与えられており、非常に大きな権限を持つ組織となった。一方では、大国による組織という面は拭えず、理事会の常任理事国には戦争参加国のブリテン、ドイツ、フランス、日本、オーストリア、イタリア、さらには一躍世界最大の経済大国となった大和が選ばれ、通常一票の投票権についても二票分与えられた。ロシアは社会主義化して混乱も続いているため、トルコはもはや大国では無くなっていたので、理事国には選ばれなかった。アメリカ合衆国は、自ら参加を辞退していた。
 しかも国家連合に加盟したのは、ヨーロッパと両アメリカ大陸、旧ロシア帝国領だった国々がほとんど全てで、他の地域、つまり植民地地域からの参加はほとんどなかった。
 また国家体制の刷新が各国で進んだと言っても、王室が国から追い出された国は限られていた。依然混迷の続くロシアですら、ロシア政府が幽閉状態にあったロマノフ王家をスウェーデンに亡命させる事で解決していた。ロシア国内にはロマノフ王家や貴族の処刑を求める声が急進派を中心に多かったが、ヨーロッパ外交を気にしたロシア政府により王家は辛うじて保護され続け、亡命という解決が図られたのだ。

 そして続いてジュネーブで、世界最初の軍備縮小会議についての話し合いが行われた。これも大和が提案したことで、アメリカ、南部が最初から連名してベルサイユ会議で提案したことだった。要するに、世界大戦よりは北米での戦争を避けるのが、北米三国の最初の目的だったのだ。それに講和会議で武器に関する制限があった方がよいとする意見が多かった為、講和会議とは別の国際会議を開催する運びとなったものだった。
 縮小する分野は全般であることが当初望まれたが、陸上戦力については判断が難しいため、毒ガスなど一部兵器の製造及び使用禁止及び自主的保有宣言の義務だけに止まった。そして最も分かりやすく戦争原因の一つともなった海軍主力艦の縮小について、話し合いが持たれることになる。いわゆる「ジュネーブ海軍軍縮会議」である。
 会議には、有力な主力艦を多数有する国々が集められた。ブリテン、日本、ドイツ、フランス、ロシア、オーストリア、イタリア、さらに提案国の北米の大和、アメリカ、南部であり、他有力な戦艦を1隻でも有する国もオブザーバーとしての参加を求められていた。
 会議の争点は、保有数か保有量のどちらかもしくは双方で制限を設けるかという点と、保有量の基準、各国の保有比率、そして個艦性能の上下限となった。
 日本、ドイツは、ブリテンを加えてそれぞれ同率として、これを基準に現状からの比率を排水量で決めればよいと提案した。ブリテンはフランスなどを抱き込んで、ブリテン100%に対して、日本、ドイツは80%程度が基準になるべきだとした。
 日本、ドイツとブリテンの交渉が争点となったが、他の国は正直建艦競争をする財力がないかする気がないので、三国の基準が少しでも低く設定されることを期待した。
 結局、50万トン、20隻を一応の基準として、ブリテン100%に対して、日本、ドイツは90%で妥協し、大和が60%、他の参加国はそれぞれ33%までが保有量とされた。個艦性能については、排水量3万5000トン、主砲口径15インチが上限とされた。このためブリテン、日本、大和で建造中だった、条約基準を越える艦の廃棄が決められた。
 また同条約では、新たな海上戦力である航空母艦についてもいちおう議論されたが、廃棄予定の戦艦から航空母艦への転用が認められた事と、排水量と備砲の制限が行われた以外での制限は特に行われなかった。
 空母よりも厳しく設定されたのが潜水艦で、上限5万トンを基準として戦艦の比率のままが保有上限と設定された。
 また別会議では、国際的な協定として戦争犯罪の定義が行われ、毒ガス、細菌兵器の使用禁止、無制限通商破壊戦、無差別爆撃の禁止が定められた。
 そして多くの会議が終わると、世界はとにもかくにも復興に向けて歩み出すことになる。

 戦後、世界は戦争から政治の時代に入った。
 戦後数年を経ずして、かつて世界に覇を唱えるほどのアジアの大国だったトルコ、清朝ではそれぞれ皇帝が廃され、民主制国家として再出発する事になる。しかし、飛び抜けた指導者のいなかった清朝での革命では、諸外国の介入もあって多くの混乱がもたらされたりもした。
 しかも、日本の事実上の衛星国家(属国もしくは傀儡国家)という形で満州に皇帝も残り、さらに列強各国の思惑によって内陸部も事実上分離独立したため、数世紀ぶりに中華地域は分裂の時代へと突入することになる。
 トルコでも、宗教(宗派)問題、民族問題の双方が噴出したため、新たな国家の誕生にはかなりの期間かかる事となった。
 ロシアでは長らく内戦状態が続くも、結局革新的すぎた共産主義勢力は民心を得ることなく淘汰されて敗北し、多党制のやや社会主義的な国家へと落ち着いていった。
 戦争に勝利したドイツでも、明確に皇帝の権威を低下させる憲法改正が国民投票の結果実施され、頑ななドイツ皇帝・ヴィルヘルム二世の思惑に反して民主的な憲法が制定される運びとなり、本格的な立憲君主国へと脱皮して行くこととなった。
 ブリテンは、国力の大きな衰退を最低限とするため、カナダ、南アフリカを事実上独立させインドへの自治権も拡大し、連邦化への道を進んでいった。
 戦争での疲弊から立ち直れないフランス、イタリアでは政治の混迷が続き、フランスでは社会主義勢力が拡大してヨーロッパ各国が警戒するようになり、逆にイタリアでは「ファッショ」と呼ばれる新たな革新的政治イデオロギー(=全体主義)が台頭する事になる。

 そうした中で、戦争の一番の勝者、最も利益を得たのは誰であるのかと、誰言うと無く囁くようになった。そしてそうした人々の結論は、国家ではなく民族としての日本人が真の勝者であるというものだった。20世紀初頭に欧州列強の攻勢によって訪れた退勢はもはや過去の話しで、結果としてドイツを利用した形での勝利によって、二度とヨーロッパからの侵略を受けることもないと言われる状況を作り上げた。
 日本人の発祥国である日本列島にある日本帝国は、一時の退勢をバネに大戦での勝利によって以前より多くのものを手にした。その手は、アラブ地域にまで伸びるようになった。日本人が最も多く移民した大和共和国は、現時点では若干の差ではあったが世界最大の経済力と工業力を有する大国へと躍進したし、今後の発展も約束されたようなものだった。日本の勢力圏へと戻った形の濠州、新海といった地域も、ブリテンの一時的支配と戦争を経て実質的な独立を勝ち取ることに成功していた。しかも新大陸の日系国家は、今後の開拓によるさらなる発展が約束されたも同然だった。
 そうした日本人のテリトリーは環太平洋地域の過半を飲み込み、南極大陸を除く世界の陸地面積のおおよそ四分の一(※日本列島の約90倍の面積)にも及ぶようになっていた。
 無論、大和共和国には多数の白人、先住民、黒人も住んでいたが、公用語は日本語であり最も数が多いのも日本人を祖とする人々だった。中華以外の東アジアでは、日本語が最も多く話されていた。
 日本に対する一度の勝利で、瞬間的(約十年間)な間だけ「太陽の沈まない帝国」を作り上げたブリテンの勢力は極力排除されており、イングリッシュは根付く間もなく駆逐され、戦後は忌避すらされるようになった。それどころか、ブリテンは太平洋から追い出されていた。新大陸でも、五大湖とミシシッピ川で、日本語とイングリッシュで分けられる状態が完全に固定化していた(※日本人の間での第二外国語といえば、かつてはフランス語で世界大戦後はドイツ語が広まりを見せた。)。
 だが、このような状態は、何も短期間で作られてたわけではない。
 日本人達が、17世紀以後長らく行ってきた活発な海外進出と開拓によって徐々に築かれていったものだった。日本人の言うところの大航海時代(17〜18世紀)において、東アジア、環太平洋地域は長らくヨーロピアンにとって世界の果てといえるほどの辺境であり続けた。そこに日本人が徐々に浸透して、その後も文明競争においてヨーロピアンと競いうる努力と発展を続けた結果だった。
 日本人が果たした役割は、本来なら北東アジアもしくは東アジア全体、もしくは中華帝国が担うものだったかもしれない。だが中華的、中世的停滞にあった東アジアで、唯一日本人だけが自らの欲望の赴くまま外へと膨張して、国と技術を近代に向けて発展させ、利便性を求めて産業の革新を進め、そしてより良い生活と富を求めて遠方に移民していった。このため日本人は、東アジアで最も「俗」と「欲」にまみれた欲深い民族だと言われることも多い。
 しかし結果として、日本人(日本民族)の単独だけで一つの文明圏を作り上げるまでに勢力を広げることができた。こうした例はロシア人、スペイン人などごく僅かな民族に見られるだけで、幸運かつ希有な例と見ることが出来るだろう。通常一つの民族が一つの文明圏作り出すまで広がって多様化する事は、文明の進歩の可能性の上では希な事だからだ。日本列島が世界の辺境にあるという優位があったからこそでもあったが、そのチャンスを生かせない事の方が多いのだ。
 そして日本人が作り上げた社会は、膨張の限界へと進みつつあったヨーロピアンの広がりを意図せずに抑え付け、日本人自身もヨーロピアンからの抑圧に反発し、その結果が「グレーオ・ウォー」だったと言えるだろう。
 ヨーロッパ内での軋轢、ヨーロッパとそれ以外である日本との軋轢が、大戦争を産み出す原因の一つとなったのだ。

 ただし、日本がこれほど強大な帝国(※あえて「帝国」という表現を用いる)を作り上げたのに、その祖となる「英雄」はほとんど見ることが出来ない。
 日本人の多くは、真っ先に豊臣政権の祖となる豊臣秀吉を挙げるが、彼は巣作りしただけで雛を育てたとは言い難い。失敗に終わった朝鮮出兵を除いて、まともな膨張戦争、征服戦争も行っていない。独裁者亡き後、大坂御所と言われた中央政府を作り上げたのは有力諸侯の合従連合であり、大商人達が平和と安定そして海外への膨張を求めたため支えたに過ぎなかった。
 日本の拡大と膨張には、アレキサンダーもシーザーもナポレオンはもちろん、タイクーンやダイハーンもいなかった。一つの民族そのものが、300年間かけて欲望の赴くままに地道に広がっていっただけだった。そして大坂御所は、合従連合であるが故に必要なくなると日本人自身から何の未練もなく捨て去られ、日本人の国家は呆気なく新たに必要となった国民国家へと移行していった。
 19世紀初頭に成立した国民国家は、アンシャンレジームのように天皇という古代の君主を名目上に戴くも、それなりに優れた指導者はいたが突出した人物はほぼ皆無だった。圧政や征服戦争を行った独裁者など、影も形も無かった。日本人達は、民意のままに膨張、発展、拡大、そして一時の縮小を行い、グレート・ウォーでの勝利という躍進という道を歩んだ。
 世界大戦(グレート・ウォー)中でも、優れた政治家や指揮官はいたが、国民全ての英雄となる人物はいなかった。もちろんだが、独裁者や絶対君主の姿もなかった。復讐心に燃える民衆の熱狂は強烈だったが、それを形にした人々は全て官僚と軍人、企業人でしかなかった。
 そして全てに言えることは、日本人が豊かな生活を求めた結果として、その「よりしろ」となった日本という民族、国家、文明圏が発展していったと言えるのではないだろうか。
 英雄なき帝国、市民無き民意による民族集団、それが日本人による国家、文明圏を作り上げたのだ。

 山ばかりの小さな島国を発祥とする日本人達の活動と躍進は、グレート・ウォーの後も続く事になるが、今回の話しをここで終えるにあたり、これを一つの結論としたい。




あとがきのようなもの