■尖閣諸島の大油田

 尖閣諸島での油田開発は、早くも1973年に開始される。
 同年10月に「オイルショック」が発生したことが、直接的な発端だとされている。
 しかし多分に、国際外交が絡んでいた。
 日本国内では、「尖閣大油田」のお陰でオイル・ショック恐れるに足らずと喜ばれたが、場所が微妙だったからだ。尖閣諸島が太平洋上なら、何の問題も無かっただろう。
 尖閣での油田開発で最も懸案とされたのが、中華人民共和国との関係だった。

 尖閣諸島は明治以後明確に日本領とされ、復帰時にも約13万人の住民が住んでいた。約四半世紀の間アメリカの軍政下にあったが、住民のほぼ全員が日本語を話し、日本への一定以上の帰属意識を持つ人々だった。このため、国際的にも日本に帰属するのが当然だと考えられた。だが中華人民共和国は、琉球王朝と明朝、清朝の封冊(朝貢)を理由に、琉球本島を含める周辺地域は中華人民共和国が領有権を有すると1969年7月に公式声明を発表した。
 そして中華人民共和国の理不尽極まりない発言に、日本政府は世界中が驚くほど狼狽した。戦後政治、占領統治の結果と言ってしまえばそれまでだが、日本人を都合良く心理的誘導を行ったアメリカがビックリ仰天するような状態だった。中華人民共和国も、慌てるように態度を軟化させたが、日本側の態度が変わることはなかった。
 そして日本政府は、既に尖閣油田開発を大々的に発表していた事あって、尖閣の開発自体には引っ込みがつかず、主に国内的な安定の為に、日本が国家として尖閣諸島への影響力を増すまで中華人民共和国との国交樹立を先延ばしせざるを得なくなる。
 世界的にも台湾の中華民国が国連から追放され、中華人民共和国が国連常任理事国の椅子と共に国連に加盟したのが1971年なので、日本としても中華人民共和国との国交樹立を早く行いたかった。国交がないため、同国での市場開放に伴う経済的進出も大きく出遅れることになった。
 しかし、突然のように理不尽で深刻な領土問題を突きつけられては、国交樹立や経済交流どころではなかった。しかも問題は単に領土だけでなく、そこに眠る莫大な量の石油とあっては尚更だった。
 その後も、中華人民共和国側の事実上の干渉や圧力が何度もあり、日本側の態度も過剰なほど硬化を続けた。正式な国交がないため、問題も複雑化していった。
 日本と中華人民共和国との国交正常化は、国連とアメリカの仲介などのお陰で1978年にようやく成立するが、日本と中華人民共和国双方の間に最初から大きな溝が生まれたのは間違いないだろう。特に中華人民共和国を建国した毛沢東、周恩来らが既に死去していた事は、致命傷とすら言われた。福田首相ととう(登+こざとへん)小平との間には深い関係が築かれたと言われるが、他国と比べて大きく遅れた事は間違いない。
 この事は、日中間のその後の外交と経済交流でも強く見ることが出来る。両国の国境近くにある大油田が、両者の接近を阻み続けたのだ。また皮肉と言うべきか、1970年代の日本の経済界は、まずは尖閣の開発に総力を傾けるべきで、中華人民共和国との国交回復と経済進出はその次だという向きが強く、日本経済界の考えも日中の関係改善と親密化を遅らせることになる。
 日中平和友好条約の締結は、他国に大きく遅れる1983年のことだった。対中借款も1984年にようやく開始されている。
(※中華人民共和国の経済開放は1978年から。)

 そして尖閣油田だが、尖閣諸島が日本領に復帰するが早いか、続々と日本の企業、政府の石油調査団が現地入りし、アメリカのオイルメジャーなどから技術支援などを受けつつ、早速調査と試掘を開始する。調査開始は、事前準備は返還前から日本本土で行われ、返還された翌月の6月には大規模な調査団が現地入りしている。さらには、すぐにも採掘予定地の日本政府による用地買収が開始された。加えて、全諸島規模での詳細な測量と地質調査が開始された。
 しかし尖閣での石油採掘は、日本だけの意志では難しかったかもしれない。裏には、アメリカとしても試掘、そして大量採掘をしたくて仕方なかったという事情があった。
 軍政(軍事占領)下の琉球(尖閣)で勝手に石油採掘を始めては、当時のアメリカにとって外聞が悪いからだ。発見された頃は、時期的にもベトナム戦争たけなわとなった頃だったので、尚更自分たちに対する風聞を気にした。先にも書いたように、一時は沖縄独立すら考えたほどだったが、当時の米ソ冷戦構造や敵に近い微妙な土地柄を考えると日本を介して採掘するしかないと考えられたからだ。
 このため沖縄を日本に返還した上で、自分たちが日本のうわまえをはねようとアメリカは考えたと言えるだろう。また1973年秋のオイルショックにより、安定した石油輸出先を求めていたアメリカにとっても、尖閣諸島の地下に眠る巨大油田の存在は極めて魅力的だった。尖閣がペルシャ湾よりもアメリカ本土に近いというのも魅力だった。
 そして初期的な油田調査の段階で、ついに石油が発見される。
 しかも当初掘られた油田のほぼ全てが、地上(尖閣本島)から掘られた比較的浅い位置からの自噴油井のため、一度穴を空けてしまえば採掘は非常に容易だった。しかも油質もかなり良質な事も判明した。油田の埋蔵量も、当初の実地調査だけでも1箇所当たり100億バレル以上と判明した。日本にとっては、文字通り宝の島の発見だった。

 尖閣での主な石油開発は、国が出資する形の「日本石油開発公団」を含めた日本資本(※三菱、日石、出光、丸善など中規模以上の全ての石油関連企業が参加。)が約7割、アメリカ資本が3割となっていた。実際は、株式など様々な要素から、アメリカ資本の割合は初期で4割を越えていた。アメリカの資本比率の高さは、出光創業者の出光佐三を始めとして反対も多かったが、大規模採掘技術に乏しい日本としては技術供与の面からも受け入れざるを得なかった。また世界の販路の問題からも、アメリカ(企業)抜きの石油開発はあり得なかった。
 しかし、日本経済が拡大した1980年代半ば以後は、急速にアメリカの資本比率は弱まり、21世紀初頭では実質25%程度に低下している。事業拡大に伴い、日本資本をどんどん増資していったためだ。20世紀末に民営化された「新日本石油(ニュー・ジャパン・ペトロリアム=NJP)」)は、世界のオイルメジャーとしてもかなり上位に属している。油田開発までは元売り企業だった日本の各企業も、大きな企業はほとんどが採掘企業となった。
 油田の規模が巨大で採掘が容易なため、産油量は年々計数的といえる規模で拡大した。島には建設業を含めて大量の労働者が流れ込み、10年を経ずして日本の石油需要の殆どを賄うようになる。最盛時の採掘量は、当時の日本の消費量を大きく上回る年産3億5000万トンにも達した。しかも日本政府は、高度経済長期の夢再びとばかりに複合的な開発を実施し、尖閣諸島を油田、ガス田を中心にした重化学工業の島にしようとした。

 その間、中華人民共和国の漁船が「台風からの避難」などの理由で大量の尖閣諸島周辺に押しよせたり、同国の海軍艦艇、軍用航空機が領海ギリギリまで接近するなどの軍事的挑発や、さらに一方的な尖閣の領有権主張などの強硬外交が行われたりもした。ソ連軍も、1980年代までは尖閣近海での示威行動を何度も行っていた。
 このため日本政府は現地の防衛を重視して、当初から島の警備を重視し、1973年には自衛隊の本格的な駐留(当初は中隊規模)を開始。通常は民間用ながら、有事には自衛隊や在日米軍が使用できる4000メートル級の滑走路を持つ大規模な飛行場も整備された(※飛行場自体は戦前からあった)。また海上国境警備のため、かなりの規模の海上保安庁職員と船舶も当初から駐在するようになる。その後現地での産業と人口の拡大に伴い、駐留兵力、警察力も年々強化され、1990年代には油田防衛のために、対テロ防衛用の特殊部隊まで配備するようになる。台湾での軍事的緊張が高まった1996年以後は、対空ミサイル部隊も常駐するようになっている。
 なお、対テロ特殊部隊については、日本でしか考えられない理由により、通常は警察の対テロ特殊部隊が当たった。この警察による油田警備部隊は、1970年代半ばから活動しており、自衛隊の対テロ特殊部隊は、民意の反発から配備が大きく遅れた形だった。
 日本全体の軍備も、尖閣諸島を見据えて変化した。
 海上自衛隊は、遠隔地での戦力展開や海上交通護衛を理由に戦力増強が優先して認められた。輸送艦という名目の揚陸艦は、自衛隊としては初めて1万トンを越える大型艦が2隻追加建造された。名目上はソ連の北海道侵攻に備えてのものだったが、通常の配備場所が瀬戸内海の呉なのだから、自衛隊が何を考えているのかは明白だった。
 さらに1980年、81年の計画では念願の「軽空母」を保有するに至る。1985年、86年に竣工した航空護衛艦《しなの》《えちご》は、満載排水量1万9500トン(基準排水量1万5000トン)で、艦載機は垂直離着陸機(AV-8)を訓練用と合わせて約50機、貿易摩擦解消も兼ねてアメリカから完全輸入の形で購入した。艦そのものも、アメリカから有償で技術導入した「制海艦」と呼ばれるものをタイプシップとしている。このため艦の外観は、スペインの同種の空母と非常に似通っている。
 航空自衛隊も、1980年代半ばに遠隔地への早期展開の為に空中給油機を数機(※当初は4機)導入した。沖縄の自衛隊も使える飛行場も、さらに整備、強化された。石油が兵器に「化けた」というわけだ。21世紀初頭の現在、島に駐留する自衛官、海上保安庁職員の数は、合わせて2000名を越えている。この上に、二つ大都市を支える警察官が加わる。
 中華人民共和国などが、「尖閣の過剰な軍備」、「日本の軍国主義」について色々と文句を言うようになったのも、1980年代後半以後の事だった。

 なお、自衛隊の遠隔地展開や洋上防衛戦力の整備は、その後も順調に伸展している。
 補給艦は1985年就役のものでも満載2万トンを越えた。2004年就役の次世代型だと4万トンに迫っている。
 1997年から続けて3隻就役した輸送船は満載3万トンに迫り、ドック型でエア・クッション艇を搭載するばかりか、限定的に垂直離着陸機も運用可能な本格的な強襲揚陸艦となった。
 2009年、11年に就役した航空護衛艦《いせ》《ひゅうが》は、満載排水量2万9000トンの軽空母で、近代改修で延命処理を受けた垂直離着陸機(AV-8)と各種ヘリを合わせて20機程度搭載する事ができた(AV-8:12機、警戒ヘリ2機、各種ヘリ4機)。20機という数字も、自衛隊全体の予算不足と自衛官不足のためで、最大30機近く搭載可能と言われている。《しなの》《えちご》の代替艦として2015年、2017年に就役した航空護衛艦《いずも》《かが》は、満載排水量3万7000トンとさらに大型化している。しかしこちらは、揚陸艦としての能力を大きく拡充しており(※米揚陸艦のようなドックなどはない)、尖閣防衛により向いていると言われる。なお、特に海上自衛隊は、AV-8導入の際にかなり無理をして航空隊を編成、増強しているため、その無理はさらなる戦力の拡充もあって四半世紀を経ても解消されきっていない。(※垂直離着陸機は、訓練機込みで70機以上。新型機(F-35B)導入も計画進行中。)
 他にも、早期警戒管制機、追加の給油機、緊急展開可能な軽快部隊など、尖閣に駐留しないまでも多くの戦力が導入、編成されている。尖閣諸島自体の駐留部隊も、海上保安庁と哨戒ヘリ部隊、対テロ部隊を中心にさらに拡充している。しかし中華人民共和国を必要以上に刺激しないため、対潜哨戒機隊と戦闘機隊の配備は行われていない。

 話しを戻すが、油田以外の現地の開発も急速かつ巨大だった。
 各所に、採掘のための油井が無数に作られたのは当然として、天然の良港となっている魚釣湾には可能な限り巨大な港湾設備が整備され、浚渫を含めた港湾工事により20万トン級のマンモスタンカーが何隻も横付け出来るような岸壁も整備された。油井の方は、古くからある井戸ポンプ(ハンマーが回転するような形のもの)を大きくしたようなものは殆ど無く、将来を見越して深い場所も採掘できる、採掘船に設置されるような近代的で非常に大規模なものばかりなので、巨大なタワーがそそり立つような景観となった。
 また、原油を効率よく輸送するための巨大なパイプラインが島中に敷設され、山が切り開かれて平地造成と埋め立てによって使える地面を大幅に増やした。そして平たくなった場所には、石油産業、天然ガス産業に必要なありとあらゆる構造物が建設されていった。
 経済効率を考えてかなりの規模の精油所も建設され、ほぼ同時期に大規模な液化天然ガスのプラントも建設された。島に電力を供給する100万kw級の巨大発電所も作られた。主に工業用の貯水池も、出来る限り拡大された。巨大な一時貯蔵基地も、石油、液化天然ガス双方のものが作られた。こうして尖閣本島の半分は、パイプラインと鉄骨、各種タンクによって構成された前衛芸術となった。「要塞のようだ」と表現されることもあるほどだ。
 なお、油田の開発は主に尖閣島だったが、天然ガス開発の中心は大正島であり、それぞれの島の僅かな平地にあったサトウキビ畑には、油田や工業施設の他に、石油産業、天然ガス産業で働く人のための近代的な街が急速に建設されていった。
 中心となる久場町、大正町(1976年にそれぞれ市となる)では、街の拡張当初から現地の労働者に対する島の平地面積が不足すると考えられたため、当初から高層建築が林立することになる。しかもまとまった平地は石油、ガスの開発と各種大規模工業施設のために必要なので、居住施設は可能な限りまとまった平地の少ない場所に建設された。島の人口増加は極めて急速で、一部の景観はまるで高度経済成長期の長崎の軍艦島を巨大化したような有様だった。
 島を覆っていた亜熱帯系の濃い緑は年々減り、1990年頃までに農地はほぼ消え去った。開発開始から四半世紀後には、島の半分はコンクリートとアスファルトで覆われ、久場市は沖縄県随一の都市となった。その後も島の人口が増え続けたため、高層マンションが林立することになり、元は人口が少ない場所だったため日本本土に先駆けて大規模商業施設が幾つも作られた。そうして出来た21世紀初頭の島の情景は、まるで香港やシンガポール中心部のような有様だった。ただしそこは、観光資源に乏しい日本有数の産業都市だった。日本の都市で言えば、人口規模的に久場市が神戸、大正市が長崎に近いだろう。諸島内にも娯楽施設が少ないため、先島諸島や沖縄本島が近在の遊び場となった。先島諸島へなら、安く設定された高速水中翼船なら片道2時間半ほどで行ける場所だった。またさらに人口が増えた1990年代には、諸島内の小さな島が諸島内の娯楽地区として開発されている。
 日本本土から離れた場所に200万人も住むので、そうした住人の慰撫施設も重要だった。

 1990年代に入ると、油田開発、ガス田開発の一部は海底油田へと移り、天然ガス開発の拡大で事業規模自体も拡大した。このため陸地が足りなくなったので、浅瀬の上に洋上石油採掘基地を巨大化したような人工構造物が建設されるようになる。尖閣各所の沖合に点在する、近未来的な白亜の巨大構造物がそれに当たる。さらに、日本で最も電力料金が安いため、多くの電気を必要とする産業も拡大の一途を辿り、沖縄各地ばかりか日本本土からも多数の転居者が相次いだ。21世紀初頭では、工業団地としての大型浮体構造物建設計画までが動いているほどだ。
 街の人口規模も年々拡大し、久場市と大正市を合わせた総人口は僅か十年後の1982年には返還時の6倍の75万人に増え、20世紀末の段階で200万人を越えた。2015年統計では、213万人となっている。島と外の人とものの流れも一段と大きくなったので、飛行場も4000メートル級滑走路を2本(+予備1本)備えた国際空港クラスのものが、諸島内の小さな島の一つ(無人島)を潰して平たくする形で1997年に建設された。二つの大きな島にも、それぞれ立派な飛行場が備えられた。規模に対して面積が足りないため、一部は浮体構造物方式が採用されたほどだった。
 尖閣諸島内の殆どの島も、橋梁でつなげられる距離のものは接続された。久場市にある名嘉島は、それまで難の産業もない寂れた漁村があるだけだったが、開発が進むと共に宅地開発が進み、総人口30万を抱えるベッドタウンに変化していた。
 二つの大きな島を結ぶ高速フェリーは、世界でも最も頻繁に行き交うフェリーの一つとなっている。さらに、巨大化し過密化した都市機能を維持するために、島を南北に縦断する鉄道が1970年代末に開通し、1990年代には近隣の島と新たな空港に延長された。さらに、島内の自動車数を減らす目的で、新世代型のトラム(市電)も整備された。市街地には坂も多い為、サンフランシスコのようなケーブルカーも走った。二つの主要な島の間に、長大な海底トンネルを造るという構想までもが進んでいる。
 かくして斜面の多いそれぞれの島の半分以上が、人工構造物で覆われることになった。工業施設と都市が消費する大量の水についても、島に豊富にある筈の天然水では足りないため、かなりの量が発電余熱などを用いて海水から蒸留されている程だった。
 久場市と大正市は約15キロの海峡を挟んで存在し、夜間でも都市中心部のネオンと各種プラントが派手な輝きを放つため、二カ所に分かれた独特の景観もあって、シンガポール、香港と並ぶアジアの三大都市国家と言われるほどだった。
 なお、他から隔離しているため、島内の物資集積所には巨大台風などで流通が長期間断絶した場合に備え、かなりの量の物資が半ば備蓄の形で確保されたりもしている。

 そしてこの「宝島」から掘り出された石油は、日本経済に大きな影響を与えた。1980年代後半を基準にすると、総額約2兆円といわれる莫大な設備投資によって、毎年約5兆円分の石油が採掘されている計算になる。設備維持と運営経費を差し引いても、大きな利益があっる事は間違いない。しかも自給なのだから外貨の流出はゼロのため、経済的効果は計り知れなかった。しかもアラブ地域から石油を輸入する事と比べると、輸送経費の分だけさらに大きな利益があった。原油価格の高騰した21世紀初頭だと、石油の価格は8兆〜12兆円分を越えている(※石油価格は常に変動する。シェール革命の起きた2015年以後だと1バレル=50ドル程度に下落している。)。
 加えて、石油と並ぶほどの規模となる液化天然ガスの採掘、さらには大量の輸出も加わってくる。天然ガスは、2012年上半期平均だと1平方メートル当たり35円程度となるので、約6兆円分が採掘されている事になり、うち4割は輸出されて日本に大量の外貨をもたらしている。(※1ドル=90円)
 あわせて、21世紀初頭での尖閣諸島が一年間に産み出す資産価値は、直接的な地下資源だけで最低でも15兆円分程度あった。(シェール革命後は大きく下落。)
 当然ながら、国産の安価な石油、天然ガス、そして安価な電力による経済的恩恵は計り知れない。しかも1970年代後半から継続しているので、約40年に及ぶ積み重ねが非常に大きく影響している。石油、天然ガスの先物取引で、大規模な国内市場が大阪に開かれるなど、経済全体への影響も計り知れない。日本の各総合商社も、石油に変わる輸入取扱品探しに奔走する事となった。それ以外にも様々な変化が訪れ、「日本のGDPの3割は尖閣諸島が産み出している」と言われるほどだ。
 しかし一方では、膨大な量の燃料資源が「円」の価値を支えるため、1980年代から続く慢性的な円高をもたらしていると言われることも多いので、利点ばかりがあるわけではない。
 そして油田の存在が、様々な面で変化をもたらした。

 1973年までの日本は、石油のほぼ全てを輸入に頼る石油輸入国だった。石油の消費量は1960年代に入ると急激に増加し、オイルショック直前の1973年度は約2億7000万トンも輸入していた。そして国内油田がほとんど存在しないため、ほぼ全てを輸入に頼らざるを得なかった。しかも、高度経済成長による重工業の躍進と自動車普及などによって、石油の需要は爆発的に伸びていた。中東から原油を運ぶ巨大タンカーの就役がニュースの一面を飾るほどだった。オイルショックが無ければ、さらに大きく消費は伸びていたとも言われている。
 しかしオイルショックによる無軌道な消費の減少と、その後すぐに始まる尖閣油田の劇的な産油量拡大に伴い、1980年代に入ると石油の海外輸入は殆ど無くなった。特にアラブ地域からの輸入は、1980年に勃発した「イラン・イラク戦争」でのイラン軍によるタンカー攻撃によって、一時ほぼ途絶する。1980年代以後から輸入される石油も、尖閣油田より上質の油田から取れる少量の石油だけとなった。そして日本が石油を自給して国際市場で買わなくなったため、オイルショック以後の石油相場を押し下げていた。日本に石油を運んでいたタンカー群も、多くはそのまま尖閣と日本各地を往復するが、かなりの数が尖閣から世界各地に石油を届けるようになった。シンガポールに立ち寄る日本船も、一時激減したとすら言われた。
 このため、アラブ諸国との関係が希薄化したり、日本のアラブに対する関心を下げてしまうなどの変化も見られた。1990年勃発の湾岸戦争では、「何もしない日本」として国際非難されたりもした。この頃は、アメリカの対日感情が最も悪化した時期でもある。
 日本とアラブ産油諸国との関係も、悪化とはいかないまでも希薄化した。さらに日本から多少なりとも石油を輸入するアメリカとOPEC(石油輸出国機構)との間で、石油の価格を巡り関係が微妙になる事も年々多くなっていた。特に、石油価格が高騰したときの産油量増強では、毎回産油諸国との間で微妙な駆け引きが行われている。

 そして自国内で有り余るほどの石油が採掘されるため、完全自給を達成するばかりか、かなりの量がアメリカや韓国に輸出された。1980年代の石油自給率は、概ね115%〜130%程度だった。最高記録では、1年間に約8000万トンが輸出されていた。
 石油採掘開始から数年遅れで大規模な利用の始まった天然ガスについても、液化天然ガスという形で完全自給を達成するばかりか、韓国、台湾、中華人民共和国など近隣諸国に大量に輸出されている。ちなみに、21世紀初頭の天然ガスの年間採掘量2000億立方メートル、国内の年間消費量約1400億立方メートルある。
 しかし大量に輸出されるのは天然ガスで、日本が発展して国内消費が増えすぎたため、アメリカに回ってくる石油の量が大きく減少している。この点では、アメリカの目算はかなり外れた事になるだろう。
 だが1970年代から、アメリカと日本の間に日本の輸出超過という形で貿易摩擦が起きるようになると、尖閣産の石油も問題視された。アメリカの対日貿易赤字の一因が、尖閣諸島からアメリカに輸出される石油にあったからだ。とはいえ、石油は自分たちが定めたようなものである国際価格があったので日本が悪いわけでもないため、あまりやり玉に挙げられる事はなかった。しかし日本は、他の面でアメリカの理不尽な要求を受け入れなければならなくなっているので、問題が無かったわけではない。飛行機や兵器などの購入による日米間の摩擦は、今に至るも語りぐさとなっているほどだ。
 加えて、石油(+天然ガス)自給達成以後の日本は、外交的に「調子に乗る」状態となり、世界への日本製品の氾濫と日本経済の驚異的とされる発展のため、世界的に日本がかなり悪く見られることにもなった。貿易摩擦も、主にアメリカを中心にして頻繁に発生した。
 そして燃料資源という足かせがない事が、一部で日本の強硬な外交姿勢が見られると共に、諸外国からはひんしゅくを買うことも多くなった。

 また日本国内では、尖閣油田の採掘によって日本が自由にそして安定して使える石油が大量に存在するため、オイルショック頃に叫ばれた所謂「省エネ」については、1970年代末頃になると熱意も冷めて、取り組みもおざなりとなっている。1979年には「第二次オイルショック」も起きたが、ここでも日本は尖閣油田で難なく乗り切ってしまった上に、主にアメリカへの石油輸出で外貨を稼いだため、石油消費を減らすと言う面で具体的な行動が行われることもあまり無かった。世界的な取り決めと潮流のため、火力発電が石油から天然ガスにシフトしたぐらいだろう。
 日本で省エネ対策が熱心に行われるのは、世界規模での温暖化対策が注目される1990年代中頃ぐらいまで待たねばならなかった。そして国内での天然ガス需要の増大と平行した石油消費量の低下があったため、2000年代に入ると再び石油輸出量が伸びつつある。主な購入国は、近在の大韓民国と台湾(中華民国)、中華人民共和国だ。そして1980年代からは韓国と、1990年代半ば以後は中華との経済摩擦に、ほぼ必ず尖閣ガスの問題が出てくるようになる。
 そして日本が資源輸出国で事が貿易と言うこともあって、他の問題と違い強気に出ることが多いので、尚更問題化する事が多かった。特に韓国は、日本から自国消費の半分以上の天然ガスを輸入し、他にも様々な工業製品、精密機械(中間部品)を輸入するため、ものすごい金額と比率の貿易赤字を毎年記録した。韓国が日本に対していらぬ一言を言うだけで、韓国の通貨ウォンと株価は日本が何もしない(言わない)のに乱高下する有様だった。このため両国の関係は、貿易が親密になるほど悪化するという、ある種異常な状態が今に至るも続いている。
 中華人民共和国との間にも、近年尖閣ガスとレアアースなどの資源による問題が何度も表面化している。
 
 1990年代になると、尖閣油田は地上(島)からの採掘量が減少し、海底油田が増えたため採掘コストが上昇したが、世界的な石油価格の高騰があったため、特に問題も発生しなかった。しかし、最盛時3億トン近く採掘されていた産油量そのものの減少を余儀なくされ、国内では産油量と石油価格に合わせて、ある程度の省エネ対策が行われることになる。当然と言うべきか、主にアメリカに対する海外輸出も大幅に減らされ、1990年代中頃からは殆ど輸出できなくなった。このためアメリカとの間には、一時期険悪な状態が生まれたりもした。
 一方では、液化天然ガスの利用が大幅に拡大されているので、この頃から言われるようになっていた温室効果ガス削減にも合致する事になった。
 なお石油、天然ガスに関係する発電事業だが、1970年代中頃からの日本では重油火力発電がさらに拡大され、1970年頃までの原子力発電を新たな主軸に据えようと言う動きは大きく縮小していた。原子力発電は、ウランを輸入する分だけ日本の外貨を流出させ、間接的にエネルギー自給率を低下させることになるからだ。
 この流れは、1980年代に液化天然ガス発電の拡大によってさらに大きくなり、21世紀初頭でも日本の発電の殆ど(80%以上)は火力発電が占めている。そして火力発電に大きな比重を置いているため、火力発電での低公害化、温室効果ガス削減、合理化、省エネ化などに力が割かれている。ただし、火力発電を尖閣の石油とガスに頼るため、世界的に多い安価な石炭を利用した火力発電は比較的低調のため、他国との技術の違いなども出ている。(※安価な輸入石炭の利用は一定程度行われている。)
 原子力発電については、総発電量に対する割合は水力発電と同規模の5%〜10%程度で維持されている。これも、核兵器を有しない代わりに原子力技術そのものを持つことが重要だと考えられたためという、国家戦略的な側面が強かった。だが、油田発見が確定した1969年以後、日本政府の原子力政策は従来路線から大きく後退していた。オイルショックでも、油田開発が最優先とされて原発は現状維持的な補助エネルギーの扱いしかされなかった。高速増殖炉計画も、計画半ばで研究以外は中止された。発電プラント各社も、石油、天然ガス発電の開発に力を入れた。そして1979年のアメリカのスリーマイル島事故、1986年のソ連のチェルノブイリ原発事故の心理的影響もあって、拡大しないまま事業停滞もしくは縮小の流れが続いていた。このため日本政府は国家戦略の見直しを強いられ、1990年代からは原子力ではなく宇宙開発に重きを置くようになった。科学技術発展のためと言われる宇宙関連予算の拡充にも、そうした国家戦略的な側面があったのだ。
 そして、国内の地震による原発被害にも敏感なため、国内の原子力発電所数は2000年代でも20基を越えていないし、最初期に建設された原発は既に活動を休止して、解体に向けた研究や動きが進んでいた。日本で最初に建設された東海原子力発電所など数基が、稼働を停止して解体研究を行うようになっている。このお陰で、2基以上の建設が凍結された福島原子力発電所は、2011年3月の東北地方太平洋沖地震では大災害を免れたと言われている。
 また一方では、温室効果ガス対策として注目されるようになり、また国内油田枯渇後を見据えて、新たな原子力発電所の建設が開始されたり、次のエネルギープラントの開発が行われている。
(※超越者の視点より:史実日本の原発建設数は50基を越える。この世界は史実と比べて発電規模で4分の1、原発数で3分の1程度しかない。)

 なお、1990年代に入ると、尖閣諸島近辺で新たな国際問題が浮上した。
 尖閣諸島沿いの大陸棚の際には、海底各所に天然ガスが埋蔵されていた。これを日本も、尖閣諸島の近くから順に洋上採掘しようとしたのだが、ほぼ同時に中華人民共和国も海底天然ガスの開発を行おうとしたからだ。そして殆どの天然ガス田は、日中中間線と呼ばれる経済的な境界線の辺りに存在した。幸いと言うべきか、尖閣から大陸もしくは台湾方面に油田もガス田もなかったが、比較的浅く波も静かな海上のため、採掘自体は十分可能だった。
 そして中華人民共和国は、100万人以上の人口を抱えるようになった尖閣諸島についてはあまり五月蠅く言わなくなった代わりとばかりに、1990年代からは大陸棚までが自国の経済水域で、そこから先が両国の中間線であり、自らの経済的権益だと言うようになっている。分かりやすく言えば、尖閣諸島と沖縄のギリギリまでが自国のものだと言い立て、尖閣沖合の海底油田の一部も自国のものだとも主張している。
 当然日本側との主張に大きな隔たりがあり、慢性的な外交問題となっている。そして日本が経済性の悪さから、尖閣周辺のガス田以外手を付けないのに対して、中華人民共和国は採算度外視で開発を続け、領土問題としても大きく問題化している。
 また中華人民共和国は、尖閣諸島そのものについても決して諦めたワケではなく、沖縄を含めた「自らの権利」について一方的に言い立てる動きは続いている。このため、日本との関係が定期的に悪化する流れは続いている。しかし、事が経済問題にも及ぶ状況が増えているため、強く言い立てる事はほとんど無くなっている。この事に関しては、尖閣復帰後の日中国交正常化問題と、1989年の第二次天安門事件以後長らく日中間の交流が途絶えた事が影響しているとも言われる。尖閣油田が無ければ、日中の経済交流は今よりもっと親密だったと、主に中華人民共和国側から言われることは非常に多い。
 なお、短期間の内、しかも中華人民共和国が海上に勢力を伸ばす前に尖閣諸島が大規模に開発され、多くの日本人が住むようになったことは大きな誤算だったと見られている。総人口数十万の貧しい地域のままならともかく、100万人以上の人口と重要資源地区、重要産業地区となった同地域が、自らの目と鼻の先にあるという状況は、彼らの内政にとって看過できない事態だったからだ。しかも、一定規模の軍隊(自衛隊)まで駐留するとなれば尚更だ。
 そして日中の東シナ海での緊張は、米ソ冷戦構造崩壊後に徐々に強まり、中華人民共和国の経済発展と国力の拡大に伴い激化するという傾向が続いている。だが日本も、自らの生命線とでも呼ぶべき場所を防衛するため神経を尖らし続けており、沖縄を含めた尖閣諸島の防衛についてはかなりの努力を傾けている。
 今後も尖閣諸島を中心として日中の緊張は継続されるだろうが、尖閣油田と尖閣ガス田が日本の生命線である以上、日本領として厳重に守られていく事になるだろう。

 了

 あとがきのようなもの:

 基本的に地形、資源を変更しただけで、特に奇はてらいはしませんでした。政治的意図もまったくありません。
 また、条件を同じで戦前、20世紀初頭ぐらいに今回の油田が発見された平行世界の観測も少し考えたのですが、
 油一つで当時の日本の何もかもが変化するわけでもないし、多分日米戦争は起きないので今回の観測は避けました。

  日本の近在に大油田があった場合、なぜ日米戦争が起きないのかは、皆様それぞれ考えてください。