■フェイズ:02 「東洋の雄:緩やかな拡大」

 一方、ヨーロッパ以外の世界はどうだったのだろうか。
 この場合19世紀に入るまでの世界とは、ユーラシア大陸、アフリカ大陸のサハラ砂漠以北の事を主に指す。
 ヨーロッパ世界、イスラム世界以外の世界といえば、主なところはインド世界、中華世界の二つになる。周辺部に細かな国や地域が幾つも存在するが、文化、文明の源泉と中心地は、インドと中華になるだろう。何しろ四大文明発祥の地だ。しかもこの二つの地域は、人類史上常に最大級の人口包容地帯であり、近代に至るまでは、中華とインドだけで世界総人口の半分以上を常に占めることになる。中華やインドと比べると、イスラムはともかくヨーロッパなど人口過疎の田舎世界でしかなかった。
 そしてその二つの地域では、悠久の歴史の中で巨大な帝国が何度も興亡を繰り返していた。
 インドでは、16世紀頃からイスラム教国家のムガール帝国が隆盛し、18世紀初頭にアウラングゼーブ帝のもとで最盛期を迎える。しかしヒンズー教徒が最大勢力を占めるインド地域で、イスラム教国家が全土を統一する事は難しかった。とはいえヒンズー教では大規模な統一国家を作るには結束力や組織力に乏しく、他の勢力が大きく台頭するという事もなかった。またこれといった外敵も出現しないため、以後長らくは少しばかり混沌とした中でムガール帝国は静かに衰退と滅亡へと向かい、インド全体が中小の藩王国による合従連合という形に徐々に形成されていく事になる。
 そしてマラータ同盟というヒンズー教を信奉する藩王国による合従連合と、ムガール帝国やマイソール王国と言ったイスラム系国家による泥沼の戦いが18世紀頃からインド全域で断続的に続くことになる。数百年にわたるイスラムの支配が、本来なら国家や民族と言った方向性の弱いヒンズー教に一定の変化をもたらした結果だった。このため、「印度戦国時代」と言われることもある。

 一方中華だが、この地域では戦乱期を除いて、常に巨大な帝国が実力相応の巨大な集権国家を形成してきた。中華中心部は、平地が多く国や民族を分けるような地形障害が少ないため、一カ所の中心地から統治する中央集権国家が比較的作りやすかったためだ。とはいえ、巨大な国家の建設と統治は非常に難しく、数千年の歴史上でも数えるほどしか巨大国家は存在していなかった。
 この当時は、「大元国」の支配を打破した「明王朝」が、15世紀頃から続いていた。しかしこの大王朝も、中華域内の統治に国力の殆どを取られたため、王朝初期を除いて本格的な海外進出には至らなかった。15世紀初頭には、世界に先駆けて海外への飛躍を行おうとしたのだが、皇帝が代わると政策そのものが国家によって否定されていた。そしてその後は、中華世界の伝統と言える人口増加と、それに伴う飢饉と社会不安の増加に伴って緩やかに衰退していった。
 そして西暦1645年、俄に勃興した「清朝」の前に「明朝」は呆気なく滅亡させられた。北の騎馬民族である清朝軍に対して、オスマン朝で発展した前方投射型の優れた火薬兵器があれば状況は違ったかもしれないと言われるが、この当時同様の兵器はオスマン朝とその周辺部でしかまだ使われておらず、東アジアの歴史を変える要素とはなり得なかった。中華世界にも火薬兵器(大砲)はあったが、技術的革新が行われていないため戦局を変化させるほどの力は持たないままだった。
 しかし一方で、攻城戦となると清朝の方が火薬式の前方投射兵器を有していた方が有利になった可能性が高い。もともと騎馬民族である清朝軍の主力は、中華世界で熟成された都市型城塞の攻略に手間取る事が多かった。逆に、火薬兵器を持つ明朝軍に何度か手痛い敗北を喫している。しかも揚子江流域から華南地方に逃れ「後明」を名乗った「明朝」の末裔は、当面はあらかじめ副都として用意されていた南京を拠点として徹底抗戦を続け、かなりの期間揚子江近辺で清朝軍との競り合いが続く事になる。そして勢力を分けている間に「後明」の体制と整い、かつてのモンゴル帝国と南宋のような状態に落ち着きつつあった。
 この状態を打破するのは、西暦1661年に即位した康煕帝による南征を待たねばならず、ようやく中華世界は清朝による統合という情景が完成しつつあった。
 しかしそれよりも少し早く、別の騎馬民族が中華の覇権を狙い始める。
 トルキスタン東部で勃興したジュンガル・ハン国の指導者ガルダン・ハンは、ラマ教の勢力を借りる形で急速に勢力を拡大した。そして東トルキスタン、モンゴルを平定しつつ、一気に清朝の都北京を目指した。このため康煕帝は「後明」への本格的な併合に向けた討伐を中止し、軍を北に向ける。
 モンゴル南東部での「ウランプトゥンの戦い」と呼ばれた戦闘は、中華史上では珍しいジュンガル、清朝による騎馬民族国家同士の戦いとなった。だが、既に事実上の中華帝国となって、多数の歩兵も組み込んでいた清朝軍は一度崩れ始めると脆く、勝利はジュンガルの手に落ちた。
 この戦いでも、騎兵に対して優位に立てるだけの兵器があれば話しは違っていたと言われることもあるが、結果は清朝軍の敗北だった。しかも英明で武勇にも秀でた名君と謳われた康煕帝は、この戦いの中で不運にも命を落としてしまう。
 巨大な城塞都市でもある首都北京は辛うじて陥落しなかったが、その後も遠征を続けたガルダンは清朝父祖の地である満州も蹂躙し、万里の長城以北の騎馬民族地帯をほぼ征服し尽くすことになる。しかもラマ教の総本山のあるチベットもジュンガルに付いたため、皇帝不在の清朝はその後もかなりの期間劣勢を強いられる事になった。このため朝鮮王国も、17世紀後半から18世紀初頭にかけては、清朝の属国状態からある程度脱する事ができた。
 この結果、清朝の支配領域は、明朝の安定期程度で落ち着くようになっていく。康煕帝の跡を継いだ若き雍正帝は、統治者としては優れていたが軍才には恵まれず、また軍事を用いることも嫌ったため、統治範囲内での安定と発展に力を入れた。
 一方の華南(広州、雲南方面)地域では、滅亡寸前だった「後明」が一息を付いていた。だが、騎馬民族同士の戦いを傍観しているだけでは自分たちの滅亡は目に見えているので、別の勢力を自分たちの駒に組み込もうと、世界各地に使いを出すことになる。
 主に使者が出されたのは、大越と倭、つまり日本だった。
 ではその頃、17世紀後半の日本列島はどうだったのだろうか。

 日本列島は、適度に大陸から離れ、適度の領域と人口を持つ島嶼国家のため、大陸の先進文明を適度に取り入れつつも、ほぼ独自の文化と文明を育んでいた。さらにいえば、国家、民族としてもほぼ単一といえる、世界的にも希有な地域だった。
 12世紀後半に二度行われたモンゴル人の攻撃も、海と気象を大きな原因として退けることに成功していた。総数4400隻、14万人という歴史上最大級の大軍が押し寄せても、巨大台風により一夜で全滅するという幸運もあったが、海を隔てるという地形そのものが日本を他国の侵略から救ったと考える方が妥当だろう。
 15世紀半ばからは、「応仁の乱」を契機として「戦国時代」と呼ばれる戦乱期に入り、100年が経過しても次の統一政権が現れる気配はなかった。
 そうした中で急速に台頭してきたのが、当時「尾張のうつけ者(愚か者)」と言われた織田信長だった。彼は1560年に侵攻してきた有力諸侯の今川義元をうち破って頭角を現し、以後、順次美濃、三河、近江を恭順させて国力を付け、1573年に上洛つまり天皇のいる京へ軍を率いて達することに成功し、日本統一に最も近づくことになる。同時期、甲斐の武田信玄も上洛を企てたが、彼は病のため大願を果たすことは出来ず、それを見た織田信長が一気に京へと進んだのだった。
 当初、織田信長の力は小さいと考えられていたが、楽市・楽座などの優れた行政手腕、兵農分離による職業軍人の育成や他よりも長い槍を持たせるなどの軍事手腕の二つを兼ね備え、一躍戦国大名の雄として躍進していく事になる。もし織田信長の手に、さらに強力な武器や知識考え方がもたらされていたら、彼の覇業はもっと速く進んだだろうと言われている。
 事実、商業都市堺の商人から手に入れた中華世界の旧式な火薬兵器を、日本の戦争に用いたのも織田信長であり、彼なくして東アジア世界での火薬兵器の改良と発達は無かったとも言われている。また信長は、東アジア世界各地の商人達を使い、集められる限りの知識、技術、概念を自らのもとに持ってこさせている。彼が革新的だったのは、そうして集めたものをうまく使う能力にも秀でていたからだった。投石機など、日本で使われたことの無かった兵器を用いたのも彼だった。
 しかし織田信長は、基本的に天才特有の無口さと生来の短気さの二つの要素のため、当時としては合理的で革新的でありすぎたし、また同時に厳しかった。このため、彼の行動について行けなくなった者の謀反(反乱)が幾度もあった。
 だが織田信長は実力と強運で全て乗り切り、1582年に室町幕府を滅ぼし、1590年頃には日本のほぼ半分を支配するまでに勢力を拡大する。この時までに、柴田勝家、丹羽長秀、滝川一益、明智光秀といった重臣は老齢によって死に、当人も60才の年齢に迫っていた。筆頭家老となっていた羽柴秀吉ですら、もはや老齢の為この頃既に仕事に耐えられなくなりつつあった。
 しかし信長は至って健勝であり、その後も精力的な活動を続けた。そして西暦1595年、ついに日本の統一を完成。そして織田信長は、完全統一少し前の1593年に「石山幕府」を開き、約150年間続いた日本の混乱終息に成功する。
 なお、補足説明として追加するが、他の東アジア地域と同様に、日本でも火薬式の前方投射兵器はあまり使われなかった。中華地域の明朝時代の初歩的な火器が使われたが、基本的には「攻城兵器」としてであり、合戦での火薬兵器は相手への脅し以上では使われなかった。日本での戦いは、槍、弓、刀、馬という従来の兵器によって常に戦われたのだった。ただ、織田信長が存命の間は、明朝から手に入れた一種の大砲の改良が精力的に行われ、後に「和筒」と呼ばれる事になる。

 一方戦闘以外では、戦国時代後半以後の日本では、人口の拡大と産業の発展が起きていた。巨大な地方政府となった戦国大大名達が、戦争をするために領民を保護し産業を発展させた影響だと言われ、それらをまとめあげた石山幕府によって日本の発展がさらに促進されたと言われる。
 そして国内統一を成し遂げた日本では、豊かになったことで海外からの物産、特に絹に対する欲求が起きていた。このため日本各地の豪商達は、アジア最大の絹の大産地である中華から大量の絹を得るべく、未だ明朝が続いていた16世紀終盤頃から、自ら海外に出ていくようになる。
 日本人の最初の進出地は琉球王朝。当時の琉球王朝は明朝の封策体制下にあったため、中華世界では明朝であって明朝でない場所だった。このため漢族商人の交易拠点として公に利用され、15世紀から16世紀半ばにかけて中継貿易によって琉球は繁栄した。そして漢族商人にとっての一番の商品とは、日本人が求める絹だった。
 しかも当時の日本は、当時世界屈指の銀の大産地であり、明朝というより中華世界は、貨幣としての銀を常に欲していた。このため日本人、漢族双方の利害が一致し、琉球など東シナ海の貿易は拡大の一途を辿った。この影響で、後期和冦が活発になり、モグリの漢族商人は自らの同胞を襲って中華世界の絹を強引に集め、日本人に高値で売りさばいた。また16世紀末頃からは、「茶道」の道具として呂宋(るそん)製の壺などの土器が、日本人支配層の間で大変もてはやされた。当然、日本人の求める貿易品目に加わり、日本人の中には自ら海へと出ていく者を増やす大きな要素となった。現地ではただの生活用品だった安値の呂宋の茶器には、危険を冒すだけの価値が存在したからだ。
 そして17世紀に入ると、日本人達も中華世界で用いられている外航洋船舶(ジャンク船)の建造技術を学び取り、自らアジアの海へと出ていくようになる。
 なお、日本近海は太平洋の荒波のため、今までは日本人自ら海外に出ていく事が比較的少なかった。しかに海外には日本人が求める物産があり、東シナ海は比較的海が穏やかで、そして中華世界からはその海を越えるだけの船と技術を手に入れることができた。そして動機、目的、手段がある以上、行動を躊躇する人は少ない。
 また、日本が統一されて平和になったという要素が、別の側面から日本人の海外流出を促していた。
 日本統一に伴って、それまで戦って生計を立てていた人々は、幕府や藩に仕えている者以外は、お払い箱となってしまった。傭兵家業なら尚更だ。僧兵も忍者も石山幕府にとっては、ほとんど必要のないものだった。加えて、信長時代の石山幕府は実力主義で、人の出入りもかなり激しかった。しかも戦乱で敗れた者が当時の日本には溢れており、それは戦闘階級である武士だけではなかった。そして石山幕府により統一された日本は、敗者の側、用済みとなった人々にとって非常に住み難い場所だった。
 そうしたところに、海の外に出ていく手段が現れたのだから、出ていかない道理もなかった。
 16世紀の末頃から、呂宋を皮切りに東南アジア各地に「日本人町」が形成されるようになる。華僑、印僑に対して、日僑という言葉も少しずつ使われるようになった。16世紀末から17世紀半ばにかけて、海外に出ていった日本人の数は30万人から50万人に達すると見られている。多くは短期間のうちにマラリアなどの疫病がもとで死んでいったが、生き残る者も一定数いたし、常に日本人が供給されるため主要な日本人町が無くなる事もなかった。
 もっとも、日本人が国家として海外侵略を行うという事態は、あまり見られなかった。日本人による海外進出と領域の静かな拡大は、17世紀に入る頃から日本国内で大きな不足が見られるようになった木材資源の獲得のため、小琉球島(台湾島)、蝦夷、樺太、呂宋の一部へと見られた。そして頭数と技術の違いから、現地民族を従属下にも置くようにもなった。

 なお織田信長の本当の目標は、日本統一ではなく、大規模に海外に飛躍することだと言われることが多い。事実、中華型ジャンク船の改良には熱心で、琉球への進駐(占領)、小琉球島(台湾島)への進出も行い、部下に蝦夷の開拓も行わせていた。呂宋にも拠点を築かせている。日本初の「海軍」の建設も行っているし、呂宋への商業進出も信長の手によるものだった。日本人による海外貿易を振興したのも織田信長であり、彼の援助なくしてこの当時の日本の海外進出は無かったと言われることが多い。
 そして何より、彼は「天子」もしくは「皇帝」の座を目指していたと言われる。織田信長は幕府の初代将軍には僅か3年しか就かず、すぐに息子の信忠に将軍職を譲っている。そしてその後は、実質的な「院政」を行い、圧倒的武力を背景に京の公家と朝廷を意のままに操った。全ては日本の、つまり彼の軍事力を中華地域に進ませるための準備でしかなく、自らが日本の最高権威に殆どいなかったのは、その必要性を認めなかったのと、本来の自らの地位に上るための手段の一つでしか無かったからだった。
 織田信長の最終目的は、東アジア世界に君臨する事だったのだと言われる。
 そして中華地域では、後に「清」となる女真族をまとめあげたヌルハチが急速に勢力を拡大し、明朝にとって容易ならざる存在となっていた。これを信長は支援し、莫大な銀や武器などを日本海や黒竜江周りで送り込んで、ヌルハチと明朝の争いを煽った。しかし当時の明朝はまだ完全に衰退しておらず、日本の意図も見抜いたため、日本が付け入るのも難しかった。それでも信長は、日本で産出する豊富な銀をコントロールすることで中華地域の経済に混乱を呼び込み、女真族との抗争で明朝の財政を疲弊させた。
 後は、明朝内で大規模な内乱が起きれば、日本から揚子江河口部と渤海奥地に大艦隊を送り込んで、一気に勝負を付ける積もりだったと言われる。実際信長は、熱心に遠距離進出可能な海軍の建設を実施し、艦艇に改良した大砲「和筒」を搭載するなど、革新的な軍隊の育成に務めた。信長は、土地を取ることが世界征服の手段とは考えず、「頭」を取ってしまえば自ずと勝敗は決すると考えていたと思われる。
 だが、流石の彼も、時間には勝てなかった。
 信長は当時としては非常に長命の83才、1617年まで生きたが、遂に大願を成し遂げることはなかった。1616年にヌルハチが自らハンの称号を名乗って後金国を作った時には、時節到来と非常に喜んだとされるも、遠征準備を本格化させたその年、織田信長は静かに息を引き取った。
 最後の言葉は「是非も無し」だったと言われる。
 そして織田信長という人物の歴史的功績は、日本の統一と日本人の海外進出のきっかけを作った事となった。

 織田信長亡き後、日本及び日本の中央政府である石山幕府は、比較的平穏で堅実な政治を行った。国内政治及び状態を「戦時」から「平時」へと移し、過度な軍事予算を削減して、民政に注ぎ込んだ。
 それに伴う混乱が皆無ではなかったが、石山幕府はそれを乗り切り、長期安定の流れを作り上げることに成功する。
 そうした中、1645年に日本に後明からの援軍要請が来る。人々は、「信長公の亡霊」と言ったりもしたが、既に織田信長がこの世を去って四半世紀が過ぎていた。
 この頃の日本では、中華地域からの絹と陶磁器の輸入が大幅に減っていたので、技術を何とか輸入して、自力生産するようになっていた。絹の品質向上と増産も進み、陶磁器も日本各地で作られるようになっていた。このため中華地域に日本側からは用がないというのが本音で、また援軍を出したところで戦費に似合うだけの収穫、報酬が得られる保障もなかった。このため要請には形だけ応じ、限られた数の船と軍隊を沿岸部に派遣して、その見返りとして中華地域の優れた技術や現金を得ることされた。この時期、琉球と共に小琉球が日本の拠点として利用され、18世紀頃からは実質的に日本人の支配する場所となっていく。
 すると今度は、朝鮮王国を介して清朝からの使者がやって来た。用向きはこちらも援軍要請で、北方の騎馬民族に対向するための援軍、それが無理なら戦費の助成や武器の供与を求めてきた。代金は、主に朝鮮人参と珍しい獣の毛皮。どちらも日本が、それなりの規模で輸入している物産だった。
 しかし、遠征に対する対価としては低いため、石山幕府は清朝の依頼も形だけ受けて、夏のアムール川に軍船を少し入れたぐらいの事しかしなかった。日本人としては、自分たちが欲しい物さえ得られれれば、それでよかったわけだ。中華情勢に対しては我関せずで過ごし、少しずつ自らの領域と交易、活動範囲を拡大する緩やかな200年間を過ごすことになる。

 その間日本人達は、自分たちの欲しい物産を求めてユーラシア大陸東部を訪ねて回っていた。特に国家のないところでは、自分たちの縄張りだとして旗を掲げることも行い、船も独自改良して風雪と波浪に強い船も造った。北宋時代に中華世界で発明された「羅針盤」も、手に入れると自ら少し改良して使い、航海の助けとするようになった。使う船の構造も自力で改良と強化が実施され、波の荒い日本近海や北海地域でも使える程度にまで進歩していくことになる。船の大きさ自体も、当初は重量1000石程度だったものが、3000石規模の船が建造、運用されるようになった。横風を拾えるように独自の改良がされたのも、18世紀に入ってからだった。
 日本人の足跡も各地に伸びて、東アジアの海をほとんど網羅し、一部の船と商人はインド洋にまで交易に出かけるようになっていた。そしてインドにまで到達するようになると、日本人にとっての技術的出会いが幾つも待ちかまえていた。まずは、イスラム商人が使う、まったく別系統の帆船。当然ながら、自らの中華系帆船に新たな技術を取り入れることで、より高度な船を建造するようになる。また蒸留機を初めとするイスラム文明の利器にも東南アジア地域で出会っており、さらに18世紀後半になるとオスマン帝国との接触まで行うようになる。そしてそこで日本人達は、大砲、鉄砲(火縄銃)という画期的な火薬式前方投射兵器に出会うことになる。
 しかし18世紀の日本人にとって最も重要だったのは、船の建造技術と航海技術だった。日本列島の周りは荒海が多いため、東シナ海以外に出ていこうと思えば、少しでも性能の高い船が必要だったからだ。そして当時の日本人達は、自らの産業文明を支えるために、贅沢品とは別にあるものを大量に必要としていた。
 必要な「あるもの」とは木材であり、大量の木材を運ぶためには少しでも大型で、日本近在の北の海を自由に行き来できる船が必要だった。
 また、産業資源として鯨の脂にも注目が集まりつつあり、沿岸以外での捕鯨という目的も、日本人による船の発展を促していた。
 だが当時の日本人には、初期的な羅針盤を自ら改良したものが最高精度の航海道具だったため、陸づたいに進むことが常だった。東南アジアに陸づたいに行ったように、北の海に対しても同様に接した。そして陸づたいに北もしくは東へと進んだ日本人達は、18世紀が後半に入る頃、新大陸へと到達している。
 北大東洋の荒波を陸づたいに越えたため数は限られていたが、毛皮と鯨を追って継続的な漸進が続けれ、その結果18世紀半ばにイヌイット達の住む新大陸北西端へと到達している。
 氷河期以後の人類による新大陸到達は、グリーンランドに住んでいたヴァイキングだったが、知識や情報としてユーラシア大陸にまで情報を持ち帰ったのは日本人が最初となった。とはいえ、風や海流を効率的に使ったり大洋を横断するわけでもないので、日本列島から行って戻るだけで2年以上が必要だった。
 到達が歴史上記録されたのは、石山幕府で権勢を振るった田沼親子の時代の西暦1792年の事であり、世界の革新の象徴の一つとされる出来事でもあった。
 そして日本人にとっての革新出来事は、東の果てばかりではなく、日本人にとっての西の果てでも起こっていた。


●フェイズ:03 「世界の接触」