■フェイズ:04 「新世界とその悲劇」

 アステカ帝国は、新世界の二つの大陸で最大最強の国家だった。他にも、ユーラシア大陸の東西から新たに人がやって来る18世紀末、新大陸には幾つかの国家が存在した。新世界の混乱を触れる前に、まずは北から順番に見ていこう。

 北の新大陸にあるミシシッピ川(※現地語で「大河」と言う意味)流域には、チェロキー諸王国とでも呼ぶべき巨大な農耕文明と大規模な部族社会が形成されていた。彼らはアステカ高原から徐々に伝わってきたコーン、パンプキン、地元のサンフラワー、ピーナッツなどを栽培し、七面鳥と犬を家畜としていた。
 アステカから伝わった初期的な金属器も使用するようになっていたが、ようやく青銅の自力精製が始まるかどうかという所だった。文明程度としては、ユーラシア四大文明の初期段階といえるだろう。しかし周りに大きな敵が存在しないため勢力の拡大を続け、肥沃な土地で農業社会としては比較的希薄なまま広がり、約1000万人近い人口を養うようになっていた。農業文明を作ったのに人口密度が比較的希薄なのは、現地には馬や牛のような大型の家畜が存在せず、金属技術も稚拙など農業技術の発展に大きな制約があったためだ。大型家畜の有無は、文明の発展には致命的欠陥と言えるだろう。そのためか一部の集約的な農業地帯で小規模な原始的国家が形成された他は民族的な大集団止まりで、現代人が思い浮かべるような本格的な国家の形成には至っていなかった。
 チェロキー族の北東部には、イロコロ族が少しずつ勢力を拡大しつつあったが、農作物の関係と気候がやや寒冷だった事からチェロキーよりも発展と拡大が遅く、チェロキーのライバルにはなっていなかった。こちらも、国家と呼べるほどの社会を形成するには、まだ数世紀以上の時間が必要だった。両者の境界線辺りで小規模な争いは見られたと思われるが、戦争と呼ぶほどではなかった。
 ミシシッピの東部上流の平原には好戦的な各スー族がいたが、基本的に共同体として活動する部族社会以上には発展していなかった。政治の基本は合議制、しかも酋長が女性となる場合が見られるほどの母系社会が多かった。
 スー族がチェロキーなどに対して大同団結して戦う場合でも、各氏族、部族の酋長の権限は横並びで、合議に参加しない氏族、部族には関係のないという有様だった。無論というべきか、採取狩猟生活をしており、青銅などの金属器もチェロキーやアステカとの物々交換による交易で得ていた。無論だが、百年ほど後のように馬などの大型の家畜は保有していない。もし新大陸に昔から馬がいたなら、スー族による騎馬民族国家が早くに出現していたかもしれない。
 スー族以外も、馬やそれに当たる大型家畜(戦闘動物)がいれば、この時点でメソポタミア文明程度の国家を形成していたかもしれない。

 北大陸の南部高原地帯、アステカ高原には新世界最大の国家、アステカ帝国が存在していた。
 アステカ帝国は、総人口約3000万人を抱える高度な農耕社会を有していた。労働集約的な農業を持ち、初期的な青銅を作る能力も獲得していた。ただし青銅の加工は自力発明ではなく、パナマ地域で接触したインカ帝国(=世界)からの技術輸入によるものだった。他の文明の利器などを見ても、ユーラシアの数千年前の文明に劣るところが多かった。
 青銅や金銀を加工する術は持っていたが、鉄器はいまだ知らなかった。文明の発展速度から考えると、彼らが自力で鉄を精製、加工するようになるまで、さらに1500年から2000年が必要だった。他には、正確な暦と文字は持っていたが、絵文字に近い複雑な文字のため神官や書記など特定の特権階級にしか普及していなかった。文字の使用方法も、主に権力者のための記録の為でしかない。なお、暦については近隣のマヤの密林からもたらされもので、アステカ人が発明したものではなかった。またインカから数字の概念(キープ)も既に入り、文明の発展に大きく寄与していた。
 玩具の車輪はあったが、道具としての車輪は使われていなかった。元々新大陸全体で家畜が不足しているため、ようやくインカから輸入されたラマ/アルパカが活用され始めた段階だった。交通網は非常に発達していたが、基本的な運搬手段は人が担いで歩く事だった。外洋にもほとんど出ないので、船の発達も遅れていた。流通と運搬力では、ユーラシアの諸文明に比べると、大きく劣っていた。
 金属についても、青銅や金銀を用いるといっても、基本的に装飾や武具、一部の道具に対してのみで、貨幣として流通するには至っていなかった。しかし貨幣の概念と現物は存在し、非常に高価で保存もしやすい「カカオ豆」が一種の貨幣として社会の一部で流通していた。当然ながら、カカオ豆を用いた飲食物は、珍味であり超高級品だった。
 またアステカ帝国では、太陽神に毎日の生け贄を捧げることが建国以来行われていたが、17世紀末頃には神官の権限拡大と強引な生け贄集めに民衆の反発が強まり、犬や七面鳥を捧げる形に変更され、官僚の権限が強められる形で神官の権限は大きく削られていた。
 そして18世紀末頃、アステカ高原は今までの文明活動と大きく拡大した人口のため森林伐採伴う自然破壊が進み、大きな社会不安に陥りつつあった。

 二つの新大陸の陸橋となっているパナマ地峡には、インカ帝国から派生した王国が18世紀頃から存在していた。正式な独立時期は不明だが、同国はアステカとインカという新世界最大級の二つの国家の交易拠点として栄えた都市国家を発祥としており、熱帯地域のため交易でのみ栄えている新大陸で最も進んだ国家だった。
 文字、数字(キープ)、暦、家畜、優れた土木建築技術、その全ての新大陸の文明を有しており、船の建造能力も最も高かった。
 金銀、酒、タバコ、チリ、奴隷、カカオなどの貿易で栄えており、ユーラシア大陸からやって来た人々が比較的早く現地に到来したのも、ある種自然な事だった。
 そして南の新大陸の高原地帯には、インカ帝国が存在した。
 第二王朝呼ばれるインカは14世紀中頃に建国され、以後侵略戦争に明け暮れて膨張を続けた。16世紀初頭には一度黄金期が訪れ、1533年に即位した第12代皇帝マンコ・インカ・ユパンキのもとで絶頂期に達した。彼の即位頃には、帝位継承を巡って大きな内乱があったがユパンキの勝利で幕を閉じ、その後インカは繁栄した。
 しかし以後は安易に拡大できる土地が不足するようになったため、今までのような急速な膨張は低調となり、内政充実に力が入れられるようになった。
 なおインカ帝国では、新皇帝は前皇帝の遺産を引き継ぐことが出来ないため、自ら領土を拡大しなければならなかった。強大な権力を得たユパンキはこれを改め、世襲と永年による皇帝の権威を確立すると共に、帝国全てが次の皇帝に引き継がれるように改めた。このため、以後のインカを第三王朝と呼ぶことが多い。
 そして内政充実、北進に伴うアステカの出会い、海の交易路の開拓などの努力によって国はいっそう栄えた。
 そして18世紀末頃、インカ第三王朝は依然として存続し、後に銀河と呼ばれる事になる大河を降りて、大西洋沿岸にまでその版図を広げるまでになっていた。

 以上が、二つの新大陸での国家や地域社会の概要だが、18世紀末二つの海をそれぞれ越えてきた人々によって、大きな混乱も一緒にもたらされるようになる。
 大きな混乱とは、初期の段階においては侵略ではなかった。ユーラシア大陸原産の伝染病の存在こそが、大きな、いや大きすぎる混乱をもたらした。
 天然痘、麻疹(はしか)、インフルエンザ、百日咳、それに西からはペスト、東からはコレラが一気にやって来た。
 アステカ帝国に様々な伝染病を伝えたのは主に日本人で、カリブ海経由でインカに混乱をもたらしたのがイングランド人だった。またイングランド人は、北大陸中原にも伝染病をもたらしてもいる。
 当初、日本人もイングランド人も自らが伝染病の保菌者である自覚がまったくなく、彼らにとっては殆どの病気が一般的な病気に過ぎなかったのだが、免疫を持たない人々に対する破壊力はあまりにも絶大だった。
 最初の巨大な「感染爆発」と呼ばれる伝染病の大流行は、1806年にアステカ帝国で始まったと記録されている。
 感染率99%、致死率50%〜60%。それが導き出された数字の一端となる。しかも一つの疫病でこれなので、複数の疫病が波状的に襲いかかると、最終的な致死率は最低で80%、最大だとほぼ100%を記録した。アステカの人々に取っては、まさに世界の破滅の始まりだった。
 旧大陸人のくしゃみ一つで、千人の人が住む村一つが僅か二週間で全滅するという悪い冗談のような光景が日常的に見られ、新大陸の社会は見る見る破滅していった。荒廃や衰退ではなく「破滅」というところに、この時の感染爆発の恐ろしさがあった。感染爆発は南北新大陸の各所で見られ、最大推定で億の単位に達する人々が短期間の間に死亡したと考えられている。
 人類史上最大級の悲劇といえるほどだ。
 そしてアステカ帝国での混乱が頂点に達しようと言う頃、現地で出会った日本人とイングランド人の諍いが、両者の戦いへと発展する。しかも両者は、アステカ人が伝染病の保菌者を新しくやってきた人々だと考えていたのを利用し、互いに相手がアステカの社会を破滅させようとしているのだという非難中傷合戦となった。
 そして大混乱状態のアステカ人を味方に付けることが出来たのは、日本人だった。
 これは、日本とイングランドというより、日本とヨーロッパの宗教の差だった。日本人は仏教や神道を信じているが、殆どの者が相手に自分の宗教を押しつけようと言う考えに乏しかった。また宗教が違うからと言って、相手をあからさまに侮辱したり蛮族扱いすることも比較的少なかった。相手宗教を蔑む事も少なかった。日本人が主に相手を蔑むのは、日本人の価値観にそぐわない場合、文化、文明が劣っていると考えた場合がほとんどだった。自らの宗教は大切ではあったが、極論付け足しに過ぎなかった。
 加えて、日本人は他民族を奴隷として使うという習慣に乏しく、そうした点でもヨーロッパとの差はあった。
 そして疫病の理不尽な状態を前に、アステカを始め新大陸の多くの人々は、何か特別な違いがあるのだと考え、多くの人々がユーラシア大陸由来の宗教に帰依していった。そして日本の仏教界でも、新たな信徒の獲得と勢力拡大の絶好の機会と考えたため、多数の僧侶が布教のために新大陸に渡っていく事になる。この結果、当時でも布教に比較的熱心だった日蓮宗と浄土真宗、真言宗などが広まることになる。広まりは急速だったが、多神教というものが新大陸の人々にとっても受け入れやすいものだったからだと考えられている。
 これに対してイングランド人は、キリスト教の中では合理的な新教、より正確にはイングランド単体での国教会を信奉していた。しかし一つの神を信奉するキリスト教であることには変わりなく、ヨーロッパ一般の価値観を多分に持ち合わせていた。しかも「白人優越論」とでも呼ぶべき考えを、イスラム、タタール、トルコとの争いを経ることで強く持っていた。当然、アステカの人々に対しても自分たちの価値観に従って行動し、日本人よりもずっと多くの問題を引き起こしていた。
 かくして日本、アステカが、イングランドに対して連合を組む形で戦争が推移し、イングランドはアステカ人の支配する地域からほとんど追い出されてしまう。これはパナマ地峡でも同様で、イングランドはヨーロッパの他の国が新大陸の情報を殆ど知らない状態のまま、カリブ海以外での新大陸の橋頭堡をほとんど失ってしまう。
 このため以後イングランドは、自らの新大陸での拠点をカリブ海のニュー・イングランド島に置いて、現地でのサトウキビ栽培を始めると共に、カリブ海の支配、さらには北大陸中原での支配を拡大するようになっていく。

 その後アステカ帝国は、急速に崩壊していった。
 イングランド人を追い出しても、伝染病の猛威は衰えるどころか強まるばかりで、日本人の言葉が嘘だったことがバレてしまう。とはいえ、日本人達も何が原因なのか分からないし、異民族であるアステカ人に過剰に肩入れする気もなかった。ただし、仏教僧など現地に渡った一部の日本人は献身的にアステカ人の苦難を少しでも和らげる努力を行っていたし、また自らの利害のため幕府もそれなりに対策をは行っていたので、そうした地域では日本人の勢力は維持され続けることになる。
 そして急速という言葉が不足するほどの速度でアステカ帝国が衰退したので、日本人の新大陸での勢力は順調と言える以上の速度で拡大していくことになる。感染爆発を生き延びた現地の人々に対して、一定の文明を提供できるのがアステカ帝国ではなく日本人になり、辛うじて生き残った原住民は日本人の統治と支配を受け入れざるを得なくなっていたからだった。
 そうした中、1826年に一つの報告が日本人の間を駆けめぐる。巨大銀山である坂捨(サカステ)銀山の発見報告だ。かつての石見銀山に匹敵するという報告は、瞬く間に日本人社会に知れ渡り、多くの日本人が一攫千金を夢見て新大陸へと向かった。また、アステカ帝国が急速に崩壊していく中で、彼らの有していた金銀財宝が各地で放置された状態で捨て置かれていた。これをミイラの山から見つけだす事も、同時に人々を新大陸引きつけることになった。
 「死山にはお宝がある」という言葉は、当時の日本人の間で大いに伝搬し、日本人が付けたアステカ各地の地名に「(なにがし)死山」という言葉を語源とする地名(〜紫山など)が数多く残されている。
 そして数十年の間に、アステカ帝国は総人口の95%を失うという破滅的な状況の中で太陽の下で氷が溶けるように滅亡し(3000万→150万)、そのまま日本人達がアステカの大地の新たな主人に座ることになる。

 西暦1833年、次の大事件が南の新大陸で発生する。
 もはや言うまでも無いかも知れないが、インカ帝国の混乱の始まりだ。
 インカ帝国の混乱そして破滅的な滅亡にも、日本人が深すぎるほど関わっていた。
 インカ帝国は、パナマ経由でアステカの混乱を知ることが出来た。そしてその原因が、海の果てから来た異民族がもたらした伝染病にあると考えた。事実その通りであり、しかもパナマやインカでも伝染病災厄が、ほぼ同じ規模で急速に訪れつつあった。
 そしてこの当時、インカ経済の基本は金(黄金)だった。ここに目を付けた日本人がいた。当時の島津藩の家老だった調所広郷だ。
 当時日本の貿易と海外進出は、基本的に織田家を中心とする石山幕府が国家事業として行っていた。しかし特別に許可を得た藩に限り、幕府から権限を与えられることがあった。これは、新しい場所を開発するための幕府の初期投資を少しでも減らし、その負担を諸藩に負わせようという幕府の思惑が強く影響していた。これを利用した島津藩は、大東洋航路開拓の権利を幕府より授かり、自ら大型外洋船を莫大な借金で建造した上で、大東洋そして新大陸へと向かわせていた。新大陸で金銀を得て、藩の巨大な借金を何とかするのが目的だった。そして調所広郷は、さらに賄賂を送り込む形で島津藩の権限を拡大し、藩兵を乗せた軍船数隻を新大陸へと送り込むことに成功する。
 そして日本最強を謳われる薩摩藩の兵士(武士)達は、日本人を自分たちの領域に入れまいとするインカを押し通って、事実上の侵略戦争を開始する。しかも薩摩藩は用意周到で、首都クスコに最も近い港湾に軍船を横付けして強引に上陸し、そこから一気にアンデス山脈を踏破してなだれ込んでいる。
 世界最強の戦士と言われる薩摩隼人の持つ、鉄の武具、馬、そして鉄砲と大砲などインカには存在しない武具は、大きすぎるほどの効果を発揮した。恐らく、日本最強を謳われる薩摩の軍勢でなくても、戦闘の経緯に大きな差はなかっただろう。まともな鎧のない相手に対して、日本刀は圧倒的威力を発揮した。
 二度の大きな戦闘で、インカ軍は大敗を喫した。
 とは言っても、日本軍(薩摩軍)はせいぜい3000名。これに対してインカ軍は、最初の戦いで3万、首都クスコ近辺での戦いでは10万もの軍勢が最強の将軍に率いられていた。にも関わらずインカ側は惨敗し、伝統を重んじる薩摩兵によって切り取られた生首が山積みにされたと言われている。あまりにも討ち取った数が多かったので、当の薩摩武士達が相手の首を切るのが億劫になって止めたという記録すら残されているほどだった。
 戦意や戦術とは違う次元の文明の利器の差が、勝敗を分けたのだ。そして首都と皇帝を押えた現地日本軍(薩摩軍)は、皇帝の名で全土に日本に対する降伏を通達させてしまう。
 そして薩摩藩は、当面の面倒を自らの増援要請で慌ててやって来た幕府の兵士と役人に押しつける前に、戦費賠償、皇帝の身代金として集めさせた莫大な金銀財宝を持って、多くが日本に凱旋してしまう。
 またその後も南大陸での統治でも、薩摩藩は大きな権限を日本社会の中で持つことになる。そして初期に手に入れた分とその後の就役により、薩摩藩は借金を一瞬にして返済してしまうだけでなく、一つの国家に匹敵するほどの財産を抱えるようになっていく。
 似たような行動は日本国内の他の藩にも波及し、その結果成功を掴んだ藩が「雄藩」として以後日本人社会で大きな力を得ていくことになる。

 一方イングランド人だが、ヨーロッパの他の国々に先駆けてカリブ地域での地盤を固めつつも北大陸東部の調査を何度も行い、多くの成果を得ていた。ニュー・ロンドンという入植地も東部海岸建設され、イングランド本国、アフリカ西岸、そして北の新大陸という三角形の航路を整備することができた。1830年代には、ようやく他のヨーロッパ諸国も新大陸についての知識を得て船を派遣し始めていたが、多くの場所の占有権を得た優位は大きかった。
 そしてイングランドよりも、日本人という東の果てからやって来た人々が、新大陸の南北、特に大東洋側で大きすぎる領域を実行支配するようになっていた事は、新大陸の人々にとって大きすぎる失点だった。日本人達は、既にパナマからカリブにも足を踏み入れるようになっていた。
 しかもアステカ帝国の残骸と呼ぶべき地域では、日本人以上に白人、キリスト教徒が嫌われるようになっていた。その考え方は、アステカから静かに北大陸の他の地域にも伝搬しつつあり、イングランドの横暴も重なって白人の進出をより難しいものとしていた。当然というべきか、日本人達がそうした考えを自らの体内にある疫病と共に広げて回っていた。
 また、ヨーロッパが幾つかの国に分かれて競争をし、時には戦争を行っているのに対して、東アジアからやって来る日本人には、基本的に競争相手や敵対国が本国近辺にほとんどなかった。
 日本の近在には中華帝国とその周辺部の国々があったが、その殆どが何らかの理由で海外進出に消極的で、中には鎖国をしている国も見られた。
 大東洋と大西洋の距離という絶対的な優位不利が存在するので、この時点で日本とヨーロッパ諸国の競争は始まったばかりとしか言い表せなかったが、日本人が一歩優位に立ったと言うのが19世紀前半での新大陸情勢だった。

 なお新大陸の名前については、ヨーロピアンは大西洋上の伝説上の大陸「アトランティス」と呼び、日本人達は南の新大陸を「大南大陸」と呼んだように、当初から「大東大陸」と呼んでいた。
 一時期日本でも「アトランティス」という名が名が使われる事もあったが、最終的には「北大東大陸」「南大東大陸」という名称が固定化するに至っている。


フェイズ:05 「東西の競争」