■フェイズ:07 「欧州勢力の動き」

 「大接触」以後、東アジア世界の方がヨーロッパ世界よりも有利な位置にいた。
 確かにヨーロッパ世界は、イスラム世界から伝わった技術を自ら発展させて世界の海へと躍り出た。だが東アジア世界は、ヨーロッパ世界が考え出した技術を模倣し、さらに昇華できる域に達していた。
 自然哲学(科学)や数学も、東アジアとヨーロッパの直近の源泉はイスラム世界だったため、ヨーロッパが多少有利なだけで大きな差はなかった。ユーラシアの東端にある日本も、自力でインド洋まで赴いてイスラム世界から色々なものを学んでいた。さらに、「大接触」以後は白人からも技術を奪っていた。
 それまでの文明先進地域だったイスラム世界からより近いヨーロッパ世界の方が、東アジアよりも有利な位置にいたのだが、実際はせいぜい同等でしかなかった。しかも、人口、経済力で東アジアの方が優位にあるため、一旦競争が始まると瞬く間に追い抜かれていた。
 そしてヨーロッパが遅れた一番の原因は、常に近隣に大きな脅威が存在していたからだと言われる。
 ローマ帝国を崩壊させて以後のヨーロッパは、常に大きな敵に怯えていた。彼らをヨーロッパへと移住させた中央アジア地域を策源地とする騎馬民族が、最初の脅威となるだろうか。その後も、最初のイスラム帝国以後、北方のバイキング、モンゴル帝国、オスマン朝トルコと、十字軍の遠征の一時期を除いて途切れることなく脅威が襲い続けた。ペストの大流行も、脅威に加えても良いだろう。しかもオスマン朝トルコの脅威は、イスタンブール陥落から400年を経ても続いている状態だった。またヨーロッパ世界で最も東にあるロシアは、再び勢力拡大期に入った大陸系騎馬民族のジュンガル汗国の脅威を強く受けていた。そして今度は、新たに日本という脅威と、日本に続いて華南という脅威がヨーロッパ世界の前に立ちふさがっていた。
 ヨーロッパ世界から見れば、常に強大な敵(もしくは対向者)に自分たちの発展を邪魔されていると感じても何ら不思議ではないだろう。ヨーロッパが攻勢に出たのは、ローマ帝国を例外とすればそれこそ「十字軍の遠征」ぐらいしかなかった。外洋へと乗り出して起きた「大接触」も、ヨーロッパ世界の目算では一方的な展開になる筈だったのだが、既に近世的限界にまで発展しつつあった東アジアもまた飛躍に向けて動き出そうとしていたところに、不用意に赴いた自分たちが手助けをしたような展開となっていた。
 そして19世紀中頃、いくつもの脅威がヨーロッパの飛躍と躍進を邪魔していた。
 脅威となるのは、先にも挙げた4つのアジア勢力になる。
 依然としてバルカン半島に大きな勢力を持つオスマン朝トルコ。東方からユーラシア大陸を横断してきた次のモンゴル帝国であるジュンガル汗国。新大陸と金銀の殆どを牛耳ってしまった、新興の海洋帝国ジパング(日本)。新たにインド洋へと押し出してきた中華王朝の一つカナーン(華南)。以上4つだ。
 順に見ていこう。

 モンゴルの支配を脱して以後、ヨーロッパ世界最大の脅威はオスマン朝トルコだった。16世紀中頃の最盛期には、バルカン半島全土ばかりでなくドイツ、ポーランド南部、チェコ、ウクライナ、イタリア半島南部にまでその勢力を広げるほどだった。
 16世紀後半から18世紀にかけてのヨーロッパは、オスマン朝をヨーロッパから追い出すことで歴史年表の殆どが埋め尽くされている。イタリア半島から追い出すだけで、フランス、イスパニアは国家として完全に息切れしてしまっていた。ヨーロッパ中原でも、ドイツ諸民族が何とかオスマン朝を押し戻すだけで、約200年もの歳月が必要だった。追い払った後も、低い人口密度、遅れた産業のため、発展はうまくいっていない。ウィーンの街は、オスマンの手により一度復興されたものを再利用し、寺院ですらそのまま意匠などを手直しして使っている有様だった。
 19世紀中頃でも、オスマン朝はハンガリー盆地以南のバルカン半島のほぼ全域とウクライナ南部を有し続けていた。オスマン朝自身の内部は停滞と腐敗でのたうっていたが、そんなことはヨーロッパ世界にはあまり関わりはなかった。近い内に、次のイスラム帝国が出現する前兆に過ぎないからだ。弱小なヨーロッパ勢力がイスラム世界そのものを圧倒するには、まったく力が足りていなかった。しかしそれでも、数百年前に比べてヨーロッパ世界は力を付けていた。その象徴が、1869年のブタ・ペストで中部ヨーロッパ連合軍とでも呼ぶべきヨーロッパ連合軍が、オスマン朝軍に勝利を飾った事である。
 この戦い以後、オスマン朝はハンガリー盆地からようやく立ち去ってヨーロッパ世界へと復帰し、脅威を受け続けていたドイツ、ポーランド双方の安定ももたらされるようになる。
 とはいえ、ヨーロッパ世界全体が安定に向かった訳ではない。

 ヨーロッパ世界の中心部は、モンゴルの脅威が去って以後も中小の国や地域に分かれたままだった。モンゴル人により力を奪われ過ぎていた事に加えて、16世紀に興った新教と従来の旧教の対立が、他勢力との戦いのため棚上げされた状態で残されていたからだ。
 しかしオスマンの脅威は大きく低下し、ヨーロッパにとって特にドイツ、ポーランド地域にとってオスマン朝に並んで脅威だったロシア大公国が、さらに東方からやって来たジュンガル汗国に掛かりきりになると、俄に内輪もめの季節が到来する。
 これが1878年から1908年まで続いた「ドイツ・ポーランド三十年戦争」だった。ドイツ北部は主に新教で、ポーランド及びオスマンから解放された地域は旧教が主体だった。
 また関わった国家としては、ブルゴーニュ王国、スウェーデン王国、イングランド王国が新教で、ラテン国家群は基本的に旧教を信奉していた。ロシア大公国は、南部でオスマン朝との争いが続いているところに、今度はモンゴルの後継者でもあるアジア系騎馬民族国家のジュンガル汗国が再び勢力を付けたため、ウラル山脈やボルガ川、カスピ海沿岸に大きな力を割かねばならず、とてもではないがヨーロッパ中央の情勢に関わる力はなかった。しかもロシア大公国は、ジュンガル汗国の攻勢のために19世紀を通じて勢力の縮小期に入っていた。
 この状態でイスラム勢力が減退したため、ヨーロッパ中央が大規模な戦乱へと発展したといえるだろう。遠くの敵が消えたので、近くの敵を叩いてしまうだけの余裕が生まれた結果だったのだ。

 ヨーロッパ中原での戦争はまさに泥沼で、各地の勢力や国家が介入と支援、そして参戦を繰り返した。どの国、どちらの勢力も、相手を圧倒するだけの力がなかったし、何より何十年も継続的に戦争をするだけの国力がなかったためだ。
 結果としては、戦場となったドイツ・ポーランド主要部の人口が3分の1失われ、産業など多くの分野が衰退した。また敗者となった旧教側のイスパニアは国家崩壊寸前にまで衰退し、旧教の盟主となったフランスも莫大な戦費と戦死者のため、内乱一歩手前にまで追いつめられていた。勝者となったのは新教側の国々だったが、こちらも諸手をあげて喜んでいる場合ではなかった。スウェーデン、ブルゴーニュなどは領土を大きく広げ、30年にもわたる戦乱のため産業は発展したが、各国国庫は債務不履行を何度も出すほど傾いていたからだ。
 新世界の富がヨーロッパに流れていれば話しは全く違っていたが、新大陸の豊富な富のほとんどは大東洋から日本、そして東アジアに注がれ続けていた。
 このため新大陸にまで出向く力のあるヨーロッパ列強は、何とかして新大陸の富(金銀)と土地(領土・植民地)を奪えないかと、この30年戦争の間画策することになる。

 ヨーロッパ諸国にとっての新大陸世界は、基本的にカリブ海南東部だった。他には、北大陸の東部沿岸、南大陸の東端部ぐらいとなる。他は基本的に一気に広がった日本人のものだった。19世紀中頃の新大陸での人口差は、既に10倍できかない開きがあった。軍事力や経済力では、既に比較にもならなかった。新大陸は、既に日本人の世界だった。
 日本人は、北大陸西海岸の中部に大きな入植地を既に形成して策源地にすらしていたが、ヨーロッパ諸国はどの国も小規模な拠点しか構えられていなかった。19世紀の序盤に北大陸北東部で行われた入植は失敗と苦難の連続で、1000人の入植地が飢饉を主な原因として数年でほぼ全滅した例も見られた。
 そうした中での成功例の一つは、1820年に行われたイングランドの清教徒達の移民だとされる。とはいえこの移民も、白人達が軽蔑していた原住民に様々な支援を受けて尚、一年で半数近い入植者を失っていた。こうしたヨーロピアンの失敗は、入植に選んだ場所が温帯地域ながら比較的寒冷で、土地の肥沃土や雨量からヨーロッパ式の農業にあまり向いていない事が原因していた。また地球全体の気象が若干寒冷だったので、麦の栽培できる地域での開拓が非常に難しく、新大陸東岸に穀物栽培に向いた肥沃な土地が少なかった事も入植の失敗に強く影響していた。
 要するに運が悪かったのだ。
 対する日本は、北大陸でもっと肥沃で比較的温暖な場所(西海岸中部から南部の肥沃な平野部)を選んだので、大きな苦労もなく成功を収めることが出来たと言えるだろう。また日本人の場合は、飛鳥(旧アステカ)、印可(旧インカ)を牛耳り、南北新大陸全域に進出し、それを可能とするだけの本国人口と新大陸で得た莫大な資本力が存在していた。
 そして日本人達は、巨大な資本と人的資源を投入して大型外洋船を次々に建造し、世界一広大な大東洋を次々に押し渡っていた。そればかりか、南大陸の大西洋側の銀江沿岸の温帯平原地帯にも初期的な入植と拠点建設を行い、北大陸でもミシシッピ川河口部や一部沿岸にも進出していた。そして何より、パナマ地峡の大西洋側に巨大な拠点を建設して、そこで原住民を動員した拠点を作ると共に、港湾施設、造船施設まで揃え、カリブ海の制覇にも乗り出していた。大型船も、銀江河口部を中継して大東洋回航され、19世紀後半頃には日の丸を掲げた艦船がカリブ海で日常的に行動するようになっていた。
 もっとも日本人達は、初期の頃は基本的に新大陸に来るヨーロッパ各国をあまり意識していなかった。というよりも、相手にしなかった。自分たちの勢力圏拡大と金銀の運び出しで手一杯だったため、自分たちの側から衝突するほど広がっていなかったからだ。相手をする時は、自分たちの邪魔をした時で、その時は周辺から味方を呼び集めて一気に殲滅していった。
 1820年代にイングランドと衝突して以後は、日本の側から特にヨーロッパ勢力に干渉することは激減した。しかし今度は、ヨーロッパの側から日本に干渉することが増えた。
 一番の理由は、富の偏在があったからだ。

 1820年代にアステカ帝国、30年代にインカ帝国を滅ぼし、現地を植民地にした事で、日本人は当時世界で産出される銀のほぼ全てを手にした。1850年代には、今までの規模では考えられないほどの莫大な量の黄金も手にした。その後も環太平洋圏の黄金を探してまわり、多くを手にしていた。まさに日本は、黄金の国だった。
 当然嫉妬と羨望が生まれ、日本人から奪えないかと画策する人々を産むことになる。
 イングランド王国の私掠船による最初の日本船襲撃は、早くも1828年に起きている。場所も北大陸南部・大東洋側の、日本側の一大拠点となっていた赤古湖近辺だった。
 日本船は、大東洋を偏西風と北太平洋海流に乗る形で約二ヶ月から一ヶ月半で横断して新大陸に至り、今度は北赤道海流と風に乗って東アジア(日本)へと帰っていく。そのため新大陸の拠点として海流と風の関係と、アステカ帝国の旧都にして日本人最大の拠点の一つとなっていたテノチティトラン(=後の手野地)からの近さを妥協した結果、飛鳥地方中部沿岸の赤古湖と命名された場所に一大拠点を置いていた。
 その後加州と命名される北部沿岸中原の広大な平原に植民地としての策源地を移すも、航路の関係から現地は重視され続けた。そしてそこは、新大陸から銀を積み出す最大級の拠点の一つであり続けた。
 そして港には要塞が築かれ強力な艦隊が駐留するが、大量の銀を運ぶ船団は武装を施すも強力な艦隊に太刀打ちできる程ではなかった。特に初期の頃は襲われることをあまり考えていなかったので自衛力や護衛戦力が弱く、そこをイングランド海軍の私掠船に狙われた格好だった。
 そして数度の襲撃を受けた日本側は、運ぶ船そのものを強力な戦闘艦とした上に、事実上の戦闘艦隊で銀を運ぶ通称「財宝船団」を編成するようになる。このため1830年代には、苦労して大東洋に渡って襲撃する事はされなくなったが、今度は南大陸の印可から運び出す銀が襲撃されるようになる。
 この襲撃には、イングランドだけでなく、スウェーデン、ブルゴーニュなど新大陸に至ることの出来た全ての国が参加していた。印可からだと、どうしても海路で南大陸の沿岸から一度赤古湖に運ばねばならず、その途上を狙われた。日本側も当然対応して重武装船や強力な艦隊を編成したため、各所で戦闘が頻発した。
 だが、戦場が基本的に新大陸の大東洋側のため、ヨーロッパ諸国にとって費用対効果の低い事がほとんどだった。何しろパナマが完全に日本人に押さえられているため、南大陸南端の間宮海峡を越えて船を派遣しなければならず、拠点がない地域での船の活動には困難が付きまとったからだ。加えて言えば、大東洋と大西洋の境目である間宮海峡は海の難所であり、越えるだけで多数の船が犠牲となった。日本人が主に原住民を使ってパナマ地峡を越えるのには、距離の問題以外にも相応の理由があったのだ。
 このため1840年代には、一旦ヨーロッパ勢力による日本の財宝船団襲撃は下火となっていた。1850年代に入る四半世紀のうちにヨーロッパ諸国が日本から奪った銀の総量は、合わせて300トン(銀貨換算で約850万枚)程度だったと考えられる。そして一年当たり10トン程度の銀を得るために、それ以上の出費をヨーロッパ諸国は強いられていたのだから襲撃が下火になったのも当然だろう。

 しかし1848年に北の新大陸太平洋岸で未曾有の黄金が発見されると、再び日本船の襲撃が注目を集めるようになる。
 とはいえ障害は以前より大きくなっていた。
 四半世紀ほどの間に得た莫大な銀(約5000トン程度と考えられている)で日本経済が肥大化し、比例して日本の海上戦力が大きく伸びていたからだ。また新大陸に住む日本人の数も激増しており、拠点も多くなっていた。
 当然ながら、日本人の方が新大陸各地への進出を進めており、新大陸の大西洋側でも日本人、日本船の数が増えていた。しかも日本人は、大東洋上の中継点としてハワイ諸島を使うようになっており、今まで以上の密度になっていた。加えて黄金を産出する加州・黄金湾近辺には、日本の大艦隊と兵団が駐留するようになっていた。パナマの防備も一段と強化されており、それどころかジャマイカ島などカリブ海の島々の一部が日本人のものとなりつつあった。メヒコ湾、ミシシッピ川で動く日本船も増えており、船の一部は現地で建造されるようにすらなりつつあった。日本船や兵士によるカリブ海での海賊活動や破壊活動も活発化し、中にはヨーロッパ勢が追い出された場所もあった。
 そして各地に日本人があふれ出したため、私掠船が日本人に見つかることなく加州まで行くことそのものが難しくなっていた。
 そうした中で日本から金銀をかすめ取るのは既に至難の業であり、「黄金祭」が10年ほどで終わってしまうと、日本船を襲うという熱意も大きく下がった。
 以後20年近くは、一部私掠船や意欲的な海賊船が大東洋での日本船を散発的に襲撃する時代が続き、強力な日本艦隊の前に殆どが海の藻屑と消えていた。新大陸での日本海軍の強力さは、織田幕府の混乱期も変わることがなく、新たな王朝が成立するとむしろ強まっていた。新国家建設で、それまで無理矢理だった水兵が本格的な近代軍として編成され始めた為だった。このため日本では、織田幕府までの海軍を「水軍」、それ以後の海軍を「海軍」と区別するほどだ。
 日本船襲撃が再び注目されるようになったのは、ヨーロッパで「ドイツ・ポーランド三十年戦争」が起きてからだった。
 戦争当事各国は、戦争のための莫大な戦費をどこからか調達しなければならず、その手段として手っ取り早い海賊行為に思い至ったからだ。とはいえ簡単では無いことは、先の時代で一度は証明されていた。しかも日本艦隊は、名実共に世界最強にして世界最大規模の勢力になっていた。
 この頃の日本人達の新大陸航路は、日本で各種加工品(手工業製品)か移民を乗せて出航し、まずは北部沿岸に到達して製品を降ろす。そこで今度は黄金か農作物を積んで赤古湖に至り、各種製品と農作物を降ろし、銀を積み込む。カリブ海で生産された砂糖や煙草が積み込まれることも多くなっていた。そして北赤道海流に乗って大東洋を渡り、呂宋又は琉球を経由して日本へと帰っていく。またアジア航路では、東南アジアに向かうときは手工業製品を満載し、現地で砂糖などの加工品を積み込み日本へと戻る。また各地を回りつつインド洋に向かう船もあり、最も遠くに赴く船はアラブ地域や東アフリカにまで赴いた。
 ヨーロッパ諸国は、目先の欲望のためにこうした強大な航路を持つ日本に対して挑んでいく事になる。
 また、ヨーロッパ諸国が再び日本船に目を向けた背景には、インドでの劣勢があったためだ。
 そして劣勢の原因こそが、華南帝国だった。

 華南帝国という名は、歴代中華王朝にあって異端の名だった。通常王朝(帝国)、つまり独立国家は漢字一文字の名称を掲げるが、この国は単に地域名をそのまま国家名にしたという希有な例を持っている。北の王朝に対する外交戦略と一般的に言われているが、外交に長けているだけに国家としても優秀であり、そして先進的だった。
 華南帝国が、中華王朝とは別の国として完全に独立を果たしたのは1860年のことだった。それ以前も華南商人は中華世界の交易のためアジア各地に出向いていたが、独立して後は国が商業、海外貿易を殊の外重視したため、一気に密度と規模が拡大した。華南帝国は、商人の国だったのだ。
 そして日本商人を押しのけるようにマラッカ海峡を越え、インド洋へと怒濤のように流れ込んだ。これは中華地域でインド産の安い綿布(キャラコ)が、中華世界で重宝されていた事が原因していた。今までは、かなりの量を日本人を中継して買っていたが、日本が新大陸から持ち込んだ銀のために東アジア経済全体で物価の大幅高騰(=「価格革命」)が起きたため、自分たちで直接手に入れようと言う意志を強めさせたのだ。また「価格革命」そのものが、東アジア、インド洋交易の規模を大幅に拡大していたため、今まで日本商人、インド商人、イスラム商人により牛耳られていた貿易状態に華南商人が入り込む余地を作り出した結果でもあった。また華南帝国が日本やイスラム、さらにはヨーロッパから最新技術を広範にかつ急速に取り入れた事も、華南商人の急速な拡大と躍進を助長した。華南帝国自体も、最新技術の大量導入によって一気に国力を増大させ、大清国が末期的症状の中でのたうち回るのを後目に躍進を続けていた。
 この頃中華世界を単純に人口で見ると、大清国が約3億、華南帝国が6000万人、ジュンガル汗国が2000万程度となる。そして大清国が依然として海禁政策を続けているため、華南商人が中華世界の過半の海外貿易を独占する形が出来ていたた事による、華南帝国の躍進であった。
 当時のヨーロッパ世界がロシアを足しても総人口1億5000万に満たないことを考えると、アジアの富は巨大な人口とそれを支える産業が基盤になっていた事は疑いない。日本が新大陸から持ち込んだ莫大な量の金銀も、もし中華世界が独占していれば、人口が大きすぎるために極端に大きな変化はなかった可能性の方が高いほどだった。それほど1国ごとが巨大な世界だったが、その中でも辛うじて適正な規模の国がヨーロッパの前に立ちふさがっていたのだ。
 そしてヨーロッパ世界は、進出が始まったばかりのインド洋で、日本商人、インド商人、イスラム商人に加えて、華南商人も相手にしなければならなかった。
 しかも華南は、日本同様にヨーロッパと同等の船と技術、兵器を有しているため、国力と数の差からヨーロッパが劣勢に立たされることが多かった。初期の頃にヨーロッパがインドの一部に得た港湾なども、華南の軍船により主が変わることが多かった。セイロン島も、小規模な戦争を経た1872年には華南帝国領となっている。
 加えて日本商人と華南商人は、普段はよく勢力争いをして時には戦闘にも発展していたが、環インド洋交易の維持では妥協し、イスラム、ヨーロッパの排除ではたいてい共同戦線を張っていた。しかも華南商人、日本商人は、イスラム商人、インド商人に、自らの近代的文物、つまり大砲や鉄砲などの最新兵器を特に金する事もなく供給し続けていた。巨大な人口と国力に裏打ちされた生産力を持つため、商売相手を気にしていなかったのだ。
 このためインド洋でのヨーロッパ勢力は、19世紀半ば以後は最も弱小勢力に落ちぶれる事になる。



フェイズ:08 「各世界の再編成」