■フェイズ3「新時代到来」

 相次いで後継者を失った今川氏は、各有力大名によって細切れに分解されて戦闘も終息するかに見えたが、さらなる変化が戦闘を継続させることになる。
 今度は武田氏の武田義信と、9年前に後継者争いで敗れ事実上隠遁していた武田勝頼の対立が再び開始されたからだ。理由は当然今川氏がほぼ滅亡していたからに他ならない。そして自らを武田正統とする武田勝頼陣営は、元康らを破った北陸勢の支援を求めた。後ろ盾のなくなった武田義信陣営は、北条を頼るより他無かった。
 そして北陸勢は、今川義元、元康らに正義はなかったとして、義信の蟄居と勝頼の家督相続を後押しして勝頼陣営についた。武田氏の宿敵だった上杉氏も、この時は信濃の流れが強い勝頼についた。
 これに対して北条氏は、長篠での打撃が思いの外大きく、しかも北陸勢の大軍は相手に出来ないので領国へ引き返して、国境の防備を固めてしまう。
 ただし北陸勢のうち浅井長政以外は冬が迫っているため、領国に帰らねばならない時期に差し掛かっており、上杉氏などは早々に引き上げていった。ただし上杉氏は越後側から勝頼陣営を援助するとしたので、大きな問題はなかった。
 問題だったのは朝倉氏だった。
 浅井氏一人が近畿から東海にかけての安定を図らねばならないのだが、それが朝倉氏にとって不愉快だったからだ。
 この冬の間に浅井長政の勢力と権勢は決定的なものとなり、今までの同盟関係は完全に主従逆転すると見られたからだ。真面目な浅井長政にそんな気はなかったのだが、朝倉義景の悪い面を見習った後継者朝倉長景は、浅井長政の人望とそして今後得られる権勢に嫉妬した。
 そして朝倉長景の「予測」通り、浅井長政の権勢と人望はより大きなものとなった。翌年夏まで続いた武田の跡目争いは浅井氏、上杉氏の助力もあって、武田勝頼が勝利した。
 しかし北関東の上野の国の半分は、形だけ武田義信を援助した北条氏がそのまま占領を続けたため、武田氏の領国は若干減少した(もう半分は上杉領)。
 一方旧今川領を中心に浅井長政の遠征は続き、駿河、遠江、三河、尾張、美濃の平定を完了。上杉氏の助力もあり飛騨の三木氏も将軍への忠誠を誓うという形だったが、浅井長政に屈した。他にも近畿の多くの大名も、飛騨の三木氏と似たような形で服属していった。六角氏が滅ぼされたのが効いていたようだった。これで浅井長政が鎮定して将軍足利義昭の直接影響下となった領域は500万石にも及ぶようになる。
 しかも上杉氏は将軍への忠誠も厚く、武田氏も改めて上洛し、朝倉氏などその他の戦国大名を加えると、室町幕府の影響圏は結果的に日本の半分近くに及ぶことになった。
 しかし大きな問題も浮上していた。
 広大だった旧今川領を誰が統治するかだ。
 論功から考えれば、浅井長政が多くを得ることは確実とされた。地理的なつながりからもそれは肯定された。
 しかし当の浅井長政は、新たな提案を行う。
 天下がこれほど乱れたのは、足利将軍家の直接的な力が弱まったからに他ならず、旧今川領のことごとくを将軍直轄地として日の本を足利将軍家中心に再編成すべきだと。
 しかしこの提案には問題も多かった。
 室町幕府には、広大な領土を統治する能力そのものが欠落していた。基本的に守護大名の調停機関であったから、当然と言えば当然だろう。旧今川の家臣の生き残りも、実質的な力を見せた試しのない将軍に仕える事に対しては反発が強かった。このため浅井氏が、今川氏のように助力するというかたちで統治せざるを得えなかった。つまり形式以外の何も変わらないと言うものだった。
 しかも計数(算術)に強い近江者と呼ばれる商人に近い戦国武士達をさらに多数召し抱えた浅井氏でしか、広大な旧今川領の統治は不可能だった。石田三成などがその典型例だった。
 無論再び群雄割拠という状況もあり得たが、それは各地の豪族やかつて破れた一部の大名以外の多くが否定した。せっかくまとまり始めたものを、今更バラバラしたい気持ちはなかった。それに現状では、あまりにも浅井氏とそれに連なる大名連合が有利な状況になっていた。
 また、勝利した側の者としては、新たに領地を得たいというのが拭いがたい心情だった。ただ、浅井氏以外の有力者が旧今川領を得ようとしても、そのほとんどが浅井領の近江をまたいで有さねばならず、戦国時代以前に行われた国替えでもしない限り、浅井氏との関係を維持し続けなくてはならなくなる。それは在地領主となっていた戦国大名としては非常に困った事態だった。
 そうした負の感情を水面下に内包しつつ、今川騒乱後の裁定が取りあえず終了する。
 1583年には近畿、東海は一応安定した。
 しかし再び火がついた戦乱の火種は、瞬く間に日本各地に燃え広がっていた。十数年間戦いを停止させられ鬱憤の貯まっていた各地の戦国大名が一気に動き出し、地方を中心にして呆気なく戦国時代の再開となった。
 そしてこれに対して動くべき足利幕府だったが、次なる混乱が足利幕府の重鎮となった浅井長政の足を引っ張った。朝倉長景の反目である。
 朝倉長景は、ことあるごとに浅井長政の動きをかつての今川と比べて非難して、名誉や義を重んじた浅井長政の心理的間隙を突いてきた。このため近畿でも再び不安定度が増し、摂津、播磨、丹波、丹後、但馬での小大名同士の小競り合いが頻発化した。有力大名がいまだいない紀伊、伊勢北部の不安定さも増した。
 そして、その中の不満分子を糾合した朝倉長景は、次第に浅井長政への反発を露わにする。

 朝倉氏は、天皇家に祖を持つ名家中の名家で、足利将軍家も内心たいしたことないと考えていた。特に義景の跡を継いだ朝倉長景は、長政の一字を名前をもらったにも関わらず長政を妬み、将軍家を蔑ろにする傾向が強かった。自分たちの方が名家であるという実体のない自負からきたものだった。
 そして彼の不満は1584年に爆発し、浅井長政が上杉氏と共に北条に遠征しているその間隙をついて蜂起。近畿の反浅井陣営を糾合しつつ、京に侵攻。足利将軍家を攻め滅ぼして、約250年間続いた足利幕府は滅亡させてしまう。
 ここで朝倉長景は、自らこそが天下統一を目指すと宣言して同士を募ると同時に、近畿各地の反対陣営を攻撃した。
 そして余勢を駆って近江へ攻め入るが、浅井長政の新たな居城となっていた佐和山城は頑強に抵抗した。
 佐和山城は交通の要衝あり、しかも難攻不落と言われた堅城を一族の浅井政元を中心にした軍勢が守っていたため、容易に落ちる気配を見せなかった。
 そして北条攻めを途中で切り上げた浅井長政が、大軍を率いて近江に戻ってくる。しかも朝倉氏が将軍家を滅ぼしたとして、上杉氏も共に北条攻めを切り上げて北陸に軍を向けていた。
 また北条氏も、別に朝倉長景と共謀したわけではないし、将軍家を滅ぼした者に荷担する気はなかった。浅井氏、上杉氏が退く際にも、邪魔をしないどころか停戦協定を結んだほどだった。北条氏が求めるのは、関東での自主独立だけだった。
 そして予期せぬほど早く反撃を受けた朝倉長景は、佐和山城攻めを取りやめて因縁の地関ヶ原に前進。そこで浅井長政を迎え撃った。これに勝てば天下が見える筈だった。
 しかし実力、人望、さらには兵力差は如何ともし難く、また大義もないため、朝倉長景は惨めな敗北を喫する事になる。そして越前に命からがら逃げ帰る頃には、加賀の国にまで上杉軍が攻め込んでおり、その年の秋までに居城一乗谷城も陥落。朝倉氏は呆気なく滅亡した。
 だがこの騒乱で浅井氏も広大な領内に大きな傷を受けたことになり、しかも将軍家を失った事で統治に対する大義名分も失ってしまう。
 浅井長政自身も一時失意に陥り、日本の地方各地での戦いは活性化した。
 戦国大名にとって意外に邪魔だった足利将軍家は遂にいなくなり、また100万石単位の勢力を持つ戦国大名にとって当面の関心は周辺地域の統合となっていた。
 民衆の側も、十年ほどのかりそめの平和もあった事から、戦乱の再開よりも少しでも大きな政治勢力による統合と安定を望んでいた。各地の有力大名による地方ごとの統一事業は、そうした民意もあって順調という言葉を用いて良いほど進んでいったのだ。
 しかも天下安寧を望む声は、商業の活発な近畿や東海で一番強かった。大商人達がそれを望んでいるからだ。
 こうした声を受けて浅井長政も失意から一転、自らの手で天下に安定をもたらす戦い、「天下不武」、即ち武力を用いずとも治められる世の中を築くと宣言した。
 そして上杉景勝、武田勝頼がこれに賛同。また毛利輝元は、薩摩の島津氏の勢力が自らの地域にまで及んできたため、「天下不武」に賛同すると言う形で中央の勢力との協力関係を築こうとした。
 巨大な浅井と毛利に挟まれた近畿西部の大名の多くは、所領安堵を条件に一斉になびいた。中には宇喜多氏のように完全な安定を求めて浅井氏に臣従した者まで出た。
 また民衆も、浅井長政が掲げた理想主義である「天下不武」を熱烈に支持した。

 新たな統治者として、浅井長政という人物は民衆にとってうって付けだった。今川氏の政商だった筈の中村屋藤吉郎などは、手のひらを返したように既に浅井長政に取り入っていた。あまりの変節ぶりに、長政の妻お市の方は中村屋藤吉郎を酷く嫌ったという。
 話が少し逸れたが、浅井長政は伝統勢力も重んじたため、本願寺や高野山など寺社勢力との協力関係も比較的良好だった。
 寺社勢力の動きも、今川義元、元康親子がかりそめの平和の間に寺社勢力から政治と武力を切り離す努力が行っていた事で反発を強めていた結果でもあった。
 しかし浅井長政も必要以上に宗教勢力に武力と政治力を持たせる事はなく、宗教勢力も力の差を前に強くは反発はしなくなったものの政治面での反目が残った。
 そして浅井長政は、自らの人望、優れた部下、豊富な財力、朝廷の権威などを利用して、着実に勢力を拡大していった。
 ただ浅井長政は、自らの政治スローガンとなっていた「善なる戦い」や「正義の戦い」を重視したため、敵に対しては極端だった。松永弾正久秀のように徹底的に攻め滅ぼされた武将も少なくない一方、敵対した後に降伏した後も所領安堵された武将も少なくなかった。
 そして1590年頃になると、浅井長政を中心にした有力大名の合従連合が、日本の半分以上を支配するようになっていた。それでも、関東の北条氏、九州の島津氏、四国の長宗我部氏、そして東北で急速に勢力を拡大した伊達氏など各地方の統一を目指した大大名が存在していた。
 また浅井長政を中心とする日本中央部だが、越州(越前、越中、越後)を制覇した上杉氏、甲信の武田氏、中国の覇者毛利氏という巨大な大名が存在した。
 各地方の大大名のどれもが150万石から250万石クラスだった。
 つまりは、地方ごとの統合がほぼ完了したのがこの時期になる。
 しかし、その中でも浅井氏の勢力は巨大だった。直接治める領域だけで500万石に達しており、従った者を含めると700万石に迫っていた。しかも日本経済の中枢を押さえているため経済力も圧倒的であり、長政を慕う家臣も優秀な者が多かった。特に経済に明るい者が多いため領国経営は優れており、浅井氏の国力を日に日に増大させていた。既に最盛期の足利氏を越える力を持っていた。
 そうした中で、朝廷から浅井長政に一つの手紙がもたらされる。
 そろそろ征夷大将軍の位を受けるべきではないだろうか、と。
 これに対して浅井長政は、自ら宣誓するよりも世の大名に事の是非を問うた。自らに将軍職を受けるだけの器量があるだろうかと。
 これには賛否両論が出た。
 上杉氏、武田氏は賛成に回り、北条氏、伊達氏、さらに島津氏が反対した。毛利氏、長宗我部氏は賛否どちらにも今ひとつ煮え切らず、毛利氏では所領安堵さえ確約できるのならと言う意見が家中には多かった。そして各地からの意見が出たのを見た浅井長政は、天下安寧のため朝廷より征夷大将軍の位を受ける事を決意する。
 彼の最初の号令は、日本全国に武力に寄らない号令を発するためにならば、さらなる武力を用いることも辞さないというものだった。
 つまりこれ以上逆うなり勝手な戦いを続けるならば、征夷大将軍の名のもとに征伐を行うと言っているに等しかった。これに対して伊達政宗が、北条氏と組んで天下取りの勝負に出ようとしたと言われている。だが、将軍となった浅井氏をバックとした上杉氏、武田氏に睨まれた形では行動に出ることはできなかった。また日本中央部との対決を避ける動きを続けた北条氏は、徐々に宿敵となりつつあった佐竹氏と和解した上で、浅井長政の将軍を承認する動きに出てしまう。
 一方で浅井長政は、地方統治の形として各地方に管領職を設けて政治的優位を与えることで、地方行政重視の姿勢を示していた。同時に、戦国時代に必然から一般的となっていた在地領主、地主貴族の存在を認めるものだった。
 当然ながら各地で最も大きな大名に管領職が与えられる事になっており、現状とそれほど変わらない小王国を認める内容でもあった。
 この政策は新たに成立する幕府の中央集権体制を弱め、さらには地方の反乱や有力者による簒奪を可能とするものだったが、浅井長政は何よりもまずは一日も早い天下安寧を優先させることとした。
 また以後の事は、幕府を開いて後に政治と政策によって解決を行うという決意も見せた。

 そして1591年、浅井長政は征夷大将軍となり幕府を開いた。
 幕府を開く場所は、今川時代に石山本願寺から明け渡されていた旧石山地域に置かれることになる。
 地名も大坂と改め、大坂幕府が開かれることになる。

●あとがきのようなもの

 今回は、最初に織田信長を殺してみました。
 話も出きる限り短くしてみました。信長様を殺した時点で歴史が書き変わりすぎて、追いかける方も大変でしょうしね。
 でも家康(今川元康)に天下を取らせるのもシャクなので、信長様つながりで浅井長政に天下を取ってもらいました。伊達政宗に天下を取らせてみることも考えたのですが、やっぱり東北からじゃ難しいと思ったので止めました。またお市の方が浅井長政に嫁いでいることにしたので、結果して織田家の血統が残るオチは史実と変わらずです(笑)

 なお、今回成立させた「浅井幕府」ですが、恐らくは徳川幕府ほど長命とはならないでしょう。地方、諸侯に大きな力が残りすぎているので、最悪は神聖ローマ帝国のようになって、18世紀半ばぐらいにもう一回戦国時代を経験することになるんじゃないかと予測しています。
 また浅井幕府は中央政府運営のための資金確保のために商業主義に傾き、当時の日本の産業形態もあって、スペイン型の商業帝国に近い形を取って、一時的に海外進出したあとで一気に衰退するかもしれません。
 恐らくは上記二つの状況と足したような状態に陥るんじゃないかなとか思います。
 そして幕府崩壊後に半世紀ほどもう一回戦国時代した後で出現するのが、近代的主権国家としての日本なのか、あんまり代わり映えしない次の幕府なのかは皆様が想像を逞しくしてもらえればと思います。
 鎖国しない(するだけの統制力もない)浅井幕府の日本では、この後も西洋の文物はどんどん入ってくるので15〜16世紀のような戦国時代にはならず、火薬兵器や外洋船舶(ガレオン船)を多用したテンポの早い戦乱が大規模に発生して、どこかが抜き出た時点で一気に統一していくんじゃないでしょうか。

 それではまた、別の並行政界で会いましょう。