●第一部「文明開化?」

 ●白船来航

 嘉永6年 の紀元節(西暦1853年=以後西暦及び太陽暦表記)、孝明天皇や摂関家当主の枕元に天照大神と神武天皇がお立ちになって重大なお告げを下されたという噂が、その年の春先から朝廷内でもちきりとなった。
 天皇などの夢の内容が漏れたのは、他でもなく孝明天皇本人が広く伝えなくてはならないと、枕元の人物に言われたからだ。
 全く同じ日、江戸幕府の将軍徳川家慶、老中の阿部正弘、島津の島津斉彬や水戸の徳川斉昭など雄藩の藩主の枕元にも同じような現象が連続して発生した。また伊勢神宮など主要な神社の神主の元、東西本願寺や高野山、比叡山など重要寺院の総本山の僧正にも同じお告げが下されていたことが次第に明らかとなった。中には、白昼神々しいまでに見目麗しい神々から直接話を聞いたという者まで現れた。しかも実際見た場合の目撃者は複数同時だった。空を飛ぶ舟を見たという者まで現れた。
 この噂は、同じ夢を見た人々が多く寺社などからの進言が多数寄せられた江戸城と京の御所で内容の一致を見ることになる。一部には嘘や酷い誇張もあったが、話された内容は概ね一致しているためすぐに嘘か本当かが分かるほどだった。そして天照大神と神武天皇などのお告げの内容を要約すれば以下のようになる。
「日の本に天孫降臨以来の危機が迫っている。西洋の異人が大きな武力を携え、日の本の平和を侵そうとしている。しかし南の彼方から、再び我々の子孫が至って日の本の民を導くであろう」

 一人や二人なら、夢の話と一笑に付すことも出来た。だが、最も賢者と言われる人々や為政者、指導的地位にある宗教者が同じ夢を見たとあっては、完全に無視することもできなかった。
 しかも一部の見識を持つ人物には、今後どうするべきかを示唆されたり、知識を授けたりしている。夢の中での問答で事細かに伝えられた者もいた。
 実際それらを文書にして見ると実に的確であり、また先進的な考えだった。蘭学者などから意見を聞いても、西洋でも最も先進的な考えであることが断片的だが分かった。
 そして既にオランダから開国すべきだと言われたり、各地で異人の船が出没している事からも、いずれ武力を持った外国の艦隊が開国を迫りに来るかもしれないと日本人達も考えていた。最悪の場合は、清帝国に対する阿片戦争のように侵略を受けるかもしれないとすら想像された。
 だが、実際何をしてよいか分からなかった。技術と経験がないから対抗すべき武力をすぐに整えることも適わないため、幕府や朝廷は「見猿聞か猿言わ猿」状態で現実逃避しているのが現状だった。
 そうしたところにこの騒動なため、早くも幕府や朝廷の一部は文字通りの夢物語のような話に期待を託するようになっていた。現実主義的な賢人達も、まるで無視できないとは考えていたが相手が夢ではどうにもならなかった。取りあえず、夢で得た知識を活用する方法を、ごく少数のものと相談したり考えを進めるのが精一杯だった。
 だが困った事に、孝明天皇が夢の話を信じ切ってしまい、各地に文を出して従う旨を伝えていた。これに動かされる大名も出てきて、幕府はその統制に四苦八苦し、結局ほとんど無為に数ヶ月を過ごすことになる。
 そこにアメリカの艦隊が琉球に至ったという報告が、幕府に飛び込んできた。そして人々が夢はやはり夢に過ぎなかったのかと諦めていたところに、6月3日、白い船体を金箔で飾った美しい蒸気船の船団が三浦半島沖に現れた。
 世に言う「白船来航」である。
 来航した船団の数は3隻。それぞれの船には既に各地で目撃されていた船のような外輪はなかったが、蒸気(煙)を吹き上げる煙突は備えており、また舷側には大砲を据えていると思われる窓がいくつも並んでいた。一見美しいが間違いなく戦闘艦艇、つまり船団ではなく艦隊だった。しかしその船には白地に赤い円を描いた旗が掲げられており、日本人達の見間違いでなければそれは自分たちもよく使う日の丸である。しかも船首には、黄金の菊の御紋が飾られていた。
 来航後も船から人々が現れない間は、日本のどこかが極秘で作った船じゃないのかと民草は言い合ったりもした。
 そして幕府の役人が小舟で船団に近寄るよりも早く、船団の中でも一番大きな船から一艘の小型蒸気船が降ろされ、ゆっくりと久里浜の浜辺に上陸した。海岸は色めき立つが、全ては上陸した人々を目にして吹き飛んでしまった。
 陸地に降り立ったのは、この世のものとは思えぬほど美しい人々と、身の丈七尺に迫ろうかという屈強な男たちだった。日本人達は特に美しい人々に圧倒されてしまい、攘夷のため五月人形のような姿で駆けつけた武士たちも、呆然と立ちつくしてしまった。
 数は美しい人々が5名。護衛と思われる屈強な男衆が20名だった。美しい人々の出で立ちはかつての公家装束や神社装束を洗練させたような姿であり、男衆は洋服に近い出で立ちだった。さらに男衆は、腰には刀を差しているが銀色に輝く胴丸と鉄兜を付け、無機的な短筒のようなものと種子島よりも格段に進んだ銃を携えていた。
 そうした日本に近いが日本らしくない人々を迎えたのは、オランダ語の通詞(通訳)を連れた幕府の役人だった。だが、通詞の必要性はなかった。彼らは明瞭な日本語を発したからだ。
「私たちは、日本国よりほぼ南に二百五十里の海の彼方の瑞穂国より参りました。私たちは瑞穂国より日本国に使わされた正式な使者であり、日本国を統べる江戸幕府の代表の方との交渉を持ちたいと考えています。それが不可能であるならば、国書だけでも受け取ってはいただけませんか」

 その後幕府役人は国書は受け取れぬと突っぱねたが、来航者は別の話をし始めた。そして彼らの言葉は荒唐無稽にして驚愕に値した。
 瑞穂国という異国からの使節は、自分たちの先祖は日本人の一部を祖先としていると言ったのだ。
 そして彼らは続けた。
 自分たちは他国とは可能な限り交わらず、独自の文明を育て今日まで至った。日の本よりも高度な技術を持っているのは、千年以上昔に大きく発展した名残であり、かつては目の前の海洋に広がる大きな国となっていた。しかし数百年前に本国を襲った巨大な天変地異により大地の多くを失い、今は大きく衰退している。それでも何とか平和に過ごしてきたのだが、欧米各国の動きもあって既にそれも限界であり、こうしてかつての「同胞」を頼ることにした。
 なぜ日の本の民を「同胞」と言うかといえば、自分たちは二千年以上昔に日本列島に至ろうとした人々から別れたという言い伝えがあるからだ。こうして交わす言葉も通詞を必要としないのが、何よりの証であると。
 聞くこと全てが、幕府の役人では対処が不可能だった。オランダのような外国を想定していたのに、全く想定外の連中がやって来てしまったのだ。見た目は神々しいまでの美しさだが、頭の中がおかしい連中じゃないのかとまで考えた。だが相手は軍事力を持ってやって来た一国の使者であり、大きな権限を与えられていない現場の役人ではどうにもできなかった。
 しかも事態はさらに混乱する。
 なんとその場に、朝廷から使わされた使者が到着したのだ。朝廷からの使者は孝明天皇自らの命令、つまり勅令を携えており、何としても来航者との交渉をまとめるようにと伝えた。また来航者に対しては、来訪を歓迎すると共に、ゆくゆくは御所にまで来てもらえないかという要請がなされた。
 幕府も朝廷の人間が江戸湾口近くに滞在していることは知っていたが、まさかそんな目的だったとまでは見当がつかなかった。しかし、それほど孝明天皇がお告げにこだわっていたのだ。
 そして天皇が交渉をまとめろと言っているのに、政治上幕府が無視するわけにはいかなかった。名目的な権威とはいえ、天皇家と朝廷を日本の内政上で蔑ろにはできない。しかも幕府の将軍とは征夷大将軍であり、征夷を実行すべきときに天皇から仲良くしろとの言葉があっては、どうにもならなかった。
 かくして白船と江戸幕府との間に交渉がもたれ、日本の新たな歩みが始まる。



●天孫拝謁