■フェイズ8「第二次世界大戦(1)」

 1939年8月23日、「独ソ不可侵条約」が締結された。
 この条約に、世界中の国々が大慌てとなった。あり得ないと言われた国同士、独裁者の握手によって、ドイツはヨーロッパに対する、ソ連は北東アジアに対する進出、侵略がより容易となったからだ。
 特にドイツとソ連の間の東ヨーロッパ諸国にとっては、ほとんど死刑宣告に等しい悪夢の関係の成立となった。事実ポーランドやバルト海沿いのラトビア、エストニア、リトアニアは、両国の格好の餌食とされた。フィンランドは、民族の存亡を賭けた戦いのため世界中から武器を集めるようになった。
 北東アジアの国で一番反応が大きかったのは、共産主義陣営と事実上の全面戦争をしていた中華民国だった。
 当時同国は、防共協定からさらに進んだドイツとの軍事同盟を、ソ連及び共産主義陣営に対抗するための軍事同盟を画策していた。ドイツの突然の行動は、明らかな裏切り行為だった。
 このため中華民国は、二日後の8月25日には防共協定の空文化を宣言した。国際信義を考えると賢明とは言い切れなかったが、それほど大きな衝撃を与えたのだ。破棄にまで至らなかったのが政治的な強かさを見せてもいたが、中華民国の受けた衝撃は極めて大きなものだった。特に蒋介石の受けた衝撃と落胆は大きかったと言われており、彼の落胆が外交の急転換を行わせる事になる。政治の主役も、蒋介石から一時的に汪兆銘に移っていた。一方のドイツ総統アドルフ・ヒトラーは、中華民国の姿勢を強く非難した。ただし、その水面下でのドイツは、ソ連の浸透を防ぐために自分たちの関係を継続するように交渉をしていた。だが中華民国は、以後は結局ドイツとの関係をプラス方向に進める事はなかった。
 そして中華民国は、ドイツの抜けた政治的穴を補完するため、イギリス、アメリカとの関係強化を急速に行った。秋になるとドイツ人を国内から追い出し、イギリス、アメリカの軍人を新たに軍事顧問として雇い入れる交渉を開始する。アメリカもニューディール政策の行き詰まりもあって、中華民国との関係強化に積極的だった。軍需は停滞した経済のカンフル剤となりうるし、労せずして中華市場への参入が出来るからだ。
 また中華民国は、近隣で唯一まともな工業力を持つ日本との関係も重視するようになる。それまでは英米の後ろにくっつくだけの外交弱国と蔑んでいたが、有色人種で唯一達成された近代化と重工業を持つ日本の存在は、四面楚歌に近い状態の中華民国にとっては一筋の光明のようにも見えたと言われている。
 日本側も、日本の理由でソ連と緊張状態が続いているし、武器売買が主とはいえ貿易が拡大できるため好意的で、イギリスやアメリカの顔色を伺いつつ中華民国との関係を段階的に強化していった。
 そして当時の日本は、北東アジアで共産主義の脅威が自国へ直接波及する事を強く警戒していた事もあり、中華民国以外とも積極的な外交政策に動いていた。
 主に日本は、日英同盟のさらなる強化と、アメリカとの経済以外での関係強化を行おうとした。
 また日本では、ソ連の現実的脅威に備えるためとして、超党派の内閣設立運動が行われ、結果国民の人気が高かった近衛文麿を総理大臣とする挙国一致内閣が8月29日に成立した。そしてこの内閣のもと、日本にとっては突然舞い込んできた形の世界大戦に臨んでいく事になる。
 そしてアジアでの新たな動きが本格化する前に、次なる衝撃が世界を襲った。
 1939年9月1日、ドイツが突如ポーランドに侵攻したのだ。
 「第二次世界大戦」勃発である。

 ヒトラーは、ポーランドに攻め込んだぐらいでイギリス、フランスはドイツに宣戦布告しないと信じていたと言われる。だが、リッペンドロップ外相の根拠のない虚言や戦争に至る経過など、この際どうでもよかった。
 二度目の世界大戦が勃発した事こそが問題だった。
 これは先の世界大戦に「第一次」と付けられたぐらいで収まる問題ではもちろんなかった。ほんの数日で、世界の主要な国の多くが戦争状態に巻き込まれていったからだ。
 日本も例外ではなく、日本は日英同盟に従いほぼ自動的に連合軍(当時はこんな言葉はなかった。)に参加し、ドイツに対して宣戦布告する事になった。
 37年前に最初の同盟が交わされた日英同盟が二国間の攻守同盟となっていたため、関係を解消しない限り日本はイギリスの行う戦争に参加しなければならなかったからだ。日本としては、近隣の共産主義の方が遙かに強い脅威で、本来は日本近隣での戦争抑止のための日英同盟だったのだが、それが裏目に出た形だった。
 とは言え今回も戦場はヨーロッパの遠くで、現時点では戦争を始めたドイツ以外は、ほとんどの国が戦争が行えるような状態ではなかった。例外は、常に巨大な軍備を抱えていたソ連ぐらいだ。無論日本の軍事力も、ほぼ完全に平時状態だった。ソ連と海を挟んで接するので軍の一部は常に準動員状態に置かれていたが、これも念のためという以上のものではなかった。一定以上の海軍力を有する日本に対して、ソ連軍がまともに海を越える能力がなかったからだ。ソ連空軍の一部戦力は注意すべきだったので、日本の空軍力も着々と増強されていたが、1930年代の日本が注意していたと言えばその程度でしかなかった。
 ただし、ソ連がドイツに遅れてポーランドの東半分を占領したので、ソ連の軍事行動が北東アジアに波及する事を警戒するため、日本がドイツに宣戦布告したからと言っても手元の戦力を動かせる状態ではなかった。むしろ純粋な国防のために、大幅な増強と動員強化が必要な状況だった。ドイツに対して行われた事も、初期の頃は外交上の手続きを出るものではなかった。
 幸いにして、ソ連極東海軍は潜水艦以外の脅威が低い事と、ソ連が海を挟んだだけの日本との積極的な対立を望んでいない事から、イギリスがすぐにも求めた高速戦艦や巡洋戦艦がヨーロッパに派遣できそうだったが、逆に言えば日本が軍事的に出来ることと言えばそれぐらいだった。
 そうして日本は、周辺各国と調整を行いつつ、ややゆっくりした速度で総力戦体制への移行を開始する。戦争は第一次世界大戦のように長丁場になるだろうから、じっくり準備を整えてからヨーロッパに本格的に助太刀に行けばよいだろうと考えられていたからだ。
 しかも日本は、四半世紀前に比べて国内産業が大きく発展していた事と、中華民国への積極的な武器輸出をしていた事が重なって、当面の兵器や物資の生産ではイギリスやドイツはともかく、フランスなど他のヨーロッパ諸国を凌駕出来そうなほどだった。さっそく大量の貨物船が物資を満載して、ヨーロッパに派遣される海軍の護衛のもとヨーロッパを目指した。
 日本にとっては、戦争そのものより戦争による特需の方が重要だと当初は考えられていた。
 そして1939年秋から冬にかけて、大方の予想よりもゆっくりと戦争は流れた。わずか一ヶ月ほどでポーランドの戦いが終わって以後、バルト海地域がソ連に飲み込まれ、フィンランドとソ連が戦争を行った他に大きな動きはなかった。フィンランドの戦いでは、日本は国際連盟常任理事国最後の仕事として各国と共にソ連を国連から除名したが、行ったことと言えばその程度だった。

 動きがあったのは、むしろ東アジア地域だった。
 ソ連がマンチュリアや東トルキスタンへの援助や支援を大きく増やし、支援を受けた二国が中華民国との戦争状態を激化させたからだ。しかもソ連は大量の「軍事顧問団」を各国に派遣して、中でも機械化部隊は中華民国軍を各地で蹴散らし、中華民国軍はほぼ全面的な後退を余儀なくされた。中華民国軍の大部隊を機動戦で包囲殲滅したマンチュリア(義勇)軍という名のスラブ人達は、揚子江流域までを完全に制圧してしまった。ソ連はドイツとの不可侵条約を有効に活用したのだった。
 これに対して中華民国は、ドイツとの関係を断ち切ってまでして各国からの武器輸入や援助を求め、主にアメリカと日本が応える事になる。実質的援助をしない裏切り者よりも、金儲けしか頭にない米英日の方がいくらかマシな交渉相手だったからだ。
 そして中華地域での戦争で、一つ奇妙な状態が起きた。中華共産党が、国民党の側に立って戦闘に加入するようになったのだ。これは中華地域での戦争が、イデオロギー(主義)ではなく民族間の戦争になった事が影響していた。マンチュリアや東トルキスタンばかりでなくソ連赤軍までが、反抗的態度を取った中華共産党を完全に敵視して戦線を拡大したからだ。
 そしてこの背景には、この頃のソ連がマンチュリアを中心にしてチャイナ全土の赤化と勢力下に置く事を目論んでいた事が影響していた。同じ共産主義者でも、自らのコントロールを受けない者は邪魔者でしかなかった。そして中華共産党については、異端の裏切り者だとして激しく糾弾した。
 ついでに言えば、中華支配についてはマンチュリアなど既に自分たちの下にいる者達を使えばよいので、事態がここまで進んだ以上中華共産党は既に用済みだった。

 なお、ヨーロッパと中華双方の受注によりアメリカ経済は大きな回復曲線に乗り、日本でもさらなる好景気へと右肩上がりの線を描くようになった。また日米双方で、兵器の開発と生産が大きく上向くようになる。
 日本では、護衛艦艇と戦時標準船の大量建造が早くも10月にも実働し始め、日本各地で新たな造船所、ドックの建造が始まり、造船株は天井知らずとなった。
 アメリカと日本の産業界は、当事者ではない巨大な戦争の予感に喜び震えていた。

 年も開けて1940年4月から5月にかけて、ドイツは全面的な攻勢にうって出る。4月にはデンマーク、ノルウェーへの侵攻が行われ、5月にはベネルクス三国にまずは侵攻し、そして5月10日にはフランスでの戦いが始まった。
 戦争は、電撃戦と呼ばれる革新的な戦争スタイルを確立したドイツの圧倒的優位で進んだ。海での戦いが重要な要素を占めるノルウェーでは苦戦を強いられたドイツ軍だが、陸と空では圧倒的だった。
 大軍の突破が不可能と言われた森林地帯を機甲部隊が駆け抜け、再建から十年にも満たない空軍が制空権を獲得し、重砲兵の代わりに敵軍を叩いた。5月27日には英仏軍がダンケルクからブリテン島へと逃げ出し、6月14日にフランスの首都パリが陥落、同22日にフランスは降伏を余儀なくされた。それは驚天動地の変化に他ならなかった。
 しかしドイツの攻勢は続き、7月からはドーバー海峡を挟んでイギリスとドイツの熾烈な航空戦が始まり、「バトル・オブ・ブリテン」と呼ばれる空の戦いは同年9月まで続く事になる。
 この頃の日本軍は、春には主に海軍の先遣部隊が地中海にまで進出を始めていた。主にフランス南部の港に様々な物資を運ぶための船団と、それを護衛する海軍の姿であった。日本海軍ご自慢の高速戦艦部隊がエジプトのアレキサンドリアとジブラルタル海峡に進出していたが、実働段階と呼ぶにはまだ物足りなかった。イタリアが参戦するまで、地中海はほぼ平時の海だったからだ。
 しかし、1940年が明けてすぐにも一度に4隻も援軍に駆けつけた高速戦艦にイギリスは最大限の感謝を表し、日本はこの時点としては十分の外交得点を上げることに成功していた。
 しかしヨーロッパでの目立つ日本軍といえばその程度で、陸軍は勿論、第一次世界大戦の最中に誕生した空軍の姿もほとんどなかった。いても観戦武官や連絡将校、派遣調査団レベルだった。1個飛行大隊の防空戦闘機隊がアレキサンドリアまで進出したのが、最大限の前進だった。
 軍人よりも、日の丸商船隊や各財閥の商社員の方が、遙かに目立っていた。1930年代に政府の政策により著しく強化されていた日の丸商船隊は、続々とスエズ運河を往来するようになっていた。彼らは、「守れ日本の生命線」を合い言葉に、危険を顧みず日本に必要な物資を運ぶべく、危険な海にも臆せずに進んだ。海軍がこの時期地中海に出向いていたのも、イギリスの要請よりは商船隊を守るために進出しているという向きがあった。
 また日本の政府及び軍の動きは、のんびりしているようにも感じられるが、これには理由もあった。
 主な理由は日本側の戦争準備が出来ていなかったからだが、英仏からの強い要請が積極的で無かったことも影響していた。イギリスが日本に求めたのも、ドイツ海軍の通商破壊戦を封じるための高速大型艦艇や対潜水艦部隊の派遣であり、他については出来るのならどうぞ、という程度のものでしかなかった。
 「フォニー・ウォー(まやかしの戦争)」とすら呼ばれたように、誰もがどこか油断していたのだ。そして油断の代償は、フランスの降伏という衝撃的な事件へ帰結した。
 ドイツ軍のフランス国境突破による包囲作戦の成功と「ダンケルクの奇跡」の時点で連合国各国もようやく尻に火がついたと言え、我関せずだったアメリカ国民ですら大統領選挙に大きな影響を与えたと言われた。
 日本政府も、5月末のダンケルクの戦いの頃から大いに焦るようになった。

 1940年6月頃からは、ヨーロッパで一人追いつめられたイギリスから日本に対して、矢のような派兵要請、援軍要請がもたらされるようになった。日本政府も、準備の出来た戦力から逐次投入のような形で次々にヨーロッパに兵力を派遣していった。特にイギリスが当面求めた航空機とパイロットに関しては、なけなしの空母に戦闘機ばかりを満載して運んだりもした。夏の終わりぐらいには、日本軍機が英本土でも見られるようになり、「バトル・オブ・ブリテン」に僅かなりとも貢献を果たした。
 イギリス兵から「ゼロ」又は「シースワロー(海燕)」と通称された「零式艦上戦闘機」が有名になり、連合軍初の戦略戦闘機(ストラテジー・ファイター)とすら言われる行動時間を誇り有名になったのも、「バトル・オブ・ブリテン」後半からの活躍が切っ掛けとなっている。ヨーロッパでの速度重視の一撃離脱による戦い方に対して、格闘戦を重視する日本の戦闘機はドイツ軍パイロットにとって勝手が違うことが多かった。また異常なほどの行動時間、航続距離の長さが、脆弱な機体だった「ゼロ」を大戦屈指の戦闘機に押し上げたのだった。ドイツ軍パイロットは、戦闘機も爆撃機も問わずに、「ゼロ」を送り狼として特に恐れた。そして日本側も、送り狼や長時間の戦闘を重視するため「ゼロ」の武装を7mm機銃6丁で固めたタイプを多く送り込んでいた。
 夏以後は地中海でも頻繁に日本軍の姿が見られるようになり、フランス降伏直前に参戦したイタリア軍との戦闘も行われるようになった。日本海軍が、大西洋でUボートの最初の撃沈を記録したのもこの頃の事だった。

 しかし日本軍は、国力の限界とその伝統から、基本的に海外展開能力や補給能力が低かった。海軍などは、自らの自己完結性の追求と先の大戦の教訓として、自らの艦艇リストの中に支援艦艇や補給艦艇の比率を増やすよう努めていた。だが日本の陸軍と空軍は、基本的に防衛軍でしかなかった。前の大戦でも、日本からヨーロッパに運んだものの量は知れていた。前の大戦も、ほとんど借り物と貰い物で戦争をしていたのだ。
 今回の戦争が始まってからは、日本国内でも多数の輸送船舶やトラックの増産が始まったが、この時点では工場の生産ラインを兵器用に組み替えたり、大量生産に向けて新しく増築している段階であり、それらが本格的に稼働するのはまだ先の事だった。先の世界大戦以後継続して日本政府が熱心に育成していた造船業界も、戦争に際して建造施設を計数的に増加させる傍ら、護衛駆逐艦や戦時標準船の建造が大車輪で本格化しようとしているところだった。連動して日の丸商船隊も、政府が集めた船員や徴兵された人々の訓練で大わらわで、とにかく浮かんでいる船を回転させて欧州に泥縄式に物資や人を送り込んでいた。万博用に建造していた大型豪華客船群も、艤装半ばに戦時輸送用に改装され、大戦を通じて大量の兵士を欧州に運ぶことになる。
 そして全ての日本の生産力を担う多くの企業や軍需工廠は、未曾有の需要に応えるために、アメリカの高性能工作機械を我先に買いそろえているところだった。
 1930年代の経済成長の影響もあって、千葉の君津、播磨の広畑のように、製鉄所を大規模な高炉から組み上げている場所もあった。工業化の一つの指標となる粗鋼生産力は、1930年代後半から二度目の世界大戦の間に爆発的な伸びを見せており、1943年には1000万トンを記録する事になる。この数字は、イギリスの生産量の7割に匹敵する規模で、ドイツの半分に達していた。つまり日本の重工業力は、少なくとも量の面においてはイタリアやフランスを凌いでいることは意味する。
 同年の船舶建造量も、1943年にはイギリスを抜いて年産200万トンを達成するほどにまで拡大している。アメリカからの貸与を除いた船舶保有量も、終戦時には排水量1000万トンを優に越えるほどだった(※貸与は約200万トン。日本全体の喪失量は約150万トン)。先端産業では他国に劣る面も多かったが、基礎的な国力は十分に列強と呼びうる数字を示していた。そうした巨大な生産力が、激化する戦争の中で日本のヨーロッパでの軍事力を支える大きな力となっていく事になる。
 また一方では、日英共同での兵器開発が精力的に行われたり、アメリカ企業との合弁で兵器開発を行う企業もあった。分野で見ると、自動車産業と航空産業で顕著だった。中でも空軍に多くの機体を納入していた中島飛行機は、アメリカのP&W社と提携してエンジン開発を行い、大戦屈指の戦闘機の一つとされる「二式戦闘機《疾風》」とその改良発展型の「四式戦闘機《疾風改》」を送り出すことになる。
 しかし日本の総力戦体制構築は、戦場から遠いという要素があるため、この頃特に速度の面において他国よりも遅くまた弱かった。他国から求められた当座の輸出品の生産の方が遙かに効率よく大量生産されていた事を説明として加えれば、日本の総力戦体制が政策の面からもいかに弱かったかが分かるだろう。

 もっとも戦争自体は、日本の戦争準備に関係なく1940年9月には若干膠着状態になった。攻撃を続けていたドイツが、イギリスの決死の反撃と次への準備のため少しばかり息切れしたからだった。
 しかし戦争は、まだまだ始まったばかりだった。
 真の総力戦はまだ始まってもいなかった。


●フェイズ9「第二次世界大戦(2)」