■フェイズ13「さらなる坂の上を目指して」

 第二次世界大戦は、日本にとって真の一等国、他国に侮られない国となるための戦争だった。この点で疑問を挟む日本国民は極めて限られており、日本人達は一致団結してヨーロッパで戦った。日本兵が口にした「御国の為」という言葉も、国の地位が向上して日本人一人一人が少しでも豊かで満ち足りた生活を出来るようにと望んでの事だった。
 また、一等国を目指すとい事であるならば、明治維新以後行った全ての戦争が、日本が欧米諸国から対等に見られるための戦争、つまりは一等国になるための戦争だったと言えるだろう。
 19世紀半ばから以後一世紀は、ヨーロッパ列強を中心にした帝国主義の時代であり、強くなければ生き残れない時代だった何よりの証拠でもあった。しかも白人社会が世界標準とされ、有色人種はその見た目だけで不当に低く見られ、蔑まれた。そうした厳しい時代にあって、帝国主義路線に傾くこともなく、一方で弱小な存在に陥ることもなく、比較的順調な発展を続けた日本はある意味幸運であり、日本人達の努力は非常に大きなものだったと判断して構わないだろう。
 そして一等国になるための総仕上げである第二次世界大戦だが、日本が代償として支払った負担も建国以来最大といえるほど大きなものだった。

 第二次世界大戦において日本は、約500億ドル(1250億円)を戦費として使った。これは当時のGDP300億ドル(750億円)に対して167%を示しており、当時はまだ先進国ではとは言えなかった日本にとって大きな負担だった。だが他の主要参戦国よりも軽い数字であり、アメリカでもGDP2000億ドルに対して戦費4000億ドルを消費していた。ただしアメリカの場合は、実際の戦費は3000億ドルで4000億ドルという数字はこの頃使われたお金全てを現している。つまりアメリカは、国力の4分の1を戦争中も民間消費に使えるだけの余裕があった。
 話が少し逸れたが、日本の戦費返済は、500万人にも達して肥大化した軍隊の適正な規模への動員解除と再編成、適度な税制の施行、経済の平時への再編成とGDP向上のための財政政策などを行えば、長期的には大きな問題はなかった。国家予算枠も、増税、国債なしでも70億円台で編成可能となっている。終戦当時には、最良の場合の場合10年程度で日本の国家財政は健全化すると予測されていた。10年という数字は、アメリカを除けば最も軽い数字だった。なお、借金という意味ではアメリカから受けたレンドリースが100億ドル近くあったが、戦争前の100億ドルと戦後の100億ドルとではまるで意味が違っている。しかも今後も日本経済の拡大が十分予測されていたので、国内の戦費返済同様に大きな問題はないと考えられていた。
 そして当時の日本はいまだ新興国であり、しかもこの時代においてほぼ唯一の産業新興国という珍しい立ち位置にあった。順調な経済成長と良性のインフレによって、膨大な借金も十分に返済可能だった。しかも戦争中に経済の拡大に成功した数少ない国の一つであり、単純なGDP計算では完全に世界有数の国家へと躍進を遂げていた。ヨーロッパが大きく落ち込んだため、一人当たりGDPでも、ヨーロッパ水準に並びつつあったほどだ。GDP相応に国富が溜まれば、10年もすれば完全に先進国化するとも見られていた。
 そして植民地帝国主義の時代の残滓が強く残る当時は、ヨーロッパ先進国列強(+米ソ)以外は、ヨーロッパでも工業化すらまともにできていない、世界のほとんどが先進国列強の植民地だった。インドのように植民地からの脱却を果たした国もあったが、そのような国も産業の建設はまだ緒についたばかりだった。彼らは、これから自分たちの坂の上の雲を目指して歩き始めたばかりだった。
 つまりは、以後二十年ほどの間の1960年代半ばまでに、当時の日本と同じ形態の国が出現する可能性も低くかった。そして日本は、戦後アメリカが急速に作り上げつつあった、世界規模での自由主義経済の中で十分な成長と発展が見込めた。日本が東アジアでの自由主事陣営の砦、共産主義の防波堤となる事も、日本にとってはむしろ有利な要素だった。欧米各国が連携して共産主義を包囲するためには、日本を無視できなくなるからだ。
 しかも日本国内の開発、社会資本整備もまだ多くが途上であり、人口増加率も依然高い数字を示していた。一人当たりGDPが大きく向上したと言っても、それは戦争のおかげで、資本蓄積が全く不十分だった。利用できる国土面積に対して過剰な人口の食料不足に対しても、アメリカや英連邦諸国からの安価な食料輸入により十分対応できる状況が訪れつつあった。このため日本政府は国民の多産政策を奨励し、1940年には25年以内に総人口一億人を目指すと発表していた。食料輸入は国内資産の流出を意味するが、それ以上に輸出で稼いでしまえば良いという方向性が見えていた何よりの証拠だった。
 一等国という一つの道しるべを越えたが、坂はまだまだ上に向かって続いていた。

 また第二次世界大戦は莫大な戦費を必要としたが、一度目の世界大戦と同様に大きな戦争特需を日本にもたらしていた。開戦前の1939年に約400億円程度だったGDPは、1945年には約750億円にまで成長を遂げることが出来た。無論インフレや人口増加もあるので、実質的なGDPの伸びは約2倍ではなく1.5倍程度になるが、それでも大きな経済成長だった事は間違いなかった。戦後日本が世界の主要国として十分な地位を占めることができたのも、戦争中の経済成長が大きな要因になっている。世界比率で言えば6%でアメリカと比べれば7倍の格差があったが、6%という数字はヨーロッパの列強と同じ程度であり、少なくとも終戦時点でのGDPは、アメリカ、イギリス、ソ連に次ぐ順位にあった(※連合軍占領下のドイツは除外)。つまりフランス、イタリアを追い越している事になる。300億ドルという数字は、終戦頃のイギリス本国の350億ドルと極端な差は無くなっている数字でもある。日本経済が如何に成長したかを示す端的な例と言えるだろう。
 そして国力のバロメーターの一つである軍備についても、戦後の動員解除後も十分一等国と名乗るに相応しい規模に育っていた。しかも国家予算の三割以下で十分に養える規模であり、国力を反映した軍事力で十分に一等国と呼びうる状況にまで到達していた。

 だがしかし、坂の上に至った筈の日本の将来には、順調とは言いかねる不安要素もあった。
 一つは、新たな覇権国家を目指すソビエト連邦ロシアの辺境領土と、海を挟むとはいえ直に国境を接している事だった。もう一つは、近隣の中華大陸が政治的、軍事的に不安定な事だった。
 つまり北東アジア情勢は、大戦前と大きな変化はなかったと表現してもかまわないだろう。あえて言えば、イギリスを始めとしたヨーロッパ勢力が、アメリカという一つの大国に置き代わったぐらいだった。日本人がついに得ることができなかった上海の租界では、ドルを抱えたアメリカ人が大手を振って歩いていた。しかもソ連は、ヨーロッパでの圧倒的劣勢を他で補うべく、東アジアでの活動を以前よりもずっと活発化させていた。
 そしてソ連の脅威と中華の混乱を目の前に抱えた日本は、アメリカという他国とは隔絶した力を有するようになった超大国の手助けを借りなければ、二つの脅威に対して正面から対応することが難しかった。
 それが坂の上へと至った筈の、この時点での日本の現状だったのだ。そして日本政府も日本人の多くも、ある程度は現実を見る目を備えており、無茶をしようという気は皆無だった。

 もっともこの頃のソ連は、戦争が終わると共に全軍の70%以上という大幅な動員解除を進め、戦争で受けた大きすぎる損害からの回復に忙しいため、日本と極端な対立状態を自ら作ろうとはしなかった。何しろソ連は、長らく首都を奪われ、奪回したモスクワも廃墟と化した瓦礫の山だったからだ。戦争末期のナチス親衛隊によるソ連領内の破壊については、目を覆わんばかりだった。このためソ連は、しばらく臨時政府のあるクィビシェフに事実上の首都機能を置くほどの打撃を受けていた。重工業の半壊については、並の国家なら倒壊してもおかしくないほどだ。
 その上ソ連にとって、ヨーロッパに少しも西進できなかったばかりか、戦争中に火事場泥棒する事もできなかった。加えて、世界最強となったアメリカ軍が国境のすぐ向こう側にまで来たことは大きな脅威だった。
 他にも終戦時のソ連には、問題が山積みだった。戦死による若年層の枯渇などは、今後の半世紀以上も悪影響を及ぼすようなものもあった。
 故に、戦場から遠かった極東は、ソ連にとっても向こう十年程度は安定しているべきだった。
 そしてそのソ連と日本は、対馬海峡、宗谷海峡、択捉海峡の三カ所で国境を接していたが、この時点での両者にとって幸いな事に全て海を隔てているため棲み分けもしやすかった。
 しかもソ連太平洋艦隊は、戦争中に大きく拡大した日本海軍に対して比較にならないほど劣勢で、ヨーロッパから日本海軍が凱旋してくるとその差は歴然となった。何しろこの頃の日本海軍は、退役間際の旧式艦を含めると戦艦10隻、大型空母7隻を有する大海軍に成長していた。海軍自身が軍艦を作りすぎたと考え(※戦時中に戦艦、大型空母それぞれ4隻を中心とする大増強を行っている)、自ら大規模な軍縮を計画していた程だった。数の上で主力となっていた護衛空母や護衛駆逐艦など、ほとんどを予備役か退役させねばならなかったほどだ。30隻の護衛空母や200隻の護衛駆逐艦など、戦争が終われば無用の長物でしかなかった。戦艦や空母も、1930年以前に建造されたものは軒並み予備役入りか、酷い艦は終戦すぐにも退役、解体されていた。
 1920年代22万人体制だった軍は、一時95%近くを動員解除して30万人にまで圧縮。その後緊張関係の拡大に伴いかなり復活し、陸軍27万人、海軍12万人、空軍11万人の50万人体制へと変化している。そして日本が本国であるのに対して、辺境でしかない極東ソ連とでは、軍事力の密度の違いは明らかだった。
 しかもソ連は、東ヨーロッパにまで踏み込んできたアメリカ、イギリスなどと自らの国境線を挟んでこれからは向かい合わねばならないので、尚更極東地域で積極的に動くことは難しいと見られていた。
 だが、安易な楽観もできなかった。
 依然としてソ連領であるコリア半島には、ソ連軍の基地が各所に存在し、大戦後はさらに増える傾向にあった。何しろコリア半島は、冬に海が凍らないというロシア人にとって非常に貴重な場所だった。大規模な空軍を駐留させれば、日本西部一帯を空襲することもできる。コリア半島は、これからの戦略要衝でもあった。
 加えて、ソ連の衛星国であるマンチュリア、東トルキスタン、モンゴル、プリモンゴルのうち、マンチュリアは一部が海に面し、資源や産業、交通網と地理関係もあってソ連にとって最も重要な衛星国だった。
 何より、ソ連以外の共産主義国といえば、戦前と同様に北東アジア地域にしかなかった。ソ連の膨張がアジアに向くのは当然だったと言えるだろう。
 そして彼らの矛先は、一定の力を持つ日本ではなく、衛星国群の先にあるチャイナへ向けられていた。

 大戦終了からしばらくした中華民国では、アメリカを中心にして国民党と共産党が合同して国家の再編が開始されていた。だが、事態は急速に悪化していた。近隣からの支援を受けた共産党が、華北部を中心に急速に勢力を拡大したのが原因だった。北東アジア各国の軍が、撤退時に武器、弾薬、物資を残し、またプリモンゴルやマンチュリアの辺境では共産党軍の編成と訓練が行われていた。
 国民党は共産党を強い脅威と認識して、共産党が約束違反しているとして、まずは一応言葉で非難し、すぐ後に戦闘を仕掛けた。結果として、1946年夏には内戦が再開した。戦闘は瞬く間に中華全域に広がり、一時は国民党がほぼ全域を支配するに至った。長らく共産党の拠点だった延安も陥落したほどだった。
 しかしここで北東アジア共産諸国が、国民党の帝国主義的行動が極めて強い脅威だと国際非難を展開。しかもかつてドイツと深い関係を結んでいたことを持ち出して、蒋介石と国民党がファッショだとも強く非難した。そして国際世論はファッショという言葉に敏感に反応し、少しばかり内情を調べた上で国民党への支持や援助を低下させた。対する国民党の側は、北東アジア共産諸国が中華共産党を軍事支援したり共産党系テロリストを匿っていると非難して、両者の対立が激しくなった。
 そして中華共産党は滅びることはなく、農村部に逃れて力の回復を計ると同時に、農村部から都市と鉄道に頼る国民党への兵糧攻めを開始していた。
 しかし、事態を楽観と言うより表面上の優位を確信していたとされる国民党は、「正統な中華の復活」を掲げて北東アジア共産諸国への強硬外交を展開した。すぐに武力を用いるまでに至らなかったのは、後ろにいるソ連を流石に気にしたからだった。しかし蒋介石としては、アメリカを巻き込む事でソ連を抑え込み、自らは「正統な中華の復活」を成し遂げることで、自分たちの世界での権勢を極めようと構想していたと言われている。
 だが、蒋介石の構想は、中華世界しか見えないが故の妄想でしかなく、砂上の楼閣は早々と崩れ始める。
 国民党は、内戦に伴う常識を遙かに越えた増税という名の搾取と紙幣乱造で国内経済を大混乱に陥いらせて民心を失いた。故に、ファッショであるという風聞(事実だった)と蒋介石自身の強欲さのために西側は半ば愛想を尽かし、地道な努力を重ねていた共産党が各地で勢力を吹き返していった。それを横目で眺めていた日本は、国民党への支援を少しばかり送りつつ、日本本土と同じ扱いとした台湾の防備を少しずつ増やすようになった。
 そして自らの貴重な衛星国を失う気のないソ連は、水面下でアメリカと取り引きするに至る。ソ連は衛星国が攻め込まれない限り中華共産党に積極的支援はせず、アメリカも同様にソ連や共産主義国が中華地域に直接軍事力を入れない限り国民党を積極的に支援しないことになった。社交辞令程度だったが、両勢力への支援、援助についても自粛という方向で話しがまとまった。そして実際に余裕のないソ連は、相手を嫌っている事もあって中華共産党への支援を本当に減らしてしまう。また周辺の共産主義国も、誰もが漢族(中華)を嫌悪、警戒していたため、同じ共産主義だからと言って強く援助、支援する事は無かった。ソ連の命令がないとなると、尚更その傾向を強めていた。
 北東アジア諸国にとっては、中華の中で永遠に内戦している事が理想だった。
 このため中華共産党も勢いを得ることができず、表向きは国際社会が無視したような状況のまま内戦は続くことになる。表面的な状態は1920年代の中華内戦に近かった。

 その後、中華地域では第二次世界大戦後に2年間も内戦が続き、主戦場となった華北地域が大きく荒廃する事になった。国連も勧告や介入を実施し、あまりに酷いのでアメリカとソ連が共同歩調を取る時もあった。そして1948年に停戦協定が結ばれ、政治的棲み分けが実施される。
 この時中華共産党はようやくソ連からの独立を許され、華北を中心にして中華人民共和国という名の共産主義国を建国。第二次世界大戦後初めての東西対立の場が成立する。もっともソ連側としては、いずれ対立することが分かっている中華共産党よりも、忠実な北東アジア諸国を優遇し続けた。そして北東アジアの共産主義諸国は、混乱を横目で見つつソ連を中心としながらむしろ安定と団結に向かった。ソ連の影響力が強いマンチュリアなどでは、混乱する中華地域からの流民を利用した強引な資源開発、社会資本整備が実施され、以後東アジア共産主義国家群の中心的役割を果たすようになっていく。
 一方のアメリカも、アメリカ国内の世論が蒋介石、国民党という全体主義者を支援することに否定的なため、強く肩入れする事はなかった。
 このため中華民国、中華人民共和国共に冒険的行動に出ることができず、以後両者の対立と漢族の分裂は決定的とされるようになっていく。
 この間日本が出来ることは、中華分裂以後世界的に自由主義陣営とされた中華民国への支援を増やし、自らに混乱が波及しないようアメリカなど自由主義陣営各国と足並みを揃えるぐらいだった。また、中華地域からの資源などとのバーター取引による武器輸出とアメリカからの間接的発注により、ある程度の外貨を稼ぐ事ができた。大戦後縮小しすぎた軍備も、ソ連との対立が深まった事も重なってかなりが復活する事にもなった。
 しかし出来たことと言えばその程度で、日露戦争での敗北以後、日本は中華情勢の部外者であり過ぎた。にもかかわらず、実質的にはアメリカの代わりとして東アジアの大国として振る舞わねばならないので、日本にとっては理不尽な事も多かった。

 しかも日本にとって、理不尽な事は続いた。
 国力低下に歯止めが掛からない中華民国が、台湾島が歴史的に中華の領土であるとして「返還」を求めたのだ。要するに、身内から搾り取るものがなくなったので、他人の金が欲しくなったのだ。
 これに対して日本は、台湾地域は60年近く日本領であり、既に住民のほぼ全てが自らを日本人と考えている地域だと強く反論した。加えて日本人一般は、国民党はドイツと組んだ世界の敵だと考えており、民意の点から台湾を国民党に渡すことは考えられなかった。中華民国との関係も、非常に悪化してしまう。しかし一方では、共産主義の拡大の懸念が世界で広がっており、日本人も中華中央の赤化には大きな脅威を感じていた。
 そしてヨーロッパが一体となって復興から発展へと向かう一方での東アジアでの共産主義の拡大は、日本に一層の努力を促すことになる。
 何しろ北東アジア唯一の自由主義の国が日本であり、ヨーロッパでの不利を東アジアで取り返さなければならないソ連を中心とする共産主義陣営の圧力は、一層高まる事が確実だったからだ。

 そして日本では、一等国になって尚その上には二つの超一等国と経済的統合に向かうヨーロッパ世界が存在する狭間で、先の見えない坂道を上っていくしかなかった。その道とは、国家という存在が歩むべき道の一つであったことは間違いないだろう。
 坂の上に広がる雲は、まだまだ空の上に漂っているのだった。




●いいわけのようなもの