●フェイズ01「前史」

 1918年に終了した世界大戦から以後30年間は、停滞した時代だと言われることがある。ではなぜ停滞だったとされるのか、それを少しでも見て行ければと思う。
 1920年代から30年代にかけての歴史上のターニングポイントは、1936年2月26日に日本で起きた軍事クーデターだと言われることがある。また、日本国内での軍部の台頭、若手将校の独断専行と暴走の始まりとされる「満州某重大事件」こそが、ターニングポイントだとする説もある。
 そして混乱の中心が日本となった背景には、ヨーロッパ世界の一定の平穏と停滞があった。

 ヨーロッパでは、1917年3月のロシア革命勃発で帝政ロシアは民衆によって打倒され、革命で大きな役割を果たした社会主義者、共産主義者の一時的台頭があった。しかしその後のロシア国内での混乱は、より急進的な考え方を持つ共産主義者が排除されたことで、ある程度落ち着きを見せる。共産主義の勢力減退は1917年4月に起きた、「封印列車爆破事件」が原因しているとされる。この事件では、当時のドイツ帝国がロシアとの戦争を優位にするためスイスなどに亡命していたロシア人共産主義者のウラジーミル・イリイチ・レーニンなどをロシアに送り込もうとしたことに端を発している。
 しかし彼らを乗せた列車は途中で何者かによって爆破され、軍用の爆薬を使ったと思われる大規模な破壊工作によりほぼ全員が死亡した。革命の混乱の中のため犯人は分からずじまいだったが、この事件こそがその後のロシアの進路を大きく変えたと言われる。
 ある学説によれば、ロシアで起きる筈だった共産主義革命及び共産主義国家の勃興がテロにより消えたため、その後世界中での共産主義活動が著しく低下したというのだ。さらに別の学説では、共産主義が拡大しなかったため社会不安が一定割合で沈静化し、社会不安に乗じて成り上がる勢力の台頭が阻止されたとしている。この根拠は、イタリアでの1922年の「ローマ進軍」としている。しかもイタリアでは、その後も全体主義(ファッショ)と言われることになる勢力の台頭が続き、不景気で不安定化した国民を煽ることで膨張主義を実行し、アルバニアの保護国化、エチオピアの併合へと続く。
 しかし幸いと言うべきか、イデオロギー要素の強い共産主義と全体主義はヨーロッパでは主流とならなかった。確かにスペインでは1935年から以後十年近い間、イタリアの支援を受けた独裁者フランコ将軍と人民戦線という社会主義、共産主義的な勢力が多数を含む陣営が内戦を行った。だが、この事がむしろ教訓となったのか、ヨーロッパでは他の国々がイデオロギーに染まることはなかった。ヨーロッパ各国では、共産主義運動は違法とされ続けた。
 結果的に社会主義国家となったロシア連邦共和国ですら、資本主義、多党制を認めるやや急進的ながらも、議会制共和主義を標榜とした民主主義国家だった。1930年代前半に混乱に見舞われたドイツも、世界で最も優れた憲法(ワイマール憲法)を否定することはなかった。
 またヨーロッパ社会の一翼であるアメリカ合衆国では、民主党のフランクリン・ルーズベルトが大統領となって、「ニューディール政策」と呼ばれる社会主義的な公共投資による景気回復政策を強力に推進したが、結局自由主義を信奉するアメリカ国民の長期的な支持を得ることはなく、また政策自体が失敗したこともあって否定されてしまう。
 ニューディール政策の完全な否定は1940年11月の大統領選挙を待たなければならなかったが、とにかくアメリカも急進的、革新的な思想に染まることはなかった。
 つまりは、ヨーロッパ白人社会は比較的平穏だったと言えるだろう。ビクトリア時代から第一次世界大戦の破局に至るまでの激しい歴史と比較すれば、ヨーロピアン達は落ち着きを見せていたと言えるだろう。

 しかし世界で最も遅れてグレート・パワー(列強)になった日本、正式名称大日本帝国は、帝国の名に恥じず実に帝国主義的だった。だが日本は、革新的でも急進的でもなかった。あくまで帝国主義的であり、ほぼ完璧なヨーロッパ外交、政策の後追いを行っていたに過ぎない。後追いをしたことで目立ってしまったが、ヨーロッパ基準から見れば一般的行動でしかなかった。
 1931年9月に行われた「満州事変」と1932年3月の「満州国建国」は、軍国主義でも全体主義的ではなく単に帝国主義的な行動だった。だからこそヨーロッパ諸国は、日本に対してはむしろ同情的だった。むろん有色人種国家が自分たちの「マネ」をしたことへのやっかみはあったが、事件は有色人種同士の問題な上に帝国主義的でしかなかった。日本がもう少し「紳士的」だったのなら、その後日本が国際的に孤立することもなかったとも言われている。しかも日本の場合は自ら国際連盟を脱退したのであり、実のところ脱退する必要性があったのかすら多くの疑問が持たれている。極論、会議への出席拒否で、居直ってしまえば良かったのだ。それだけで、国際連盟は何も出来なかっただろう。なまじ日本人が真面目すぎたために、事態を大きくしたと言えよう。
 また日本の国際的孤立には、中華民国とアメリカの影響が強いと言われている。確かにそれは事実だったが、これも一時的な事象に過ぎないと言うのが当時のヨーロッパ社会での一般認識に過ぎなかった。
 不景気にあえぐアメリカは、市場欲しさに当時たいした許容量のない中華市場に妙なこだわりを見せた。だが、ヨーロピアンの見るところ、アメリカが強く支援した蒋介石と国民党は、イタリアのムッソリーニとファシスト党のデッドコピーに過ぎなかった。国民からの支持基盤が弱いところまで似ていた。
 そして中華市場を二分しようとした日本とアメリカ、全体主義に走る中華民国、中華の市場価値を認めなくなったヨーロッパという図式で、その後の東アジア情勢は進む。
 とはいえ、アメリカの商売上の敵は、実のところ日本ではなかった。
 日本は、国民党が各地の軍閥を討伐して北上してくるに従い、華北(北支)からは経済的撤退を図っていた。日本の力では、当面満州の開発と防衛だけで手一杯だった。しかも日本の動きは、イギリスなどが中華民国の経済安定のための通貨制度導入に力を入れた事で加速された。日本程度の経済力、財力、財政的経験では、イギリスに太刀打ち出来るはずもなかった。
 そして日本の脅威に対向するべく軍備増強する中華民国内に深く食い込んでいたのは、実のところドイツだった。
 ドイツは世界大戦終了で余った武器を大量に中華民国に売却しており、商売促進のために多数の軍事顧問も派遣していた。一部では、自国で出来ない新兵器の実験も行っていたと言われている。そして当時の中華民国市場で最大の市場だったのが武器市場であり、優れている上に多少安価なドイツ製兵器にアメリカは敵わなかった。しかも中華民国の武器市場には、世界中の武器を製造できる国が入り込んでおり、経験の浅いアメリカ企業では太刀打ちできないと言うのが実状だった。他の製品についても、中華民衆の中で拝外主義が高まりつつあるのでシェアを広げにくに、そもそも中華市場の購買力の低さから、アメリカの求める市場足り得なかった。数字の上では、外交的対立が目立つ日本との関係の方が余程重要なほどだった。

 そして満州事変から数年もすると、国際社会は日本の満州の問題についてあまり興味を抱かなくなった。当事者の中華民国ですら、当面は各地の軍閥の討伐を重視し、万里の長城より北は中華ではなく蛮族の土地という伝統的考え方があるため事態を容認すらしていた。実際1935年には、「梅津・何応欽協定」という形で国民党は満州国を黙認する外交を実施している。ヨーロッパ社会も、イタリアのエチオピア侵攻、スペイン内乱という大きな事件がたて続いたため、日本への一時的な寛容さを増した。
 その証拠とでも言うべきか、1935年には1940年の第12回オリンピック開催が日本の首都東京で行われることになった。しかも1940年には同時にエキスポ(万国博覧会)の開催も決まった。
 オリンピック投票国(63カ国)のうち、ほとんどが白人もしくは白人の系譜による国家や地域だった時代だったことを考えれば、非常に先進的な出来事ですらあった。むろんこの少し前までイタリアのエチオピア侵攻が行われた事への反発と反動もあったが、日本という有色人種国家が選ばれた事は、ヨーロピアン中心の当時の世界では革新的な出来事ですらあったのだ。
 その後日本は、国を挙げてオリンピック、エキスポ開催に向けて進み、開催場所となる東京では施設建設と同時に美観整備のための都市改造も実施され、交通網の整備などを含めた公共投資の拡大は「万博景気」と呼ばれる特需を日本にもたらすことになる。また、外国人観光客のために多数の客船を整備するなどの努力を行った。これらの船舶は軍艦の建造を後らせてまで優先され、多くの船が突貫工事でオリンピック開催中に就役していた。
 とはいえ、日本の疑似軍国主義化が消えたわけではなかった。

 日本での軍部台頭は、政治家、資本家の腐敗を憂う貧しい階層出身の若手将校の負のエネルギーを原動力としていたと言われている。しかも当時の陸軍将校は、国内で最も優秀な人材が純粋培養で育てられるため、彼ら自身が自らの「能力」を過大評価して暴走する傾向が強かった。しかも彼らには明確な将来に対する展望(ビジョン)はなく、「悪い奴ら」、「悪い外敵」を実力で排除すれば良いというような幼稚な面が目立った。こうした浅はかな考え方が、無軌道なテロ、クーデター、軍事行動へとつながっていた。
 その一つの頂点が、1936年2月26日に日本で起きた軍事クーデター、いわゆる「二・二六事件」だ。
 それまでにも、1932年には「五・一五事件」と呼ばれる軍事クーデターが実施されていたが、二・二六事件で日本の政党政治は一旦はほぼ終わりを告げ、クーデターを利用した軍部の暴走といえる状態が止まらなくなった。
 邪魔な者、自分の意に添わない者はテロで殺せばよいという状態が、まともな人間の判断力を奪い、国を率いるべき人々を臆病にさせる時代の到来だった。
 もっとも派閥争い、予算の獲得、国内での勢力拡大程度しか具体的考えのない軍上層部、何の思想もなく国から与えられた筈の力を勝手に振り回すだけとなった若手将校では、具体的な行動は何もとれなかった。
 諸外国は日本の軍国化に対して強い警戒心を持ったが、行った事と言えば平時予算内での限られた軍備拡張ぐらいだった。海軍軍縮会議から離脱したことで日本が海軍の大拡張するという一部予測は、予測以下の範囲でしかなかった。日本が発表した1937年に策定された海軍拡張計画では、戦艦2隻、大型空母2隻の新規建造しか含まれてなかった。無論、イギリス、アメリカにとって、日本が自分たちと似た規模の軍備拡張を行うことは脅威のため、アメリカは「第一次ヴィンソン案」に続いて翌年には「第二次ヴィンソン案」を議会通過させた。イギリスも、久しぶりに新造戦艦の建造を実施した。
 これで日米の大軍拡競争かと思われたが、実際は違った。日本側に平時予算内でアメリカとの本格的な軍拡競争を行うことは不可能であり、軍部もお金が相手では暴力の振るいようがなかった。またエキスポとオリンピック開催までは大人しくしておくべきだという日本国内の大多数の意見があったため、日本海軍が行った次の軍備拡張計画(マル四計画)は、アメリカに対向して計画の一年前倒しを行おうという案が棄却され、通常通り1940年に予算通過したに止まっている。
 そして、自国経済の救済のために日本との海軍拡張競争をやる気満々だったアメリカでは、日本がそれ程法外な軍備拡張をしていないのに国費を無駄に使うべきでないと言う意見が強まり、アメリカ海軍の拡張計画も多くが議会を通過することはなかった。日本が軍縮条約を脱退してまで行った新造戦艦の建造も、予算規模などからせいぜい4万5000トン程度と予測された事も、アメリカの海軍拡張を低調なものとさせていた。結果、アメリカの海軍拡張も限定的な規模に収まっていた。

 一方ヨーロッパ世界だが、スペインでの内乱が地味に続いている以外、比較的平穏なままだった。恐慌の脅威も徐々に沈静化し、イギリス、フランスは自らのブロック経済の緩和に乗り出す雰囲気すら出ていた。しかも混乱の中心だったイタリアは、エチオピアでの軍事行動で備蓄資源を使い果たしたため、その後の活動は低調だった。イタリアにとっては、自分で好き勝手にできる油田がないのが致命的だった。自国の停滞のため、スペインのフランコ将軍への支援も滞っている有様だった。一方ロシアの政治が不安定なのはもはや日常的な事と見られており、フランスでの社会主義政党の勢力減退も重なって、社会主義、共産主義に対する幻想は完全に崩壊していた。このためスペインでは、人民戦の勢力も減退した。
 全体主義化への風潮も、イタリアの孤立、スペインでの混乱により各国の保守層が警戒感を強め、最も共産主義もしくは全体主義に近いと言われたドイツでも、資本家が強くバックアップする社会民主党を主軸とした政権が長らく続いていた。
 そのドイツでは国土回復運動の兆しはあったが、各地での住民投票による復帰、国際管理からの脱却、正常な軍備、国防体制への復帰と言う路線が主軸で、1930年代中頃からポーランドとの間にダンツィヒを巡る問題が徐々に深刻化しつつあった。これに対してポーランドも、ドイツ、ロシアの二大国に挟まれているという状況からかかえって強気な姿勢を維持し、ドイツとポーランドの間をイギリス、フランスなどが取り持つことで何とか均衡が維持されていた。
 ヨーロッパ世界では、せっかくドイツ、ロシアが大人しいままなので、あえて寝た子を起こしたくないという雰囲気で固まっていた。
 しかしアジアでは、民族主義のうねりが新たな争乱を招きつつあった。



●フェイズ02「支那事変前夜」