●フェイズ03「第二次上海事変」


 1941年夏頃から、日中の間での軍事的緊張が増していた。
 日本陸軍は、満州国の熱河省での軍事演習を強化しただけと言っていたが、その後も軍の駐留と演習に参加した部隊の準動員状態を解除しなかった。
 この原因は、1941年8月に起きた「西安事件」が影響していた。

 かつて日本が利用しそして排除した張作霖の息子の張学良は、この頃も依然として自らの軍閥を率い北支奥地を拠点としていた。そして表面上では蒋介石に服属し、その地位を保っていた。しかし日本への復讐心が極めて強く、日本側の一部も張学良を無視もしくは非難していた。このため張学良は、再三蒋介石に「抗日戦争」を要請していた。これに対して蒋介石は、いまだ時期ではないという言葉を繰り返すばかりだった。この点、蒋介石の方が遙かに現実的だった。
 諸外国の関心が低い以上、武器弾薬の自給能力のない中華民国に勝ち目はなかった。最悪、日本軍に一蹴されて紛争を終えなければならなかった。ならば諸外国を利用して日本を追いつめれば良いじゃないかというのが中華伝統の外交(内政)だが、当面名乗りを上げそうな国はなかった。
 しかし現実を直視しない張学良は、自らの行動を拡大させるばかりだった。日本を快く思っていないと彼が考えた諸外国にも赴き、日本の非道を訴えた。しかし1941年以後アメリカは、金を持たないチャイニーズをあまり相手にしなくなっていた。中華の軍閥については、旧時代の野蛮人の頭領程度にしか思っていなかった。アメリカ人にとっては、チャイニーズも国内のインディアンもたいした違いのない存在に過ぎなかった。
 そうして追いつめられた張学良が行ったのが、日本軍に対する無差別テロ行為だった。彼は、配下に命じたり金を積んで人を雇う事で、発砲事件、日本人暗殺などを次々と行い、日本と中華民国の関係を悪化させるようになった。
 本来ならそうした行為は他者から認められることはなく、日本の足を引っ張りたい国々にとっても利用が難しい相手だった。実際に蒋介石は、阻止しようと努力している。
 しかしこれに利用価値を見い出したのが、敵とされた日本陸軍の一部の急進派だった。彼らはまず日本国内に支那の危険性、横暴、傲慢を訴えるように報道各社に仕向けた。
 そして日本国民も、満州の権益が侵されると言われ実際に事件が起きると無視することはできず、徐々に支那を討つべしという論調に変わっていった。

 これに焦ったのは蒋介石だが、張学良を中華民国に反逆する軍閥と位置づけて討伐を命令する。
 しかし上海、南京から西安に軍を差し向けるも、その途中で中華民国内のナショナリストや煽られた民衆の多くが、討つべきは張学良ではなく「小日本」「東洋鬼」だとシュプレヒコールを上げた。
 このため張学良の討伐をうやむやにした上に、派遣した軍そのものは進軍先の北平(=北京)近辺で留め置かなくてはならなくなった。その上で蒋介石自身が単身張学良の本拠地西安におもむき、中華的説得を試みようとした。
 ここで起きたのが「西安事件」で、張学良は訪れた蒋介石を拉致すべく軍事クーデターを実行。敢えなく囚われの身となった蒋介石は、強い意志を見せて説得を試みるも、既に偏狭的、偏執的になっている張学良には通じなかった。しかも国民党の救出部隊が訪れる前に、国民党の復讐を恐れた張学良らによって、蒋介石は呆気なく殺害されてしまう。
 しかし彼らは、自ら引き入れた欧米の報道人を使って自分たちの主張を展開し、抗日はいかなる事にも優先するという発言を繰り返した。これに対して南京の国民党首脳は、西安とは如何なる交渉も行わず、蒋介石の救出と張学良の討伐の双方を決定。軍部隊を西安に派遣する。
 しかし張学良側の宣伝は、国民党が具体的な成果を出す前に効果を発揮しはじめ、国民党軍も蒋介石自身と同じジレンマに陥ってしまう。そして事情を知った中華民国内の世論からも、国民党が批判を浴びるようになった。
 こうした事態の中で蒋介石が死亡したことが判明したため、国民党は大混乱に陥った。
 そして以後数ヶ月の間、南京の国民党政権内では蒋介石派と汪兆銘(汪精衛)派の権力闘争が続くが、独裁的だったリーダーを失った蒋介石派は統率が取れなくなり、汪兆銘が次の国民党代表にして政府首班に着くことになった。
 しかし汪兆銘は、国内及び党内の混乱を沈めるためにも、厳しい選択を迫られることになる。一つの道は、張学良を徹底的に討伐して内部の綱紀粛正を実施すること。もう一つの道は、日本との全面対決を決断する事。
 そして国民党政権が選択したのが、日本との対決だった。内部分裂による自壊よりも、外圧を作って団結するという賭けに出ることを選択したのだった。これは中華民衆の受ける被害を少しでも減らすべきだと考えていた汪兆銘の考えに反するものだったが、予期せぬ政敵の消滅が彼に戦いを強要したと言えるだろう。

 日本との対決を決めた汪兆銘率いる国民党だったが、彼らなりに民衆へのガス抜きができれば良いと考えていた。今は日本との全面対決時期ではないと判断していたからだ。
 こうした中で国民党が選択したのは、上海での限定的な軍事行動だった。1932年の上海事変のような局地的な戦闘が起きれば、それで事が収まるだろうという読みだった。日本が全面戦争など望んでいないことは、一般常識から明白だったからだ。
 しかもお誂え向きに、北支(華北)には国民党軍の精鋭部隊の一部が展開しており、各地の軍隊も緊張の増大と共に北支と上海・南京近辺に集結しつつあった。
 このうち北支の部隊には固守を命じて日本軍を牽制し、その間に上海にいる弱小な日本軍(海軍陸戦隊)を攻撃して世間の注目を集めた後に、「予定通り」増派された日本軍の反撃を受けて現地部隊が撃破され、その時点で終息に持っていくというのが「作戦」の骨子だった。ようは満州事変の頃の上海事変を再現しようというものだ。
 また諸外国は、強硬な態度を取る蒋介石が消え去り現実的な汪兆銘が政権を握ったことで、国民党への興味を再び増していた。こうした要素も国民党の背中を押すことになっていた。
 かくして万里の長城付近で日中の軍が睨み合う中、次なる事件が起きる。
 「第二次上海事変」の勃発だった。

 「第二次上海事変」は1941年12月初旬、より正確には12月8日に勃発したとされている。
 事件から事変に至る発端は、日本海軍陸戦隊隊員が射殺された事だった。この事件に対して現地の日本海軍第三艦隊は、日本兵殺害おける犯人の引き渡しと、南京政府に対し停戦協定区域内におけ支那軍・同軍事施設の撤去を要求した。
 また二日後の10日には、日本国内の閣議において海軍大臣の山本五十六大将が、上海方面の状況説明後、「真相判明を待って対処したいが、念のため陸軍部隊の動員準備を願いたい」と発言。参謀次長の石原莞爾中将は強く反対したが、陸軍大臣の東条英機がこれを諒承。閣議では、現地居留民保護の優先を再確認し陸兵派遣の準備を容認した。
 そして中華民国側は、日本(第三艦隊)側の要求を拒否するどころか、日本側を強く非難する声明を発表。中華民国内での日本軍及び日本人の行動を、厳しく糾弾した。
 さらに、上海の中立地帯に兵力を公然と増強し、租界地周辺に陣地を構築するなど挑発的態度を強化。僅か数日で、兵力は5万にも及んだ。この時日本海軍の陸戦隊は、上海滞在中の艦艇からの増援を含めても4000人に過ぎなかった。他にアメリカ、イギリス、フランス、イタリアの兵士がそれぞれ数百から数千名いたが、これらは自らの租界もしくは他の場所を守備しており、中華民国軍も日本軍だけを半包囲する陣形で中立地帯に陣形を広げた。
 そして同月13日、中華民国軍は日本軍に対する攻撃を開始。14日には上海沖の日本軍艦艇に対する空襲まで実施した。
 しかしこれで日本側も公然と攻撃する口実を得たため、既に付近に集まりつつあった軍事力が上海方面への移動及び攻撃を開始する。まずは、日本海軍航空隊が台湾から上海杭州の飛行場を空襲、さらに翌日からは九州から中華民国首都南京に対する渡洋爆撃が行われた。この爆撃は世界大戦以来となる渡洋爆撃だったが、同時に無差別爆撃に近かったため中華民国側の格好の宣伝材料とされた。このため欧米世論は対日姿勢を硬化させた。
 しかし今更後に引けない日本政府は、居留民保護を理由として陸軍部隊の上海派遣を決定。陸軍は12月14日に上海派遣軍を編成した。さらに同月15日、帝国政府は声明を発表する。日本の行動が、「支那軍の暴挙を膺懲して南京政府の反省を促すのが、今次出兵の目的」とされた。
 もっとも日本政府の思惑及び陸軍主流派の目論見は、不拡大、短期決戦、一戦での支那軍殲滅であり、事変の早期解決に努力すべきであるとした。
 しかし中華民国側は、国論の一致のためある程度規模の大きな戦闘を欲していた。同日、汪兆銘(汪精衛)総統は、全国総動員令を下して大本営を設置した。さらに自ら陸海軍総司令に就任し、全国を4つの戦区に分けて純然たる全面戦争体制を取った。これには張学良軍も合流する事になり、おかしな話しだが、いつの間にか蒋介石の弔い合戦のような様相を呈するようになっていた。
 蒋介石が張学良に殺されたのも、日本が中華を侵しているのが悪いという論法にすり替えられていた。

 戦闘はその後日本側の防戦一方となったが、日本軍の反撃は空から始まる。
 12日、大規模演習を途中切り上げした日本海軍の空母《赤城》《加賀》《蒼龍》《飛龍》を中心とする第一航空艦隊が緊急出撃した後に、15日に上海近辺の中立地帯の空爆を開始。その後本格的な実弾補給を受け、空母2隻(1個航空戦隊)ずつの交代で断続的な空襲を実施して、圧倒的不利な陸戦隊を支援した。同時に、台湾駐留の海軍航空隊が連携して、上海付近の中華民国軍の空軍部隊を激しく攻撃し始めた。こうした長距離作戦や緊急展開は海軍航空隊の独断場であり、上海にいた列強各国の武官・軍人を通じて世界に衝撃を与える軍事行動となった。あり得ない場所に数十機の航空機を送り込む事が出来るのは、複数の航空母艦を有していなければ出来ない事だった。
 なお、この頃の海軍航空隊は、約70の航空隊つまり70個中隊を有していた。1個中隊6〜9機が基本なので単純な数にして常用600機、予備200機程度で、実に三分の二が空母艦載機・もしくは艦上用の水上機という偏りを見せていた。海軍としては基地航空隊の拡充を図るべく計画を進めていたが、この時点では空母の整備が進んでおり、そのための運用試験、演習を何度も行っていた。事件は、ちょうどちょうど大規模演習中に起こり、特に何も準備していなかった海軍は、当初事件を格好の「実験場」と考え、ほぼ何も考えずに戦力を投入したという経緯があった。
 そして多数の空母を抱えた艦隊が移動してきたため、僅か一週間足らずで上海近辺に集まった戦力は300機近くに上っていた。これに対して貧弱な中華民国空軍は、数日の戦闘のうちに壊滅的打撃を受けることになった。
 しかもこの時日本海軍は、最新鋭機の《零式艦上戦闘機》を多数投入しており、中華民国空軍が使うロシア製の旧式複葉機やアメリカの《ホーク戦闘機》程度では、訓練度の違いもあって単機同士でも太刀打ちできない有様だった。またこの頃の日本海軍は複葉機から単葉機にほぼ更新を終わっていたので、その戦闘はスペイン内乱での空中戦を暢気なものだったと思わせる早さと激しさになっていた。特に急降下爆撃機による空襲は、中華民国軍将兵を恐怖のどん底に陥れていた。
 そして日本海軍が圧倒的な制海権、制空権を握る中、同月23日には、早くも日本陸軍の上海派遣軍(第1軍)先遣隊が到着。同軍に属する第3、第11師団が上海北方に強襲上陸を実施して、戦闘に加入した。この上陸作戦も先の世界大戦以来の強襲上陸作戦となったが、中華民国軍が何の抵抗も準備していなかったため、戦闘のない無血上陸となった。
 しかし上海に展開していた中華民国軍は、国民党中央軍の精鋭14師、15師だった(※師は師団の事)。彼らは、網の目状のクリーク(塹壕)地帯の堅固な火点、家屋を盾に抵抗した。この戦法は、ドイツの軍事顧問達が教え込んだものであり、先の世界大戦で完成した塹壕戦術の精華であった。しかも中華民国軍は、日本の攻撃に煽られるかのように続々と増強された。あまり準備に時間をかけていなかった日本の上海派遣軍は、兵力の逐次投入と装備の不足もあって、中華民国の第19路軍に半包囲され大きな損害を被ることになる。
 この時点で日本、中華共に引けなくなっており、続々と現地に増援部隊を投入する事態へと悪化していた。

 年が明けた1942年1月中頃に上海近辺にいた中華民国軍は、総数で60万人にも達していた。しかも中華民国軍は、ドイツ軍事顧問が教え込んだ戦術と塹壕に潜んで戦っていた。対する日本側が3個師団、7万に満たない戦力で戦っていたのだから、たとえ圧倒的な制空権があろうとも苦戦するのはむしろ当然だった。しかしこの苦戦が日本側にさらなる増援軍の派遣と、攻撃の強化を促してしまう。
 日本海軍航空隊の爆撃は本格的に激しさを増し、陸軍の方も第9、第13、第101師団、野戦重砲兵1個旅団などの緊急派遣が決定された。
 当初は拡大に反対していた陸軍の石原次長も、一戦後の講和という向きに傾き、政府に対して一日も早い話し合いの準備を進言していた。しかもこの頃には北支での軍事作戦準備も始まり、事実上の日中全面戦争に発展していた。
 しかし上海では中華民国軍の精鋭部隊がいるため、戦況は一向に進展しなかった。日本が新たに3個師団以上の増援を送っても、相手が大軍過ぎて依然として日本軍が苦戦を強いられた。しかも早くも弾薬の不足なども発生し、事態は混沌となったまま撤退するより他無い事態になりかねなかった。
 そこに勝ちに乗じた中華民国軍が攻撃していた。
 そこで参謀本部は、上海付近へのさらなる増援の投入を決定。主作戦を上海の正面に集中する事にした。このため満州で睨み合っていた軍を一旦引き上げ、2月20日に内地で第10軍を別に編成。同軍は、新たに編成した機械化部隊の独立混成第2旅団を始め、日本本土にあった陸軍の余剰戦力のほとんどを集中していた。このため独立混成第2旅団を始め、機械化装備率の高い部隊が多く、これを運ぶ輸送船団の規模も今までになく大きな規模に膨れあがっていた。何しろ独立混成第2旅団だけで、車両1000両近く抱える大部隊だった。このため海軍も大規模な護衛艦隊を編成し、護衛には初めて戦艦も参加した。
 日本の大艦隊は2月4日に杭州湾に上陸し、同時に配置転換した上海付近の日本軍各部隊も反撃を開始。ここで日本陸軍が採用していた肉弾攻撃(浸透突破戦術)が、完全に中華民国軍の塹壕線を突破することに成功した。その上で、「九七式中戦車」を中核に据えた戦車、装甲車、各種自動車を多数有する第10軍が、今まで苦戦していた戦線を易々と突破し、側面と後方を突かれた上海付近の中華民国軍は一気に全面崩壊した。しかも第10軍は、そのまま突破戦闘を継続して自らの機動力により敵軍の退路までも断ってしまい、約20万人もの中華民国精鋭部隊を上海から追撃してきた上海派遣軍と共に包囲、そして降伏に追いやった。しかも追撃戦で中華民国軍は算を乱して逃げたため、日本軍は戦車、装甲車、自動車両、軍馬、さらには徒歩で追いかけながら銃弾を浴びせるだけという、一方的という以上の戦闘を展開した。包囲下に置かれ降伏を選択せざるを得なかった兵士達の方が、遙かに幸運だったと言えるだろう。
 なお、この追撃戦での中華民国軍の戦死者数は、包囲された兵数に匹敵すると見られている。

 そして機械化部隊による敵軍の包囲殲滅は、日本陸軍史上ばかりか世界的にも軍事的な快挙と見なされた。世界大戦型の塹壕戦では効果はなく、ヨーロッパの一部軍人が提唱していた軍隊の機械化がもたらす効果がこれ以上ない形で証明された結果となった。
 また上海方面での戦線拡大に呼応して、北支でも大規模な攻勢準備が始まった。満州の内陸部から移動してきた戦車第一師団と自動車化師団に強化されていた第五師団による世界初の機甲軍団が先鋒になることが、この時の上海の戦闘の結果決まった。加えて、もともと満州に多数いた陸軍航空隊も多数作戦参加の準備しており、圧倒的な制空権と航空支援を提供できる状況を作り上げた上で、日本軍部隊は事実上の国境線となっていた万里の長城を突破する態勢を整えつつあった。
 しかしこの時の長城方面での動員は、あくまで中華民国政府に対する脅しであり、政治の一環として起こされた行動だった。
 だが、上海での「大勝利」に有頂天となった日本中央では、「南京追撃」という軍事的条件を満たすと同時に「これを機に徹底的な暴支膺懲を」という行きすぎた政治目的の達成も行おうという意見が大半を占めた。
 しかし当初の陸軍中央では、作戦任務からして南京攻略など全く考えていなかった。これが予期しないほどの大勝利が常識を狂わせ、人々を惑わせてしまった、という事になるだろう。また敵国の首都を落とせば簡単に事変(紛争)は終わるという楽観論が、作戦続行の大きな根拠であり動機となった。
 そしてここに、今までたまっていた様々な鬱憤を晴らすという幼稚な心理的要素が加わり、現地の第10軍の強い具申という形で「海軍と協力し敵国首都南京を攻略すべし」と命令するに至った。

 もっともこの命令が出る二週間以上前の3月16日には、国民政府は重慶に遷都を宣言していた。


●フェイズ04「支那事変(1)」