●フェイズ08「事変後の軍縮」
1944年7月29日、「第13回ロンドンオリンピック」が無事開催日を迎えた。 ヨーロッパ世界は、自分たちが戦争という愚かな行動に手を染めることなく平和の祭典を迎えた事を祝い合った。また同大会には、数ヶ月前まで事実上の全面戦争を行っていた日本、中華双方の代表も出場し、ロンドン市民を始め多くのヨーロッパ人から暖かい拍手で迎えられることになった。日本からは、欧州ライナーとして就航した豪華客船で、多くの日本人が観光客としても訪問した。中華民国に返還されたばかりの沿岸都市部からも、ヨーロッパ向けの船が出て、中華民国の選手団や一部富裕層を運んだ。 いまだ中華民国領内から日本軍の完全撤退は終わっていなかったが、日本公称「支那事変」と呼ばれた事実上の日中全面戦争は一応の結末を見る事になった何よりの証拠だった。
なお今回の日中間の事変(紛争)では、日本、中華双方が勝利を謳っていた。日本は、中華民国内の反日勢力を懲罰を与え、国際的に満州国を認めさせるという政治目的を完遂したので自らの勝利だと宣言した。一方の中華民国は、侵略者の日本と対等な条件で講和して撤退させたとして、国内向けに勝利宣言した。どちらも主に国内に向け言っている事なので諸外国はあまり気にしなかったが、この中での事実は国際的に満州国が承認されたと言うことだろう。 アメリカのように、この時点で正式に認めていない国もまだあったが、植民地を持つヨーロッパ諸国は半ばどうでもいい事だとばかりに、中華民国が渋々満州国を承認すると連動して満州国を承認していった。 そしてイギリスなどは、これで日本の問題が解決したと言わんばかりに、日本に国際連盟復帰を持ちかけると共に、国際連盟内でも日本を再び迎え入れるべきかの議論に入らせた。 ヨーロッパ視点での国際社会にとって、満州問題など正直どうでも良いのだ。日本という軍事大国が、自分たちの制御を離れて勝手に動き回ることそのものが迷惑だという事を、今回の「日中紛争(国際公称)」が如実に表していた。そして世界の列強にとって、日本が今回の紛争による軍拡で一時的とは言え突出して大きな軍事力を有するに至った事は、大きな懸念材料だった。日本が戦争中に生産した総数3000機もの航空機は、この間のヨーロッパ全土の航空機生産数を越えるほどだった。兵器の開発速度も、日本の方がずっと早かった。事実、重慶の空では、欧米諸国の航空機は、日本軍機に終始劣勢だった。 もっとも、巨大な軍備を作った日本は、戦争のため国家財政が逼迫していた。これは、日本が安易に次なる戦争へ突入する可能性が高いことを示していた。 このため主にイギリス、アメリカは、日本に対する貿易を可能な限り正常化して日本が必要とする資源を輸出し、経済上不必要な関税統制も出来る限り撤廃した。低利での融資や借款まで行ったほどだった。日本が発作的に次の行動に移る前に、日本に一息つかせ理性的にさせるのが目的だった。 なお、アメリカ国内の一部勢力は、強大化した日本軍の脅威を訴え自らの軍備増強を行うべきだと論陣を張ったが、アメリカ国民の良識によって否定されていた。しかも中華民国自身が日本と和解して満州国すら認めた以上、日本も軍縮に傾くというのが一般論として根強く、政府の方針もあってアメリカの軍拡は否定されていた。そしてこの流れはそのまま1944年秋の大統領選挙戦に影響を与え、続けて共和党が勝利する事につながっている。
そして色々な面で当事者とされた日本だが、日本政府、軍は中華民国との出口のない戦争状態が終わったことで、とにかく一安心していた。しかも実質的な戦争期間は2年4ヶ月程度で、大規模な軍需景気としてはちょうど良いぐらいの期間行われた事になる。実際、軍需企業を中心にして国内景気は拡大し、名目GDPも大きく上昇した。円=ドル為替レートは、大量の国家債務による円の増刷によって1ドル4円近くにまで下落したが、それを含めても日本の経済はそれなりの拡大を示していた。実質的な数字にすると、年率30%程度の経済成長となる。戦争全期間で言うと名目GDPは約70%以上伸び、ドル換算でも2年と3分の1年で、140%近くに拡大していた事になる。これは他の列強が年率で最大でも5%程度の成長しかしていない事と比べると、大きな成長だった。 1941年に250億円(76億ドル・1ドル=3.3円)だったGDPが、1944年には450億円(112億ドル・1ドル=4円)に成長していた事になる。経済力では、イタリアばかりかフランス(本国)すら追い抜いている事になる。世界順位でも、アメリカ、イギリス、ドイツに次ぐ順位だ。 しかし自らの戦争景気による大きな経済成長には、比例するだけの大きな対価が必要だった。 それが総額60億円、年平均25億円を超えた莫大な政府支出と、5万人以上の戦死者、10万人以上の戦傷者だった。遺族年金、戦病手当などを考えたら、今後も莫大な支出が必要となる。 なお、支那事変前の日本の国家財政は、国債発行(借金)なしで約20億円程度に拡大していた。しかしこれは平時予算であり、軍事費は本来なら8億円程度でしかなかった。しかし戦費は、1年当たり25億円使われている。つまり、戦費として使われたうち、70%近くが借金で賄われた事になる。国家予算枠で見ると、通常の倍近い40億円以上の予算規模ながら、収入側の円グラフを見ると三分の二が各種債務で賄われている事になる。 しかも1930年代から借金財政だった日本の国家財政は、さらに悪化していた。名目GDPが大きく伸び続けているため、相対的に借金は目減りを続けて致命的状況には至っていないが、楽観できる数字でもなかった。経済と総生産高が伸び続けない限り、日本の国家財政に未来がないのだ。
このため日本政府は、戦争が終わるが早いか軍の撤退と動員解除を大規模に実施する事になる。 総兵員数160万人に達していた陸軍は、1944年夏までに100万人派遣されていた兵士達のうち半数近くが日本本土に帰投し、ほとんどがそのまま除隊・解散した。同時に、部隊数も大きく減少している。1年後には撤兵も完了し、兵力規模も平時状態へと移行した。そして兵士への報償として、「万歳昇進」という一斉一階級特進が行われ、従軍基準の時間換算によって軍人恩給(年金)が支払われることになった。 しかし軍という一種の官僚組織は、自らの組織を守るために様々な抜け穴を利用しようとする。近代的な戦争による重武装化で生まれた兵科は多く、特に残存した各師団には必ず戦車連隊と捜索連隊(偵察連隊)が所属した。しかも部署を少しでも維持する為に、陸軍自身が軽んじていた輜重部門ですら自動車化補給連隊などという言葉の改変と共に規模が大きくふくらんでいた。戦争中に三単位制になった各実戦部隊も、重火器、重機関銃などの中隊、大隊が正式にどの師団にも組み込まれ、重武装化が進むと共に将校そのもののポストが増えていった。 終戦から2年後に再編成された日本陸軍は、戦車師団4、近衛師団1、師団14、空挺師団1、重砲兵旅団6、平時兵員数25万人に再編成される。兵員数では事変前の3万人の増加だが、下士官以上の兵士は五割以上も増えていた。各師団は最低でも半自動車化され、火力や編成もほぼ列強水準にまで強化された。それでも戦争中に作りすぎた余剰兵器のために、それを管理する部署(兵站化)までが作られた。 こうして、軍の装備、編成は、事変後に列強各国が参考とするほどの近代化を成し遂げることになる。 一方、日本陸海軍の航空隊も、一気に半分が予備役とされた。航空機そのものも、旧式機は全て破棄もしくは輸出用に回され、各航空隊は多くの予備機を持つことになる。これにより陸海軍共に、練習機を含めて一気に1200機(※第一線機数は全体の約3分の2)にまで航空機総数を減らしたが、それでも国力不相応であり、列強各国と比べると突出していた。しかも最新鋭機ばかりという点が、列強各国にとっては懸念だった。開発途中の日本軍機に至っては、列強水準を完全に超える機体ばかりで、どの国もまだ開発途上だった2000馬力級の空冷エンジンの生産すら始まろうとしていたほどだ。
そうして世界中が一番困ったのが、実のところ日本海軍に対してだった。 日本海軍は、日本が軍縮条約から離脱して以後、諸外国に秘密で強力な軍艦を多数建造していた。《大和級》戦艦や大型軽巡洋艦の重巡洋艦への大改装などがその好例だった。しかしそれは、あくまで平時の中での軍備増強であり、支那事変のせいで1940年の計画は達成が1年遅れていた。このため1940年計画は、1947年に完成予定となっていた。しかし一方では、河川砲艦、兵員輸送護衛のための艦艇など、補助艦艇が大きく増えている。航空機を運用するための母艦も、熱心に整備された。空母という、空軍基地そのものが移動する兵器は、地上攻撃でも大いに有効だったからだ。 当然と言うべきか、世界的に見て日本海軍の軍備は、日本の国力と比較すると大きくなりすぎていた。そうして日本海軍の全体的な状態は、例え秘密にしていようとも、ある程度諸外国も掴んでいた。 そこでイギリス、アメリカが中心となり、日本を国際社会に戻す条件の一つとして新たな海軍軍縮会議を提案するに至る。 提示された条件は、通商・国交の完全平常化、日本の国際連盟への復帰、アメリカの満州国承認だった。 全て日本が望んでいる事であり、日本は内心二つ返事で海軍軍縮会議への参加を決める。不当な縮小が約束されたような会議に、日本海軍は大いに不満だったが、支那事変では基本的に日陰者だったため、国内政治的にも受け入れざるを得なかった。また、支那事変中に自らの組織が戦略空軍としての性質を持ち始めていた事から、海軍内にも艦艇の軍縮に肯定的な考えを持つ者が一定割合でいた。予算そのままで艦艇を減らせば、その分航空隊が充実できるとう算段だ。そして陸軍への対向上、海軍全体でも航空隊の拡充は確定的と考えられていた。
そして再びロンドンにて海軍軍縮会議が開催されることになったが、その前に世界中の海軍が自らの軍備をそれぞれ明らかにする事になった。 以下が、会議が開催された1945年春の時点での大型艦の概要だ。
アメリカ:( )内は建造中 新型戦艦:6隻(+2) 旧式戦艦:12隻 大型空母:6隻(+3) 中型空母:2隻 イギリス: 新型戦艦:5隻 旧式戦艦(巡洋戦艦):15隻 大型空母:2隻 中型空母:6隻 日本:( )内は建造中 新型戦艦:2隻(+2) 旧式戦艦:10隻 大型空母:4隻(+2) 中型空母:2隻 フランス: 新型戦艦:6隻 旧式戦艦:3隻 中型空母:2隻 イタリア: 新型戦艦:4隻 旧式戦艦:4隻 中型空母:1隻 その他: ドイツ:装甲艦:3隻 旧式戦艦:2隻 ロシア:旧式戦艦:3隻
一見して分かると思うが、ヨーロッパ列強の新鋭艦艇建造は1944年内で一端終わったところだった。これは各国の予算不足と、世界の軍事的緊張が遠のいた二つの理由によるものだった。そして日本とアメリカだけが、いまだ大型艦の建造を続けている形になっていた。 そして艦艇整備がそれぞれ遅れていた日本とアメリカの海軍軍縮が、議論の的になると考えられた。また、日本とアメリカがずば抜けて大きな戦艦を保有または建造中だと言うことが、論点をさらに大きくしていた。 日本が保有または建造中の《大和級》戦艦は基準排水量が6万4000トンもあり、他国の新鋭戦艦より5割以上も大きかった。主砲も破格で46センチもあった。この事が正式に日本側から通知され、諸外国の武官や外交官に公開されると、アメリカでは大きな衝撃が襲った。しかしアメリカ側が多数の新造戦艦を既に完成させていたため、極端な衝撃にならずに済んだのは日本にとってむしろ不幸中の幸いと言うべきだった。そして冷静に考えた場合、運用面(入れるドックや港)などで制約の多い事で総合的に評価を下げる事になり、一時期アメリカで議論された超巨大戦艦建造論は日の目を見ることはなかった。 そのアメリカでの建造中の最新鋭戦艦は、日本より性能面で少し劣るが、それでも基準排水量4万8000トンと日本以外では抜きん出ていた。主砲も列強で唯一50口径16インチ砲だ。そして日本は巨大戦艦が4隻でアメリカは2隻だが、アメリカは既に6隻もの新造戦艦を建造しているというだけで、既に世界の軍事バランスを崩していた。アメリカの建造数の多さに、イギリスが慌てて《キングジョージ五世級》戦艦の追加建造を行ったほどだった。結果として競争につき合わされた形のフランス、イタリアも、いちおう日本とアメリカの軍拡を非難した。両国にしてみれば、「いい迷惑」というわけだ。 ヨーロッパ諸国の声に対して、アメリカは旧式戦艦を改装せずにそのまま退役させて入れ替える予定だとして反論した。実際、アメリカは他国に先駆けて、先の軍縮条約を生き残った旧式戦艦を新造艦の完成に前後して退役させつつあった。表向きは軍縮の理念に沿うためだが、実際は海軍予算と兵員数の関係から、退役させざるを得なかったからだ。 一方の日本は、新造艦の少なさそのもので自らを弁護したが、1隻当たりの大きさがあまりにも破格で、その上46センチ砲という空前の巨砲を十分な数搭載しているというだけで、各国からは厳しい目を注がれた。しかし既に艤装が大きく進んでいる新造艦を破棄させると日本が何をするか分からないので、旧式艦の廃棄と総量(排水量+隻数)による調整を行うことになる。
会議の結果、戦艦関しては55万トン、15隻を上限基準として「米:英:日:仏:伊=10:10:7:4:4」という事に定まった。また新たに会議に加わったロシアは、自主的に20%(11万トン)を目標とするとした。そしてイギリスのエスコートで会議に呼ばれたドイツは、先の大戦後の姿勢が評価され、こちらも20%までの主力艦保有が認められる事になる。 日本の例があるため、主砲口径はあえて制限が解除された。排水量の上限についても同様だった。どのみち、軍用の建造又は整備ドックを新たに整備しない限り、日本とアメリカ以外が十分な門数の巨砲を搭載した巨大戦艦を建造、運用することは不可能なので、この点が制限解除の後押しとなった。 会議の結果、日本は38.5万トン、10隻の枠を得る。形としては、約四半世紀前のワシントン会議以上の成果だったため、日本国内からの反応も比較的良好だった。 しかし《大和級》が大きすぎるため、《大和級》4、《長門級》2、他1隻の合計7隻で保有枠が一杯になってしまう。イギリスが調整後も15隻、アメリカが14隻に対して、数の上で著しい劣勢だった。しかし自らの野心的な軍備計画が招いた結果だけに、日本海軍もあからさまに文句を言うわけにはいかなかった。しかも四半世紀前よりも1割多い、自分たちがかつて要求しただけの枠を確保したのだから、この面でも文句が言えなかった。 なお、フランスとイタリアはともに6隻を保有し、数の上で日本と大差なくなった。 そして日本は、建造中の《大和級》2隻が就役するまでは旧式戦艦7隻を有し、さらに1隻を練習戦艦化。1947年に新造艦が就役した時点で、《大和》《武蔵》《信濃》《甲斐》《長門》《陸奥》《比叡》とする事を決定。他に状態の良い《金剛》が、練習戦艦としての保有を認められた。このため海軍が整備進めていた超甲種巡洋艦は計画中止され、新たに2隻の《改大和》戦艦の建造が、1946年度計画から進められることになる。新型が完成した時点で旧式戦艦全てを退役させ、隻数も6隻にまで減少する事が決められたのだ。この背景には、アメリカやイギリスも、結局抱え込んだままの旧式戦艦を退役、解体させなければならい上に、財政上の制約から新造艦をそれほど多く作れないという読みがあった。
一方他の艦艇についてだが、戦艦に匹敵する規模となった航空母艦は、日本海軍での実戦運用により大きく存在感が高まった事もあり、本当の意味での主力艦として保有基準が大きく拡大した上での保有制限が設けられることになる。 基準は排水量20万トン、数は10隻までとなった。 この結果日本は、70%の14万トン、7隻までが保有枠となる。現状では保有枠を越えているが、旧式の軽空母(《鳳祥》《龍驤》)を順次退役させ、建造中の新鋭空母2隻が就役した時点で《赤城》《加賀》を退役させれば、数は6隻ながら制限排水量の枠内を満たす事になる。アメリカも、建造中の《エセックス級》空母が全艦(=3隻)就役して旧式の《レキシントン》《サラトガ》が退役した時点で基準に到達する(=《ヨークタウン級》3、《エセックス級》6)。 しかし1940年代のうちに空母の保有枠を使い切ったのは、日本とアメリカだけとなる予定だった。イギリスですら実用に耐えない旧式艦をかなり整理することにしたので、保有枠を満たすことはなかったし、様々な制約から大量に新規建造する気もなかった。他の国では、空母はいまだ未知の兵器である上に維持費用が掛かるため、整備には消極的だった。アメリカにしても、実戦経験がないうえに艦載機の開発が成功しているとは言えず、世界最大の保有数となったところで、戦闘力は数字通りではないと考えられていた。 日本海軍が、支那事変で空母の有効性を示しはしたが、だからと言ってそれだけで海軍主力として贅沢に整備できるものでもなかった。空母は排水量こそ戦艦より少ない場合が殆どだが、運用経費は戦艦を大きく上回っていたからだ。空母に大きな期待を寄せているのは、実質的に日米英海軍内にそれぞれ存在する一部勢力(=「キャリアー・マフィア」)だけといえた。 戦艦、空母以外のいわゆる「補助艦艇」についても、原則として同じ比率での保有枠が定められた。この点で日本はロンドン会議と同様の実質80%を主張し、イギリス、アメリカ以外の国々も反発を示した。ドイツやロシアなど、イギリスの20%では殆どまともな海軍を保有で出来ないのだから、当然と言えば当然だろう。このため比率に関しては別に設けられ、比率的には「米:英:日:仏:伊:独:露=10:10:8:5:5:3.5:3.5」とされた。量的には、技術向上に伴う艦艇規模の大型化を鑑みて「巡洋艦40万トン、駆逐艦18万トン、潜水艦6万トン」を100%とし、さらに重巡と軽巡を同じ巡洋艦の中に枠を設けた上で、それぞれ一定割合以上保有できないようにされた。この辺りは、総量以外はかつてのロンドン条約に近くなっている。 基準もロンドン条約が参考とされ、潜水艦は日英米が100%、仏伊は80%、独露は50%とする代わりに、それ以外の艦艇比率を全体比率より落とす形となる。また各艦艇ごとの制限は、日本の独走やアメリカでの大型化、ドイツの装甲艦の存在などから殆ど意味がなくなったので、排水量以外の基準は撤廃されることになる。この結果「重巡洋艦1万5000トン、軽巡洋艦1万トン、駆逐艦2000トン、潜水艦基準なし」が新たに上限として設定された。しかし総量規制があるため、各国とも大幅な軍縮を実行しなければならなかった。 日本の場合は、「巡洋艦26万トン、駆逐艦12万トン、潜水艦6万トン」が枠内になるので、正確な排水量を公表した巡洋艦は、既存の重巡洋艦18隻と新型軽巡洋艦6隻で全ての枠が埋まってしまう。駆逐艦も「甲型」は1隻当たり2000トンもあるので、朝潮型、陽炎型の25隻だけで5万トン分も占めてしまう。整備が始まったばかりの秋月型に至っては1隻当たり2700トンもあるので、建造数削減が早くも話されていた。整備中の秋月型と甲型がなくても、特型と甲型だけで制限量は一杯だった。 比較的ましだった潜水艦についても、日本は大型艦ばかり建造していたため、列強の中で最も多くの数を削減しなければならなかった。
なお、この時の軍縮会議では、他にも細々とした取り決めが交わされ、多くは日本にとって不利なものが多かった。しかしこれは、日本海軍がほぼ全ての艦艇で肥大化が進んでいたためで、その後の装備調達費や現状での維持費を考えれば、日本の国家財政にとっては非常に有効だった。この事は日本海軍の一部強行派以外全ての者が理解しており、海軍内でも建造中の《大和級》戦艦の破棄を言われなかっただけマシと考えていた。 それに冷静に考えて見れば、制限を受けた分量が日本海軍にとっては分相応な規模な事ぐらい判断はついた。
一方、軍縮会議に平行して、日本の国際連盟への復帰と国際連盟自体の組織改革が実施されつつあった。 ここで日本は、再加盟するばかりか常任理事国に再び選ばれた。そして新たにアメリカ、ロシア、ドイツが常任理事国に選ばれる。この時はアメリカ国民もノーとは言わなかった。ドイツの復帰にも、依然社会主義体制が続くロシアに対しても、ヨーロッパ社会は相応の寛容さを見せる程度の余裕は取り戻していた。何しろ、先の世界大戦から四半世紀の時が流れていた。 この結果、イギリス、フランスの2カ国にまで激減していたものが、6カ国で常任理事国を構成する事になる。日中の事実上の講和会議を名目上エスコートした事も重なって、国際連盟という組織も息を吹き返すことになる。 そして同会議の最初の仕事は、イタリアを国際復帰させ、国際連盟に戻す事だった。 イタリアは1935年にエチオピア帝国を侵略、占領したため国際連盟を脱退したが、その後も国際孤立を続けていた。フランコ将軍が勝利したスペインがほぼ唯一の友邦と言えるが、スペインはもともと列強と言えるほどの国力と産業はなく、内戦で疲弊しきっていた。しかもイタリアの持つ植民地には地下資源が少なく、イタリアの窮乏が続いていた。加えて言えば、周辺には自国よりも国力の大きな国が幾つもあった。条件としては、日本よりもはるかに悪かった。 このため国際連盟は、イタリアとの間に国際会議を持った。 前振りとして軍縮会議があったが、この時イタリアは進んで国際舞台へと進んでくる。既にイタリア国内でのファッショへの情熱は消え、統領のムッソリーニとしては政権維持のために国際社会に復帰して貿易を正常化し、イタリア経済を浮上させる必要性があったからだ。しかもイタリアは、会議の中で再び常任理事国に返り咲くことにも成功し、イタリア国内でもムッソリーニの人気がある程度盛り返すことになる。 事情としては日本に近いと言えるだろう。 そして世界征服を目指すだけの力でもなければ、資源の少ない産業国家は軍国主義も全体主義も独裁も得に描いた餅でしかないということが、一連の流れの中で一般化されつつあった。 結局世界は、イギリス、フランス、アメリカ、ロシアといった「持てる国」が優位に立ちやすいということだった。