■インスパイア・ファイル11「超弩級要塞ヤマト」
 ・プロット2「テレビバージョンの冒頭を目指す」

 1941年12月7日、日本国某鎮守府の一区画はお祭り騒ぎだった。
 日本帝国海軍の最新鋭の空母の就役式典のため、多数の人々が押し掛けていたからだ。
 人々の眼前に鎮座する航空母艦は、全長で1200フィートに達しており、艦載機の数は100を優に越えると事前に説明される海の要塞だった。個艦戦闘力も破格のものがあり、新世代の防空兵器の数々は数十機単位の攻撃すら容易に跳ね返す威力を持つとされていた。
 日本帝国海軍特有の暗いグレーに彩色された船体は、各所に林立するアンテナや兵器の数々によってまがまがしさを増しており、自らこそが新たなる海の覇王である事を全ての人に無言で伝えていた。
 なお、式典は単なる就役式ではなく、空母に搭載される航空隊のデモンストレーションや賓客を多数迎えての講演など含まれており、日本の力を誇示するための一大セレモニーとなっていた。
 式典は諸外国にも通達され、第二次世界大戦の最中にあっても多数の来賓を迎えており、第一次世界大戦後未曾有の発展を続ける日本の国威を示す式典として、日本も属する連合国の戦意を大いに昂揚させるものと期待されていた。
 しかし、今まさに式典を迎えようとしている時、空襲警報を告げるサイレンがけたたましく鳴り響いた。
「コレハ演習ニアラズ。繰リ返ス。コレハ演習ニアラズ……」

 1917年初秋、東アジア沿岸部各地に多大な被害をもたらした巨大台風の通過した後、八重山列島の小さな島で一隻の巨艦の残骸が発見された。
 島々の名を尖閣諸島と言う。
 巨艦は、台風を避けるため普段はあまり立ち寄らない孤島に避難した漁民が発見したものだった。そして巨艦を発見したと漁民から連絡を受けた海軍が調査に赴くが、そこで驚愕の事実を知ることになる。

 全長300メートルを超える巨体。左右に大きく張り出した構造。平たい甲板。巨艦の明確な用途は不明だったが、現代の技術では考えられない高度な技術が多数使われているのは、外観からも一目瞭然だった。
 だが、目の前の巨艦は奇妙な点ばかりが目に付いた。
 列強が極秘に派遣した艦が爆発事故で座礁したものかと警戒しつつ調査を始めるも、艦内に生存者はなし。それどころか艦の半分は黒こげで、一部は高熱にさらされて強固な装甲が溶けているほどだった。艦の状況から、近距離で発生した巨大な熱と爆風で大破したもので、原因となる爆発は一つの方向からもたらされていると結論された。
 しかも艦内の人々は、一部が炭化していた。残りのすべても白骨化するかミイラ化している。彼らの死因は不明だが、ミイラの多くは死後三ヶ月が経過していると医者達は結論した。風雨にさらされた艦の状況から推測しても、巨艦が孤島に三ヶ月近く存在したことも確認された。
 そして、後から派遣されたより専門的な調査団は、驚愕の報告を海軍上層部に次々ともたらす。

 最初の調査によって、目の前の巨艦が今から百年近い未来にアメリカ合衆国で建造された空母だと報告された。
 分からないのは、そんなものがナゼ目の前にあるのかだった。
 そして答えをくれるであろう人々は、誰一人として生きていなかった。日本人達は全く気付かなかったが、乗員全員が全身を重度の放射能汚染と放射線に犯されたことによる急性ガンで極めて短時間で死亡していたからだ。

 謎の巨艦発見後、尖閣諸島近海は軍の訓練海域として完全に封鎖された。いまだ第一次世界大戦中という事もあり情報も完全に統制され、諸外国の諜報担当者も近寄ることは適わなかった。当然だが、未来の巨大空母の残骸が横たわっている事など、誰一人として気付くものはいない。
 外国の情報収集組織は、日本が辺境の小島で何かしている事までは掴んだが、せいぜい日本が新型戦艦の試験でもしているのだろうと考えた。そして新型戦艦なら、実験場より軍港で見張る方が効率的として、あえて危険を冒すものはなかった。だいいち、欧州で大戦争の真っ最中に、東洋の果ての事など構っている場合ではなかった。
 だが、真実は全く違っていた。

 日本中の専門家、技術者が極秘裏に尖閣諸島に座礁する巨艦に押し寄せ、未来から漂着した巨艦の解析を始めだした。
 朽ちてなお艦内に多数残された文献、資料、文物は英語表記だったが、その程度の壁は日本人の好奇心の前に無きに等しかった(一部のポップ系娯楽物は、なぜか日本語表記だったが(笑))。
 そして各種資料から分かったことは、この艦を支える驚くべき科学力と、残っていた書籍から分かってきた未来世界の姿だった。
 未来は……(以下略。)
(……我々と同じ時間軸の未来が分かり、この空母の記録では、2017年に某共産国の核攻撃を受け、人類が核戦争に至った事まで分かった。日本列島も関東平野が消滅し、原発が複数破壊され死の列島となる事までが記録されている。)

 未来を知った日本人達は愕然とする。巨艦を破壊したのは純粋な兵器であり、同種の兵器の中でも威力の低いものに過ぎない事を知ったからだ。しかも、百年後の未来戦争では、世界各地で未知の破滅的兵器が多数使用され、帝都東京もガラス状の表層が覆うだけの廃墟となった事を知る。
 巨大な物体が時間を超えた事ですら俄に信じられないが、目の前にある巨体は間違いなく実在し、夢物語と言い切れる人は皆無だった。
 なんとかしなければいけない。それが結論だった。
 でなければ、日本は百年先の未来において某国によって滅ぼされるだろうからだ。
 得体の知れないもの対する恐怖が、巨艦発見後の日本人達を突き動かしていく。

 なお、半壊した黒こげの巨大空母は、核攻撃を受けた時発生した電磁パルスで電子機器の過半が破壊されていたが(一部は生きていた)、多数の操作要項、艦内の図書館にあった技術資料などから、歴史、未来技術、社会制度、資源マップなど様々なものまでが吸収された。
 格納庫に残っていた破壊された航空機も、自分たちの新たな翼を作る際の大いなる参考とされた。艦そのものを構成する技術、物質、システム的な構造、搭載兵器も革新的以上の変化を日本の技術にもたらしていく。

 巨艦発見から約半年。日本の進路が急速に曲がり始める。
 尖閣諸島での極秘情報を知る日本政府・軍部のごく一部は、解析によって分かってきた超技術を日本だけの技術向上と発展に役立て、さらには手に入れた巨大兵器を何とか運用できないかと画策するようになる。
 また、未来の歴史についても詳しく分かったので、まずは小さな事件が本当に記述どうりなるのかを確かめた後、日本にとって都合の悪い事件、事象を都合良く改竄するようになる。
 関東大震災すら、その前年から震災の日を「防災の日」として帝都を挙げての防災訓練を行い、当日も被害を最小限に止めることに成功していた。もちろん真実が一般に伝えられる事はない。
 そして、支那情勢でも日本は賢明に立ち回り続けた。
 すでに出されていた対華二十一箇条の要求はただちに撤回され、以後の支那外交はそれまでの場当たり的な方向性を大きく修正して、可能な限り統一性の取れた路線を継続する。外交の方も海外に対して宣伝工作に腐心する方向性が強く示され、アメリカやチャイナを圧倒していった。
 ワシントン会議においても、日本は比較的素直に対米六割の主力艦保有率を認めた。しかもその代わりに、廃棄する未完成戦艦を転用するという理由で、空母保有率を対米英8割とさせた。
 また、四ヶ国条約には最後まで抵抗し、日本側の強い要望により日英同盟は継続される事になった。

 そうした変化の総括として、国内では「岩戸計画」が始動する。
 「岩戸計画」とは、最初の8年を技術吸収のための8年。次の8年を技術実現のための8年。そしてその次の8年を技術量産のため8年をとする壮大な国家プロジェクトだ。それぞれに8年というタイムスパンが採用されたのにも、大きな理由があった。
 計画が完成する24年後の1941年は、世界を誤った方向に向かわせ、ついには人類を死の淵に追いやる共産主義を地上から早期に抹殺する絶好の機会であり、同時にタイムリミットと判断されたからだ。
 一般国民や諸外国に公表された日本近代化計画として、表向きは縁起担ぎと語呂合わせ、単に時間的に都合が良いというだけとされたが、真実は全く別のところにあったのだ。
 また、列強の目をくらませるため、「八八艦隊計画」に変わる軍備計画と思わせる意図もあって「計画」という言葉が用いられた。

 かくして巨艦から解析・判明した歴史と技術の副産物から、様々な技術革新、日本の社会資本整備、政治制度改革などを徐々加速度をあげつつ行っていく。
 日本外交の主目的は、共産主義の打倒、ソ連、中国共産党の早期殲滅、英米勢力との可能な限りの協調、日本経済、産業の計数的な拡大、日本発展のための満州完全獲得だ。なお、副産物として、朝鮮の併合が段階的に撤回され、史実において朝鮮半島に向かった投資の過半が「岩戸計画」に傾注される事になる。日本列島が加速度的に発展するなら、半島は他の列強の手に渡らねばよいのだ。
 そして世界は、日本の巧みな外交と異常なまでの順調な発展、時折発表されるあまりにも先進的な技術に驚きつつも、日本人の多くが何も知らないほど全てを隠して事を進めている影響もあり、史実とさして変わらない道を歩んでいく事になる。

 「岩戸計画」内の歴史・変化
 ・外交・政治・軍事
1917年初秋 謎の巨艦発見
1918年 第一次世界大戦終了
1919年 ベルサイユ講和会議
    シベリア出兵早期撤退
1919年 ベルサイユ会議での自らの提案を一部実現すべく、朝鮮独立一部復帰(保護国への回帰と市場開放を欧米との外交取引材料の一つとする)
1922年 ワシントン海軍軍縮会議
    日英同盟継続
    日本軍の大幅な軍縮。ドイツ同様のスケルトン型軍隊となり、将校、士官、下士官の数はむしろ増える。
1923年 関東大震災の被害極限
1924年 新たな産業発展計画開始
1925年 普通選挙開始に合わせて憲法大幅改定。
    統帥権に足かせ。軍部の政治進出抑えると同時に、民衆の反軍姿勢を弱める宣伝に務める。
(時期が昭和元年なので「昭和維新」と言われる。)
1929年 憲法改定 日本国内の政治改革終了 民主化完成
    張作霖爆殺阻止
1931年 ロンドン会議
1931年 満州事変(張作霖軍閥の跳梁阻止を名目に出兵。国民政府と取引して自治地域を作り上げる。熱河省侵攻・上海事変・国連脱退なし・欧米資本参加)
1933年 ドイツの後を引き継いで中華ソヴィエトを攻撃・殲滅。中華ソヴィエト戦で一時的に回復した国民政府との関係は、中華ソヴィエトを殲滅後に国民政府側の意図によって再び関係悪化。中華ソヴィエトの追撃に際してソ連国境まで攻め寄せたため、ソ連との関係も緊張。
1936年 国内の保守派・軍人のテロをカウンターで殲滅
1937年 第二次ロンドン会議出席
1937年 上海事変 国府軍の日本租界包囲に対して、最新鋭の機械化軍団を派遣して強く牽制。後に外交で決着。
1939年
ノモンハン事変 ソ連機械化部隊を撃破。
ナチスドイツのポーランド侵攻、第二次世界大戦勃発。
日本は、日英同盟に従い連合国側に立って参戦。

 その他
 長期継続された日英同盟に連動して欧州諸国との関係も強化。ドイツとは反共においてのみ外交関係を一時的に強化。
 ファシズム、ナチス・ドイツとの本格的な連携なし。
 中華民国(国府軍)に協力して、中華ソヴィエト撲滅に尽力。
 逆に、支那出兵は可能な限り回避。なるべく日本以外の列強の影に隠れるようにする。表に出る必要がある場合も、必ず他の列強を巻き込む。日本以外の列強利権もきちんと守ってやる。
 平行して、国内の防諜体制を強化して、軍部の無軌道な行動と全体主義化を抑制。同時に共産主義の動きも抑える。

 ・経済・産業
1918年 日本政府内の方針が変更。
1919年 大戦景気のリバウンドが来る前に、様々な経済政策が施行される。
1922 陸海軍で大幅軍縮。余剰予算の過半が列島内の公共投資、産業振興、内需拡大に回る。
1923年 関東大震災対策 震災被害極限。復興に合わせて、植民地(朝鮮)投資を国内開発に傾倒。朝鮮統治の鈍化始まる。
1925〜29年 高騰するアメリカ株式市場で期限付きの荒稼ぎ
1927年 国内の金融恐慌は事前に回避
1928年 大恐慌の被害を事前に最小限に止めるべく、一時的に「護送船団式」の計画経済に移行。
1920年代後半 農地改革、軍事費削減、インフラ建設、内需拡大を軸とした社会主義的経済発展加速。
1930年代前半 国内、満州開発で大規模機械化土木事業推進。革新的な技術を多数発表。パテント料で莫大な外貨獲得。(発表された過半は、欧米より少し進んだ程度の一般工業技術や医薬品技術など)。高度経済成長開始。
1932年 浜口内閣「列島改造」演説。
新幹線、名神、東名、帝都高速道路など巨大インフラが次々に着工(全て1940年までに完成予定)
1930年代半ば 国内に欧米を凌ぐ巨大工業施設多数出現。
1933年 レーダー実戦配備。
1935年 世界初のコンピュータ完成。
1936年 テレビの実用放送開始。
1937年 世界初の実用ジェット戦闘機「97式戦闘機」登場。
1938年 日本初の超高層ビル完成。
1939年 世界初の原子炉始動。
1940年 次世代戦闘機「零戦」登場。
    東京タワー完成。テレビ放送大幅普及。
1941年 LSI実用化。コンピュータ大幅進歩。
    超弩級要塞「大和」就役(再就役)。
1941年12月 「大和」就役式典会場に米艦隊襲来。太平洋戦争勃発。

 あしかけ20年におよぶ急速な近代化により、日本列島の工業力・生産力は第一次世界大戦直後の20倍にも達した。GDPも米英独ソに並び、国内のインフラ整備、法制度改革も進んで十分総力戦に耐えうる国力になっていた。
 国内の主要部は、資料にあった1964年の東京オリンピック頃並に開発され、欧米を圧倒するようになった工業技術は世界を覆い尽くそうとする勢いとなっている。
 あとは、巨大な国力を用いて共産主義とファシズムを殲滅するだけ。そう考えられていた。
 その象徴こそが、未来からもたらされ再生が済んだばかりの巨大空母「大和」なのだ。
 しかし、「岩戸計画」を推し進めてきた人々に誤算が生じる。
 共産主義を殲滅するために日本を発展させたのだが、自らの発展が日本自身の膨脹を促進してしまったのだ。

 戦乱の時代
 1930年代半ばごろより、日本の躍進によって列強との貿易摩擦頻発。日本経済も、内需拡大と満州開発だけではおさまりきらず、30年代後半より海外貿易を目的とした露骨な海外進出を始める。
 しかも、日本だけで生産される特殊で優れた工業製品や医薬品、兵器は、各国が法外な関税障壁を設定しても密輸が横行し、同盟関係にある英国以外は血圧を上昇させ続ける。特に、市場の多くを奪われるばかりか、国内の関税障壁すら平然と乗り越えて蚕食されているアメリカの血圧は上がるいっぽうだった。
 また、日本の国力の異常な増大にソ連が恐怖感をつのらせ、極東での軍事バランスが俄に変化しつつもあった。

 1939年春〜夏 「ノモンハン事変」
日本の実験機械化部隊、ソ連戦車群を一方的に撃破。物量差から、両者痛み分け。ソ連の対日脅威傾向強まる。日本も世論を煽って大規模な軍拡に転向。
 1939年9月 「第二次世界大戦」勃発
日本は日英同盟に従い参戦。しかし戦争当初は、独ソ不可侵条約を理由に大幅な戦力を欧州には送らず戦時特需に湧く。
 1940年 「バトル・オブ・ブリテン」
日本は、この年の春になると英本土に航空隊と防空組織をまとまった数で派兵。ダンケルク作戦、バトル・オブ・ブリテンで大活躍。しかし、ジェット機はデモンストレーション目的の旧式を除いて派遣せず。派遣されたのは2000〜3000馬力級(!)のレシプロ機のみ。
 1940年後半 「東南アジア出動」
ロンドンに亡命した各自由政府から一札を取り付けて、東南アジア・太平洋各地の治安維持に出動。ヴィシー・フランス政府軍などと交戦。日本の膨脹を警戒するアメリカとの関係が急速に悪化。
日本はさらに欧州援助法案可決。膨大な戦略物資が欧州に流れ始める。
 日本軍が地中海方面に大挙派遣されたため、枢軸側は地中海、北アフリカ戦線を早期縮小。余剰戦力が東欧に流れる。
 1941年4月 「第二次ノモンハン事変」事件。
日本軍、ソ連と大規模な国境紛争。短期間の抗戦の後ただちに休戦するも、双方とも極東に軍備増強。日本では、独ソ不可侵条約もあって軍備の増強進む。
 1941年8月 東南アジア問題から日米の外交対立激化。
 1941年6月初頭 「独ソ戦」開始。日ソ紛争問題からソ連の連合国加入遅れる。
 1941年10月 モスクワ陥落。スターリン謎の爆殺。ソ連および共産党は事実上崩壊し、軍部を中心にした新生ロシアが連合国としてドイツと抗戦。日本の対ロシア援助本格化。
 1941年12月
米機動部隊、横須賀奇襲攻撃。「太平洋戦争」勃発。
「大和」敵艦隊追撃のため緊急出撃。

 そして開戦へ
 未来を「知っている」人々は、次々に成功する政策、施策、外交、戦争、そして陰謀に有頂天だった。
修正された「岩戸計画」により、アメリカが対日強硬外交に出てくる事すら折り込み済みで、アメリカ軍を短期決戦で撃滅する準備もほとんど整っていた。
 分からないのは、既に始まった第二次世界大戦の行く末、そしてこれから自分たちが始めるアメリカに対する全面戦争の結果だった。
 なにしろ自分たちが「勝つ」予定のため未知数だからだ。
 ・
 ・
 ・
ありきたりな歴史改変にもリスペクトしようとしたせいか、どっかで見たような状況設定だなあ。
きっと、不安定な原子炉を抱えた大和が、帝国海軍の嫌われ者になりながらも、無限の航続距離を利用して太平洋中を戦い巡る事になるんだろう。
そして得体の知れない敵を相手に、米軍がおっかなびっくりの攻撃を行うに違いない(笑)

また、日本を思いっきり発展させた理由は、原典が宇宙人の落とし物を再生したというくだりをインスパイアするためだ。

なおここでは、単にニミッツ級空母を修理・運用するためには、高度な技術と生産力が必要だったという方向性を突き詰めてみた。このため、インスパイアとは少しそれていると思う。
単に未来の超兵器が一つあったところで、継続的に使用できねば兵器とはいえない。技術あってこその兵器のはずだ。