■ファイト、国内国家たち(2-3)

 大東と日本に共に訪れた「戦国時代」。しかし大東と日本には、一つの違いがあった。
 日本の戦国時代には、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に代表される個人としての英雄が数多存在した。だが大東の戦国時代の最終的な統一には、飛び抜けた英雄が存在しなかった。戦乱の途中での有名人、著名人はいくらでも見付けることが出来るが、最後を締めた「この人」と呼ぶべき人物を捜すのに苦労する事が多い。
 

■皇族の離散・戦国の幕開け

 戦国時代が、それまでの水面下の闘争から中央政府の打倒をも目指すサバイバルに発展したのは1562年であった。

 旧大東島の半分(直轄地は4分の1程度)を支配下においてきた天皇領には、血縁で繋がった皇族貴族が千氏以上も集中していた。長子相続の抑制はとうに失われ、子の全てに爵位と領地を与えようとした親心が招いた事態だった。
 天皇領には、爵位を剥奪された地頭有力者が不満を鬱積させ、民衆レベルの不満が1562年の「壬戌大良五年の役」の原動力となった。
 有力地頭が各地で蜂起し、朝廷の要請により大東軍の召集命令が発せられた。
 これに応える形で近隣の保科氏が軍勢を率い、天皇領各地に展開した。天皇領の主要な城や町を短期間で支配下に置くと、保科軍は大東政府の軍政当局に指揮権の委譲を拒否した。
 事態がここに至って、領地から弾き出されなかった有力皇族は危機感を意識し、自領の兵の動員をはじめた。
 保科領の南隣に位置する黒姫伯領でも米の大量購入がみられ、保科軍は天皇領から撤退せざるを得ない。皇族は東京に逼塞しながらも事態を楽観していたが、この期待は木っ端微塵になった。
 保科軍は黒姫軍の領内通過を認めたのだ。いや、それどころか同盟関係にあった。

 天皇領が決定的に崩壊したのは、古くから朝廷に官職を得て、皇族とも浅からぬ関係にあった坂上伯の天皇領侵攻だった。
 1563年、北部天皇領は坂上軍により失われ、西部天皇領は照神道信徒が蜂起することで失われた。
 脱出する決断が遅れた中小皇族の、家族と金銀財宝を満載した馬車が各地で襲撃・掠奪された。多数の皇族が慌てて東京に逃れる過程で命を落とした。
 大東天皇は、騒乱鎮圧のために全国に叛徒討伐の詔を発したが、それは大東政府の命令ではなく、皇族という一つの爵位を持つ貴族の”要請”という形態をとった。なぜなら、大東国皇帝としての軍召集命令と反乱鎮圧命令はとうに発せられていたからだ。
 この二重命令は、才覚次第で領土を切り取り放題の戦国の世の到来を実感させるものだった。


■馬名行義の台頭

・1563年
 加良勲爵は大東政府の召集命令に応じて兵を動員したが、同年の坂上伯による天皇領侵攻に際して踏み潰され、そのまま再起不能になっていた。
 加良氏の当主は、無謀にも坂上伯に城付きの騎馬隊だけで立ち向かい討ち死にしていた。その後の加良氏の混乱を鎮めたのが、当時19歳の若き当主だった馬名行義であった。

 馬名氏は、加良勲爵領内の地方行政区域を統治する地爵であった。古州街道・小苗街道といった主要街道の分岐点の整備と関所の管理を代々の官職としていた。
 行義は境都・永浜から大消費地東京につながる内陸交通路を管理するだけあって、経済感覚に優れていた。また、優秀な船乗りを多く輩出する素島勲爵の娘が輿入れし、妻となっている。このため海に関しても深い理解を持っていた。

・1564年
 馬名行義は加良勲爵内の同爵位の敵対勢力を次々と下し、勲爵の地位を獲得する。この時点で、人々は「若き英雄」の登場に喝采を叫んだ。

・1565年
 馬名行義は坂上伯の領内通行を禁じ、高埜公と同盟を結び挟撃することで坂上伯は衰退した。坂上伯領の半分を獲得し、更に旧天皇領を吸収することで馬名氏は100万石を超える大国に成長した。その後坂上氏は、貴族としての命脈は辛うじて存続するが伯爵の位も名実共に失う事になる。

・1568年
 高埜公は馬名氏の先導で首都東京城に入り、朝廷の再建と大東国の行政刷新を成し遂げた。
 馬名氏は功績により勲爵から伯爵に取り立てられ、朝廷内で重要な官職を得た。
 大良天皇の正妻は若すぎる死を遂げ、高埜氏の娘が大良天皇と再婚した。こうして、高埜朝大東国の基盤が着々と整いつつあった。

・1570年
 高埜氏が復興した朝廷を偽朝と断じる田村公は、全国に偽朝打倒の檄を飛ばした。
 高埜包囲網が結成され、高埜公は田村・草壁・保科・黒姫・笹森・西原・長瀬の包囲攻撃を受けることになった。
 馬名氏は、主に遷鏡南部の保科・黒姫を相手どり、苦しい戦いをすることになる。

・1571年
 馬名氏は征東の大国である多田野氏と同盟。
 大坂の富豪たちの意向は、多田野氏が馬名と同盟して、素島海軍の力を得ることを当てにしていた。
 大東海軍における反乱の結果、海軍艦艇の多くは馬名-素島同盟が掌握していた。だが海軍維持費に困りほとんど活動できずにいた。そこに富裕な大阪が素島海軍に金を提供すると約束したのだから、馬名氏にとれば渡りに船であった。
 大坂は、南都商人の支援で強大化する茶茂呂海軍の海賊活動で損害を受けていた。また、南都は琉球経由の南海貿易で伝統的に有利な立場にあった。大東で当時まだとれなかった砂糖や明の生糸・織物の貿易競争で劣勢に立ち、大阪は危機感を抱いていたのだ。

 同年、名門貴族の椎名氏が滅亡。

・1572年
 「鳥島沖海戦」。素島海軍と茶茂呂海軍が戦う。以後、海上の覇権は大坂側が得る。この海戦は、西欧と同程度の直船(ガレオン船)同士が、大砲の舷側砲火の応酬を行い、その後に切り込み合うという戦いをした最初の例となった。以後、従来型の戦闘よりも大砲を撃ち合う近世的な戦い方が主流となっていく。

 同年、馬名・多田野同盟と保科・黒姫・茶茂呂同盟が「亜麻畑の戦い」で交戦。馬名・多田野同盟が勝利。
 馬名軍は、大坂・東京の二大都市で町民を徴募した民兵と火縄銃を組み合わせた”軽装銃兵”を投入した。鎧をほとんど身に着けず、剣技の教育は一切ないため銃と槍しか使えない。一方で、指揮を円滑化するために、士官の数は一般的軍団の倍とした。
 金で集めた民兵であるためほとんど実戦力として期待されなかったが、密集隊形で運用した際は、意外な頑強さを発揮することがわかった。

 1573年
 高埜氏が頼りにする境東府が、総力を挙げた田村氏らの軍勢によって攻略される。この戦いでは、多数の大砲が使用されており、大東の新大東州の人々が火力増強に大きな努力を図っていた事を見て取ることができる。
 強大な騎兵を有する田村氏に、高埜氏は野戦では勝てない。
 「境都の戦い」で高埜軍と田村軍が激突し、予想通り田村軍が大勝した。この戦いでも、騎馬や剣歯猫だけでなく、大砲、鉄砲も大いに活躍した。この頃田村家に仕え「鉄砲馬鹿」と呼ばれた太田二郎左右衛門が、境東府攻略以後の戦いを担い、そして多くの勝利をもたらす事になる。
 敗北後、高埜氏は馬名氏に援軍を要請したが、馬名行義は援軍を送らなかった。

・1574年
 高埜包囲網は狭まり、片脇氏までも高埜氏を攻撃した。東京近辺の高埜公爵領からも兵が抽出され、馬名領を通過して包囲網に必死で抗戦した。

 同年夏、馬名氏は高埜氏との同盟を破棄。
 断末魔の高埜氏を滅ぼしたのは、もと同盟国である馬名氏による侵攻であった。自分の身を守れぬ国が同盟国からも見捨てられるのは、歴史が証明するところである。
馬名氏は、東京周辺の高埜領を次々と併呑した。東京御所と政庁も馬名氏の支配下に入り、その石高は400万石を上回った。

 今や1000万石近い領域を支配する巨大な同盟体となった高埜包囲網。田村氏を議長とする論功行賞会議は、高埜領分割で大きく揺れた。
 このような分割競争では、誰もが満足する論功行賞など不可能である。不満を持った貴族が次々と会議を中座するなか、会議は物別れに終わった。
 田村氏は、次なる敵をつくることで同盟の結束を図ろうとしたが、そんな展開はとうに行義が読んでいた。次なる敵として最適なのは、もちろん東京を押える馬名氏だからだ。
 馬名氏と田村氏の密使が全国を飛び交い、1576年までに大東島の主要領主は2大勢力に取り込まれた。
 これ以後、大東の二つの勢力はそれぞれの主要地域から単に「北軍」、「南軍」と呼ばれるようになる。

 照神道と主神道は、それぞれ馬名氏と田村氏の支援を受けるようになった。両宗派がつく2大勢力のうち、勝った方が新しい大東国の国教となる約束を、それぞれのパトロンと交わしていた。

 
■戦国の南北戦争

 格軍陣営と勢力(1576年時点)
北軍: 総石高1030万石  大諸侯: 田村・草壁・笹森・西原・長瀬・茶茂呂・(河鹿・小牧・向坂・古室)
南軍: 総石高964万石   大諸侯:  馬名・多田野・黒姫・保科・守原・利波・片脇
中立: 大諸侯:  駒城・松原・倉田・相良

 なお、日本の戦国時代が早く始まったのに、天然の要害、峻険な山岳や河川、海で分断されたため有力な軍事勢力の巨大化が遅れていた。そして織田信長の登場で、ようやく二大勢力といえる形が出来たと言える。
 一方、国土が平坦な大東島では、日本に比して短時間で敗北した領域国家が地上から消されてしまう。
 早くも二大勢力化した大東では、戦闘に投入される資源も飛躍的に増大しており、合戦はヨーロッパや日本でみられるどんな戦いよりも巨大なものになっていた。近似値は中華大陸中原での王朝交代時期に見られる大規模な戦闘だが、近世的というより火薬式前方投射兵器を用いる戦闘はいまだ似たような事例が見られない為、この時期としては世界で唯一大東島のみで行われた戦闘といえる。
 両軍の主力部隊が犇めいた旧大東州の中原である和良平野は、双方30万の兵力が布陣、そして激突する戦場となった。

 南軍は、その経済力にものをいわせた総力戦を得意とした。優勢な海軍力を縦横に駆使し、北軍がその兵力を沿岸防備に割かざるを得ないように仕向けた。このときの南軍の戦術は、日本において織田信長や豊臣秀吉などもよく研究したという。
 大坂は従来の青銅による鋳造式よりも進んだ、鍛造式の鋼製大砲(日本でいう大筒)の一大生産拠点になった。砂鉄資源はともかく青銅の材料となる銅と錫資源のない大東では、鉄を用いた大砲製造の研究・開発、そして量産化が日本列島より早かった。また大東は、一部ではヨーロッパ並に家畜を有するため、人造硝石の取得が日本よりずっと容易かった事が、大砲の普及を促進する大きな材料となった。
 そして当初は要塞防御用に運用された大砲だったが、16世紀末には積極的に野戦でも活用された。帆走式の直船が主力となった軍船にも盛んに搭載された。

 北軍は騎兵、火竜兵(鉄砲騎馬)と共に、戦虎遊撃隊を積極的に活用し、両軍の勢力が拮抗した仙頭台地周辺が主戦場になった。
 南軍は海上輸送を以って出来る限りの軍需物資輸送を計画したが、内陸部の輸送網は馬車などを用いた輜重隊に頼るしかない。そして、総延長数千kmの輸送路全てに充分な護衛を付き添わせるのは不可能だった。ここに戦虎の活躍場所があった。
 また、北軍は騎馬の豊富な供給を活用し、騎馬突撃を主戦法とした。
 旧来の騎馬弓兵や騎馬槍兵に代わり騎馬鉄砲隊も組織された。騎馬鉄砲隊を配備するには火薬の原料である硝石の供給が必要だったため、牛馬の屎尿から大量生産が図られた。

・1576年
 大東の”長篠の戦い”と呼ばれる”礼奈須の戦い”。
 日本での鉄砲戦術を追跡研究していた田村氏は、長篠での惨事を重大に受け止め、騎馬戦術を練っていた。
 同様に馬名氏も研究を続け、”礼奈須の戦い”に至った。雨天を狙った北軍の目論見は当たり、相手の射撃能力を上回る物量戦も相まって、戦闘は北軍の優位のままに進んだ。だが北軍が決定的勝利を迎える前に南軍が素早く後退を開始したため、騎兵突撃やその後予定していた大規模な夜襲の全てが実施されることは無かった。
 それでも結果は、田村氏率いる北軍の勝利。
 行義は火縄銃の速射性及び耐天候性の向上を命じた。また、野戦でも利用可能な大砲の製造を急がせた。

・1577年
”小泉湾砲戦”、”南々実の戦い”及び”登麦の戦い”。
 二者山脈は大部隊が越えることが不可能であり、また陸南の倉田伯領が中立国の壁であったことから、守原氏は割と有利に草壁氏と戦ってきた。
 摘麦を二分する草壁氏は、田村氏の支援を受けてはいたが、南軍の海上封鎖で主要産品の麦の搬出が滞り、経済的な苦境に陥っていた。
 窮地に陥っていた草壁氏の援軍として、田村氏は境東府から8万から成る軍団を進発させた。
 二者山脈南端の狭い平野部を進軍する北軍に、南軍は海上から砲戦を実施。3kmの最大射程からの砲撃の見た目は派手だったが、実質的な北軍の損害は大したことはなかった。とはいえ、南軍による海上からの砲撃が草壁産小麦の搬出の脅威になることを北軍に認識させた。
 
 ”南々実の戦い”では、東京から急遽海上輸送された”軽装銃兵”26個軍団3万人が草壁領に上陸、守原軍と共に草壁軍を挟撃した。行義はかねてから第2戦 線の構築を図っており、丁度良い機会とみなされたのだ。
 戦闘は南軍の勝利。

”登麦の戦い”では、南軍9万、北軍10万が対峙した。補給面で圧倒的に有利な南軍に対し、北軍は拙速な攻撃を実施。
南軍の勝利。草壁氏は実質的に滅亡した。
以後、二者山脈地狭部を境に両軍は対峙することになる。この”第2戦線”の負担は、徐々に北軍を疲弊させていった。

・1579年
”向日葵の戦い”。
 人の背丈の1.5倍の高さに茂る大東ヒマワリの畑は地獄と化した。
 日本の淡路島の半分ほどの広さの畑の中での遭遇戦が発展し、大砲も投入した戦いになった。
 目の前に突如として現れる北軍兵に、至近距離から南軍砲兵の半貫散弾が火を噴き、砲兵は背後から戦虎に引き裂かれる。怯えた銃兵のつくる円陣の周りを素早い戦虎の影が踊り、物音ひとつさせない一撃離脱で一人ずつ兵が食いちぎられてゆく。銃兵横隊は、相手のまばたきが見える距離で火縄銃を撃ちあう。
 勝敗つかず。

 断続的な遭遇戦の連続は、綺麗に割り切れるすっきりした戦いが好みの大東人には苦しいものだった。戦いが短い決戦と休戦の連続ならばどれだけ良かっただろう。
 当時の国家は経済力が弱体で、同時に金融システムも未発達であるために絶え間ない戦争は不可能であった。だが、二大勢力化した結果、双方の勢力がある程度の規模の常備軍を維持し動かし続けることが可能になっていた。
 半世紀後、凄惨な30年戦争がヨーロッパ中部を荒廃させるまで、大東における南北戦争に匹敵し得る戦争は世界中探してもみられなかったほどだ。
 武装した2大勢力で交わされた戦いは、名を冠されたものだけで1590年までに大小202回に及ぶ。
 時代が下るほどに、凄惨な戦いが増えていった。

・1582年
”半月湾の戦い”。
 南都を巡る合戦で最大の戦い。
 南軍が大東島全土にいつでも上陸可能だったのに対し、茶茂呂氏は孤立していた。
 同族から出た裏切り者の黒姫氏に圧迫され、10年にわたり黒岩山脈を防衛ラインに陣をひき防御に徹してきたが、海上封鎖で貿易は途絶。領内の不満は高まっていた。

 茶茂呂氏は優秀な造船技術で巨大な3檣タイプの”直船”に大砲を搭載、封鎖する南軍海軍に度々砲撃していた。しかし、港に逼塞していたために逆に沖からの遠距離砲撃が命中しやすく、しかも航海できないために水兵の錬度が低下、せっかくの優秀な軍船も存分に使えない状況だった。

 ”半月湾の戦い”は、南都を海軍が強襲、茶茂呂の軍船を焼き払うという作戦だった。茶茂呂領内の戦意は低下するはずだった。
 この戦いの経緯は詳細な記録が残っている。
 早朝、日の出と共に南軍の大型軍船が太陽を背に南都に接近、砲撃を開始した。更に、可燃性物質を満載した老朽ガレー船が南都湾に突入した。これは焼き討ち船である。
 茶茂呂の沿岸要塞からの砲火が断続的に閃くなか、茶茂呂勲爵は2つの船団を急遽外洋に送り出した。
 一方は、呂宋のスペイン根拠地マニラに向かう茶茂呂氏の亡命者を乗せていた。
 もう一方は、スペイン製ガレオン船に匹敵する大型船3隻から成り、目的は遥か東方海上に同族から成る新天地を求めての脱出行であった(東方海上にいくつかの未知の言語を話す島嶼が存在することは、既に鄭和の大航海により15世紀から知られていた)。

 ”半月湾の戦い”の7日後、茶茂呂氏は降伏、茶茂呂系の5氏が新たに勲爵として旧茶茂呂領を分割した。
戦後の馬名氏による調査で茶茂呂氏当主を含む1600名余りが脱出したことが判明したが、特に追跡する必要性を認めず、捨て置かれた。

・1583年
”熱詞の戦い”。
 北軍に対する大攻勢。南軍参加兵力は35万といわれる。
 この攻勢で、南軍を煩わせてきた戦虎遊撃戦は終止符を打たれた。
 長瀬・西原氏が北軍から離脱、琉婚川のラインまで戦線は移動した。旧高埜公領だった大東島屈指の豊かな平野、その過半が新たに馬名氏の家臣団に分配された。
 時の大展天皇が、馬名行義の指示通りに新たな爵位に任じた。

・1584年-1588年
”二者陸繋の戦い”。
 琉婚川北方を巡る合戦は、笹森伯領を中心に第6次まで戦われた。

 特に凄惨を極めた第3次”二者陸繋の戦い”において、追い込まれた主神道領は、「進めば天国、退けば地獄」と領民を脅し、数えで15歳から60歳までの成人男性を動員した。更には持梓巫女という形で、多くの女性も志願という名の動員をかけられた。
 彼ら/彼女らの背後では、ごつい神官が二十匁多連装銃を構え、死を恐れる卑怯者の信徒を”破門”する特権を行使する機会をうかがっていた。
 二者臨界大社を巡る攻防では、多くの神道習合兵が激しく戦い、その死に様をつぶさに観察した行義は、「この連中と同じところには行きたくないね」と発言したともいう。
 ちなみに、後世に伝わる持梓巫女の武装といえば弓か薙刀だが、100万丁近い銃が蓄積していた1580年代には火縄銃が主要な武装になっていた。
 鍛造技術の向上に伴い軽量小口径の火縄銃が普及し、反動も少ないこれら新型銃が使用されていたようだ。比較的近距離での撃ち合いが銃兵の戦い方であることから、戦訓に従い大型の銃よりも資材節約になる小口径銃が選好されたのだ(少数の大型銃が別に進化の道を歩んでいる)。

・1586年
主神道領が滅亡。
 旧領は照神道領に編入された。唯一の存在として強大化した照神道ではあるが、その栄光は長くは続かなかった。
 主敵を失った照神道領の政治は善政にはほど遠く、旧領では以前よりも重い税、軍役、賦役が待っていた。
 そのためか信徒の大部分が集中する旧大東島でも、旧来の”自然神道”に回帰する者が増えだした。この回帰現象は戦国の世に民衆が倦みはじめると共に大きな潮流となり、照神道は次第に廃れてゆく。

最後の第6次”二者陸繋の戦い”。
 1588年、新大東島の入口にあたる境東府は、新時代の攻城戦に対応した重厚な要塞に変貌していた。
 過去5年の間に周辺の市街を潰し、掘が造成されていた。厚い城壁は土塁で埋められ、堀に続く 稜堡となった。伝統的な中世からの城壁では、大砲に耐えられないからだ。
 この築城様式は15世紀以降のイタリア式築城様式を真似たものであった。

 戦いは砲撃を中心に据えた史上最大の火力戦になった。多くの大型軍船から大砲が下ろされ、この作戦に間に合うように運搬された。
 また、この戦いにおいて主に働いたのは砲兵と港から弾薬補給所までを往復する輜重隊であった。
 戦功を挙げられないことに不満を持つ刀兵はいなかった。攻城を命じられれば、要塞の遥か手前で鎧ごと粉微塵になることはわかりきっているからだ。

 この戦いの前に、行義は大枚をはたいて大東交易圏全体から火薬と硝石を買い集めた。幸いにも日本では織田氏が全国統一に成功したため、国際市場では硝石の価格は低下傾向にあった。
 行義が境東府の攻略を急いだ背景には、その日本の情勢が大きく関わっていた。
 日本は前年の1587年に全国統一に成功し、数々の法を整え、海軍増強にも勤しんでいるとの情報が入っていた。多くの情報提供者が織田信長の動向を行義に報告し、行義は信長の行動様式を分析していた。

・1589年
2月、包囲下の境東府が開城。兵糧攻めの結果だった。
 これで新大東島が戦場になることがはっきりした。田村氏は動揺し、新大東諸領主の多くは田村氏への協力を拒みはじめた。また、北府や央都の商人は北軍への新規融資を一切取りやめた。
 次なる死闘の舞台になるのがほとんど決定している北府の豪商たちは、早くも主要な幹部従業員を他都市に移転し、現金の備蓄も密かに船便でどこかに持ち去りはじめた。
 仮に北軍が戦争資源を一滴残らず搾り取り南軍に抵抗するならば、大東経済に残す傷跡はさらに深く、かつ広範なものになっていただろう。
 田村氏が抗戦・降伏いずれの道を選ぶか天秤にかけられていたこの最もフェータルな局面において、突如として動いたのが駒城氏であった。

 駒城氏は領土的野心などないかのように振舞い、田村氏には好意的中立を保っていた。
 このような穏健な姿勢を半世紀にわたり貫くことは、かなり困難だったと推測される。周囲の競争相手が次々に領土を獲得するなか、それを指をくわえて見逃すことを非難する重臣や血気盛んな若手が必ず家内にいるはずだからだ。
 馬や木材も軍事援助としてではなく、通常の商業ルートで北軍に販売していた。このように抑制した経済活動を続けてきたことも驚くべきことだ。商人とは最大利益を求めるものだし、利益追求の邪魔をする者をあらゆる手段で矯正しようと試みる。民主主義社会でなくとも、為政者は民衆にある程度操作されるものなのだ。戦争に 全面的に参戦すれば、駒城商人は一時的には大儲けできたはずだ。
 それなのに過去半世紀間、南軍に駒城攻撃の糸口すら与えぬよう領民を従わせてきた駒城伯の力量は相当なものだった。

 1589年2月、駒城伯が挙兵し南軍に加勢した。これまで戦国の世にありながら全く無傷で通してきた駒城氏に対し、田村・川鹿・小牧・向坂・古室氏などは疲弊している。精強な駒城騎兵に抗すべくもなかった。

 1589年3月、中立を保ってきた陸南の新谷から、夜陰に紛れ密かに陸を離れる大型直船があった。この船には、田村氏の当主、主戦派の重臣及びその家族が乗船したという。
 病弱で頼りにならないとみられてきた田村氏宗家の八男の清隆が、突然の雄弁で主戦派の父や兄弟と話し合った。そして、南軍に降伏すれば確実に腹を切らねばならない血族や重臣を密かに国外に逃がしたのだ。坂上田村麻呂を祖とする誇り高い名門の田村氏の命脈が絶たれることだけは避けなければならない、と説得したのだ。
 病弱で、いつまでたっても意味のわからない数字遊戯に熱中し、見るからに頭の悪そうなご面相の田村清隆ならば、馬名行義も彼を軽視して田村氏を完全にお取り潰しにはしないかもしれないとの希望もあったからだ。

 同月、田村氏は降伏し北軍は解散した。
 田村清隆は馬名行義との一対一での面会後に助命され、御沙汰が決するまで東京に出頭する運びとなった。
 結局、清隆は表向きは蟄居を命じられることになる。そして、田村氏の家督は爵位降格のうえ清隆の幼い娘(清隆は彼の正妻にほとんど指を触れなかったと言われている。)に譲られた。
 表向き、というのも、清隆は数年後に馬名行義の肝いりで設立された大東帝国自然哲学協会の数理部門長に納まり、全国から選りすぐった同年輩の若者と議論三昧の毎日を送ったからだ。
 清隆は行義とも位を超えた親交を育んだ記録も残されており、後には西洋解剖学部門でも大きな足跡を残している。そしてその業績を揶揄し「魔法使い」と呼ばれた。
 なお、「宗教」の存在しない大東では、国家(または天皇)が学問を振興するのが一般的であり、この行いは規模や先進性はともかく特に珍しいことではない。

 戦後、馬名行義は晴れて皇族に叙爵された。外部から皇族に編入されるのは、300年近く続く現行制度の歴史でも数えるほどしかないことだった。そして現天皇が崩御した後に、行義の娘が皇族との間に成した子が天皇位につく事になった。

 南北戦争の終結と大東再統一がここに成ったのだ。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

■馬名行義(-1544-1615)

 日本の織田信長が「第六天魔王」と恐れられたのに対して、大東の馬名行儀は「英雄」や場合によっては「勇者」と称えられる事が多い。
 行義は幼い頃から人当たりの良い人格者とみられていた。自信に満ちた態度と、耳に心地よい声の美男子。広く家臣や民の声に耳を傾け、落ち着いた目で真実を容易に見分ける英主。しかも一度決断すると躊躇なく果敢に相手をねじふせる行動力をも具有した。個人としての武勇にも優れていた。
 権力者が得てして不得手な弱者の感情の理解も深く、常に有用な人生訓を二つ三つ用意しながら喋る優秀な頭脳と併せて、誰もが従う指導者の器であった。
 兵法・経済・漢文や詩に通じ、ギリシャ起源の幾何学にも詳しい天才的な男だった。
 先を見通す力に優れ、信長が海軍増強を目指すや、すぐさまその意図を理解した。
 信長の対外拡張路線が、ただの領土拡張欲に根差すものでも、戦国の幕が降りたが故の口減らしを意図したものでもないことを誰よりも理解していた。
 古事記にはじまる歴史にも詳しい行義の考えでは、信長は大東国を利用して、日本と大東を(あわよくば両国を統合した大日本を)もっと広い世界に引きずり出すつもりなのだ。
 おそらく、行義は信長よりも遥かに頭が良いのだろう。
 ここまでが、後世に残されている馬名行儀という歴史上の人物だった。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

 しかし、頭が突出して優れた者の多くは、劣った他者の存在価値を認めず独善に陥る傾向がある。確かに行義自身もわずか9歳の頃に、世間の人間の愚かさがどうにも我慢ならずに、その鬱積をある方法で晴らすことを覚えた。
 彼もやはり、自分だけが唯一大切な個人主義者で、愚かしいばかりの同族の命や国家の繁栄などどうでもよかったのだ。みな死んでも一向に惜しくはなかった。
 行義がストレスを解放したあと、しばらくは劣った連中につきあって愚かしいゲームに興じ、素晴らしい支配者の演技をすることもできた。そしてストレスが溜まると、その折々に鬱積を解放する。
 行義が密かに気になっていたのは、ストレスを解放する頻度が歳をとるに従い激しく、残酷なものになっていることだった。

 その日もストレスを気持ちよく解放して屋敷に戻ると、行義は乳母に朗らかに微笑みかけ、それから子供たちに優しく話しかけた。
 彼を知性で追い越すことは永久にできそうにない愚劣な子供たちの頭を撫でると、子供たちは大好きな父上に撫でてもらいたくて争って彼に抱きついた。彼は子供たちみんなが平等に扱われていると感じるように計算しながらも、母親の異なる庶子たちの中のひとりを、その日に限っては殊更に可愛がった。優しい目をしながら。

 東京御所にほど近い、領主の巨大な屋敷が立ち並ぶ地域。そこに馬名家の別邸があった。
 高い塀に囲まれた庭は、雑草一本ない白砂利に覆われている。広大な庭の真ん中には、たっぷりとした床面積の旧大東造りの屋敷がひっそりと建っていた。それら全てが、満月の冷たい光に照らされている。
 屋敷の堅牢な石作りの床、その下に通じる階段の行き止まりは重そうな黒い鉄扉で塞がれている。ここには外界のどんな騒音も到達しないだろう。またその逆もしかり。
 ここが行義の秘密の遊び場であり、新たな国家戦略を弄ぶ風変わりな書斎でもあった。
 地下室の床は、隙間なく計算されてはめこまれた暗色の大理石で、その上にこぼれた固体や液体を目立たなくしてくれる。造りは非常に良いが、それでもわずかな隙間に入り込んだ液体が僅かな腐臭を発している。
 彼の祭壇はへその高さがある。そして、四隅に設置された頑丈な拘束具は人の力では破壊できるものではない。殊に女の細腕では。
 祭壇には、今や行義にとりコレクションの一つとなった物体が室温と同じになりつつある。彼の側女の一人。より具体的には、彼の子を産んだ女性の一人。その顔は驚愕と絶叫の形のまま固まっている。

 最初は首を絞めるだけだった。
 やがて相手を支配したいという欲求、命の支配がもたらす快楽は堪えがたいものになっていった。
 支配したいものは幾何級数的に増加する。自分も、世の中も、一人の人の持つ未来も、その心の全ても。
 支配とは彼にとって即ち”安心”であった。
 やがて、適当に捕まえてきた女性を切り裂き、その精神を恐怖が丸裸にすることに興味を覚えた。仮面を脱ぎ捨て、全てを剥ぎ取られた精神の美しさ、ひたむきさ、純粋さに心を奪われた。
 助けてくれと懇願し、泣き、わめき、震え、まるで神の前に立たされたように秘密を全て白日にさらす。最後には余りに深く体を壊されたことを悟り、苦痛の中に絶望の色が瞳を過ぎる。
 小さな刃は、彼の楽しみに仕える優秀な道具となった。

 数年前からは、それでも不十分に感じられた。
 もっと高い場所から精神を打ち砕きその中身を味わうために、行義に身も心も許した女性を切り刻むようになった。
 ある日、行義の側女は心から信頼し敬愛する夫に連れ添われ、とっておきの二人だけの饗宴に誘われる。
 彼女たちの精神は、皮下脂肪にちょっとばかり切れ込みを入れたくらいでは鎧を剥ぐことができない。何らかの希望が邪魔をしているのだろう。心底からの本音が聞けるのは、乳房があった場所が円形の切株のように切断面を露わにする頃だ。
 もとより頭に期待はしていないが、若く健康な女たちはなかなか耐久力があることを、彼は充分に承知していた。
 かつて彼の子を産んだことのある子宮と、その柔らかな付属物を本人にみせつける段階に達しながら、健気にも息がある女性のなんと多いことか。
 密かな楽しみの味を知る前には想像もできなかったほど、本当の女性は強く美しかった。その隠れた美しさを最大限に引き出すことが自分にはできる。彼はそう信じきっていた。

 夜の香りが漂う東京の寝殿。一人の長身の男が高い位置から外を眺めている。
 行義の心に、顔をあわせた事もない西の魔王、織田信長の姿がありありと見えた。
 信長の姿には、彼が必ずや行義にもたらすであろう興奮と苦悩、そしてストレスの影が霞のようにつきまとっている。それは、もしかしたら先日終わったばかりの南北戦争よりも、激しく行義を苛むことになるのかもしれない。
 こんな夜、行義は時に不安になるのだ。
 これから信長が落すであろう長い影が行義の心を覆うとき、いったいどれほどの慰めが必要になるのだろうかと。
 そのとき、何かの動きが視界をよぎった。
 最近屋敷で働くようになった、南部出身の浅黒い肌をした女中が外廊下を早足に渡っていた。わずかに褐色をした直毛の髪が腰まで伸び、小さな結い紐で結ばれている。
 ふと、このごろ近海に現れはじめたという紅や金の髪をした者どものことを考えた。
(異国の女は……もしくは異国の高貴な女はどんなものだろうか……)
 新しい欲望の種は密かにまかれる。
 行義の視線は、女中が見えなくなるまでその姿を追ったのだった。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

 後年の調査で、馬名行儀の狂気を記した文献を発見。行儀に非常に近い側近が密かに残したもので、彼自身は行儀が生きている内に暗殺されているため信憑性が非常に高いと言われる。
 その文献が正確だとすれば、馬名行儀が殺した女性の数は、生涯で500名以上に上る。
 オカルトと一笑する者も多いが、オカルトマニアの間では通説であり、彼は魔王に魅入られたか、吸血鬼だったとされている。

 一方では、仮に500名の女性を快楽殺人で惨殺したとしても、彼がもし存在しなければその後の大東の発展と近代化の第一歩がなくなるどころか、戦国時代はさらに長引き数十万の人命が失われていたとされる。