■Over Sea 日本/大東の海外進出

■竜骨構造船


 西日本列島では、瀬戸内海を中心とする内水面が主要な航路であったため大型化もさして進まず、外板が応力を受け持つ構造の船が伝統的に使われてきた。
 しかし、14世紀に起きた「二十年戦争」では、大量の海上輸送の必要性から数々の改良が伝統船に施されてきた。大東商人との貿易競争の結果、15世紀には順風帆走や沿岸航法の段階を脱することになる。風上への航行を可能にする間切り帆走法が開発されたのも同時期のことだ。
 また、西日本列島は東シナ海の琉球諸島を経由して明や南海まで半ば沿岸航法で航行できるのに対し、大東島からは潮流の早い日本海峡を渡らねばならない。必然的に航海技術が向上したのだった。

 16世紀の戦国時代にはポルトガル船が出現し、大東は竜骨構造船の存在を知る。明のジャンク船にもない目新しい構造に大東商人は興奮した。
 1560年頃、竜骨構造船を最初に採用したのは大東国側だった。対明貿易で隻数制限を受け、大型船の建造が目指されたためだ。

 1570年代後半からは、大東の南軍がガレオン船を模した大型軍船の建造に着手する。大量の輸送需要に対応するには、積載量あたりの価格が多少高くとも竜骨構造船が求められた。
 それまでの大東船は筵帆が多かったが、大量の綿布が主に南軍海軍に需要されるようになると綿布の製造コストが低下し、一般の商船にも綿帆が利用されるようになった。
 竜骨の材料となる木材はなるべく一本物に近いことが求められたが、大東国内には長大な良質の原木が少なくなり、日本から輸入される例もみられた。

 日本でも1586年に外洋航海が可能な竜骨設計船が試作された。伝統的な安宅型軍船に割り当てられる予算は大幅に削減、同時期から織田信長の海軍拡張のペースは急速な勢いで早まり、大東船を真似た大船が建造されている。
 この結果、日本から大東への原木輸出は禁止された。このため大東は木材資源獲得の代替手段として、尚のこと海外進出を行う方向に流れていく。

 また、1570年代に日本で出現した鉄甲船の鉄張り構造は竜骨構造船には利用されなかった。伝統船より喫水が浅い竜骨構造船は、安宅船よりもトップヘビーによる横転の危険性が高い。
 甲鉄を張れば舷側の防御力は向上するが、檣柱や帆桁まで全てを覆うわけにはいかない。ガレー船と異なり、帆船は帆が破損すれば浮かぶ棺桶になってしまう。よって、甲鉄のアイデアは帆船には適用されなかった。

 1600年、大東海軍の改良型直船は大砲を40門も搭載した。船首楼と船尾楼は小ぶりで、その代わりに部分2層甲板を有す。全長を延長、全幅を狭め船速に優れる。
 同サイズの商船の場合、全長140尺前後、全幅35尺前後、排水量10000石(1600トン)、積載量7500石(1125トン)程度であった。実際のところ商船と軍船の構造上の差異はあまりなく、軍船でも同程度の積載量を有した。


■琉球侵攻

 1590年の羽柴秀吉を総大将とする琉球侵攻は、琉球自身の招いたものと考えてよかった。半ば明の属国である現状を過大評価していたのだ。
 実際には、明帝国は日本・大東の門戸開放要求を一蹴、逆に海禁策を強化していた。明海軍は倭寇(実態はほとんど漢民族海賊であったが)に対応するためにそれなりの海軍力を備えてもいたが、沿海での海防作戦に従事することがほとんどであったために琉球侵攻を狙う日本帝国軍を海上で阻止する能力はなかった。

 日本帝国皇帝織田信長の方針によって、琉球はごく短時間で日本の属国と化した。
 一方、今まで大東商人は南海貿易の拠点として利用してきたため、琉球の喪失は大きな痛手だった。彼らが日本に懲罰戦争を行うように求めたのも当然といえよう。

 なお、16世紀末の対明貿易において、日本の主要輸出品は以下のようになる。

1. 銅・銀・金など鉱物
2. 刀剣類
3. 漆器など手工業品

 対して、大東の輸出品は大東特産の剣歯猫の牙やアルキナマコなど原材料、刀剣類、そして俄に増えた金が挙げられる。特に希少金属である豊富な黄金は、16世紀に入ってからの大東商人に高い競争力を与えていた。
 しかし明商人は、明帝国内で慢性的に不足している貨幣として使う銀・銅の取引を強く需要した。そして銀・銅ともに日本で多く産出している。よって対明貿易額では、大東は日本に及ばなかった。大東も、金との交換で日本から銀,銅を購入しているほどだった。
 そこで大東商人は、日本商人が未着手というより全く重要視していない貿易品目である香辛料に目をつけた。呂宋のスペイン人やマカオのポルトガル人(既にポルトガルは同君連合の形でスペインと一体化しているが、便宜上旧国籍で分けている)は、ヨーロッパへの帰国便でアジア産の香辛料を満載していた。また明商人も香辛料を商っており、肉食の進んでいる大東では香辛料に一定の需要もあった。日本を例外として、香辛料は当時の最もスタンダードな貿易品目だった。
 そして大東にとっての南海(大東洋西部)には、邪魔者がほとんどいない未開拓の島々が分布している。温暖な彼の地で香辛料生産を一元的に商うことができれば、その利益は莫大なものとなるだろうと考えられた。
 ヨーロッパに直接運び込むことができれば更に利幅は大きくなるが、スペイン・ポルトガル人商人が競争相手に寄港地を貸してくれるとはとても思えなかった。
 将来的には独自のヨーロッパ航路を開拓するかもしれないが、16世紀末の時点では既存の交易圏内での活動に限定されるだろう。

■新南海航路

 1590年に琉球を失ったことで、大東は立てたばかりの戦略の見直しを迫られていた。
 琉球=明=大越=マラッカという、比較的安全で穏やかな海を通る南海航路が利用困難になったのだ。
 ここで大東と日本が、雌雄を決する大戦を起こしていたとしても不思議はなかっただろう。だが、日本の織田信長は大東を意図的に無視した。馬名行義も、その選択を下策として採用しなかった。代わりに行義は、余裕のある財源から基金を創設して、かなりの規模の南海航路開拓を命じた。
 事実上、大東の独裁者となった馬名行義のもとに届く報告によると、スペインが開拓している呂宋はスールーなどイスラム系諸族が割拠し、蛮族も頭数が揃っているとのことだった。スペイン人がマニラ周辺に留まっていることからも、呂宋諸島の攻略は難しいと考えられた。
 よって、馬名行義は未知の寄港地を求めることにした。
 大商人にかなりの報酬を支払い大型船を雇用、南海探検隊を組織した。船先案内人には、呂宋交易の経験が深い茶茂呂人商人を雇用した。
 この二人の覇者の選択によって、大東と日本は対決することなく住み分けることになる。また同時に、商業帝国としての日本、開拓帝国としての大東という、大きく違う帝国を建設していく最初の選択ともなった。

 そして1590年から93年までの南海探検で、以下の地域が発見された。

茶茂呂諸島  : 15世紀半ばに最初にたどり着き、既にスペインと茶茂呂氏が1530年代に拠点を設けていた。
プロウ諸島  : プロウとは、マレー人の言葉で”島”という意味。その後パラオとも呼ばれる。
バンダ諸島  : ポルトガル商人がマラッカ諸島と呼ぶ島々を含む多島海全体を指す。探検隊はジャイロロ島のテルナテ港を発見。
サベドラ諸島 : 以前入手したスペインの海図に載っていた島々。おそるおそる大東が領有を宣言するも、スペインはそれらの島々のことなど忘れていた。

 「香料諸島」とも呼ばれるバンダ諸島北部のテルナテ港までの新航路は、これまでの琉球経由の南海航路よりも遥かに距離的には近かった。大東はテルナテを経由して更に南海を探検。マカッサルからテルナテに至る広大な海域に足跡を残した。

1593年、セラム島・ティモール島を発見。ティモール島ではドミニコ会の修道士を発見し、探検隊は驚かされた。
1594年、ルソン南部のサマル諸島に入植を開始。領地を失った旧北軍貴族がシマバナナ農場を経営した。
同年、探検隊がティモール南方海上に大きな陸塊を発見する。

1599年、第3次南海探検隊が進発。
 サベドラ諸島からの帰途、北上した際に遭難。ちりぢりになった大型直船のひとつ”辰恵”が北赤道海流に流されていると、偶然スペインのガレオン航路船と接触した。
 ガレオン船自体は別にめずらしくもなんともないが、大東人船長はガレオン船の船内で茶茂呂なまりの言葉を耳にした。船内には、茶茂呂人が乗っていたのだ。探検隊が大東人のものであることがわかると、彼らは素早く隠れた。
 こうして、1582年の”半月湾の戦い”で失踪したはずの茶茂呂勲爵の所在がわかったのだった。

fig.2 北大東洋全域図

■アリイ・ヌイ・チャモロ

 1600年、捕縛されたガレオン船の茶茂呂人を取り調べた結果、かつて鄭和が発見した遥か東方の島々に、茶茂呂勲爵とその縁者がたどり着いていたことがわかった。尋問の結果、かの地に大東人の入植地が建設されていることを知った。

 1582年、羽合諸島は複数の大族長に支配されていた。文字を持たず技術レベルも低いため、巨大な直船が現れたとき、現地人は茶茂呂勲爵一行を「神」と勘違いした。彼らはごく慎ましい振舞いをしたおかげか、その誤解が解けるまでに羽合島の一部を譲り受け、定着した。
 そして、豚や犬、鶏は既に羽合で飼われていたが、馬や猫は存在しなかった。僅かな馬が地上に下ろされると、この島が馬の成育に適していることはすぐに明らかになった。
 馬は重要な物々交換品としてタロイモやバナナと交換され、初期の茶茂呂入植地の主要な食料源となった。
 さらに、羽合族長がマウイ島の族長との戦いに干渉し、羽合諸島の統一に貢献することになる。島間の大量輸送手段として直船は最適だった。しかも多数の大砲まで装備している。加えて言えば、鉄という金属そのものが原住民にとっては未知の超技術だった。鉄の刀一本で無敵の戦士となれた。

 1583年、マウイ島以北の羽合諸島を構成する島々の族長(アリイ)の地位を認められた茶茂呂勲爵は、アリイ・ヌイ・チャモロと呼ばれた。
 ハワイ島に比べれば小粒な島々が多く現地人人口も少ないが、オアフ島には良港があるため茶茂呂勲爵にとっては好都合だった。

 1584年、オアフ島に停泊する3隻の直船のうち2隻が様々な理由で失われていた。全ての船が失われる前に、破損した船の部品を以って最後の一隻”黒椰子”を改修。大東島の南都に密かに送り出した。
 もちろん、実在する商業連合の旗を掲げて。

 ”黒椰子”は南都が黒姫伯の支配下にあることを知り、地方港で水と物資を補充してマニラに向かった。
 1585年、マニラのイントラムロスで茶茂呂氏の生存者と接触。生存者たちは、漢民族の海賊に対する防備としてスペイン総督サンティアゴ・デ・ベラが進めるマニラ城砦建設工事に従事していた。
 ”黒椰子”一行は、羽合王アリイ・ヌイ・チャモロからの使いとしてスペイン総督と会見し、スペインがまだ知らない太平洋(大東洋)の羽合諸島に布教する権限と独占交易権を提供すると申し出た。代償として、武器と生活物資の提供を求めた。
 (当然、羽合王は自称。実際はハワイ島とマウイ島はアリイ・ヌイ・チャモロの支配権が及ばない)
 一往復に2年もかかるゆったりとしたガレオン貿易のペースで話が進み、最初のガレオン船が羽合に立ち寄るまでに10年もかかった。
 これは不運としか言えないが、1599年、2隻目のスペインガレオン船が羽合に寄航した後に大東船”辰恵”に見つかってしまったのだった。

■羽合(ハワイ)諸島侵攻

 1599年、茶茂呂氏の入植から17年が経過していた。
 入植当初1600名余りであった茶茂呂人は、男性が多かったせいか慢性的な嫁不足であった。だが、羽合人に比べれば遥かに色白で体格も良かった茶茂呂人は、幸いにも羽合女性と割と容易に結婚し家庭をもった。
 彼らの多くは貴族に任じられ、タロイモ農場か馬牧場で羽合人労働者の監督者として働いた。体格の大きな大東馬は高値(物々交換)で売れた。充分な食料と温暖な気候のせいか野放図に増えた。1600年における入植地人口は、茶茂呂人4000人に羽合人3万人という比率だった。
 人口が限られているため成人男性全員が兵役を負ったが、鉄器を知らなかった羽合人にとって大東産の直刀は恐怖の的。直船はもとより鉄砲や大砲を使わなくても、刃向かう者は滅多にいなかった。

 1601年、大東海軍の茶茂呂懲罰作戦が実施される。
 中道島を経由し、2ヶ月もの航海期間を要したが羽合諸島に到達した。航海途上で若干減少したが、まだ2000人もの水兵が6隻の直船に分乗しており、オアフ島上陸の主戦力となった。
 迎え撃つ茶茂呂植民地側には、もはや丸太船しか存在しない。勝敗は戦うまでもなく決まっていた。
 それでも廃船から引き揚げた大砲がオアフ島から沖の大東艦隊に放たれたが、年月を経た火薬の小包は劣化して不発が相次いだ。
 モロカイ・ラナイ・オアフ・カウアイ・ニーハウの5島に分かれて居住する茶茂呂人は、突如として出現した大東艦隊に組織的に反撃することもできずに降伏した。

 同年、大東の実質的な支配者である馬名行義は羽合仕置きを下される。
 羽合行政区域は、新たに叙任された山崎勲爵が統治に当たった。
 以後、羽合諸島を起点に大東洋探検がおこなわれる。同時に羽合への入植と開発、大東化事業も押し進められ、17世紀半ばには羽合から他の地域に植民船を出すまでになる。

■大彩島の発見

 約7000万年前、北アメリカ大陸北部からいくつかの陸塊が大東島を追うようにプレートに乗って分離した。これが先島諸島である。同諸島の東部地域は黒潮が親潮と混ざり合った北大東洋海流中に位置する。先島諸島は東伝列島の一部と見られることもあるが、大東島から取り残されたのが東伝列島で、先島諸島は別の塊として北米大陸から離れた事になる。
 同諸島は海流と偏西風の通り道でもあるため、大東島から北アメリカへの帆走航路の理想的な寄港地となっていた。
 気候は寒冷で、平地が多いなだらかな地形のために強い風がしばしば観測される。植生は亜寒帯で、ほとんどが針葉樹。
 島には北アメリカ大陸から離れた時に取り残された動植物の子孫と、孤立して後に一部定住した鳥類が住み着いていた。地上に住む肉食系の獣が生息したため、飛ばなくなった鳥類は数種しか存在していない。

 先島諸島が、大東人によって発見されたのは1624年の事だった。最も大きい島は、当時の元号から”大彩島”と名付けられた。
 大彩島の面積は日本の四国の半分程度(約1万平方キロ)で、大東人が入植以後はジャガイモの栽培が盛んとなった。他には馬、牛などの牧畜が行われている。この島には島々の位置(距離間)と海流の関係からかポリネシア人が到達しなかったと推測され、原住民は居住していなかった。もし到達していても、タロイモが栽培不可能なのですぐに死に絶えていただろう。
 ただし20世紀に入ってからの発掘調査により人類の居住の痕跡が発見されている。一時期居住したのは、10世紀頃に大東または日本から流れ着いた遭難者とみられている。
 現在の人口は30万人程度で、18世紀中頃で10万人に届いていなかった。

 ちなみに、これは19世紀になるまでわからなかったが、じゃがいもは壊血病に効果がある。北大東洋航路の船員や水兵は、大彩島産のジャガイモのおかげで知らずに壊血病から免れていた。原因が分かるまでは、北大東洋の気候が原因しているのだと真剣に考えられていた。

■アカプルコ第3航路

 17世紀初頭、日本との香辛料争奪戦争に破れ、バンダ諸島などを失い南海から弾き出された大東。
 しかしそれは、幸運をもたらしたと言われている。

 香料諸島(バンダ諸島)を巡る争いは、めまぐるしく動いた。
 祖国をイスパニアに併合されたポルトガル商人が頑張っていたところに、織田信長の命令を受けた小西行長率いる大艦隊が押しよせ、相手を完全降伏させる事で一気に征服してしまった。同時に日本帝国は、黒田長政らがマラッカ海峡も制圧しており、その他南シナ海、スンダ地域各所で大規模な海外進出を実施した。
 イエズス会士によって「魔王の南海遠征」と呼ばれる一連の戦闘と征服で、17世紀に入るまでに東南アジアの海は日本人の海となった。例外はイスパニアが植民地を置くフィリピン(呂宋=ルソン島)だが、日本が一度に多くの敵を抱えることを避けたからだった。呂宋に手を出せば、イスパニアだけでなく大東も敵として戦争をする可能性があったためだ。
 その後も日本の東南アジア支配は強まり、17世紀半ばまでに、バンダ・ジャカルタ・ジョホールなどの全ての南海拠点が日本の支配下に入っていた。16世紀末には最初のネーデルランド商人が香料を求めてたどり着いたが、小数だった彼らに付け入る場所は既になかった。

 こうして大まかにサマル諸島(フィリピン)以東が大東の、以西が日本の勢力圏とみなされるようになった。東アジアの海は日本人のものになったのだ。

 この棲み分けは、結果的には日本、大東両国にとって良かったと言われることが多い。特に日本人もしくは日本民族全体にとっては、歴史的に大きな幸運だったと言われている。同族同士が異民族との競争に遅れを取るような行動にリソースを浪費しなくてよいからだ。この日本と大東による非公式な大東洋分割体制によって、以後の両国による植民地獲得競争は加速度的に進展していく。
 流れがほぼ決まったのは16世紀中の事であり、日本の織田信長、大東の馬名行儀の二人の天才的君主によってでしか、日本民族の棲み分けは叶わなかっただろうと言われる。
 なお17世紀のインドは、イングランドとネーデルラント、フランスが激しい分割競争を繰り広げるヨーロッパ世界のホットゾーンだった。どの勢力が勝利するにせよ、インドの次は東南アジアが標的になるだろう。大東から見れば、日本が将来インドを手中にしたヨーロッパ勢を食い止める防壁になりたいと望むならば、勝手にさせておけばよいと考えていた。何しろヨーロピアンの当面の目的は香辛料だった。その最大の生産地を押さえた日本人が攻撃されるのは、もはや自明の理だった。
 一方の大東は、インド洋に比べれば随分と平和な大東洋だけを心配すれば良かった。それが広大な本国に慣れ、そしてさらに目の前の広大な海洋に慣れていた、開拓国家大東の選択だった。

 大航海の象徴となる大東=羽合=アカプルコという大東洋航路は、アカプルコ=マニラ間のガレオン貿易航路に次ぐ大東洋の主要航路として早くから拓けていた。
 更に第3の航路が誕生した背景には、アレウト列島や千島・火依半島での毛皮狩猟の発展、さらには夏の捕鯨が関わっている。
毛皮を前処理し船便でヨーロッパまで輸送する際、捕獲地=大彩島=アカプルコ=ベラクルス(メキシコ湾側)という経路をたどることになる。これをアカプルコ第3航路と呼んだ。そして捕鯨船が大彩島を補給拠点とするため、発展は尚一層早かった。

 そして馬名行儀が晩年力を入れたのが、このアカプルコ第3航路の開発と新大陸の探索だった。しかし行儀は、新大陸で大きな成果が出る前、1616年に72才で没する。その翌年に西の日本帝国では織田信長が没したが、馬名行儀は才能では信長に勝ると言われながらも、最後まで、寿命においてまで信長の後塵を拝し続けた。晩年まで行儀の才能が曇ることはなかったが、老い先短くなると織田信長の事ばかり口にしていたと言われている。
 しかし馬名行儀の残した功績は大きく、さらに少し後に開花していく事になる。

 当時ノヴァ・イスパニア北部沿岸は、「ヴァーモリ」と呼ばれる乾燥した荒野であった。ヴァーモリより北の地域はほとんど未探索で、峻険なコロラド山脈が大東洋岸近くまでそそり立ち、一部に南北に細長い平野を形成している。北に向かうと降雨量は改善するが、海岸のすぐ側まで山並みが迫る場所が多いので、多くは鬱蒼とした巨大な杉林が広がっていた。そうした情景は、どこか西日本列島の一部情景に近かった。
 ヴァーモリ周辺で大河が注ぐ河口はコロラド川のみであるため、大規模な沖積平野はコロラド川河口以外には存在しない。こうした悪条件がノヴァ・イスパニア領の北進を妨げていたのだ。

■北米西岸の入植

 1594年、大東人が初めて北アメリカ大陸西岸の北部地域に進出。

 1620年、北アメリカ大陸の東岸では、メイフラワー号に乗った清教徒達が新たな入植地を作った。一方の大東人も、それより少し遅れて新大陸での入植を開始する。

 1633年、アカプルコ第3航路の緊急時の避難先として、北アメリカ大陸西岸に結先寄港地を建設。
 1640年、西岸中部に大杉寄港地を建設。
 寄港地といっても、最初は粗末な石積みの小屋があるだけだった。定住者も数名でしかなかった。
 やがて、コロラド山脈から注ぐ冷たい小川のほとりに小さな畑が出現。次いで芋酒をふるまう酒場と工具屋が出現。その頃には、原住民から身を守るため、木造の砦で囲むようになっていた。
 1650年、捕鯨業者が補給基地を建設したのを契機に、各地が爆発的に発展した。
 1655年、最初の農業定住者が大杉に入植。

 厳しい環境のアメリカ大陸西岸は、数多くのインディアン部族が割拠していた。山岳地帯にも密度は低いが凶悪な部族が住み着いており、しばしば平野部の諸部族を襲撃していた。
 大東の寄港地も毎年のようにインディアンの襲撃を受けたが、1650年代に大東人の人口が増加すると次第に平野部のインディアンとの接触も増え、襲撃者に対し共同戦線を張るようになる。一方では、大東人が持ち込んだユーラシア大陸原産の各種疫病が原住民の間に広まって80%と言われるほど激減した。この原住民のパンデミックは、大東ひとにとっては有益で、新たに入植した大東人たちはかつて原住民が住んでいた地域に何の抵抗もなく入植していった。そして大東人増えると次第にインディアンが大東人に飲み込まれ、人種交配が進むと共に、文明化という名の大東化が進む。
 この時期はおよそ50年続いたのちに、平野部諸族が大東入植地に吸収される形で発展的に解消することになる。
 こうして1701年、「武州」と呼ばれる「武里茂 辺境伯領」が形成されることになる。

 一方、北アメリカ大陸西岸の開発は、スペイン領に近いヴァーリモよりも、より北部の新田村地方の方が盛んだった。これは同地域にまとまった平地多く、大東北部の農業が可能だったからだ。また、海狸(ビーバー)などの毛皮を狩る猟師が入り込んだ為、地域としての広がりも非常に早かった。
 同地域でも、疫病で激減した先住民の取り込みが積極的に行われ、人口増加率は東部のイングランド入植地よりもずっと高い状態が続いた。

 なお、1650年頃に最初の入植地が建設されたが、大東の調査船団が現地調査を行った時に大きな驚きを発見する。半世紀ほど前の戦国時代最後に大東を脱出した旧北軍の軍船の一部が、同地域にたどり着いていたからだ。しかし彼らは冬を越えることが出来ず、残っていたのは船や住居、その他鉄器を中心とする文明の利器の産物の残骸だけだった。一時は脱出した田村一族の痕跡なりが発見できないかと考えられたが、同地域にまでたどり着いていなかった。
 しかしたどり着いたのは田村一族に仕えていた武将の船だった事から、同地域には故人をしのんで田村の名が付けられる事になった。またこの時作られた田村神社は、その後北アメリカ大陸で最も広がる神社となる。

 ちなみに、現代に至るも大東から脱出した田村一族の消息は明らかになっていない。一般的には大東洋のどこかで難破して海の藻屑となったと考えられている。当時もそうだと信じられていたため、フライング・ダッチマンならぬ「彷徨える田村一族」は、大東の船乗りの間の怪談話しとして有名だった。

fig.2 大東の海外進出経路

■豊水植民地

1522年、ポルトガル人探検隊が豊水大陸を発見したが、金も香辛料もとれない荒地であるために放置されていた。記録もごく僅かしか残されていない。

1594年、大東の南海探検隊が豊水大陸を目撃するが、亜熱帯ジャングルや砂漠しか目にしなかったため、やはり放置された。

1606年
 日本と大東の香辛料争奪戦争時に、日本の軍船が豊水大陸北西部に上陸。
 軍船は修理のために木材を現地で伐採、日本本土に情報を持ち帰った。織田信長は情報の保存こそ命じるも、この時は特に捨て置く以外の命令は出していない。
 以後、日本は南海諸島経営に集中していたために40年以上にわたって豊水大陸の存在は忘れ去られていた。しかし情報だけは日本帝国の武士官僚達が保存し続けた。

1649年
 アベル・タスマンに率いられたネーデルラント船が豊水大陸南西部に上陸。この情報が日本人に伝わると、即座に行動を開始する。目的は、東南アジア、インド洋で敵対的なネーデルランド人の拠点を見つけだして、出来るなら叩きつぶすためだった。

1650年
 日本帝国海軍が艦隊を派遣。豊水大陸西部沿岸の地図作成。現地生物の捕獲なども行われ、詳細な情報が日本列島にもたらされる。
 そしてネーデルランド人が南方から東南アジアに入ることを防ぐため、現地の開発と拠点の建設を決定。
 この時点では、「南方大陸」とだけ呼ばれていた。

1651年
 豊水に恒久的な拠点を作るための艦隊が出発。基地建設などの労働力として、流刑の減刑を条件に囚人1200人も同行。事実上、彼らが最初の入植者となる。
 同時に、豊水開拓民公募。しかし、帝国政府は拠点の建設だけを行い、移民に関しては当初は商人に委託された。
 当時、開拓希望者の有金をねこそぎ巻き上げて船に押し込み、目的地で降ろしたらあとは知らない、という無責任な民間会社が多数存在した。そういった開拓会社の一つが開拓希望者をうまく騙せそうな開拓地の名称として決めたのが、”豊水”であった。
 実際のところ豊水大陸は水資源に乏しい乾燥した大陸で、西日本列島とは環境が大きく異なっていた。

 開拓民は乾燥した陸地を踏んだ瞬間に騙されたことを知るが、帰りの運賃を払えないためにそこで生きてゆくしかなかった。
 水が不足するために農業生産性は低く、苦労して乾燥に強い小麦畑を切り開いていった。
 豊水植民地の現実は間もなく日本本土に知れ渡り、以後1世紀にわたり豊水植民地には年間数百人の開拓者しか渡らなかった。豊水に渡った者のかなりの部分は本国に居づらくなった犯罪者やその家族から成り、いわば”自費で行く流刑植民地”のようなものであった。
 それでも徐々に人口は増加し、18世紀中頃に日本列島の人口が飽和するようになると、有望な移民先として重宝されるようになる。

■新海植民地

1594年、大東の南海探検隊が発見。いちおう上陸して石碑を設置。しかしすぐに放置された。

1649年、アベル・タスマンが発見。だが新大陸の一部と勘違いする。上陸も探査もせず。
1668年
 日本が大東洋にも面する新大陸に進出した事を17世紀初頭の自然境界線を越えることになる可能性があるため、大東が南大東洋に調査船団を派遣。
 各地で様々な島々を発見。最も南にある島々に到達。
 詳細な調査により、以前に自分たちとネーデルランドが見付けた島々と分かる。「新海諸島」と命名し、標識なども設置。
1707年
 新海諸島に最初の入植を実施。
1710年
 日本との間に海の境界線を巡るトラブルが発生。その後戦争へと発展する。