■ゲットピース トゥ リーヴ、ND WAR 2nd(2)

 今回の戦争も日本による大東の侵略という形で推移するが、この時の戦争は最初の日本人による征服戦争ではなく、国家対国家の戦争という点で大きな違いがあった。
 そして戦争の発端は、日本政府(室町幕府)の安易な国内向けのガス抜き政策と、海外貿易という商業関係だった。

 

■「二十年戦争」前半(前哨戦)

 明帝国が建国された頃、明帝国が表向きは海禁(鎖国)しているため、中華域内にあって別の国という扱いになる琉球が、俄に中継貿易の拠点として注目を集めるようになる。
 日本-琉球間の中継貿易も盛んになったが、これは日本にとっても対明朝貢貿易に柵封体系に入らず参加するための方策であった。
 対する大東は、貿易の規模もまだ限定的だった事もあって、平安時代の日本のように直接的な対明貿易を推進した。
 日本・大東と朝鮮の貿易は、日本の塩浦・富山浦・乃而浦に限定されたが対等だった。
 だが日本にとっては、「逆賊」や「蛮族」に過ぎない大東に、自分たちの貿易シェアを奪われているという負の感情があった。これは容易に大東への攻撃へと傾き、いつしか室町幕府の政策にまでなってしまう。
 そして日本の船は、明と密貿易と掠奪外交を行う「前期和冦」を行うよりも大東への攻撃に傾き、室町幕府は日本全体の水軍、つまり海軍力の増強に力を入れた。目的は言うまでもなく、「逆賊」の本拠となる大東へと駒を進めるためだ。
 そして一定程度の準備が整ったと見た室町幕府は、正式に大東への攻撃を命令する。

・1372年
「二十年戦争」(第二次日本・大東戦争)勃発。
 日本の室町幕府と商人達にとっての私掠活動は、大東と明の貿易を遮断する目的があった。海での優位は常に日本水軍(大半は海賊や漁民に属する)が優勢で、大東の海上貿易は大きな打撃を受けた。
 日本への対向が難しい大東国は、直接貿易相手国でありアジアの世界帝国でもあった明帝国に仲裁を求めた。そして当時まだ「前期和冦」が東シナ海で横行していた事も重なって、明帝国は日本を自らの「海禁政策」つまり鎖国の対象として、国家間の貿易から閉め出した。この結果、日本と大陸交易は大打撃を受けることになる。
 さらに日本国内では、博多・堺の国際貿易が衰微し、代わりに博多・堺から琉球へ、もしくは伊勢の桑名や常陸の那珂湊、陸奥の塩釜から大東へ向かう中継貿易(偽装貿易)が盛んになった。
 室町幕府は各地の守護代による大東との私貿易を禁じたが、効果は薄かった。
 関東地方では、幕府に反抗する鎌倉府を策源地とした反乱の火種は常に燻っていたためでもある。

 同年、有力御家人や足利氏の一門、有力守護大名や地方の国人などから選ばれる幕府直属の武官官僚(奉公衆)が創設される。これにより、幕府は直接指揮できる武力をもったが、その経費を巡る各地の守護大名との対立は深かった。
 そうした中にあっても、国内のガス抜きとしての側面を持つ大東への侵攻準備は進められた。
 1374年までの間に、旧大東島南端の茶茂呂氏(と茶茂呂人の多く)を寝返らせ、日本軍が旧大東島に上陸していた。茶茂呂人は、人種としての発祥が東南アジアでさらに大東の南方に住み続けた為、北東アジア系の人種よりも肌の色が浅黒かった。顔立ちも若干違う。このため大東で人種差別を受け、中央政府からも常に虐げられていた。このため日本側の甘言に簡単に乗せられたとされている。実際は、大東での自らの権限拡大のため、日本を利用しようとしたのだった。
 しかし大東側も、日本の侵略を察知して様々な手を講じた。

・1375年
「波多野反乱」勃発。
 相模国波多野氏を中心とした大規模な反乱。大東国の支援を受けた波多野氏は鎌倉府の黙認のもと、奉公衆への兵糧負担を拒否、更に伊豆の国府に波多野反乱軍が進軍した。
 駿河湾沿いの江尻・沼津には、数年前から準備されていた大東侵攻のために1000隻の軍船と2万の兵士(武士と郎党など)が待機していた。
 三宅島・八丈島には兵糧・替えの帆布・麻縄、予備の漕ぎ手、島の物資集積所から沖の船舶に物資を配達するための小舟、その漕ぎ手などが集積されていた。
 しかし、2万の兵の一部が大東攻略軍が国府防衛に転用されため大東島上陸の予定が狂い、この年の大東上陸は不可能になった。

・1377年
 大東国に逃れていた波多野氏一族の一部が有守州東部のトカチに上陸、北有守に残存していた蝦夷の部族に食糧・弓矢などを供与し、宇曽利氏を攻撃するよう要請。
 宇曽利氏は幕府に支払うべき国役の大部分を横領・着服していたため、莫大な富を蓄えていた。
 波多野軍は有守城を攻略して多量の金塊を含む財宝を獲得し、その一部を地元の国人に分配し懐柔した。
 この戦術は功を奏し、国人の一部が寝返った。財宝の件は時の将軍足利義満のもとに届けられ、逃げのびた宇曽利氏は幕府の不興を買うことになった。

 このように、決して一枚岩とはいえない室町幕府の統治体制に干渉することで、大東島は2度の日本軍の上陸の企図を粉砕した。
 しかし一方では、室町幕府による大東侵攻の準備は進められた。

・1378年
 大東でのマイノリティーである茶茂呂が、大東国を裏切る。形だけは日本の侵略を受けた形だったが、事実上無抵抗で日本軍の大東上陸を許す。
 茶茂呂に日本から2万の軍勢が到着。日本軍の大東侵攻が本格化する。

 同年、室町幕府は「花の御所」に移転。室町幕府と呼ばれるようになる。そしてこの御所の中に「征東所」と呼ばれる一種の司令部が設置され、室町幕府による大東侵攻が一気に本格化する。
 改めて日本各地で軍や武器を運搬する船が建造される。

■「二十年戦争」後半(大東本土決戦)

侵略者と 闘うよ

某たちの場所 この手でつかむ迄

この戦の中に 平和な生を得るが故

只素直に生くるために♪

 大東歌人古室哲弥の作とされる。
 彼が大応五萬両疑獄事件で刑部省に捕縛(捕まる)まで、大東衆の間では上記の歌が流行ったとの説もあるが、恐らくは当時の時勢が作り出したただの風聞だろう。
 徴兵によって境東府に集まっていた武士の中には、家門の家長から命じられて仕方なく戦場に向かったはいいが本当は戦場が嫌で嫌で仕方なく、色恋歌曲に傾いていた軟弱な者もいた。そのような永続性のある例外的存在がいたことは、大東社会が正常だったことの証だろう。
 いずれにせよ、熱狂があった事は日本の侵略が多くの大東人の若者に命を賭けさせた事は事実だった。
 この戦いは、大東人にとって間違いなく「祖国防衛戦争」だった。
 しかし大東側の迎撃準備は、広大すぎる土地が邪魔をしてあまり進んでいなかった。
 このため、当初においては個々の武士の働きによるところが大きかった。
 そして大東武士の戦い方といえば、騎馬を用いた戦闘だった。このため大東武士の事を、「騎武者(きむしゃ)」、「騎侍(きじ)」と日本の武士と分けて呼ぶ事もある。中には戦虎(剣歯猫)を連れた「侍虎(じこ)」もいた。
 そしてそうした武士達は、騎馬遊撃隊を編成して、日本人達にとって慣れない戦いを強いた。

 開拓が進んだとはいえ未だ黒々とした原生林が覆う大東島には、地の利に明るい者が隠れる場所がたくさんあった。平坦な地形が続くため、日本列島から来た人々にとっては似たような景色ばかりが広がっていた。そうした土地のそこかしこに、日本列島の越後地方に見られるような豪農(何が入ってるのかもはや誰にも分からない蔵がたくさんあるような、小領主のごとき存在。実際、地元武士などの少領主も多かった)が旧大東州にも数多存在していた。当時大東国に雨後の筍のように誕生していた騎馬遊撃隊に、必要な飼葉や馬、隠れ家を提供したのはそのような森の合間にある大東各地の豪農だった。
 大東の豪農は石敷きの道路や水路、ため池を率先して作ることで社会に富を還元する、一つの良心を持っていた。意識的なものだっただろうが、豪農が善行を働く事は、大東武士たちにも利他行動や率先垂範を伴う規律を自然に身につけさせていた(勿論例外はあるが)。

 当時の人口と農耕馬の密度から、1380年代の騎馬遊撃隊は総数で5万人・5万騎に達したと見られる。この数字は、大東国が軍隊として組織可能な数量の5倍だった。
 騎兵はその速度を生かして高台から日本軍に弓を射かけ、反撃を受けると逃げ、騎兵仲間が十分揃ったならば日本軍に突撃を仕掛けた。
 大東騎兵はこうした遊撃戦をアイヌ語で「狩り」を意味する「ホロ」と呼んだ。
 大東騎兵は、まだ小型種が多かったものの新大東島の気候風土が馬の飼育に合っていたため、日本軍よりも騎兵の数量は大きかった。この時代の兵団の基本単位は後世でいうところの”大隊”単位となる。 騎兵1個大隊は200人、騎馬200騎弱、より成った。

・1380年
 日本軍が2万が、大東島南端の茶茂呂地方から黒石山脈を越える。大東を裏切った形の茶茂呂は、少なくとも戦闘には参加せず。
 大東側にこれに対向できるだけの兵力がないため、散発的な遅滞防御戦、遊撃戦を展開しつつ大坂まで後退。
 日本軍は大坂を包囲するが、巨大な城塞都市となっていた大坂城に対して兵力が足りなかった事と海上封鎖が甘かった事がかさなり、大坂城に籠もった大東側は持ちこたえた。
 すぐに日本軍は転戦し、広大な和良平野を北進。地元の大東地爵との低強度の小競り合いが無数に発生。
 ここで大東での騎兵の有用性を認め、現地徴用(強奪)の形で騎馬の数を増やそうとする。

 日本軍が動き始めた時点で、大東皇室は都を北東の豊海に移し、臨時首都”東京”を置いた。
 このため首都大坂陥落による短期決戦を目指していた日本側の意図は全く外れてしまう。

・1381年
 旧大東島に「茶茂呂国」建国。大東の正統な政府を名乗り、その後すぐに日本列島の京にいる天皇に対して臣従の姿勢を示す。
 これに大東人は激怒。各地で徹底抗戦の雰囲気が醸成されるようになる。

 東海(東日本海)において相次ぐ海戦。
 同年、大東水軍は新大東島沿岸の警戒を強化、遠距離航海で疲れた日本水軍の軍船の多くを屠った。 日本軍の騎兵は蒙古襲来以後、大陸種の馬の飼育や馬の繁殖奨励によって大幅に強化されていた。

 日本軍は和良湖低地帯の水上都市要塞、矢納倉城を攻める。片脇勲爵家が300年にわたって、日本の利根川・多摩川・入間川が注ぐ関東の香取湾周辺の低湿帯を数倍上回る広大な和良低湿帯に水路を掘り、干拓してきた。防御力は旧大東州随一と言われる。
 日本軍の侵攻に際しては、水門を解放して和良低湿帯を水に飲み込ませる力技で対抗した。(しかし、のちに過剰防衛だったことがわかり、片脇家は復興のために多大な努力を傾けなければならず、自分の首を絞めることになる)。

 日本軍は、いまだ大きな成果を得ることができないが、略奪的な補給を続けるために半ば惰性で進軍を再開。

・1382年
 春になると、強大な関東管領上杉軍3万が大阪近辺に上陸。日本軍の総兵力は5万に達する。これをもって大東島の要である境都を決意。
 一方、大東国天皇から新たに”侵払代”の称号を授かった旧州の太守である高埜公爵家が中心となり、公爵領全土から参集した武士団が境東府に集結していた。
 「流魂川諸合戦」発生。流魂川(現在の琉婚川)に大体30kmごとに建設されていた河川要塞群を巡る攻防で、日本軍と大東軍の合戦が起きる。日本側が待ち望んだ大規模合戦に、日本側が勝利。日本側の勝利は、大東側が日本側の増援の数を軽く見積もっていた事が主な原因だった。
 そして守備兵力を失った大東側は、たいした防御戦を行えないまま境都も失う。境都は、日本が初めて落とした大東の主要都市だった。

 しかし現地日本軍では、勝利したのが上杉家の大東参集直後だったのが悪かった。既に2年間も大きな戦功を挙げていなかった先発の細川氏を中心とする御家人が気分を害した。本来なら、ある程度の勝利を収めた後に、日本・大東国間の終戦交渉が行われるのが順当な流れだったはずだが、更なる勝利を求めて日本軍は南方の”東京”攻略に着手した。
 臨時首都で城塞の規模も小さく城壁も薄く低いという情報があったため、簡単に攻略できるだろうと考えられた。さらに籠城できない大東軍が打って出てくる可能性も高く、これを再び撃破することも目論んでいた。
(※当時の細川氏は”大東管領”の役職を狙っていた。大東管領の地位を手に入れれば、対立する大内家を大きく引き離せると考えていたからだ)

 東京攻略に際して、略奪的補給の関係上で既に略奪し尽したルートを戻れない。このため日本軍は、地理的にまったく詳しくない小泉湾に沿って並行する”此方山地”西方の原生林を抜ける行軍ルートを採用した。
 此方山地は、典型的な曲隆山地である。古大東島が太平洋プレートを西進する過程で、現在のような陸繋で繋がる形状に大きく東西方向に圧縮応力が働いた。その時代に形成された山脈と見られている。地質学的年代を経て標高は低くなっているものの、隆起地形と沈降地形が交互に連なる大地形は大東国では珍しい。
 そしてこのルートは小苗街道という大東には珍しい起伏に富んだ街道であり、戦虎を用いた遊撃戦には最適の地形と言えた。しかも、季節は夏、剣歯猫が最も活動的になる時期だった。
 熱帯低気圧が大東国では珍しい長雨をもたらし、せいぜいが照葉樹の温帯原生林をどこか熱帯林のように見せていた。
 5月29日、細川軍を中心とする西国連合軍は隊伍(隊列)を長く伸ばして進軍していた。略奪できる村落もなく、鬱蒼たる森林地帯が続いていたため食糧不足が心配された。

 同時期、新州の太守である田村公爵家率いる大東国北路軍(駒城伯爵家・守原伯爵家を含む。兵数1万2000)別働隊として、此方山地東岸に独立鉄虎兵第十一大隊を中心とする軍勢が到着していた。因みに、戦虎を主要兵器として用いる部隊は、当時はまだ実験段階の戦力と考えられていた。このため独立鉄虎兵は、第十一大隊の他には第一大隊(田村公爵領に残置)があるだけである。それでも、2個大隊合計100頭を超える戦虎を維持できるのは大領主たる田村家だからこそできることだった。
 また、軍の編成に際して数字を用いるようになったのも、この戦争がほぼ初めてだった。これは編成される軍の規模に対して、管理上の簡便化を図ろうという意図で導入されたのもで、直接的な行動を好む「大東的」と言える。

 戦闘に際して、小泉湾を横断しての進軍で剣歯猫は疲れていたが、乾燥アルキナマコの削り節(強壮剤)を与えられるなどして、なんとか活動可能になっていた。そして工兵(当時は鍬組と呼ばれた)は、近隣の農民を徴用して後続する北路軍の上陸準備を進めていた。
 早馬によって、細川軍が南下しているのを知った独立鉄虎兵第十一大隊主力は、隘路を通行する細川軍の隊伍を各所で食い破り士気を低下させた。戦虎の利用例としては最適の事例だろう。これ以後、戦虎の大量導入を促す事にもなったほどだ。
 その後、東京仮御所に至る小苗街道沿いで細川軍が再編成している最中、6月13日に北路軍主力が現れた。

 「小苗合戦」(細川軍18000vs北路軍12000)の結果、細川軍は敗退し、またもや小苗街道を逆に進軍することになった。敗残兵狩りともなる追撃戦は敵の戦力を効果的に破壊する。独立鉄虎兵第十一大隊は、またもや得意とする戦場において働き場所を得る事となった。

・1383年
 半数以上を失った細川軍の多くは本国に帰還し、上杉・佐竹など東国勢が主力になった。領土とする地域からの徴用で騎馬の比率が高い上杉軍は、飼葉の豊富な大東の地で実によく移動して戦った。日本軍が本格的に騎兵を縦横に駆使した初めての戦闘例としても記録され、この記録は日本列島の戦国時代に再び注目される事になる。
 そしてこの年は、日本、大東共に騎兵を用いた機動戦に終始したため、大規模な戦闘はついに起きず。
 しかし増援と武器の補給の必要性を感じた日本側が、大規模な港湾都市を最低でも一つ落とす必要性に迫られる。
 大東では都市が全て城壁で囲まれている為、ただ馬で走り回るだけでは戦争をしている事にならなかった。

・1384年
 「南都攻略戦」開始。
 この年、日本軍は腰を据えて有利な地形での大規模攻城戦を決意。選ばれたのが、大東南端東海岸にある南都だった。
 波の穏やかな
半月湾に面する南都は南部の最重要港湾であり、既に大規模な城塞都市となっているため、初期の日本軍はこの城塞都市を無視して大坂へと進軍した。
 しかし同地域の西岸は日本軍の拠点として機能していたため補給の苦労が少なく、大規模攻城戦には向いていた。さらに黒岩山脈に山城などの臨時要塞を築いてしまう事で、大東各地から押しよせる大東軍の増援や補給を阻む事も出来る。日本からの補給や船の増援も送り込みやすく、さらに大東側に対する海上封鎖も行いやすい。
 様々な好条件があったため、日本軍は腰を据えた攻略を開始する。
 しかし、周囲数キロメートルの分厚く高い城壁で囲まれた南都は、当時の日本軍にとっては難攻不落の要塞だった。無尽蔵といえる食料備蓄もあり、兵器、兵力も守る分には不足はなかった。しかも日本にはないかなりの規模の投石機を持って反撃してくるなど、容易な的でもなかった。このため戦いは日本側が予測したよりも長引き、大東側も奇襲的に海から増援を送り込むなどして果敢に抵抗した。

・1385年
 夏前、「南都攻略戦」の結果、南都はついに陥落。結局城を落とした決め手は、内部からの手引きだった。
 陥落前後の南都では日本兵による掠奪、暴行などの悪行が実施されたが、ここでは日本人に内応していた茶茂呂人も多く犠牲になり、大東内での日本兵の立場はいっそう悪いものとなる。
 それでも南都陥落という結果を受けて、上杉勢が順次本国に帰還した。

 この年、大東水軍に日本の西部を根城としていた村上水軍の分家筋である素島大東水軍がはじめて参軍。制海権も徐々に大東側に有利に傾くようになる。

・1386年
 入口湾への侵入と大規模上陸に成功した日本水軍は、二者陸繋付近に上陸して境東府に北から迫った。
 境東府は新大東州の南の入り口、新旧双方の中継点となる場所にある、守ることではなく戦闘を目的とした大規模な軍事城塞都市だった。このため城壁は分厚く高く、櫓がいくつもあり、そして場内には大量の物資が備蓄できるだけの煉瓦造りの倉庫が並んでいた。もちろんその倉庫の中には、新大東州中から集められた食料が満員御礼の状態で納められていた。守備兵の数も多く精鋭揃いで、その防御力は大東一を誇っていた。

 「境東府攻城戦」。日本軍が戦略的に奇襲する形で行われた戦いは、引き分けに終わる。
 大東軍は境東府を守りきったが、相手が大軍すぎて引き上げる際の追撃もできなかった。しかしこの戦いの途中、日本軍はこの戦争最大の成果とすら言われる大東島北方の地図を入手し、日本に持ち帰らっている。
 そして北部の地図を手に入れた事と自らの補給の必要性から、日本軍は進撃を再開する。

 次に日本軍は、真室穀倉との通称で知られる新大東島中央部の平野への進撃を行った。
 この過程で「幌丹泰(ポロニタイ)合戦」が発生。古大東人や蝦夷が森林大陸と名付けていた広大な新大東州南部は、旧大東州以上に濃く深くそして広大な原生林に覆われていた。日本軍は、そうした森の各地に補給物資を蓄えた屯所(=簡易砦)を建設しつつ進軍していた。
 大東騎兵・虎兵は、そうした屯所に対して襲撃するケースが多かった。逆に日本軍に罠を仕掛けられることもあった。こうした攻防戦を総じて幌丹泰合戦と呼称する。

 この時期、伊達水軍による永浜略奪。旧大東州西海岸西部各地が大規模な海賊行為を受ける。しかしこれは主に陽動作戦で、この間日本軍はさらに北部への進撃準備と日本本国からの増援を送り込んだ。

・1387年
 北府は、央都と並んで新大東州防衛の要であり、建設開始は10世紀まで遡ることができる。この時期には既に「内壁」とも呼ばれる「第一城壁」が完成しており、当時の新州としては十分強力な城塞都市となっていた。
 真室穀倉を縦横に荒らしまわる日本軍を捕捉するために、田村軍は囮として大規模な元服の宴を北府で開いて日本軍の接近を待った。
 そして大東軍が油断している上に集まっていると考えた日本軍は、「千載一遇の好機」を前に大胆に前進。大東軍を戦略的に奇襲攻撃しようとした。
 そして日本軍の進撃に呼応して、田村軍も煌々篝火が焚かれる北府をあとにして秘密裏に行動を開始。
 日本軍が気付いた時には、田村軍に半ば包囲された状態となっていた。
 ここで日本軍も体形を整え、日本軍と田村軍は北府南方の平野で合戦状態となった。

 4月26日、「北府合戦」発生。
 「二十年戦争」最大規模の戦闘となり、両軍合わせて6万7000(日本軍3万1000vs田村軍3万6000)の兵力が激突。
 戦いの結果、大東軍の騎兵の集中側面攻撃が見事にはまり、日本軍は壊滅した。
 日本軍は総崩れの様相を見せたため、以後は掃討戦に移った。海での掃討戦も実施され、事実上海上封鎖された形の新大東州から日本軍が逃げることは遂に叶わなかった。
 この戦いに参加した日本軍将兵のうち、生きて日本の土を踏めたのは僅か500人と伝えられる(※かなりの割合で、故郷に戻らずに大東国に住み着いた者もいた)。

 「北府合戦」以後、大東に侵攻した日本軍は全軍が総崩れの状態に陥る。各地の小さな街などに籠城して時間を稼ぐのが精一杯で、その過程でさらに大東人の恨みを買って自滅していった。

・1388年
 この年に入ると、大東の主要な地域は奪回され、日本軍は最初に侵攻した茶茂呂地方のある黒岩山脈より南側に追いつめられた。
 日本側が頼みとした黒岩山岳要塞遅滞も、地の利を持つ茶茂呂系の黒姫氏の大東側での大挙参戦もあって簡単に崩壊。
 この年の夏までに海に逃げることが出来なかった日本軍と日本軍に与した大東人合わせて約2万人が、茶茂呂氏の拠点である瓜磨(うすり)と南都に籠城。しかし既に地の利も無く、茶茂呂人からも裏切られた日本軍になす統べなかった。
 夏までに日本人が勝手に作った茶茂呂国は、何も残さないほど崩壊。
 続いて大東国軍が、南都を呆気なく奪還。降伏した者を含めて、日本軍は皆殺しとされた。

・1389年
 大東国内における日本軍の作戦行動が終了。日本兵は、日本列島に逃げるかさもなくば平家の落人のように大東島内に潜伏するか、さもなくば復讐に燃える大東人に殺された。
 実質的に、この時点をもって「第二次日本・大東戦争」とも呼ばれる「二十年戦争」は終了した。

・1392年
 「二十年戦争」自然休戦。
 両者が戦争が終了したと判断したのがこの年であるだけで、講和会議などは特に行われなかった。
 また、依然として日本側が大東国を独立国として認めたわけでもなく、基本的な政治状態にほとんど何の変化もなかった。
 唯一の変化は、大東人に日本人(大東側は「大和人」と呼んでいた。)に対する憎しみと復讐心を植え付けただけだった。



fig.1日本軍の進軍経路