■ファイト、国内国家(1)

 15世紀後半から16世紀にかけて、東西日本列島が戦乱に向かって突き進んでいた頃、ヨーロッパではイベリア半島のレコンキスタが終息に向かっていた。
 カスティーリャ女王イザベル1世とアラゴン王太子フェルナンドの結婚により、両国の同君連合による新国家「スペイン王国」が誕生した。1492年にはグラナダを征服、イベリア半島はスペインとポルトガルの二強国によって支配されるに至った。
 スペインは1478年にカナリア諸島に進出、以後は植民地経営と交易を経済の両輪に据えた大航海時代の新国家として世界に羽ばたいてゆく。
 まさに、ぎりぎりまで引き絞られた弓のごとき危険なパワーに満ちたヨーロッパが、眉庇の影からぎらぎらと強い想いを秘めて、世界に鋭い視線を向けている。
 戦乱相次ぐ不毛のヨーロッパから海を渡ってやってきた白い肌の友達は、にこやかに銃口をつきつける。彼らの通った後には流血と屍が、そして彼らの行く手には産業化とナショナリズムが不気味に金属的な不協和音を響かせる、更に激しい戦争の時代が待ち受けよう。

 友遠方より来る有り、また悦しからずや。ちょっと待った、その白い肌のおトモダチは押し込み強盗ですよ。
 東アジアのちょっとした地域大国が流血の内戦に乗り出そうとしていたのは、そんな時代だった。

 大東国が統一され、政治的にも安定し、技術的にも東アジア中華文明圏の標準レベルまで進歩したのが、14世紀のことであった。日本との2度の戦争を経験し、軍備による財政の圧迫、技術力の限界による人口の飽和、そして行政システムの腐敗と貴族中心主義の悪弊までも経験した。つまりは、当時の文明国に必要な経験を一通り積んだということだ。
 そして、悪政の不満は民衆レベルでの好戦主義を醸成し、ダイナミズムに満ちた戦国時代が日本と大東の両国でほぼ同時にみられるようになった。
 
 
■16世紀初頭の日本/大東

■人口学的側面


 一般に、日本の戦国時代において、西日本列島全体の人口規模は増大し、経済力は持続的に発展していたと認識されている。室町幕府が任命する守護職が守護大名として領国を支配していたが、やがて守護大名は戦国大名へと進化を遂げた。
 支配の正統性を付与する幕府の権限を無視し、下克上によってより優秀な者が領国を支配し、領内限定で中央集権的かつ一元的な支配体制を確立するケースがみられた。
 戦国大名化したのは、領国を直接支配していた守護大名であったり、京から支配の代行を任せられた守護代であったり、地元の国人、公家、宗教勢力であったりと多種多様であった。
 日本が地方分権の極致ともいうべき国内国家の分立状態に陥った時代、それを戦国時代と呼んだ。

 戦国大名は、他国に負けないため、もしくは領地拡大のために軍役を創設し、軍事力を養成した。
 軍事力を維持するためには経済力が不可欠だ。領内の治水や街道などのインフラを整え、災害から領民を守った。室町幕府から任命された守護代はいわばサラリーマンだったが、戦国大名は中小企業のようなもの、経営にかける意気込みがそもそも違うのだ。
 過去の伝統に囚われずに規制を撤廃して産業を新興させ、兵役資源の供給源となる農民の安全を守り、国人などの在地社会による租税資源の中間搾取を減らすために、中央集権化を推し進めた。それらの結果が、戦国時代の人口増加に結びついたのだ。

 戦争は人口を消耗させるが、そもそも産業革命以前の人間はすべからく厳しい淘汰圧力に晒されて続けており、大人になるまで生き延びる確率はせいぜい5割だった。多くは戦争ではなく、疫病や怪我で死んでゆく。当時の人々にとって老衰や癌、成人病などという上品な病は、とうてい手の届かない贅沢の結果だったのだ。
 戦国大名の登場により、村落で分断された地域社会レベルの相互扶助は領国全体から受けられるようになった。物流の障壁は低くなり、商業ルート上で物資を相互に活発に売買できるようになった。
 食糧供給の安定化は、疫病の脅威を大幅に押し下げる。飽食の時代の者から見れば、医療の欠如の方が深刻な脅威に見えるかもしれないが、ふんだんな食料は医療以前に最も必要な対症療法になり得るのだ。
 激しく争いながらも人口が増えたのは、そういう理由もあったのだ。
 そして、生存をかけた戦争ほど、改革を促す原動力もない。
 国人や被官層から成る在地社会の結合は100年の戦乱が続くうちに次第に解体され、やがて大名も統合されて巨大な国内国家が誕生してゆく。その代表例が織田氏だ。
 最終的には織田氏の支配領域の石高は、約800万石に達した。人一人が一年に消費する米が大体1石なので、石高は即ち扶養可能な人口に近い。よって、織田氏は約800万の人口を有する大国だったのだ。

 戦国時代に人口が増加したと述べたが、逆にいえば、この人口学的側面が戦争を長引かせたともいえるだろう。
 古今東西、戦争は若者が担うものだ。
 若年人口が多いにも関わらず、主に産業の未発達により職にあぶれる若者が多い社会ほど、戦争圧力が高まる。
 新しい技術により、土地の持つ人口扶養上限が緩んだ場合に人口は増える。もしくは、社会の安定により生活基盤が破壊されなくなった場合にも。
 そして、その人口増加期は多産時代の若者と、少ない比率の高齢者から成るピラミッド型人口構成をとることになる。養うべき非生産人口は少なく、労働人口は極大。そして多くの場合において、若者に仕事は充分にない。
 産業革命以前では、仕事がないとは、つまり兄弟が多すぎて、親から受け継ぐべき農地が不足している状態を指すといえる。何しろ全住民(労働者)の90%以上は農業に従事しているからだ。
 戦国時代は、上記の人口学的側面から、戦争が継続しやすい環境だったのだろう。


Table.1 西暦1600年の日本及び大東の人口規模
面積(万km2) 人口密度(人/km2) 人口
西日本列島 36 36 1300万
新大東島 46 13 600万
旧大東島 23 72 1650万


Table.2 日本主要地域の人口
地域名 人口(万人)
有守 50
奥羽 120
関東 210
北陸 86
東山 43
東海 108
畿内 370
中国 123
四国 63
九州 127

※東山:甲斐、信濃、飛騨
※畿内:大和、山城、摂津、河内、和泉、近江、伊賀、伊瀬、志摩、紀伊、淡路、播磨


 12世紀から16世紀末年までに人口拡大が最も大きかったのは近畿及びその周辺であり、およそ3倍に拡大している。これは近畿が古くから人の手によって開発されていた事と、日本列島の産業の中心地であり、新規技術の伝搬が最も速かったからだ。
 東奥羽地方及び山陽地方・四国・有守は2倍に拡大している。
 同時期の関東地方の人口増加はささやかなもので、近畿地方の優位は戦国末期に最大となった。

 また、小さな島国でしかない琉球の人口は10万に満たないと推測されている。

Table.3 大東主要地域の人口
地域名 人口(万人)
凍陰 20
駒城 50
陸中 95
陸南 110
摘麦 175
二者 390
越鏡 350
遷鏡 650
征東 230
茶茂呂 180


 二者地方の人口のうち、旧大東島側が240万、新大東島側が150万とみられている。

 1400年に800万だった旧大東島の人口は2倍に増加している。特に1360-1460年の100年間における人口増加は顕著であった。同期間に20年戦争があったことを想起してほしい。
 征東の人口増加は1.5倍程度であったのに対し、遷鏡・越鏡・二者の3地方においては約3倍に増加した。

 新大東島の人口は1400年の段階で460万であり、200年間で1.3倍に増加したに過ぎない。
 1350年頃に”中世の温暖期”が終了し、新大東島の自然環境は殊更に厳しくなった。1480年頃には社会の混乱と共に人口も減少していった。
 戦国時代に入ると一転して人口は増加し、600万にまで増加した。

fig.1 1600年頃の東日本列島 地域名

 
■中華世界との比較

 これもよく言及されることだが、日本と中国歴代王朝の戦国時代の人口変遷は、好対照を示している。
 中華世界では、統一王朝の失われる戦国時代が訪れるたびに、人口の急減を示しているのだ。その理由の一つには、平和な時代の人口過剰があげられる。つまり、戦国時代が到来して生活基盤が不安定化した地域から、食い詰めた余剰人口が死の淵へ雪崩れ落ちてしまうという図式になる。

 次に中華世界が、特に平和な時代において過剰な人口増大を招く理由について少し説明しておこう。
 端的にいうと、家系存続を第一義とする生存戦略を漢民族に選択させたことが原因の一つだろうと考えられている。
 このような生存戦略は、儒教が持つ祖先崇拝の要素、直系の男子が先祖の祭祀を守ることを重視する要素から派生したのではなかろうか。
 つまり、祖先を祀る子孫を残すのが最高の親孝行であり、現世利益でもある社会であったため、土地が養える限界を超えて人口を増やしてしまったのだ。
 仮に。儒教が商業道徳として有用であったように、中華世界において儒教が個や拡大家族の利益を超えた隣人同士の相互扶助を促していれば問題は遥かに小さかったのだろうが、歴史は漢民族がそれに失敗し続けたことを示している。

 ※念のため記しておくが、文明論的話題は本稿の意図するところではない。日本の戦国時代が人口増と経済成長を伴う特異なものであったことを明確に示すために比較しただけである。

 

■日本列島の「戦国時代」

 「応仁の乱」によって「戦国時代」が到来したが、当初はそれこそ「応仁の乱」以外にそれほど激しい戦闘は行われなかった。将軍家の分裂と幕府権力の弱体化がみられた1493年以後、戦国時代は本格化していった。故に日本での戦国時代は、ほぼ百年間が本当の戦乱の時代だったと表現できるだろう。
 戦乱によってそれまで大勢力を誇っていた細川氏や三好氏が隆盛しては衰退し、各地の国人・豪族は実力のある勢力の間で右往左往する状態になった。
 大規模な戦国大名の登場はおおむね16世紀半ば以後の事だった。
 中国地方では、それまで戦国最大と言われていた大内氏が裏切りによって消えた直後に毛利元就が台頭した。関東では鎌倉公方が古河御所に逃れ古河公方となり、関東管領上杉氏と争った。そしてその前後に、出自も明らかでない北条早雲が登場して関東平定へと着実な歩みを重ねていく。
 北陸は、「軍神」とすら恐れられた上杉謙信(景虎)が統一し、甲信では有名な「風林火山」をかかげた武田信玄(晴信)が成長を遂げた。四国は戦国化が遅れたために、長宗我部元親が1582年に統一事業完成間近まで到達する。九州では大友氏が日本最南端の島津氏に破れ、最終的に島津が大勢力化していった。

 1560年代以後は、国人・豪族など在地勢力を取り込んだメジャープレーヤーが登場し、華々しい活躍を示すようになった時代だった。代表例としては、織田信長、武田信玄、上杉謙信、北条氏康、大友宗麟などの戦国大名たちだ。
 彼らよりも若干遅れて、伊達政宗、島津義久、長宗我部元親、真田昌幸などが登場する。

■織田信長という存在

 日本のあらゆる戦国大名の中で、最も有名で破天荒なのは(議論は果てないだろうが)やはり織田信長だろう。
 「桶狭間の戦い」では、「少数で多数を撃破する」という禁じ手を弄して完勝する。
 言うまでもないが、奇策は敗北に至る確率が高いため、”常勝の”と修飾詞が飾られるような軍事的天才が常用することはない。故に織田信長は、桶狭間の戦い以外で同様の戦闘を行うことは基本的になかった。部下が似たような事を行おうとした事例は皆無ではないが、彼は常に正攻法を好んだ。
 1570年代の信長包囲網結成時には、「二方面作戦を避けよ」の鉄則に背きながらも敵を軍事、政治双方を駆使しつつ各個撃破していった。
 信長は少数の例外を除いて、常に「物量戦」という最良の軍事戦略を用いた。そもそも彼は、戦略的に勝利できる環境を創りだす能力に秀でていた。戦いの勝敗を開戦前に決するのだ。常にライバルをリードし、敵を振り回す。壮麗な”見せる”城、安土城。鉄甲軍船。どれも信長が真っ先に考えたことではないだろうが、他人のアイデアを過去に例のない規模で本当に実行してしまうのが彼だった。
 1568年、上洛直後に大津・堺・山崎など商業都市を直轄地としたり、楽市楽座制を敷いたのも経済でリードするためだった。新時代の軍隊……兵農分離、鉄砲の量産と弾薬の補充、すべて経済力が重要だった。その後彼の「事業」を受け継ぐ事になった武将達も、彼のもとで学んだ事を後に実践している。もし織田信長いなければ、戦国という時代はさらに数十年伸びたであろうし、その後の優れた近世的封建体勢の出現もあり得なかったとさえ言われる。
 「金ヶ崎の戦い」や「三方ヶ原の戦い」では織田軍が敗北するも、「戦略的不利は戦術的勝利の積み重ねで克服できない」という原則に従えば、長期戦が信長包囲網に不利なのは明らかだ。国力に勝る織田側は「姉川の戦い」で浅井・朝倉連合軍を破り、武田氏も信玄亡き後に「長篠の戦い」で破った。
 そして何より、足利義昭を伴っての京への上洛は、各地の大戦国大名を刺激した。「戦国」という時間が残り乏しくなりつつあることが、誰の目にも明らかになったのだ。小戦国大名や国人・豪族の統合は更に激しさを増した。

 だが、織田信長も万能ではなかったし、不老不死でもなかった。ましてや魔王でもなかった。
 信長はある種の天才だった事は間違いないが、やはり信長も一人の人間であり限界があった。
 信長は日本を早く統一して海外に打って出ることを考えていたと言われるし、いっぽうでは大東の統一を考えていたとも言われる。
 しかし海外に出る為には、国内において今まで以上に強力な統治体制が必要だと考えていた。
 織田氏が国内国家として日本の過半を占めても尚、信長を頂点とする中央集権国家建設に向け武力による統一を推進していた。もし、信長が単なる征夷大将軍になりたいのなら、1570年代後半には充分可能だった。
 大東が既に実現しているように、一重権力体制の社会を建設して自らが皇帝の座につく。朝廷は歴史的役割を終えた。そのように考えていたのかもしれない。
 しかし彼は、西日本列島という狭い世界において急ぎすぎたし、あまりにも革新的過ぎた。
 そして西日本列島という地域は、こうした頭一つ抜きん出た存在に対して非常にナーバスだった。

■天下統一

 「織田がつき羽柴がこねし天下餅、座りしままに喰らう徳川」
 日本の戦国時代をうたった、最も分かりやすい戯れ歌だ。

 1582年は織田氏にとって輝かしい年となる筈だった。いや、少なくとも6月に入った頃は、まさにそうだった。
 かつては強大だった武田氏は勝頼の時代になってから斜陽化が進み、この年の3月に滅亡したからだ。
 しかも家臣達は各戦線で大活躍していた。柴田勝家は上杉を圧倒しつつあり、羽柴秀吉は毛利の門前をこじ開けつつあった。丹羽長秀も四国平定の準備を進めていた。この時点での予測では、あと二年もあれば織田家による日本列島の武力統一が完成されるだろうとされていた。
 織田家の一部では、既に「この次」について考えらえていたほどだ。少なくとも、織田信長は考えを進めていた筈だ。
 しかし織田信長は足下を掬われ、1582年の「本能寺の変」で家臣の明智光秀に呆気なく暗殺されてしまう。一部の研究者が、日本が世界に羽ばたく機会を失った瞬間だと言われる事件だ。

 その後、弔い合戦の「山崎の戦い」を契機として、織田家の権力闘争にうち勝った羽柴秀吉改め豊臣秀吉が、本能寺の変から8年後の1590年に日本列島の再統一を達成する。下級武士もしくはただの農民が、日本列島の頂点に立った事は、戦国時代を象徴していた。
 しかし豊臣秀吉の野望にはまだ先があった。
 彼にとっての選択肢は大きく二つ。「真の天下統一」のために大東国を平定する事。もう一つは、日本だけでなく全世界(この場合、全アジア)を支配するべく、大陸に打って出るというものだ。どちらも織田信長が晩年計画していた事だ。しかし革新的すぎた織田信長よりも、豊臣秀吉は保守的だった。また秀吉は自らに世界征服するほどの時間(寿命)が残されていない事を自覚した。
 ゆえに秀吉は、手堅く「真の天下統一」に乗り出す事になる。

 つまり「第三次日本・大東戦争」が、豊臣秀吉の日本統一によって、俄然現実味を帯びることになったのだ。


■日本の戦国時代における大東の関わり
 
 日本に戦国時代が到来したとき、大東島はまだ平穏だった。大東島での戦国時代は16世紀半ばに突然のように訪れるが、それまでは特に大きな戦乱もなく過ごしていた。そうした状況の中で、日本列島で「応仁の乱」が起きる。この時大東国の中央は、今こそ復仇の機会と色めき立った。しかし一方では、自分たちのようにかえって日本列島の団結(再団結)を呼び込み、逆に侵攻を受けるかも知れないとも考えられた。
 そして十年続いた京の都での戦乱によって戦国時代が到来しても、大東国の政府は結論を出せないでいた。こうした所に、当時の大東国の政治的硬直化や官僚腐敗、貴族の劣化などを見て取ることができる。
 しかし大東に戦国時代が到来するまで何もしなかったわけではない。特に活発だったのは商人達だった。

 16世紀に入った頃の大東商人は、大東島や北東アジアを飛び出して、すでに東南アジア各地に進出していた。北の方でも、鯨(鯨油)と高級毛皮(ラッコの毛皮)を求めて千島半島からアレウト列島へと進んでいた。そして日本での室町幕府の中央統制が弱まり戦国大名が独自の行動を強めると、そうした戦国大名との間の貿易が盛んになった。戦争は巨大な需要を生み出すので、大東から日本に大量の武具、鉄、穀物(主に米と豆)、保存食(各種保存肉や長期保存可能な乳製品)、馬、毛皮、衣類そして剣歯猫までもが大量に輸出された。
 そして大東商人が頻繁に立ち寄ったのが、「第二次日本・大東戦争」である「二十年戦争」前後に衰退を余儀なくされた貿易港である、近畿の堺と北九州の博多だった。当時西日本に豊富にあった銀が目当てだったからだ。そして大東との貿易の結果二つの港湾都市は戦国時代の中で大きく発展し、特に堺は自ら自治を行う「自由都市」として知られる事になる。
 なお貿易において大東の船が距離的にも近い関東地方に赴かなかったのは、金銀が少ないだけでなく当時の関東地方は日本の中でも「田舎」であり経済的に旨味が少なかった為だ。また、先の戦争で攻め込んできた軍勢の出身者に関東、奥州出身が多かった事も影響していた。

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