■きま★プレ「引きこもりルート」


■■National Isolationr(鎖国1)

 

 俗に言う「鎖国」は、近世における日本民族の歴史で最も重要な政治的決断の一つだった。

 日本(西日本列島)の江戸幕府による鎖国は、他の北東アジアの国々と同じように、主に国内安定を得るために行われた。
 また江戸幕府の鎖国は、貿易の輸入超過に伴う金銀の国外流出とそれに伴う経済の混乱を防ぐという大きな目的もあった。
 このため日本(西日本列島)での鎖国は、感覚的な捉え方はともかく限定的なものに止まり続けた。近年では、鎖国ではなく限定開国だったと言われることもある。
 しかし、日本人の海外渡航禁止など行きすぎた点も数多く見られ、その点では北東アジア特有と言えるだろう。

 日本地域の中でも、東日本列島とも言われる大東島の大東国にとっての鎖国は、当初は国内安定よりも国防の要求によって行われた。
 大東の過去の歴史において、何度も西日本列島からの侵略を受けた為の予防措置だった。
 当然、西日本の船が大東に来ることを制限する為の措置で、実施も日本より早く17世紀に入ってすぐ実施された。
 しかし、西日本の江戸幕府が1620年代から鎖国に入り、自らの海軍力すら大きく制限すると大東が鎖国をする理由が薄れ、大東での鎖国政策は緩められた。このため大東国の鎖国も、限定鎖国だったと言える。
 だが、国内から反対がないので、政策自体の根本的な変更を行う政治的決断は実施されなかった。このため、日本以上に限定的とはいえ、大東国も鎖国を続ける事となった。

 一方で大東人は、鎖国によって国内で不足する資源入手を創意工夫で生み出したり代替するのではなく、自分たちにとって鎖国対象とならない「非文明地域」の近隣地域で入手することで、鎖国に対する二重規範を持った。
 江戸幕府にとっての樺太がこれに当たるだろう。
 加えて、政府の人と船は許可制で海外渡航が出来るという形だった。この拡大解釈で政府直轄による商業事業も、限定的ながら可能とされていた。
 文明世界の辺境にある大東にとって、西日本からの侵略がなければ、鎖国の必要性は実質的に無かったのだ。そのためか、南部に寄港するスペインとの交易関係は、一度も閉ざしたことは無かった。だが、大東島が当時の感覚では世界の最果ての地に当たる事が、鎖国をなし崩しに続ける結果にもなった。
 大東の鎖国がある種いい加減だったのは、文明地域の最も辺境に位置していたという立地条件が非常に大きな要因だった。加えて、本来なら鎖国政策自体が必要ないものだったからに他ならない。
 大東は、非常に孤立した地理的条件にありすぎるため、少しでも自ら鎖国に向かうと簡単に世界から孤立したからだ。そして大東に住む人々も、その事をある程度理解していたのでいい加減な鎖国となったのだ。

 では、混乱の19世紀、戦乱の20世紀前半を見る前に、「ジャパン・モラトリアム」とも言われる時代を象徴する鎖国と関連する事項について少し見ておきたい。

 ■日本の鎖国まで

 日本(※江戸幕府もしくは西日本列島)の鎖国は、一般的にはキリスト教を禁止して国内安定を得るためだと言われている。また一説には、「スペインが日本侵略を企てている」というオランダの謀略に乗せられたとも言われる。
 しかし江戸幕府、というより西日本列島の人々が本当に恐れたのは、東の大東国だった。
 豊臣秀吉の「大東征伐」による復讐心に駆られた大東国から、少しでも攻められないようにするために鎖国したのが真相だったと考えられている。
 そう考えれば、日本が清国、朝鮮、そしてオランダとの貿易を限定的ながら続け、鎖国が不完全だったのも頷けるだろう。
 また、江戸幕府が常に沿岸防衛に一定の力を入れ、建造を禁止した直船(ガレオン船)の軍船は自らだけ保有し続けた事にも納得がいく。
 江戸に自らの政治中枢を置き続けた事を疑問視する声もあるが、当時開発の遅れていた関東防衛のため、開発を促進するためだった事が後年判明している。沿岸部の要塞や造船施設、大砲製造の大規模な生産施設などが、それを裏付けている。
 ただし、大東が日本侵略の意図がないと分かってからの江戸幕府の態度軟化後も鎖国政策を変えなかったのは、江戸幕府の東アジア的な硬直性を現していると言われる。大きな変化を嫌うのは、現代以前の北東アジアの国家によくある傾向だ。

 なお、大東の西日本列島に対する干渉で代表的なのが、豊臣一族を滅ぼす事だったと言われる。これは徳川陣営(幕府)に優先的に武器を売ったことでも象徴されるし、1615年に滅亡した豊臣陣営の亡命を完全に拒絶した事からも頷ける。
 西日本列島には頻繁に密使や密偵が出されたし、反豊臣側への資金援助、武器援助すら行われている。大東国にとって、豊臣一族とそれに連なる者は完全に「悪」だった。
 豊臣一族が滅びた後も生き延びていた一部大名も、大東からの強い働きかけで「お取り潰し」になった家が多数あるとも言われている。実際、賄賂や圧力があった記録も残されている。
 ちなみに、大東が西日本列島に様々な形で干渉するようになったのは、戦国時代の事だった。多くは個々の商人による武器や鉄などの売買だが、戦国大名に対する交渉や接触も数多く見られた。
 特に地理的にも近い奥州(東北)、有州(有守州)に対する接触が大きかった。
 それまでも、15世紀に入るぐらいから活発な相互貿易は本格化していたが、戦争という大量消費が交流と貿易のさらなる活発化をうながした。
 西日本の人にとって、奥州の戦国大名として有名なのは伊達政宗だろう。他にも最上氏など有力大名がいるし、北関東で太平洋岸の佐竹氏も地理的には大東に最も近い。
 北の有州島だと、有南の柿崎氏、松前、有東で日本化が進んでいた現地アイヌをまとめあげた久須里氏が有力な戦国大名になるだろう。

 なお、有守州でのアイヌは、源平合戦で日本と大東が袂を分かってから、常に大東から物心両面で影響と支援を受けていた。このため、室町時代には奥州よりも先進的な農業と武力を持つようになっていた。
 有州での農業は、比較的温暖な南部や東部沿岸でも稲作の収穫量に換算して合計で約50万石程度あった。ただし、大東の新大東州中部同様に、小麦などの麦類、そして牧畜が主産業だった。家畜も主に大東の少し大柄のものを飼っていた。
 主に東日本海側で稲作が進んだのは、室町時代も後期の事だった。そしてこれらの農業のお陰で、有州の総人口は戦国時代末期で100万人に達していた。
 そして農業の主な生産地である石狩平野南部を中心に勢力を持つ柿崎氏、松前氏、平安時代に日本人を受け入れたと言われる十勝平野のアイヌ系の久須里氏は、奥州の北部や日本海側の大名の多くよりも大きな勢力を持っていた。
 しかし有州島は、海の難所の津軽海峡で本州と隔てられている上に、西日本の政治経済の中心から地理的に遠かった。しかも島内での勢力争いに努力を費やすことが常で、彼らが気が付いた時には奥州の大名達までが西日本の中央に屈服する段階だった。
 そして戦国時代の奥州でほぼ一人気を吐いた伊達政宗だったが、最大250万石と言われる領土をもってしても、豊臣そして徳川の力は大きすぎた。
 一説には、関東、奥州、有州全ての大名の力を結集し、さらに大東から武器の支援を受けて中央に押し出す構想が進んでいたと言われ、大東からも大量の武器を購入した記録も残されている。だが、伊達政宗が最終的に選んだのは、日本中央に対する恭順と服従だった。
 有守島の諸侯も、豊臣秀吉の誘いに乗る形で服属を誓い、ここに西日本列島の再統一が完成する。
 そして奥州、有州共に、日本の中央に服属すると、それまでの大東との関係を絶って大東島への侵攻にも参加した。このため、徳川幕府が大東国と和解するまで大東との関係は断絶し、その後は大東、日本の相互不干渉の不文律の中で大東との関係が大きく薄れ、日本の「田舎」の地位へと落ちることになる。

 しかしその後、17世紀後半頃から大東への移民という形で、西日本北部と大東の関係と交流が復活している。

  ■日本における大東の影響

 西日本列島に対する大東の影響は、大東で戦国時代の始まるまでの武器売買と相互貿易による経済の活性化が最も大きいと言われている。
 実際、15世紀前半から両者の貿易と相互移動は活発化し、16世紀に入って日本での戦国時代が本格化すると、大東からの輸出が急増した。
 この中での文物の交換、技術の交流は、双方の戦争全般にまで影響を与えた。加えて、戦国時代末期の戦闘にも強く及んでいた。
 16世紀末の「大東征伐」で、今まで自分たちが行ったことがなかった大規模な攻城戦(対城塞都市戦)を行った日本人達は、大東人が運用する大量の大砲に度肝を抜かれた。また、大砲戦に適した、盛り土による大規模な築城術も目の当たりにした。
 大東の「城」は、日本の「城」と違って複雑な構造は少なかった。だが、砲撃戦に適応した幾何学的な凹凸、いわゆる星形の構造と、それを形作る盛り土は砲撃に対して非常に堅牢だった。そして大砲と鉄砲で武装することで攻撃的だった。
 大東の要塞は、一部は独自に発展していたものではあるが、かなりの面でスペイン人の助言をもとに発展したもので、同時代の西ヨーロッパ地域に匹敵する強固で先進的なディフェンス・システムだった。
 また大東の野戦軍が、日本以上に鉄砲を多用している点も注目された。平地が多い地形の違い、人口規模の違いが大東の戦争を形作っていたわけだが、帰国した西日本の武士達に与えた影響も大きかった。

 大東征伐での教訓が最初に反映されたのが、「関ヶ原の合戦」の一連の戦闘においてだった。
 攻城戦では効果覿面(てきめん)で、豊臣秀吉が築いた壮麗な伏見城は、大東で捕獲した大砲などによる砲撃戦で呆気なく落城、崩壊した。
 それ以外でも、東西両軍共に大砲を数多く運用して、各地の城を短期間で攻め落とすか開城させている。
 この結果、日本での城塞建築の思想が大きく転換したと言われる。攻城戦が各地で短期間のうちに進んだため、決戦が一ヶ月早まったと言われることが多い。
 技術的な問題もあって野戦での大砲の効果は低かったが、「関ヶ原の合戦」では互いに大量の火砲を戦場に持ち込み、それなりの教訓を得た。
 だが、大東征伐から時間が短かった為、この時の戦いに与えた影響は少なかった。また大量の大砲を運用するには、西日本国内での火薬の原料となる硝石の供給能力が足りない事が、装備の転換を阻んだ。

 最も大きな影響を受けたのは、西暦1614年の「石山の陣」においてだった。
 この時までに豊臣秀吉が築いた石山城は、市街地の一部を取り込んだ「惣構え」と呼ばれる巨大な堀と土塁による防御構造物を有していた。城の中心から等距離にも、同様の土塁による城郭が形成されていた。
 しかも、各所に大量の大砲が据え付けた大東型要塞の構造を取り入れた為、「難攻不落」を謳われた。
 当時の日本で最も射程距離の長い大砲(欧州製)でも、石山城の中心部に砲弾を撃ち込むことはほぼ不可能だった。
 要するに、大東型要塞に改修されていたのだ。
 また石山城以外にも、豊臣氏が有する周辺部の小さな城のいくつかも、砲撃戦を前提とした強固な構造に改築されていた。これは石山湾に面する沿岸地区にも及んでおり、砲撃戦に適した巨大な沿岸要塞群と化していた。当然だが、沿岸に艦船が近寄る事も難しかった。
 石山城のような構造を持った城塞は、この当時いくつか建設もしくは改築されており、大東征伐で受けた心理的衝撃の大きさを見ることができる。
 また、砲撃戦を前提とした城には大量の大砲が必要だが、これを大東の大坂から裏切り者として脱出した商人と彼らが連れてきた職人が可能とした事も、石山城の城塞の完成度を高める大きな要因となっていた。
 石山城の惣構えと周辺城塞群は、西日本で唯一の本格的な大東式要塞だった。

 そして1614年の「石山冬の陣」を迎えるが、20万の大軍で攻める徳川方は、ウィーンを攻めたオスマン帝国軍のように初戦から非常な苦戦を強いられた。
 攻め寄せる徳川方には、大東征伐に参加しなかった武将が多く、しかも世代交代している事が多かった為、大東での教訓が反映される前の西日本型の戦闘を行おうとした事が苦戦の原因となった。
 攻城戦に必要な大砲の装備数も限られていた。
 このため戦闘初期は、10万の浪人(傭兵)と多数の火砲、食糧を有する石山城は全く揺るぐ気配が無かった。
 一部では、場内からの砲撃の支援を受けて徳川方が蹴散らされる場面すら見られた。
 周辺の支城もなかなか陥落せず、せっかく持ち込んだ徳川方の直船(ガレオン船)による艦隊も、沿岸要塞の砲撃を恐れて海上封鎖任務以外には使えなかった。
 徳川方が切り札として用意した西欧製もしくは大東製の長射程カノン砲も、壮麗な城壁から転じて戦時の土盛で覆われた石山城に届かないものが多く、届いてもあまり効果が無かった。
 心理的効果を狙った長距離射撃による本丸攻撃でも、御殿周囲までもが臨時に盛り上げた土の山で覆われていたので、遠くからでも視認できた天守閣こそ多少は傷つけたが、それ以上ではなかった。
 豊臣方の首脳陣は、事前に築かれていた安全な場所から指揮をとったし、淀の方以下の女性なども土塁で囲まれた完全な安全地帯にいた。
 木津川河口部では、業を煮やした徳川方の攻撃で直船(日本型ガレオン船)複数の艦隊による艦砲射撃も実施されたが、沿岸要塞との砲撃戦で手もなく撃退されて大損害を受けた。この時の損害のせいで、その後江戸幕府が直船よりも沿岸要塞を重視するようになった程だった。
 そして大砲と大砲への対応防御を持った巨大な城塞での戦いは、基本的には補給の戦いだった。そして補給の戦いでは、莫大な富と物資を事前に蓄えていた豊臣陣営が優位だった。
 これも西日本の人々が、大東での戦いで影響を受けた結果だった。豊臣陣営は、戦いが始まるまでに周辺から持ち込めるだけ持ち込んでいた。
 備蓄物資の量は、10万の兵が5年戦えると言われた。
 対する徳川方は、精々1年程度の戦闘しか考えていなかったので、このまま座視していては、ウィーンを攻めたオスマン軍と同じ末路しか待っていなかった。

 そこで徳川陣営は、途中から攻城戦から長期の戦略的な包囲戦に方針を転換する。
 城の近くから一度軍を引いて全ての街道、海路を完全に封鎖し、京、姫路などに主要な軍勢を引いて相手の疲弊を誘おうとした。加えて、敵を孤立化させるために支城攻略に力を入れた。
 この作戦はある程度功を奏し、焦れて出撃してきた豊臣方浪人衆の一部撃破にも成功した事。そして戦闘開始から約9ヶ月経過した翌年8月になると、住民が逃げ出して無人となった石山は多くの浪人を抱え込みすぎた事が徒となって、備蓄食糧が急速に減少するようになる。
 西日本の基準では大量に蓄えられた食糧や物資ではあったが、石山城は大東の城塞ほど物資を備蓄できるようには作られていなかったのが原因だった。
 一方で徳川方は、大量の大砲、弾薬を大東から調達した。城攻めのために、大東から専門家も招き寄せた。
 この段階で徳川方は、改めて大軍を仕立てて石山城に攻め込む。そして砲撃と塹壕による激しい戦闘の末に石山城を攻め落とし、豊臣氏を滅亡に追いやった。
 ただし石山城が陥落したのは、内部からの裏切りがあったからで、城としての石山城が正面から破られたわけではなかった。

 関ヶ原の合戦以後に徳川家康が覇権獲得を急いだのも、守りに異常に強くなった砲撃戦に対応した城が日本全国に普及するのを強く警戒した為と言われる。
 実際、江戸幕府は、城塞建築には大きな制約を課している。強固な城塞による領土、境界線固定化の傾向は、ヨーロッパ世界全般でも見られているので、江戸幕府は先見の明があったと言えるだろう。
 そしてその影響で、その後西日本各地に建築された城は、優美な鉄砲対策の石垣と建造物を持つ場合が多いが、砲撃戦にはあまり適していない防御構造のままとされた。
 戦闘方法も、戦国時代の後半頃の大砲を用いない戦い方(甲州軍法)があえて最上とされ、幕府はその流布に務めた。大名の大砲所持についても、厳しい制約が課せられた。
 例外は江戸城の一部構造や沿岸防備のための砲台だったが、全て幕府直轄の場所に限られた。故に江戸時代の日本の城は、近世の軍事要塞としての役割は限定的で、権威、権力、財力を示す要素が非常に強まることになる。
 このため江戸時代の日本の城は、軍事用としてではなく権威を見せるための施設として発展した。

 一方で鎖国政策の方だが、長崎が大東以外に対する門戸とされた。
 だが、大東との戦い、大砲を用いた戦い、直船を用いた戦いでの教訓から、「出島」と呼ばれる一種の隔離区画を整備するのと同時に、長崎の沿岸部には幕府の肝いりで頑健な沿岸要塞が同時に建設された。これは示威を目的とした建造物でもあり、西日本の人々としてはかなり珍しい光景となった。
 また、大東への門戸とされた浦賀にも同様に沿岸要塞が整備され、航路の要衝にも規模の大小はあるが沿岸要塞が整備され、これらの負担金を諸藩が多く拠出することで、幕府安定の一助ともされた。
 しかし、西日本列島にとっての戦争の影響と鎖国への対応は、国内政策を除けばその程度のものだった。大東を含めた日本という地域がヨーロッパから見て世界の辺境にあるので、その程度で十分だったからだ。

 ■大東の鎖国

 大東国は、豊臣秀吉の「大東征伐」以後、自国の混乱が収まる間もない間に鎖国を断行した。
 理由の多くは、「日本の侵略」を防ぐ為だった。
 戦国時代が終わったばかりのため国内の安定を理由としたが、真の目的が日本人を大東から一度閉め出し、加えてまずは防備を完全なものとするのが目的だった。
 また、国内には西日本に対する復讐を考える人々が少なくなかったが、大規模な侵略が成功する可能性は低く、侵略による国力の消耗を嫌った大東政府が強硬論を封じるために鎖国を選択したとも言えるだろう。
 このため鎖国については徐々に緩和する予定だったし、自分たちの都合で鎖国する対象や地域を最初から分けていた。定期的に南都に寄港するスペイン船は、終始鎖国の対象外だった。大東皇帝が鎖国政策を特に止めなかったのも、自らが鎖国をしているという認識が浅かったからだという説が根強い。

 また逆に、17世紀前半に西日本列島に対する武器売買などが、自分たちの都合で実施されている。商人の行き来も、朱印状を出すことで西日本の商人でも普通に行っている。
 つまり期間限定、地域限定の鎖国を目指していたのであり、豊臣一族を滅ぼした日本の江戸幕府が友好的な接触を行うと、それを好意的に受け入れてすらいる。
 また大東島には足りない資源が多いため、自らが海外に赴く事を止めるわけにいかなかったという理由もある。西日本からの銅や銀、錫、鉛の輸入も欠かせないなど、大東には足りない資源が多かった。
 そして大東の鎖国は、文明国との接触と貿易、文明地域への進出の制限が基本で、資源獲得のため非文明地域への進出は基本的に例外とされ続けた。
 東南アジア諸国との貿易関係は、大東でも香辛料の需要があるため行われた。だが、主に香辛料貿易を独占したオランダの隙間での貿易が中心で、他に欲しい物産に乏しい為、大規模化する事もなかった。
 このため政府が指定した朱印状を持った大商人の貿易船が、数を限って南方に貿易に赴くだけとなる。自国の貿易船が海外に出ていくと言う点が、江戸幕府との大きな違いだった。人の出入りも、許可さえあれば咎め立てされなかったほどだ。
 このため大東国は、鎖国していないとされる場合もある。
 また、スペインの植民地となっているフィリピンへは、中華商人などが持ち込む絹を手に入れるため、かなりの規模の貿易が長らく続けられた。さらに太平洋航路を往来スペインの大型ガレオン船も、大東南部への寄港の際に大量の絹や陶磁器を持ち込んだ。他にも、大東の金と新大陸の銀を交換したりもしている。
 一方で、目的のない国とは交流はなく、近隣だと朝鮮王国とは全く交流がないままだった。

 以下、大東での鎖国を神の視点から箇条書きして、一気に19世紀へと進みたい。