■■National Isolationr(鎖国2)

 ・国家再編後、すぐにも「海禁(鎖国)」を実施。
 ・国内安定が表向きの理由だが、最初は西日本からの侵略を防ぐのが主な目的だった。
 ・また、国内の日本への復讐を考える人々の思惑を封じるためでもあった。
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 ・日本が鎖国して以後に鎖国制度は徐々に緩和するが、完全には無くならず。
 ・緩和するまで日本との国家間の関係はほぼ断交。
 ・17世紀半ばに、両者の天皇家の事を棚に上げた状態で国交を結び、事実上の通商条約(約定)も締結。
 ・鎖国と言っても限定的鎖国で、スペイン、日本、中華(明朝、清朝)との関係は継続。
 また政府の許可があれば、限定的に海外に出ていく事も可能。
 文明国との接触と貿易、文明地域への進出の制限が、大東での鎖国政策の基本。資源獲得の目的があるため、非文明地域への進出は基本的に例外。

 ・大東にはキリスト教が広まらなかった。
 ・大東ではキリスト教の禁教は行われず。
 ・17世紀初頭は、国際的に見ても十分な軍事力があった。
 ・大東は欧州諸国を特に恐れていなかった。
 ・大東はキリスト教を特に恐れ警戒していなかった。
 ・海上軍備は一定程度維持した。(主に日本対策)
 ・海軍は東京御所(中央政府)だけのものだった。
 ・海外貿易は、許可制で出船した。
 ・大東人の海外渡航は、出国は制限付きながら行えた。しかし、無許可の場合は帰国には厳しい制約が課せられていた。
 ・主に諸侯に対する軍事制限として、船の建造は制限した。
 ・鎖国に関する法を破ると、基本的に死刑か流刑。
 ・大東から出ていく貿易船は政府許可制で数を制限。=「朱印状貿易」
 ・17世紀末頃から、国土開発の為に日本人の移民受け入れ開始。
 ・流刑地として、徐々に大東島よりさらに北にある地域(が利用されるようになる。

 ・人が居住していなかった東伝列島、先島諸島には漁民を中心に徐々に移民が進み、自然と大東の一部と考えられていた。一部は流刑地に使われた。
 ・「未開」と定義され鎖国対象外とされた北方への進出は段階的に進んだ。
 千島列島、千島半島(=カムチャッカ半島)、荒海渡(アレウト)列島(=アリューシャン列島)、荒須加(アラスカ)での高級毛皮を求めた狩猟、木材の獲得は拡大傾向で続く。
 ・北方は、鎖国という政治的条件を満たすため、「北大東」や「外大東」などと呼ばれた。
 ・ユーラシア大陸への進出は、アレウト海沿岸以外は殆ど行わず。オホーツク海にはほとんど入らず。
 ・北アメリカ大陸への進出は、荒須加(アラスカ)と北西部沿岸で止まる。
 ・北西岸も、毛皮がないと分かると撤退して、その後は進出せず。
 ・大東国内では、荒須加(アラスカ)までが自らの領域(テリトリー)と認識される。

 ・南洋では、以前から進出している茶茂呂諸島が保持されるに止まる。砂糖需要の拡大に対しては、大東島南部での栽培拡大が進んだため、産物に乏しい南方進出は重要視されなかった。
 ・18世紀には、荒須加各地での黄金採掘も重要となる。
 ・捕鯨も継続して行われ、北太平洋全域を漁場とする。
 ・結果、北太平洋上の先島諸島、羽合諸島には欧米に先駆けて進出。
 ・ロシアとは、17世紀後半に千島半島で接触。千島半島、アレウト海沿岸部のみ大東が保有で自然決着。
 ・以後ロシアとは限定的な通商関係を締結。
 ・ユーラシア大陸北東端部は、あまりにも辺鄙な場所のため、ロシアとの衝突はほとんど起きず。

 ・大東南部は、引き続きスペインの太平洋航路の寄港地(中継地)となる。
 ・南部の大都市にはカトリック系教会がある。バチカンでは教区も設定されていた。
 ・大東は、スペインとの貿易関係を続けたため、17世紀の間オランダとの関係は微妙なまま。その後もオランダ(ネーデルランド)とは国交、貿易は長らく行わず。東南アジアに出た大東の貿易船は、17世紀の間は時折オランダから妨害を受ける。大東側も武装して、海賊行為などの報復も実施する。
 ・英蘭戦争の頃は、イングランドと共闘する事もあり。
 ・大東でのヨーロッパは、スペインが窓口となる。
 ・鎖国中でも、大東の使節がフィリピンや新大陸ばかりか、スペイン本国を訪れている。
 ・限定的に、スペインの太平洋航路に許可を得て貿易船も出す。
 ・欧州の様々な情報、技術はスペインを介して入手。
 ・カトリック教会とはある程度の協調関係を続ける。
 ・大東南部の寄港地には、カトリック教会もあり。
 ・政治的要求からカトリック教会、バチカンへの寄進も実施。
 ・19世紀初頭にスペインが決定的に衰退して以後は、太平洋航路が閉ざされる。
 ・しかしナポレオン戦争以後は、鯨油取引の関係もあってブリテンとの関係を結ぶ。
 ・ブリテンには、主に鯨油輸出を実施。

 ・17世紀、18世紀の貿易品目

 輸出品目:黄金、毛皮、一部加工品
 輸入品目:貨幣用の銀と銅、香辛料、木材、絹、木綿、手工業品、一部希少金属

 ・大東の海外貿易相手:日本、スペイン、清朝
  ・日本:日本からの移民、銀、銅の輸入、食料、木材の輸出
  ・スペイン:銀と金の交換、高級毛皮の輸出、欧州で生み出された近代的文物の輸入
   (※17世紀半ば以後、不足してきた黄金に代わって毛皮が必要となる。)
  ・清朝:絹と銀の交換、陶磁器の輸入(※どちらも18世紀には自力生産の発達で不要となる)
  ・ロシア:北方でたまに毛皮などの取引。規模が小さく国境問題もあったため鎖国対象とはせず。17世紀末には、互いの境界線も決める。

 ・海外貿易は、砂糖、綿花の国産増進、手工業の発展、絹の品質向上、陶磁器の自作もあって年々輸入が減少。日本からの各種手工業品、加工食品の輸入も、国産で賄えるようになったため減少。
 ・スペインの退勢もあって、海外貿易はさらに減少。
 ・大東からの貨幣(金)流出は続くが、荒須加(アラスカ)各地の金鉱開発があったため、貨幣の不足は起きず国内の経済発展にも対応できた。
 ・18世紀中頃からは、それまで国内で消費され、日本が少し買うだけだった鯨油を、スペイン船が大量買い付けするようになる。
 ・大東では、18世紀中頃から自国消費に加えて大量の鯨油輸出のため、捕鯨産業が大きく発展。
 ・長らく停滞していた帆船の技術向上が見られる。
 ・ハワイなど捕鯨拠点の開発と進出が活発化。

 ・19世紀前半のメキシコ独立以後は、スペイン船が立ち寄らなくなった事もあって、スペインとの貿易を事実上停止。
 ・新たにやってきたイギリス(ブリテン)との間に主に鯨油取引のための制限貿易を開始。この時点で、大東の鎖国政策はなし崩しに消え始める。
 ・大東にはイギリスが欲しいものが少ないため、双方の貿易は伸びず。大東からは、国内で余剰した分の鯨油をヨーロッパに輸出。

■モラトリアム 2th century

・鎖国時代の大東の概要:

・人口・経済
 ・17世紀後半から1世紀ほどの間は、西日本からの移民を大量に迎え入れつつも、内需中心の経済発展が続く。
 ・ただし、日本との限定貿易もかなりの規模の為、相互作用もかなり見られた。
 ・18世紀半ばまでは土地が十分にあったので、人口と共に経済も順調に拡大。
 ・国内で不足する木材などの資源は、北太平洋沿岸部の近隣地域から調達。
 ・日本からは主に工芸品、銅、錫などの金属資源を輸入し、大東からは砂糖、保存肉、鯨油、毛皮、黄金などを輸出。
・反射炉で大量生産した鉄も日本に輸出され、代わりに質の高い玉鋼が輸入される。

 ・19世紀初頭、総人口6000万人で人口飽和となる。
 ・18世紀末頃から、人口増加の鈍化と共に経済の停滞も進む。日本からの移民も止める。
 ・社会、経済の停滞に伴い、社会不満も徐々に高まる。
 ・国内では、晩婚化、産児制限が進む。
 ・しかし、人口拡大に伴う食生活の変化(一人当たりカロリーの減少)にまでは至らず、特に肉食の多い北部の体格は西日本よりかなり大きいまま推移する。

・領土
 ・19世紀中頃の領土は、17世紀中に確定したまま。
 ・大東本国以外だと、西太平洋の引田諸島、茶茂呂諸島、北太平洋の千島列島、千島半島、東伝列島、先島諸島さらにアレウト海沿岸、北米大陸西端の荒須加(アラスカ)となる。
 ・ただし、荒須加(アラスカ)の領土境界は大東政府にとって未確定の領域。
 ・17世紀末に捕鯨の中で発見されたハワイ王国は、事実上の保護国。

・先端技術
 ・16世紀末から、ガレオン船、マスケット銃、大砲を自力で生産。大砲は、国内資源の問題から、青銅製を飛ばして鉄製(鋳造中心。一部鍛造)となる。
 ・カトリック系の科学(自然哲学)的な資料もある程度入手。大東での洋学は西方から得た学問という事で「西学」と呼ばれる。(※西はスペインの略称ではない。)
 ・鎖国してからも、主にスペインから西洋馬(スペイン馬)、反射炉(近世型製鉄)など、近世ヨーロッパで一般的な技術の多くが国内入りして、多くの加工品が自力生産されるようになる。
 ・その後も技術輸入はゆっくりと続き、19世紀前半までにヨーロッパでの先端に少し劣る程度(東欧、ロシアのレベル)の先進工業製品が自力で生産されるようになる。
 ・19世紀初頭の段階では、産業革命はまったく手に付いていない。

・軍備
 ・ガレオン戦列艦、星形要塞、大量の大砲、鉄砲(フリントロック式)が導入される。
 ・軍制も遅れがちながらヨーロッパから輸入され、兵士の訓練、常備軍、銃剣、シャベルなどの装備など、多くが取り入れられる。
 ・19世紀初頭で、フリードリヒ型の軍隊までは編成。
 ・ナポレオン型軍制は導入されず。