■■Civil_War(1)


■形だけの鎖国

 戦国時代が終わった17世紀前半以後、一世紀半もの長い停滞した時代を過ごした大東が「海外」もしくは「外国」を本格的に意識したのは、西暦1778年にイギリスの海洋探検家キャプテン・クック(ジェームズ・クック)と言われる。
 彼らは2隻の艦隊で、大東人が自らの領域だと認識していた北太平洋各地を探検した事が、大東人にとって自分たちのテリトリーに外来者の侵入を許したと考えられたのだ。
 故に、キャプテン・クックに対して、その存在を大東政府が確認すると、かなりの警戒感をもって当たるようになる。
 大東政府は、ヨーロッパ勢力(欧州列強)の潜在的な脅威を感じ、不意の訪問者であるクックに対して、補給と指定した場所での一時休養のみを認めた。一方のクックは、大東の存在をむしろ喜んだ。既に大東が北太平洋のほぼ全域で捕鯨を行い各地に拠点を設けていたため、自らの補給や休養について大東を頼りにする事ができたからだ。
 この時クックらは、スペインが17世紀末頃に大東から目が飛び出るような高値(※膨大な量の銀だったと言われている)で手に入れた北太平洋沿岸の大まかな海図と沿岸部の地図が概ね正しいことを確認し、さらに空白だった地域の穴埋めを行っている。一部では大東に無断で測量も実施した。
 そしてクックの来訪によって、大東人たちはもう少し自分たちの領域について詳しく知っておくべきだと考えるようになった。また、万が一の事態に備え、沿岸防備を強化するべきだと感じた。
 そして大東も、既に自分たちが足を伸ばしている地域についての、本格的な調査や測量を実施し始めた。藤岡弘蔵の北極・荒須加探検、千島半島探検、川口浩之進の南洋探検などが有名だろう。彼らの紀行文は、大東国内でも広く読まれたほどだ。

 この結果大東の探検隊の一部は、まだイギリスやフランスそしてアメリカ人が入り込んだことのない北アメリカ大陸北西部のかなりを歩き回った。現在国境となっている針馬川(マッケンジー川)などがそうだ。
 しかし北の探検は過酷なため、また遠くに行きすぎても領有や管理が難しいと判断されたため、大陸の奥深くは探査されなかった。
 なお、大東にしか生息していなかった剣歯猫が北米に来てその後野生化したもの、この時期に猟犬や番犬代わりに連れて来られたのが原因だと言われている。
 大東人にとって、未開地に連れて行く時の剣歯猫ほど頼りになる「相棒」はいなかったと言われ、殆どの探検家、探検隊が連れている。このため大東人は、他国や各地の先住民から「獣使い」と呼ばれた。
 そして各地の探検事業によって、大東は自ら鎖国を捨て去ったと言われる事が多い。行っている事は、欧州列強と同様の植民地獲得のための準備行動のようなものだったからだ。
 しかし文明世界の辺境に住む大東人としては、単に文明人がいない地域は自国領内の延長地域という感覚があった。そして大東にとって、北大東洋(北太平洋)は自分たちしか(文明人)がいない場所だった。

 もっとも、クック以後、ヨーロピアンは大東の領域にほとんどやって来なかった。クックの後を継いだバンクーバーは、主に北米大陸西岸を探検しているので、大東の感知するところではなかった。それにイギリスは北米大陸西岸よりも、オーストラリア大陸など南太平洋に興味を向けたことが原因していた。
 なによりヨーロッパから北太平洋の奥地は遠すぎた。


 

 このため大東から見れば、イギリスの貿易船が鯨油などを買い付けに大東島やって来るようになったぐらいでしかなかった。

 一方同時期、北からはロシア帝国のエカチョリーナ女帝が、大東との間に正式な国交と貿易関係を結ぶことを求める。また両者の境界線の確定も求めてきた。
 大東とロシア帝国は、ユーラシア大陸東端部(大東名:北氷州)で国境を接していることになり、18世紀ぐらいからは小規模な貿易が商人や狩猟団レベルで実施されていた。
 このため大東側も、自分たちは鎖国している事を理由に無視するわけにもいかず、ロシア側に「特例」だと恩着せがましく言い立てるも、対等な立場での通商関係の樹立と両者の国境線を定めた。
 意外と言うべきか、大東政府内及び国内でロシアとの関係樹立に対する反発は少なく、事実上の鎖国解除と開国による混乱はほとんど見られなかった。北の僻地で接し続けているので、ロシアに関しては隣人感覚があったからだと言われる。
 なお、この時ロシア側は、隣国日本(江戸幕府)との仲介を求めるが、大東は他国の事だとして謝絶している。
 しかしロシア人も、その後あまり来なくなった。

 ヨーロピアンが来ない理由を知ったのは、使者を乗せたイギリスの軍艦が大東にやって来たときだった。
 19世紀初頭、ヨーロッパ世界では世に言う「ナポレオン戦争」が行われ、フランスの従属下となったスペインとの交流を絶つように、イギリスが大東に求める使者を送り込んできたためだった。
 この時点でイギリスは、大東が新大陸北西部の領有権を主張している事も知っていたので、大東がスペインと国境も接する国と考えての行動だった。
 しかし大東側は、一応鎖国している大東本国にイギリスが軍艦を送り込んできた事に警戒感を示し、自らの軍艦を動員してイギリス艦を謝絶の形ではあるが追い返してしまう。
 この時はそれ以上の事件にはならず、ウィーン会議に大東が呼ばれるような事もなかった。大東も、その後も相手が自分たちの領域に来る以外で、ヨーロピアンを特に相手にしなかった。
 それでも何もしないわけではなく、軍備の増強と防衛体制の強化を実施している。本国以外にも、定期的に艦艇を派遣するようになった。さらに海外に向かう貿易船などに、情報収集を命じるようにもなっている。

 そうした中で、一時期大東にとって問題となったのが、アメリカ船籍の捕鯨船だった。欧米人たちが大西洋で鯨を捕り尽くしたので(北極鯨などが絶滅寸前になった)、太平洋へとやって来るようになっていた。スペイン、イギリスが鯨油を買いに来たのも、大西洋での鯨資源の枯渇が原因だった。
 そして北太平洋一帯は、古くから大東の漁場だった。各地で多数の捕鯨船も活動しており、大東の海外領土のかなりが捕鯨のための補給拠点、中継点として保持されているようなものだった。
 捕鯨船の数も多数にのぼり、鯨油はスペイン、イギリスへの大切な輸出品でもあった。
 それでも新たな漁場を求めるアメリカ船は、太平洋へと入ってきて、さらには大東に補給を求めるようになる。
 これに対して大東側は、正式な国交がないとして期限を定めた有償での補給のみを認めるも、自分たちが使う港への寄港は緊急時以外認めなかった。
 そして数年もすると、アメリカの捕鯨船は少なくとも北太平洋からは姿を消した。大東との数の違い、地の利、国交の有無から、有望な漁場でないと判断されたからだった。この後アメリカの捕鯨船は、南太平洋での捕鯨を求めてしばらく彷徨う事になる。
 そしてこの事は、既に南太平洋に食指を伸ばしていたイギリス、フランスを刺激し、南太平洋での植民地獲得競争を加速させていく事にもなった。

 ロシア人の次に大東との関係を望んだのは、ナポレオン戦争で強硬姿勢に出たイギリスだった。
 理由は鯨油獲得だった。
 北太平洋の鯨油は、多くを大東自身が消費していたが、それでもかなりの量がスペインの手でヨーロッパに運ばれていた。これがナポレオン戦争でのスペインの決定的な没落、新大陸植民地の独立で、貿易そのものが途絶えてしまった。
 ナポレオン戦争中は、ヨーロッパ大陸自身をイギリスが逆に封鎖したため良かったが、戦争が終わるとヨーロッパ中で鯨油不足が起きる。当時鯨油は、最も重要な油脂資源だった。照明、潤滑油、ロウソクや石けんなどの材料として鯨油は欠かせなかった。
 アメリカが模索したような、新たな漁場開拓を行う時間も無かった。そして急ぎ大量に鯨油輸入する必要があった。だが、その対象となる国が、北太平洋全域を縄張りとしていた大東しかなかった。このためイギリスは積極的に大東へ接近し、開国しなくてもいいから鯨油貿易だけでも行うように求める。
 これに、当時国内で鯨油がだぶついていた大東側も応え、スペイン船の代替として場所を限ってのイギリス船の寄港を認めるようになる。

 その後、鯨油の輸入を拡大したいイギリスは、大東との交渉を重ね、大東側も今更特に鎖国を続ける理由もないと判断して、全ての面で対等な条件、関係であるならばと、大東側から条件を付ける形で西暦1833年にイギリスとの間に正式に国交を結ぶこととなった。
 ただしイギリスに対しての通商関係のみであり、鎖国を解消したわけではなかった。大東人の感覚としては、スペインの代わりにイギリスが貿易相手になっただけだった。
 この時イギリスは、大東が十分な軍事力(帆船による海軍力)を有している事、円滑に鯨油を獲得する事の二つを理由に、大東との間に公平な関税関係の通商条約を結んだ。
 なお、大東とイギリスの貿易では、大東は主に鯨油を輸出して、イギリスからは工業製品や武器、機械などを輸入した。そして年々大東が輸入する金額が増えた為、イギリスは清国にしたような阿片の密売は行わなかった。
 当時イギリスが大々的に売り込んできた蒸気機械で作った綿製品も、旺盛な国内需要があった事もあって、大東はそれなりに購入していた。ヨーロッパの珍しい工芸品も評判だった。スペインの代わりとなったイギリスは、大東にとってすぐにも必要な貿易相手となった。
 そしてこの時期のイギリスにとっての大東は、少なくとも東アジアでの上客だった。

 ■大東開国

 大東が、ヨーロッパ列強を国家安全保障上での脅威と感じるようになったのは、一般的には1840年に起きた阿片戦争だと言われる。
 しかし実際はそれよりも早く、19世紀前後にイギリスまたはアメリカの捕鯨船が北太平洋に入ってきた頃だと考えられている。ナポレオン戦争の情報を知ってから、という説もある。それだけ海外の情報は、大東に流れていた証拠だった。
 幸いというべきか、北太平洋には大東の捕鯨船が既に溢れていて他国の捕鯨船が付け入ることが難しかった為、欧米の捕鯨船は一通り調べると南太平洋へと向かった。だが、いよいよ列強のアジア・大東洋(太平洋)進出が始まったと考えられた。
 そしてこの時大東政府は、戦闘艦艇をほぼ1世紀ぶりに増強する政策を打ち出し、また各種帆船の改良にも力を入れた。イギリスからの輸入が増えたのも、ヨーロッパ世界の最新の知識や技術、そして機械の現物を得るためでもあった。
 しかし、文明の力を見せつける戦争となった「阿片戦争(1840年)」で、より大きな衝撃を受ける。
 自分たちの軍事力がアテにならないと知ったことへの衝撃は非常に大きく、すぐにも全面開国と欧州からの技術、知識の大幅導入を行おうという動きが起きる。
 イギリスを中心に西ヨーロッパで進みつつある産業革命についても、急ぎ取り入れる行動が進む事になった。この結果、1850年代には、大東国内での鉄道の敷設が開始されている。

 なお大東人は、鎖国といっても貿易でそれなりに世界に出ていたので、他の北東アジア諸国ほど世界情勢に鈍感ではなかった。
 それに大東人は直接的行動を好む傾向が強いので、一旦決めると動きは直接的で早かった。他者の優れた点を取り入れることにも、ほとんどの場合抵抗も無かった。技術は他から取り入れ事は、歴史上の日常的光景だったからだ。
 しかしそれでもアジア的国家であり、動きは西欧列強と比べると迅速とは言えなかった。
 それでも最新の兵器、文明の利器の購入、そして製造方法の取得についても取り組まれるようになった。それまで行わなかった、技術や知識の修得を目的とした海外留学も急ぎ政府主導で実施された。

 既に大東と一定の貿易関係を結んでいたイギリスは、阿片戦争に前後して大東にさらなる開国を求めた。また同時に、北米大陸での領土確定のための交渉を持ちかけてくる。なにしろ大東は、当時の欧米があまり知らない北米大陸北西部に領土を有している国だった。しかもユーラシア大陸北東端にも領土を有していた。どちらも開発や入植から一世紀以上経っており、荒須加を中心にして大東人もある程度住んでいた。 
 イギリスの提案に対して、大東は否定的態度をとり続けた。理由の多くは、政府の行動が遅かった事もあるが、何より自分たちの軍備が整うまでの時間を稼ごうとした為だった。でないと、先に交わした対等な関係が崩されると正確に予測していたからだ。その事を大東は、阿片戦争で理解していた。
 大東に対してイギリスの行動が過激となったのは、阿片戦争から数年後の「アメリカ・メキシコ戦争(1846年から1848年)」だった。
 戦争の結果、アメリカ合衆国がメキシコから多くの領土を得たが、大東とアメリカの間に、自分たちが形だけ領有する領域(現在のバンクーバーなどカナダ北西部)が広がっていたからだ。
 しかもアメリカは、イギリスの領有を阻止しようとして、大東に対して北米大陸北西部の領域について問い合わせ、さらには領土売却交渉まで持ちかけるようになった。
 アメリカとしては、イギリスが形だけ領有している地域を大東が持っている事にして、全て自分たちが得てしまおうとしたのだ。
 これに対して大東は、厄介ごとに巻き込まれることを警戒し、アメリカの申し出にまともに応じることは無かったが、ここでイギリスは大東に艦隊を派遣する事を決意する。
 自らの国家安全保障(カナダ防衛)のため、調子に乗ったアメリカが彼らの新たな植民地を全て奪う可能性を阻止するためだった。そうなれば、当時イギリスが構想していた、世界規模の交通、通信網、いわゆる「アーシアン・リング」完成が阻まれてしまう事も懸念された。

 かくして、イギリスは急いで大東に派遣するための有力な艦隊を編成する。有力であるのは、既に大東が自力での産業革命を開始しており、軍備も清国より有力なものを有している事が分かっていたからだ。
 イギリスが艦隊をしたてたのは、大東が自分たちは国内政治上では鎖国しているので、いかに貿易関係にあるイギリスと言っても領土交渉に応じることは出来ないと返答していたからだ。そして大東が交渉を長引かせる様子を、その裏でアメリカと交渉や接触を行っているのではないかと考えた。
 イギリスは本国からの増援を含め大小11隻の艦隊を編成し、進路を一路大東へと取った。艦隊を構成する全艦が蒸気艦で、艦隊旗艦は改装が終了したばかりの蒸気戦列艦という気合いの入れようだった。
 このイギリス艦隊の動きは、アジア各地に貿易に出ていた大東の船、貿易港にいる大東の商人などがイギリス軍の行動を大東本国に伝えていた。このため大東の中央政府である大東御所は、念のため直船(17世紀レベルのガレオン船の独自改良型)の出撃準備を急がせ、一部の洋上配置を実施した。
 しかし決して大東の側から戦端を開く気はないので、少しでも早くイギリスとの間に交渉を持とうとした。

 イギリス側にも、大東と戦端を開く気は無かった。
 イギリスの蒸気艦隊編成はまだまだ中途半端で、既存の主力は今までのガレオン艦(帆船)で、大東に有力なガレオン船艦隊があるのなら、自分たちが多数保有する現有のガレオン船と極端な差がないからだ。ガレオン戦列艦は、約200年もの間あまり変化のなかった完成された兵器だったからだ。
 しかも当時の大東のガレオン船は、当時のヨーロッパと同様に鋼鉄鋳造製大砲を装備していたので、大砲の射程距離は2000メートル以上あった。イギリスは最先端だったが、まだ砲口から砲弾を装填する大砲の時代のため、射程距離の差は最大で600〜800メートル程度の優位だった。これでも当時としては十分な優位なのだが、基本的には同程度の艦艇となる。チャイナのジャンク軍艦とは格段の違いだった。大東が有する戦闘艦は、欧州の少し遅れた国が有する艦艇に匹敵していた。
 しかも大東は、ヨーロッパから見れば人口の多い島国で、国家、税政、軍事費もしっかりしていたので、海軍の規模も相応に大きかった。幸い大東は軍備に大きな金をかけていなかったが、それでも3等以上の大型戦列艦クラスが10隻以上あった。この数は、性能はともかく決して侮れれなかった。ヨーロッパの勢力均衡を考えると、アジアの僻地に大東に対抗もしくは圧倒できる戦力を派兵することは非常に難しいからだ。
 その上地の利は大東側にあり、イギリスにとっての大東は地球の反対側のような場所にあった。
 故にイギリスが仕立てた艦隊も、大東と強引に交渉するための艦隊だった。

 イギリスが赴き先として選んだのは、大東が最大の貿易港としていた大東南部の南都だった。古くからスペイン船が立ち寄り、近年は自分たちの商船も鯨油を買い付けるために訪れていたからだ。しかもイギリスの商館も設置されており、交渉を行うには打ってつけの場所だった。
 しかし、イギリスが紳士的だったかといえばそうではない。大東側の言葉を半ば無視して艦隊を南都に進め、強引に大東に全面開国と領土確定の交渉を求めた。
 そして阿片戦争での蒸気船の威力を知っていた大東は、イギリス側の強引な交渉に応じるより他無かった。ごく一部に戦端を開くべきだという強硬論もあったが、長い平和に慣れていた大東政府は交渉を決意する。

 1850年春に南都で会談が開催され、「南都条約」が結ばれる。
 この結果、大東はイギリスに対する全面開国、開港地の増加、貿易無制限、そして北米北西部の国境線が定められる。そして軍事力を背景にしたイギリスに対して、大東はイギリスの治外法権、関税権を認める不平等条約を結ばざるを得なかった。
 この時決められたカナダ地域との国境線は今日とほぼ同じで、これ以後アメリカとの交渉でもイギリスのカナダ領有の大きな根拠となる。必然的にアメリカに要らぬ恨みを買うこととなり、大東を含めた日本とアメリカとの関係の最初の躓きになったと言われることが多い。
 なお、イギリスが領有する事になった地域にも僅かに大東人が住んでいたが、イギリスはこれを市民として受け入れ、今後も移民を受け入れることにもなっていた。
 そしてその半年後、1850年にはイギリスとアメリカとの間に北米での領土交渉が実施された。結果北緯49度で売却分割される事が決まり、北米大陸の国境線が確定する。

 その後イギリスは、半ば大東への興味を失ってしまう。
 1854年からクリミア戦争、アロー戦争など戦争が続いたせいだと言われているが、イギリスにとって当時の大東は市場としての旨みに欠けていた。
 何より、途中で折れたとはいえ徹底抗戦の意志を見せた事が、最大の原因だった。
 それに正直北米北西部を奪えば、当面は大東に用なしだったのだ。市場としてならチャイナの方がはるかに巨大だし、なにより弱かった。
 加えて、大東が無視できない軍事力を持っていることを、イギリスは大東を訪れた際に実感させられていた。何しろ交渉をしている途中に、大東は集められる限りの戦闘艦艇を南都に集め、その中には多数の在来型ガレオン戦列艦の他、急ぎ誂えた蒸気軍艦もあったからだ。
 だが、大東政府自体の弱腰は変わることなく、イギリスは大東政府の自信に対する過小評価を最大限に利用する事に成功した事になる。
 そしてその後、大東は他の欧州諸国とも次々に国交を開いていった。フランス、ロシア、アメリカ、オランダ。再びスペインとも国交を開いた。
 そして混乱する大東政府は、自らの力を必要以上に弱く見積もり、自ら交渉を不利にした。そして弱腰の姿勢は交渉相手に見透かされ、さらに欧米世界の外交知識が不足していた為、全ての国との間に不平等条約を結ばざるをえなかった。
 そして政府の弱腰は、大東の民に大きな不満を呼ぶことになる。
 結果、歴史上日本以外の敵を抱えたことのなかった大東は、以後大きな混乱を苗床とした、新たな政府もしくは国家の勃興期に突入する。