■■Civil_War(2)


■「Civil_War」前夜

 全面開国後、大東国内では東京御所の権威は一気に失墜した。
 外交での不甲斐なさは、諸侯、国民の全てから強い非難の対象となった。その中で分かったのが、当時の天皇である大展天皇が本来の形である直接統治にはほど遠い状態で、有力政治家達の半ば傀儡に貶められていた事だ。
 この事は、大東の民衆と主に地方の下級武士に大きな憤りを起こさせる。そして、旧態依然とした門閥貴族中心の政治の抜本的な改革を求める動きが一気に吹き出る。しかし欧州世界のように自由主義の思想や市民階層が育っていないため、争いはまず貴族と武士によって始まる。

 支配階級内での対立と争いは、基本的に大東戦国時代に遡り、旧大東州中部とそれ以外の地域の対立、中央と地方の対立という構図になる。
 大東国内での対立は、基本的に旧大東州と新大東州、大東を征服した大東人(もと日本人)と征服された側の古大東人、茶茂呂人、アイヌの二つの軸がある。
 そして戦国時代は、新大東州を本拠とする北軍が勝利し、17世紀以後の大東中央政府である東京御所は、一応全ての人種、民族に対する公平さを見せるようになった。
 近世大東国内の安定の一因は、こうしたところにもあった。他にも、西日本の江戸時代に大東への移民が増えた事も、安定と公平という要素が大きな役割を果たした。
 だが開国とその後の混乱で、国内の雰囲気が一変する。
 しかもイギリスとの開国と領土確定を巡る交渉が噂となって広まったのだが、大東政府の弱腰によって北米大陸北西部の広大な領土を無為に失ったと受け取られた。事実は違うのだが、少なくとも当時の大東の人々の多くがそう受け取った。
 この外交上での「大敗北」は、国内では東京御所(政府)の権威が急落する事件となり、国民の前に政府及び官僚団、つまり中央の貴族と武士達の硬直化と政治の疲弊、腐敗が明らかになる。
 2世紀を経過した政府に、腐敗や堕落が比較的少なかったのは救いだが、既に限界が訪れつつあることを人々に教えていた。
 と言っても、少し後の西日本での「尊皇攘夷」のようにはならなかった。大東の場合、既に半ば名目ながら天皇が常に最高権力者(=国家元首)であり続けていたので、何よりまず「尊皇」が不要だった。そして共和制を求める動きも、考え方が殆ど無いのであり得なかった。
 「攘夷」についてはある程度当てはまるが、現実的な動きを好む大東人は、目に付いた外国人を殺すのではなく、国と国、民族と民族で外敵に対向する為にどうすれば良いかというのが「攘夷」の争点となった。

 その中で台頭したのが、「帝国派」と「王道派」だった。
 「帝国派」は、言葉通り抜本的に政府を作り直して強力な国家を建設しようというもので、「王道派」は国内の融和と緩やかな改革で時局を乗り切るろうという一派だった。
 そしてこの場合危険なのは、「帝国派」が最終的には大東のみならず「日本全ての民族」の力を結集して、ヨーロッパ列強に対向できる強力な国家を作ろうという考えを持っている点だった。
 なお地域で示すと、「帝国派」が新大東州と茶茂呂地方で、「王道派」が旧大東州の中枢地域だった。つまり旧来の対立構造と新しい考え方の双方が重なっていた。
 そして『御所』のある首都東京で、戦後すぐにも「帝国派」と「王道派」の政治闘争が開始される。「帝国派」は産業革命のさらなる進展と急速な富国強兵を唱え、「王道派」は現状を維持したままの緩やかな改革と革新を支持した。
 この争いは、貴族、武士の数というより、旧州と新州の人口差から「王道派」が圧倒的に優位だった。このため急進的な「帝国派」は自分たちの考えに従わせようと、より急進的な行動に出てさらに支持を失った。そしてここに、「帝国派」の領域でのみ産業革命が進展して富の偏在が進んでいるという考えが広まり、旧来の南北対立の構図が時代を代えて出現する。
 そしてここで、争いは一気に邪魔な相手を殺してしまうテロリズムという形に発展し、まずは下級武士同士の抗争が首都東京で一気に広がる。政府は首都の治安回復に躍起になるが、争いは徐々に激化して貴族の邸宅も襲われるようになると事態は次の段階に進む。
 それは内戦、つまり「Civil_War」だった。

 ■「Civil_War」開始

 「大東南北戦争」は、1853年春から1854年初夏の約1年ほどかけて行われた。そしてこの戦いは、大東での武士の最後の戦争となった。

 発端は、大承天皇の勅命で出された「議会の詔」だとされる。
 時の天皇、第四十代大承天皇が、啓蒙思想や立憲政治に興味があることを「帝国派」が半ば利用して、急進的つまり近代化の大きな一歩として「議会の詔」を出させてしまったのだ。
 これに「王道派」を構成する保守傾向の強い旧大東州の名門貴族達は一斉に反発し、両者の対立は一気に発火点に達する事になる。
 そして互いに自らの領内にいる軍を動かしたのだが、これを双方が天皇に仇なす行為、「逆賊」の行動となじりあった。

 そして「帝国派」には、行動に出るだけの準備がある程度整っていた。
 1849年の事実上の政治的敗北以後、大東国内では欧州諸国から自らが近代化するために必要な文物の取り入れを急速に開始した。当然これは産業革命の進展と、当面の国防を行うための最新鋭の武器になる。
 この動きは早くは19世紀前半から始まり、阿片戦争以後は少し速度を増して行われていたのだが、イギリスとの外交に敗北して以後、もはやなりふり構わない有様だった。新しい文物の吸収に中央政府(御所)も有力諸侯(地方)も関係なく、財力と行動力のある勢力が一斉に動いた。
 この中で特に有利だったのが、政府を例外とすると北部の新大東州と南部の茶茂呂の諸侯だった。二つの地域では地理的要因もあって資本集約的な農業が進み、資本蓄積した貴族や武士、豪農、大商人が多かったため、旧大東州の大人口地帯に比べると産業革命に必要な資本集積が進んでいたからだった。
 加えて茶茂呂地方北部には世界有数の炭田があり、同地域では資本集約農業化されたサトウキビ栽培も広く行われていた。南都という国内最大の国際貿易港も抱え、国際貿易を行う資産を持った大商人も多かった。
 新大東州は、特に草壁伯領が有利だった。国内唯一の鉄鉱石鉱山(※鉱山規模は世界的に見て中規模)を持ち、地域は大東内でも乾燥する気候が多い為に綿花の栽培地帯となっていた。また、大東の東に延びる東伝列島とその先端にある先島諸島、さらに大東島よりはるか北にある荒海渡(アレウト)海沿岸、荒須加(アラスカ)との繋がりも深く、同地域から戻る帆船はほとんどがまず新大東州のどこかの港に帰ってきた。
 以上のような条件から、農業の労働集約化が進んだ旧大東州中核地域よりも経済的に大きな優位にあった。
 当然だが、地域としての購買力にも大きな違いがあった。軍艦、武器、弾薬、近代技術、欲しいモノは幾らでもあった。
 そしてそれらを先に揃えたのが「帝国派」であり、帝国派の数の主力となる新大東州は騎兵の産地として知られていた。戦虎、剣歯猫の事を知らない者も、大東ではいない。つまり帝国派は、軍事的に圧倒的優位に立っていた。だからこそ強硬策に出たとも言えるだろう。
 しかし保守派の集合体である「王道派」も、黙ってやられるわけにはいかなかった。事実上首都を押さえているという地の利と、数の優位を活かして対向しようとした。
 だがこの争いに、大東天皇を中心とする大東の民のおおよそ3分の1は完全に蚊帳の外だった。これは過去2世紀の開拓で開かれた農地や牧場は多くが皇領であり、貴族に属していなかったためだ。しかもそこに住んでいる住民の多くが、西日本列島からの移民だった。
 加えて言えば、戦乱は基本的に貴族と武士による戦いだった。

 ■特権階級

 一般的に、富を独占するのは社会全体の2%とされる。大東の場合、19世紀半ばの総人口が約6100万人なので約120万人となる。
この数字は、大東では貴族と上級武士の一族の総数とほぼ比例する。そして封建制の国家での特権階級の数は、末端まで含めると社会全体の10%程度になる。
 そして当時の大東は、世界最大規模の封建国家だった。

 大東の貴族(勲爵以上)は、時代の変遷はあっても大きな変化はなく約400家ほどだった。当時の農村部の人口が約6000万人。うち20%程は皇帝領になるので4800万人。単純に言えば、一家当たり12万の人口を抱える領地を持つことになる。
 中世ヨーロッパなら小国並の規模で、戦国時代の日本でも十分に規模の大きな大名となる。
 最大の田村公爵家だと、見た目の領内の「総人口」は400万人以上にもなる。ここまでくると、当時の欧州の一定規模以上の国家並だ。巨大で壮麗な居城や宮殿、庭園などが、その巨大さを今日にも伝えている。
 当然貴族に含まれる数も多く、130万人に達した。地爵と武士を加えると、末端まで含めて650万人にもなる。これだけの数がいるのだから、仮に貴族や武士が一度の戦闘で仮に数万人死んだとしても、一見大した事ないように見える。だがここには、大東が近世的封建国家である事と、近世大東の人口拡大と国内開拓のからくりが潜んでいる。
 実数では、貴族が70万人、下級貴族の地爵と武士階層全てを含めて350万人となる。このうち元服(成人)する15才から最高40才程度までの男子が軍役に服するとして、全体の5人に1人程度度となる。これだけだと70万人にも達する。
 この数字こそが、「大東武士百万騎」の所以だ。総人口が2000万人程度だった戦国時代でも、武士(職業軍人)は最低でも50万人いたことになる。
 しかし、特権階級の全員が戦えるかというとそうではない。封建体制下では、貴族や武士は軍人であると同時に官僚でもあるからだ。

 本来、軍人を含めた官僚、役人の数は、総人口に対しておおよそ2%程度が必要となる。70万人ではせいぜい6割程度しか賄えず、実際はさらに数字が低くなる。
 このため大東国は、18世紀頃から多くの民衆を官僚として活用していたほどだった。事務を行う官僚でも、指揮をするのが貴族や武士で、実際動くのが民衆という軍隊のような図式が少しずつ出来上がっていた。
 そして平時においては、軍人の数十倍の数の官僚、役人が必要となる。近世だと安定した国で8〜10対1程度で、この数字を大東に当てはめると軍人数は約7万人となる。実際はこれよりも少なく、3万人程度の貴族や武士が軍事に関わっていた。
 19世紀半ばの大東軍の場合、陸軍の常備軍が海外領(荒須加など)を含めて15万、海軍が5万ほどの人員を抱えていた。
 この数字には、軍の事務などを行う官僚組織も含まれていた。
 そして大東は封建国家で尚かつ「武士の国」のため、戦う事は「武士のみに与えられた特権であり義務」だった。例外は平時でも消耗の激しい水夫だけだった。
 結果、陸軍に属する貴族、武士の数は、収入の少ない足軽など下級武士が中心とはいえ12万人にも達する。貴族が率いて武士が戦うのが、大東の陸軍だった。大東の軍隊に、庶民は存在しなかった。この点が、近世国家としてヨーロッパ世界とは根本的に違う点だった。

 ■「Civil_War」

 大東での最初の戦闘は、既に新大東州の動きを警戒して職権を乱用して常備軍を展開していた王道派が、境東府近辺で発生する。
 大東史における南北の境界線であり、南部にとっては北部からの脅威に対する最前線だった。そしてそのまま軍都として発展した経緯から、軍の鎮守府があり1万人程度が駐屯していた。しかもここには王道派の武士、貴族が多かった。
 これに対して帝国派は、新大東州の諸侯と常備軍から事実上離反して帝国派に合流した者達による合同軍だった。主軸は諸侯、武士の子息が私的に集った形の騎兵であり、いまだ戦虎遊撃隊も属していた。数は騎兵だけで2万騎以上。歩兵、砲兵などを合わせると5万にも達した。しかも近代的装備が多く、この時の戦いはまさにその新兵器が勝敗を決した。

 当初王道派は、境東府の鎮守府を拠点として新大東州軍を封じ込め、その間に増援を待って反撃しようとした。実際和良平野では、王道派諸侯による5万以上の軍勢が急ぎ編成中だった。
 また騎兵の多い帝国派に対しては、籠城戦が優位だった。
 しかし帝国派が大規模な砲撃戦を仕掛けてくると、17世紀のまま技術的に留め置かれた要塞では抵抗が難しいことがすぐに分かった。
 大東の要塞は、16世紀末には同時期のヨーロッパとよく似た星形の砲撃戦に特化した幾何学的な要塞に変化していた。しかしその後は、国内の安定もあって要塞の強化及び進化は大きくなかった。変化したのは、天守閣や御殿、宮殿などの増築による見た目の壮麗さぐらいだ。だが、ヨーロッパの技術を少しずつ取り入れていたため火砲の方は発達を続け、この時帝国派はほぼヨーロッパ最新の機材と戦術で砲撃戦と攻城戦を実施した。
 結果、旧来の要塞では太刀打ちが難しく、しかも王道派の装備が古かった事も重なり、呆気なく落城してしまう。
 そしてこの「境東府の戦い」を号砲にして、「大東南北戦争」が始まる。
 時に1853年3月の事だった。

 とはいえ、同じ南北戦争でも十年ほど後に発生したアメリカ南北戦争ほど、激しい戦争では無かった。大東はまだ近代を迎え始めたばかりだし、貴族と武士が戦った為、戦った人数が限られていたからだ。形としては東欧あたりの戦争に近かった。
 しかし戦った主軸は下級武士だった。
 過去2世紀の平和の為、貴族や上級武士の多くが形以上に戦うことを忘れ、殆どが中央集権国家の特権階級としての官僚に特化し過ぎていた為だ。常備軍も食うに困った下級武士が多く、将校や組織として軍を維持しようとする貴族や上級武士は小数派だった。また帝国派の新大東州が裕福と言っても、裕福な諸侯は限られていた。
 北の盟主といえる田村公爵家は、規模こそ一つの国家並に大きいが、一部を除いて見るべき人材は限られていた。他の有力な伯爵家、勲爵家も似たようなところが多く、そうした中での例外が草壁家だった。草壁伯の領内は大東唯一の綿花の産地として経済的に発展し、国内唯一の鉄鉱石鉱山を持つことで産業革命についてもいち早く始められていた為、産業と経済に明るい人材が多かったからだ。また南部では、大規模な炭田地帯を抱える黒姫氏が、平和な二世紀の間の大東内での燃料資源の転換に伴う経済的恩恵を受け、さらにこの頃は産業革命もあって大きく隆盛していた。また尚武(軍事的な事が盛ん)という点では、駒城など北の諸侯の一部はこの頃でもかなりの存在感を持っていた。さらに北部は、剣歯猫の産地だった。
 そして経済力と軍事力が結びついた帝国派は、境東府を突破すると軍を東京へと向けた。
 これに対して王道派は、集められるだけ集めた軍隊をかつての古戦場跡へ進める。戦国時代以前は加良勲爵領で、戦国時代前期に活躍した馬名氏の存在した地域だった。
 ここに王道派は常備軍を中心に8万の軍勢を集め、対する帝国派は戦闘部隊だけだと約6万を進軍させる。
 数では王道派が優位だが、戦闘部隊の数では王道派が若干多い程度という差だった。しかしこの戦いを決したのは、一つの小銃だった。

 小銃という言葉は、基本的に近世に入って登場した。それまでは、マスケット銃、ライフル銃などの名称で括られた。
 大東の銃の歴史は、16世紀序盤に東南アジアでポルトガル商人に出会ってから始まっていると言われる。当時は日本同様に「火縄銃」と呼ばれ、猟銃型、軍用銃型合わせて100万丁以上が生産された。
 日本では伝来の経緯もあって命中率の高い猟銃型が主軸だったが、大東では当時世界一の規模で大量使用された事もあって、銃床を肩に当てる軍用銃型が主軸だった。
 その後、ヨーロッパより若干遅れてフリントロック、つまり火打ち石を用いた形式を取り入れた(=「火石銃」)。大東では、ヨーロッパ同様に銃に使える石があったので生産できたのだが、この小銃は大東銃として西日本にも輸出されている。
 さらに同時期には銃剣(バヨネット)を導入し、合わせて訓練の常態化と軍制の改革も実施された。銃剣の導入によって、それまで銃兵と槍兵に別れていた兵科が統一され、それに似合った兵制が必要になった影響だった。
 ナポレオン戦争後には、ヨーロッパから多数の武器も輸入している。そしてその後、国産が実施された。イギリスとの戦争後には、アメリカから旋盤の機械を導入して近代的な量産能力までも獲得していた。
 1850年代までの大東の銃も、欧米と同様に銃身の前から玉を込める先込式の「前装式」の「滑腔(かっこう)銃」だった。滑腔というのは、要するに内側がツルツルということだ。加えて銃弾の形状も球形だった。
 大東では上記の形式の銃を、大商人の剣菱屋が一手に生産を担っていた。日本などにも輸出してそれなりに知名度もあり、「剣菱銃」と呼ばれていた。

 しかし銃は、1840年代に入ると欧米世界で急速な発展を開始する。
 まずは1830年頃に、ヨーロッパで「雷管」が発明された。雷管は今までの火打ち石式と違って、雨や湿気という悪条件でも確実に着火する優れた特性を持っていた。
 1846年には、今日では一般的な先の尖った縦に細長い形状の銃弾が実用化される。
 この銃弾は、発明者の名前から「ミニェー弾」とも呼ばれた。
 同銃弾はライフルつまり銃身の内側に施条(ライフリング)された銃に特化したもので、銃弾が旋回しながら飛翔する事で、非常に長い射程距離の実現と命中精度の飛躍的な向上をもたらした。
 大東では、雷管もミニェー弾も新興商人の神羅屋が最初に実現に成功し、「神羅銃」としてこの戦場に登場する事になったのだった。しかも神羅屋は、新興であるが故に熟練工が少ないことを逆手にとって、旋盤の機械を導入して画一的な大量生産に成功していた。

 1853年9月8日に行われた「加良野の戦い」は、圧倒的な射程距離と命中精度を持つ「神羅銃」が勝敗を決した。
 神羅銃による歩兵横列の弾幕射撃は、当時の砲兵の弾幕射撃に匹敵する射程距離を持ち、殺傷力が格段に高かった。
 このため王道派のナポレオン型軍隊は、従来通り横列を組んだ歩兵部隊が射すくめられて次々に敗走した。業を煮やして騎兵を投入するも、騎兵までが敵に近寄る前に神羅銃による弾幕射撃で粉砕された。散兵同士の戦いも、神羅銃を持つ帝国派が圧倒的に優位だった。
 そうした光景は、この後世界各地で繰り広げられる戦闘の最初の一つだった。同時期行われたクリミア戦争でも、これほど極端な事例はまだなかった。
 戦闘は一方的展開となり、王道派は総崩れとなって退却した。だか完全に崩壊せず、一部はそのまま東京へと後退。東京郊外の要塞に立てこもり、多くの軍勢はそれぞれの領地や故郷へと逃げ帰り防備を固めた。

 ここで帝国派は一端進撃を停止し、東京に対する無血開城の交渉を開始する。首都で戦えば、今後新政府を作っても大きな障害となるからだ。それに総人口180万を抱える大都市での戦闘など、例え郊外でするにしても悪夢でしかない。首都なので物流の流れも途絶えさせるわけにもいかず、兵糧攻めは論外だった。
 だが交渉は思いの外長引き、一ヶ月以上経過した10月半ばになっても結果が出なかった。このため帝国派はしびれを切らして、東京郊外の王道派最大の拠点となっていた八稜郭への総攻撃を開始する。
 守るのは、寄せ集めの3000名程度。攻めるのは、この当時大東最強の戦力を有する約6万の兵力だった。
 八稜郭は、巨大都市となった首都防衛の要の一つとして、18世紀半ばに主要街道側に建設されたものだった。このため当時ヨーロッパ最新の技術も輸入して建設され、当時でも大東国内では有数の堅固さを誇っていた。
 しかしこの時は王道派が多くの大砲と弾薬を先の戦いで要塞から持ち出していたし、再び籠城した兵力の火力は少なかった。指揮官も凡庸で、新しい戦いには慣れていなかった。このためほぼ近代要塞といえるこの要塞の陥落は早かったのだが、それでも1万の死傷者と半月の時間を浪費することになる。
 このため帝国派は、首都こそ完全掌握するも王道派を平定する事については翌年春を待たねばならなかった。また逆に、要塞一つで予想外に時間を稼いだ王道派は、結局混乱するばかりで何も出来なかった。内部での派閥争いばかりして、中には帝国派に寝返ったりもした。

 1854年3月、首都を掌握して事実上の新政府も設立した帝国派は、国内にまだ残っている王道派諸侯の討伐を実施する。多くは古くからの名門貴族の領地であり、東京から大坂にかけての人口密度の非常に高い地域だった。そして民衆を戦乱に巻き込まない事を考慮したため進撃は遅れ、相手に防備の時間をさらに与えることになった。
 だが、この段階で南部の茶茂呂、黒姫らが新政府への合流を果たす事で大勢は決し、5月半ばには王道派の諸侯のほとんども降伏。かくして大東は再び一つに戻る。
 そしてそれだけでなく、大東は新たな国家として出発することにもなった。