■■インテグレイション Japan(1)
■大東帝国の成立
・領土
新しい日本人の国家を見ていく前に、まずは新国家を建設したばかりの大東帝国の領土面積を大まかに見ておこう。
大東本国:69万平方キロメートル(大東島とその周辺部のみ) 荒須加:180万平方キロメートル(荒海渡列島含む) 北氷州(千島半島・荒海渡海沿岸部):60万平方キロメートル 北太平洋地域:2万平方キロメートル
合計:約310万平方キロメートル
世界的に見てもかなり広い面積だが、その殆どは荒須加の氷原と北米最高峰を持つ巨大山脈の北部地域で、ロシアとの取り決めで大東領となっている霧満山脈以東のユーラシア半島東端と氷と炎の土地でしかない千島半島だった。 新国家建設の頃は、合わせて「北方領(ノーザン・テリトリー)」と呼ばれていた。 一度毛皮を刈り尽くした当時の北方の領域は、荒須加の大規模な金鉱(上番楠=英名:フェアバンクス)以外は何もない場所と考えられていた。 住民も一部の漁業移民を除けば、小数の先住民族だけだった。 総人口はせいぜい20万人程度で、その殆ども金鉱と積み出し港に集中しており、トナカイ(カリブー)の方が数が多いと言われていた。無論だが、町と呼べるような拠点はほとんどない。夏の捕鯨時期以外は、金鉱以外非常に寂しい地域だった。 北大東洋地域は、東伝列島とその先の先島諸島、そして羽合諸島がほぼ全てとなる。
羽合は一世紀ほど大東の捕鯨の拠点として繁栄し、その間に羽合人によって統一王朝が作られた。19世紀には大東からの移民が増え、稲、小麦の栽培の普及もあって19世紀半ばの総人口は50万人ほどだった。捕鯨が下火となったこの頃は、若干の寂れが見えていた。羽合にはマレー・ポリネシア系の独自の文化があったが、捕鯨船進出以後は大東の日本文化が広まった。 そして大東の影響を強く受けて羽合王国が成立したが、名目上は大東天皇に朝貢していたので国際的には大東領土と認識されていた。
東伝列島は、小さな島ばかりで気温も低くかった。さらに東にある先島諸島は1万平方キロメートル以上あるが、寒冷地に強い農業が行われているだけで、他の地域との中継点や捕鯨拠点としての役割しかない寂しい土地だった。 だが19世紀初頭から事実上の移民が増えて、19世紀半ばには20万人ほどが住むようになっていた。
そして何より、大東本国こそが当時の大東のほぼ全てと言えた。 本国人口は1850年代で約6100万人。清帝国を除けば、単一の国家としては当時世界第二位の人口国家だった。しかも清帝国ほど巨大すぎず、土地の多くが平地で、細長い島国なので海上交通も発達しているという優位もあった。そして何より教育が普及して民度が高かった。
・新国家の枠組み
時の天皇、第四十代大承天皇を、まずは国際的標準に合わせる意味も込めてヨーロッパ基準での表現における「皇帝(エンペラー)」と称号を変更した。天皇では単に国王と同じような意味しかない事が分かったからと、少しでも自らの国威を上げるためだった。 そして皇帝を国家元首として、新国家の国号も決定。国号を「大東帝国」と定めた。 国家の政治形態は、数年前にヨーロッパを吹き荒れた自由主義の流れが全面的に取り入れられた。
戦争中に帝国派が実施し始めていたものを発展させ、行政、司法、立法の三つを分立させた三権分立された近代国家が目指された。 皇帝には、軍の統帥権、宰相以下大臣の任命権、議会の招集及び解散権が与えられることになる。しかし暗黙の了解として、皇帝が自らの意志のみで行動しないものとされた。これは当時のイギリスでほぼ確立されていた、「君臨すれど統治せず」を模範としたものだった。 そして特権階級の貴族と武士だが、身分制度は大幅に緩和されるも、貴族と武士は階級と一部特権が残されることになる。純粋な資産、国から与えられたのではないと証明できる土地、農地については、新政府への拠出を行わなくてよい代わり、行政に関する権利は新政府に返上することなった。 結果、貴族や武士のかなりが大きな資産家として残る事ができた。だが一方では、納税(特に固定資産税)に関しては今までにないほど厳しく制定されるため、才能のない貴族や武士は大きく没落していく事になる。免税特権が無くなることこそが、一番の変化とも言えた。 そして新たな中央政府だが、皇帝の承認のもとで実際の政治を取り仕切る「宰相」が設置された。 そして宰相のもとで帝国派の中枢にいた人々を中心にして新政府が編成され、議会の設置、欽定憲法の制定、三権分立など近代国家に必要なものを取りそろえて行くことになる。 また国民に対しても、新たな税制の導入と共に、兵役の義務、教育の義務という二つの義務を加える事を決める。同時に、段階的にだが選挙権の付与、生存権、教育を受ける権利の大きく三つを国家が与える体制を作ることを決める。 他にも数え切れないほどの事が一斉に実施されたが、全ては内戦という大きな変化があったおかげであり、常に大規模な内戦で変化していくという大東の特徴を如実に示した結果となった。 しかし全てが一度に決まって動いたわけではなく、新政府による新しい国家の形成にはかなりの時間が必要だった。その上内戦での荒廃もあるため、尚のことしばらくは内政に力が入れられる事になる。 だが、そうとばかりも言ってられなかった。世界は帝国主義の時代へと突入しつつあったからだ。 特に大東の隣国日本の情勢が一気に加熱していた。
■日本の開国
1853年6月、イギリスの4隻の軍艦が西日本の江戸幕府に開国を求めて浦賀に来航する。 イギリスが日本に対して行動を取ったのは、二つの理由があった。一つは、近隣の大東が大規模な内戦状態にあったからだ。もう一つは、阿片戦争後も貿易状況があまり改善しない清帝国の代わりとなる新たな市場を求めての事だった。 本来なら大東をターゲットにするべきで、当時大規模な内戦中なので尚更そうだと考えられていた。しかし大東では既に産業革命が開始されつつあり、内戦を観戦した武官などからの報告から、一定の軍備を持つ事が分かっていたので、何もない日本が新たなターゲットとされたのだ。 そしてイギリスの読み通り、内戦中の大東がイギリスの行動を牽制する事はなかった。そして日本の江戸幕府は、狼狽して右往左往するばかりだった。
なお当時の日本は、江戸幕府の治世のもとで海外事情を何も知らずに「天下太平」を謳歌していたわけではない。 完全に鎖国していないので、長崎に来る貿易船から情報を得ていたし、水面下での大東の交流でも海外の情報は流れ込んでいた。大東がイギリスに屈服を余儀なくされ、さらに大東で「大きな戦争」が起きたことも知っていた。 だが、当時の江戸幕府は多くの面で硬直化しており、海外情勢に対しては分かっていても「見ざる、言わざる、聞かざる」な状態だった。 そして「太平の眠り」を覚ます事件が「黒船来航」だった。 当時の戦列艦(大型戦艦)に相当する排水量5000トンクラスの蒸気戦列艦を中心とするイギリス艦隊は、当時の日本人達に極めて大きな衝撃を与えた。 結果、1854年2月にイギリス艦隊が再度来航した時に「日英和親条約」が締結され、軍事力と国力、そして情報不十分のため不平等条約となった。その後もアメリカ、フランス、さらには長年のつき合いがあったオランダも日本との間に不平等条約を結び、日本の危機感が増していく。 軍事力と国力、そして情報不十分のなのだから、あまりにも当然の結果だった。 しかし二度目の衝撃は、意外なことに隣国からやって来る。
1855年8月、内戦を終結させ新国家を作ったばかりの大東が、新国家建設を知らせる為という名目で、世界的に見ても最新鋭の軍艦(蒸気軍艦)を中心とする艦隊を日本の香取湾口の浦賀に派遣したのだ。 そして江戸幕府に対して、大東帝国及び大東皇帝の承認及び正式な国交の樹立を持ちかける。またほぼ水面下ではあったが、同盟関係を中心とした海外勢力に対する一致団結を呼びかけた。 この大東帝国の日本への艦隊派遣は、西日本列島の日本人に大きな衝撃を与えることになった。 大東による日本への軍艦派遣は事実上鎖国以来となり、また、自分たちの「格下」と勝手に思いこんでいた大東の力を見せつけられた為だった。 そしてこれ以後、西日本国内は大東に対する姿勢で大きく揺れることになる。 最大勢力は、大東もしょせん夷敵(=外国)という論法だ。だが次に多いのが、大東も同じ大和民族(=日本民族)だという論法だった。他にも、大東が日本を飲み込もうとしているという反大東の一番過激な一派など、様々な派閥が誕生した。しかしこれらは、西日本の人々が「夷敵」と「大東」を分けて考えている証拠だった。
そうした中で重要だったのが、時の孝明天皇の姿勢だった。 孝明天皇は極度の外国、白人嫌いで有名で、大東に対しては「同じ日本人」という考えを持っていた為、大東皇帝を認めてでも大東の力を頼ろうとした。このため、大東との交流を深めるように幕府に圧力をかけた。 しかし江戸幕府としては、大東と他の国を別々に扱うダブル・スタンダードを取れば、欧米各国から突き上げられることを理解していた。このため最初は、大東の申し出と孝明天皇の言葉に対しては言を左右にして、大東を諸外国と同列に扱った。そして新国家、新政府は承認したが、半ば面子の問題として大東皇帝は認めなかった。 だが一方では、大東側が提示した条件は江戸幕府にとって極めて魅力的だった。治外法権は従来通り開港地の浦賀のみとして、日本の関税自主権も認める内容だったからだ。大東は既に欧米と本格的な戦争をしてその混乱から新国家を建設し、産業革命を始めとする近代化も推し進めているので、大東との平等条約の締結が外交での突破口になるのではと考えられたからだ。 大東との間には、1855年10月に「日東和親条約」結ばれ、日本初の平等条約となった。 そして以後江戸幕府は、大東から大規模に技術や兵器など近代的文物を輸入するようになると同時に、西日本での大東の影響が急速に高まっていく事になる。
江戸幕府から大東への視察団は、早くも1856年に第一陣が出発。以後、ほぼ毎年送り出され、規模も拡大していった。 この結果、大東が急速に成し遂げつつある近代化、西洋化が、かなり広く日本人に知られるようになる。同時に大東人が、ヨーロッパはもっと凄いと技術習得に熱心だったので、ヨーロッパにも視察が出されるようになる。 そして主に大東への視察で分かった事は、西日本に不足するものがあまりにも多すぎるという事だった。 大東で見た次々に誕生しつつある蒸気の煙を噴き上げる近代的な工場や鉄道敷設の様子は、当時の西日本列島の人々には想像の外だった。軍艦を含めた武器については、大東での内戦終結で大量に余った兵器が格安価格で西日本列島に押しよせたが、それは当面の国防を補う役割しかなかった。 西日本列島の人々は、表面的な文物ではなく、その根底にある技術、知識の修得が必要なことを理解して実践したが、その道のりは極めて険しく遠かった。 だがこの頃、世界情勢は日本人に味方していた。 一番に日本(江戸幕府)を開国させたイギリスすらその後ロクに日本来なくなったのは、まさに世界情勢が影響していた。当時ヨーロッパ諸国は各地で戦争を繰り返しており、その間に日本人達は自分たちの争い、そして大東との関わりを進めていく事になる。
■幕末日本
日本の「幕末」は1853年6月の英国艦隊来訪によって始まり、大東との開国を経て、1860年3月の「桜田門外の変」によって本格化したとされる。当時最大の政治家(=大老)だった井伊直弼の暗殺で江戸幕府の権威は地に墜ち、かわって天皇を擁する朝廷の権威がクローズアップされたからだ。
1860年代に入って開国後の日本は、ヨーロッパから高値で手間をかけるよりも、近在の大東から技術や知識を輸入する向きを強めた。 何しろ言葉と文字が同じなので、既に学んでいる大東人から学ぶ方が容易く、そして日本にまで人材を呼ぶ際に大東人の方が利点も多かった。距離も断然近いので、日本からの留学や視察も容易だった。無論ヨーロッパにも視察団が出されていたが、近在の大東に頼る向きを弱めるほどにはならなかった。日本の十年以上先を進んでいる大東は、非常に分かりやすい手本であり見本だったからだ。 一方で日本国内では、外国人排斥の「攘夷」と共に大東を警戒する動きも出た。だが、大東に対する日本人の行動にはジレンマがあった。 「尊皇攘夷運動」の旗頭である孝明天皇が、大東を頼る傾向が非常に強かったからだ。また大東皇帝は天皇家の枝分かれした子孫でもあり、大東貴族の中には最初の征夷大将軍である坂上田村麻呂の子孫までいた。 大東に居着いた平家の一部も、皇族、王族の中で命脈を保っていた。その他、古い血統、名門の血統が、実質権力や富を持ったまま数多く存在していた。
一方、新政府成立後の大東帝国内では、既に組織疲弊が深刻化している江戸幕府に対して見限る雰囲気が強かった。特に井伊直弼暗殺後は、その傾向が強まった。 さらには、大東国内でのナショナリズムの昂揚と歴史的劣等感の払拭のために、大東の側からの「日本統一」が考えられるようにもなっていた。大東人にとって「日本統一」は、日本に対する劣等感の完全な払拭と自らのナショナリズムを満たす最大のテーマだった。 しかし、大東国内での戦乱と大東再統一後の内政努力、諸外国に対する外交の為、日本への干渉に大きな力を割く事が難しかった。これが大東から日本への動きを緩やかなものとしていた。 加えて、日本での井伊直弼の暗殺は、大東の政治的動きに変化を促す大きな切っ掛けとなった。 このため大東は、自らの皇帝も皇族(天皇家)の一つであり、日本の統治権があるという説を日本国内に流布する事に務めた。また、欧州諸国を利用しようとしている幕府及び反幕勢力の行動が危険すぎ、「日本民族」に大きな危機をもたらすとも警告した。その上で、今こそ「日本民族」は諸外国からの圧力に立ち向かうため「一つの帝」のもとで統合しなければいけないと煽った。 そして徐々に、日本の天皇、皇族、公家への働きかけを強めていった。天皇の政治利用は、日本人の心理に最も効果的だったからだ。 大東の宣伝戦略と皇族に対する政治工作は年々効果を発揮し、日本国内には外見も言葉も同じな大東人が数多く闊歩するようになる(※言葉には若干の違いあり)。彼らが「日本と大東」が一つになること、この当時に初めて出た「東西統合」という言葉で宣伝した。
また、海外貿易港として急速に発展していた関東の香取湾の横浜には、外国人居留地とは別に大東人居留地も建設された。 当時日本は、ヨーロッパでカイコが病気で全滅した影響で、ヨーロッパに対して生糸や絹製品を輸出して、様々な近代的文物を手に入れていた。しかし最大の取引相手は江戸時代を通じて大東であり、開国後も変化はなかった。 そして水面下では、「皇族の合体」による日本統合への布石を打っていった。この結果、1862年に大東に対する神戸の開港を受け入れさせる事に成功し、翌年諸外国が来る前に確固たる拠点を築いた。 そうした上で京の都への最短ルートを確保し、次の一手を打つ。これが大東皇帝と日本の天皇の会見だ。しかも大東側は、これを自らの国家行事とはせずに、あくまで「皇族内」の「私事」とした。しかも分家が本家に挨拶に行くと見せかける。 これを孝明天皇や京の公家が好意的に受け入れたため、日本側の視点から見ると大東皇帝による天皇への拝謁が行われる事になる。しかし大東側の文献を見ると、対等で、私事で、公式行事ではなかった。 そして豪華で大型の蒸気軍艦の艦隊と、それに乗ってきた漆塗りの豪奢な馬車の大行列が、神戸の港から大坂を経由して京の都へと練り歩く。その様子は多くの日本人に目撃され、それまで日本国内で実体があまり知られることの無かった大東という存在を強く印象づけた。 これを「大東の錦船」と呼ぶこともある。 この後、大東皇族と日本天皇家との間に婚姻を行うことも決められ、江戸幕府が画策していた「公武合体」による日本国内での権威向上と政権安定という目論見が吹き飛んでしまう。
結果、江戸幕府は大東への警戒感を強めるが、日本国内では「東西統合」の言葉は一層強まるようになる。 民衆の間にも大東を「日本民族」と見る向きが強まり、「大東皇帝」という名の皇族に連なる「新しい将軍」が強い国家を作って諸外国に立ち向かい、国内にも安定をもたらしてくれるのなら、という期待が強まるようになる。 しかも大東皇帝の存在そのものを江戸幕府程度の視点にまで落として考えれば、当時の日本人の多くにとって精神的ハードルは極端に高くなかった。大東皇帝がまさに「新しい将軍」となるからだ。 加えて大東には、過去2世紀の間に多数の日本人移民が移住している為、親近感は過去に例がないほど高まっていた。江戸時代の農民の間には、食い扶持に困れば大東に送り出せばいいという風潮さえ育っていたほどだ。 そしてこれを、反幕勢力(初期は長州藩が中心)が利用した。大東の事はともかく、旧態依然とした江戸幕府を打倒して革新的な新政府を作る以外に、日本が生き残る道が存在しないと考えていたからだ。 一方江戸幕府は大東への警戒感をいっそう強めたが、開く一方の技術格差と大きな国力差、そして何より僅か数百キロ隣という距離の問題から、もはや処置無しの有様だった。しかも西日本内の大東を今から追い出しても、日本の民衆から幕府が突き上げを喰らう可能性が高いし、大東が怒り狂って武力に訴えて幕府を倒す可能性も考えられた。 しかも江戸幕府としては、兵器の輸入や近代化で大東を頼ることが難しくなったため主に接近してきたフランスを頼ったが、この事が余計に民心の離反を引き起こした。 「幕府は自らが生き残るために、日本をヨーロッパに売ろうとしている」という風聞は、幕府の権威をさらに落とし、民心の離反を招いた。
ちなみに、幕末の日本では大東人が数多く闊歩した。この場合、茶茂呂人や古大東人系以外だと、服装を整えてしまうと外見はほとんど西日本の日本人と見分けが付かなかった。新大東州の大東人は食生活の違いか亜体格が若干大きかったが、多きという以外の違いはほとんど無かった。しかし西日本に来た大東人は、護身用に拳銃を携帯している事が多いので、攘夷派などからのテロに逢うとすぐに分かったと言われている。このため大東武士は、銃に頼る臆病者という武士の強がりも相まって、「銃士」と呼ばれたりもした。
■日本統合
その後西日本列島では、京の都を主な舞台とした政争とテロ、加えて小規模な戦闘が何度も起きるが、幕府の権威低下は続いた。 大東が庇っているため諸外国による日本への干渉は最小限で済んでいたが、その事が江戸幕府の民心離反をさらに強めた。「征夷」できない将軍と幕府に用はないと言うことだ。 だが一方では、新政府は必要だが日本は日本、大東は大東でそれぞれ自立すべきだという考え動いている人々もいた。この論者たちを、「東西統合」へと収斂させたネゴシエーターが四国は土佐の下級武士の坂本龍馬だった。 彼は無血による日本の革新と新国家建設を求める急進派の一人で、そのための手段として「東西統合」と「日本民族の統合」を求めた。 しかし彼の出身地の土佐藩は、古くから大東移民などで大東との繋がりが深いため、後世の研究では大東側の人間と見られる事も多い。坂本龍馬の家も、戦国時代末期に大東に亡命した分家があり、江戸時代は大東との間の貿易も行う商家でもあった。こういう点からも、坂本龍馬は「東西統合」を行うのに相応しい人物だったと言えるだろう。
彼の出自や経緯はともかく、日本国内では「薩長同盟」という幕府打倒の体制を作り上げ、大東にも何度も渡って交渉を行った。 彼が日本、大東分立派を「東西統合」に向けさせた手法こそが、「連邦国家」構想だった。これを坂本は欧米の国家の有り様から着想を得たとされる。 極めて単純に説明すれば、今日の形通りに日本皇国、大東帝国それぞれに国内政府を作り、その上に「統合政府」を置くという案になる。しかもこの案だと、大東が保有する世界各地の植民地が自治を持つ際にも利用できるという利点があった。日本も琉球を簡単に併合出来ることになる。 さらに大東にとっては、西日本を直接併合なり合併した際に生じる面倒を最小限に出来るし、日本側の革命勢力にとっては、自分たちが少なくとも西日本列島を統治できる利点があった。 ここでの最大の問題は、二つの天皇家をどういう形で「東西統合」するか、だった。どちらが上に立つのかと言えば、国力の差から大東皇帝が国家元首になるのは疑いなかった。だからこそ大東は、日本人に対して大東皇帝が「新しい将軍」だという認識を与えようとした。 しかしこれでは、近代国家として二重権威になる可能性もあった。日本の天皇家が大東皇帝の権威を認め、その大東皇帝が「君臨すれど統治せず」を行い、大東の中央政府が日本民族社会全てを統治する事になるからだ。 そこで考え出されたのが、皇帝家と皇族が一つの枠組みの中に居れば国家としては大東皇帝が元首となるが、皇族の中では天皇が皇帝に権威を与えるとい形だった。また対外的にも、同じ一族として日本の天皇が大東皇帝を承認するだけの形になるので問題も少ない。 つまり日本民族内では天皇家が名目上での元首になるが、対外的には大東皇帝が新たな日本民族国家の元首となるのだ。
この日本人しか受け入れないであろう仕掛けに、皇族、皇帝家双方、朝廷、大東政府も乗ることを決め、あとはどうやってソフトランディングで江戸幕府を解体するかとなる。 一つの手段は、江戸幕府に「大政奉還」という形で将軍職を朝廷に返上させ、現状での日本政府を解体する事。もう一つは、天皇の側から「王政復古の大号令」を行い、強制的に江戸幕府の権威を奪ってしまう事。そしてどちらの場合にせよ、同時に皇族と皇帝家の姻戚関係を結び、「東西朝の統合」へと持っていく。 そして色々と議論され、様々な勢力による駆け引きや陰謀が行われたが、大筋は上記の線で進むことになる。 日本皇国、大東帝国の二つの国を作り、その上に中央政府としての「日本政府」を作り連合国家とする。しかし二つの天皇家を再び一つにした為、「連合」ではなく「統合」となる。 このため国号は「日本帝国(エンパイアー・ジャパン)」ながら、通称では「統合日本(インテグレイション・ジャパン)」と呼ばれる。特に19世紀の日本人は日本帝国という言葉を使わずに、統合日本と言う事が多い。「統合」という言葉は、この時代の流行語ともなった。 そして新たな国は、権威君主による議会制民主主義国家を目指し、帝国主義の時代へと船出していく事になる。 しかもお誂えというべきか、1867年1月に明治天皇が立ったのに続いて、同年4月に大東でも大明皇帝が擁立された。これで皇族、皇帝家のお膳立ては揃い、事が一気に進められていった。
1867年11月、この先月に江戸幕府が自らの意志で起死回生の「大政奉還」を行うも、それを帳消しにする形で「王政復古の大号令」を実施し、二世紀半に渡り西日本列島を統治した江戸幕府は戦乱も革命も経ずに消滅し、新国家へと移行する。 そして西日本に誕生した新政府は、自らを「日本皇国」と呼称するも、大東帝国との統合を同時に発表し、日本民族を統合した新国家へと昇華する。 この時、日本の反幕府勢力は、自分たちの権力をより確実にし、尚かつ幕府だけでなく武士の権威、権力を無くすため、幕府に対して戦争を起こそうと画策していた。 しかし、戦乱は不確定要素が大きく、また諸外国に着け入れられる可能性が高いため、大東側は強く反対した。そして大東は、反幕府勢力と幕府双方を武力で威圧するべく、石山湾、香取湾など各所に海軍を派遣し、無血での革命が成就する。 新国家名は「日本帝国」。北東アジアでの独立国を示す「大」の文字は付けられなかった。必要と考えられなかったからだ。 新たな国は、「日本皇国」、「大東帝国」と大東が有する植民地を領土とする連邦国家とされ、「日本帝国」の中央政府は現在の大東帝国政府を母体として再編成する。 旧大東帝国と日本皇国以外では、西日本が事実上支配していた琉球王朝が最初から加わり、少し遅れて大東の影響が極めて強かった羽合王国が加わることになる。その後も植民地が自治を得る際には、独立より先にまずは日本帝国の連邦の一員となる事が多かった。