■■インテグレイション Japan(2)


■統合日本の概要

 まずは統合時の概要を見て次に進みたい。

 1868年が大明元年。本来は1867年だが、国家統合のため改めて制定。大東史上でも最初で最後の例となった。
 なお大明皇帝は、父が皇太子時代に亡くなったため、皇太子に即位して5年後の21才の若さで即位した。大明時代は1867年〜1930年までの64年間続く。その間に彼の皇太子(※直系男子のみ)が全員戦死または病没してしまったため、次の大幸皇帝には大明皇帝の直系の孫が若くして即位する事になる。

 国号:「日本帝国」。
 大東帝国、日本皇国、琉球王朝による連合国家。

・国土:

 大東本国  :69万(平方キロメートル)
 荒須加   :180万(平方キロメートル)(アレウト列島含む)
 北氷州(千島半島・アレウト東部):60万(平方キロメートル)
 北大東洋地域:2万(平方キロメートル)
 西日本列島 :38万(平方キロメートル)
 樺太島   :7万(平方キロメートル)
 琉球諸島  :数千(平方キロメートル)
 茶茂呂諸島 :若干

 合計:約355万(平方キロメートル)

 ※羽合王国は、名目はともかく実質は大東の保護国以上衛星国以下の状態。

 総人口:1億300万人
 大東 :6700万
 日本 :3500万
 他  :100万

 経済力 : 大東:日本=3:1
 ※大東での産業革命の進展が、西日本よりも十年から四半世紀程度早めのため、資本蓄積を含めて所得格差が発生している。

(※神の視点より:建国時の国力は、経済力は史実日本の約4倍程度。人口は約3倍となる。)

 主要地下資源:

 鉄鉱石:
 ・鷲山鉄鉱石鉱床(新大東州南部の摘麦南部)
 露天掘りができて、18世紀中頃から採掘開始。質は高く埋蔵量は10億トン程度。20世紀半ばまで、主力鉱山として稼働(※21世紀現在はほぼ枯渇。技術維持の小規模採掘のみ実施)
 ・釜石鉱山(日本:東北)(埋蔵量約7000万トン)
 鉄以外にも様々な金属をそれぞれ少量ずつ産出。規模は小さい。
 ※西日本列島には砂鉄が豊富で、近代製鉄が増えるまでは主に民間向けの需要を満たす。

 炭田:
 ・黒岩炭田(大東南部・茶茂呂)瀝青炭・露天掘り
 ・黒炭炭田(大東南部・茶茂呂)瀝青炭・露天掘り
 ・筑豊炭田(日本:九州)瀝青炭・一部露天掘り
 ・夕張炭田(日本:有守)※質は低い
 ・北樺太炭田(日本:樺太)※質は普通
 ※大東国では、古くは15世紀頃から石炭を利用。18世紀半ばにコークスの製法が伝わって利用が拡大し、殆どの火力として使われるようになる。一時は西日本にも輸出。

 油田:
 北樺太油田(日本:樺太・緒波油田)
 新潟、秋田の小規模油田
 ※20世紀に入ってから採掘開始。

 他、銅、錫、鉛、金、銀など多くの地下資源が西日本列島各地に一定量存在。しかしどれも小規模。ただし銅の産出は比較的多く、19世紀中は輸出できるほど産出。
 海外の荒須加には、19世紀後半の技術でも年産10トン近く産出される大規模な金鉱(笛番楠=フェアバンクス)がある。また、日本帝国にとってもっとも辺境となる荒須加の北米大陸北西部沿岸諸島地域では、19世紀中に中規模の銅、鉄を産出する鉱山が存在確認されている。

 以上が最低限の概要となる。そして肝心の新国家そのものだが、近代国家としての基礎作りについては、既に新国家建設から10年以上経過している大東帝国でほぼ成し遂げられていたので、それを日本でも実施する事が急務と考えられていた。
 まずは、江戸時代以後の西日本列島の変化を見ておきたい。

 ■統合日本の近代化政策

 西日本列島の日本皇国は、日本帝国内の国内国家の一つとなる。
 中央税制、外交、軍事は大東帝国首都でもある東京に集約されているので、西日本列島の地方政治を行えばよい事になる。
 まず問題とされたのは、西日本列島統治の中心地、つまり国内首都になる。本来ならそのまま江戸とするべきだが、西日本の新政府は「武士の世の中」からの脱却と国民国家の形成を望んでいたため、今一つ乗り気ではなかった。
 そうした中、1868年3月9日の大火で東京の主要部が焼けてしまう。この結果江戸城の中枢部がほぼ全焼し、中央行政組織を運営する場所が失われてしまう。代替として使えそうな、旧幕府施設や大名の屋敷跡も多くが焼失した。しかも当時の江戸は、参勤交代の完全消滅によって人口が激減していた。最大150万人とも推定された人口は、新政府発足までに半減し、さらに大火によって一時的に大きく減少した。
 その後も復興の遅れもあって江戸の衰退は十年ほど続き、東日本の開発促進に伴う政府の政策が動き出すまで地方都市に転落することになる。
 このため西日本列島の新政府は、京都御所にも近い商都石山に置かれることになった。
 石山には江戸城に次ぐ巨大な城塞が無傷であり、周辺の土地も確保しやすいため、以後西日本政府の中心として急速に発展することになる。
 なお、日本の天皇はそのまま京の都改め京都府に居続けたが、警護の問題もあるため住居は京都御所から二条城へと移る事になり、二条城御殿の大改修後に移動した。また従来の御所は、整備し直された後に離宮として使われた。
 本来なら、国内政府であっても政府と天皇(元首)は同一の場所にあるのが近代国家として相応しいが、諸外国に対しては統合日本で一つの国家で、西の日本は国内国家なので特に問題視されなかった。ただ石山に政府を置くことは、大東側から何度となく苦言がなされている。石山は大東を侵略した豊臣秀吉が最初に城を築いた場所というのが理由だった。
 なお、石山は西日本の中央政府が来たこともあって、従来の西日本最大の商業都市としての発展がさらに進む事になる。これは効率化をもたらす反面地域格差を大きくするため、その後日本政府によって江戸などが商業都市として大きく再開発される事につながっている。
 なお、西日本が自分たちの首都として江戸ではなく石山を選んだ大きな理由の一つとして、大東島から少しでも遠い場所だからだと言われている。

 西日本での地方行政そのものだが、最初政府はかつての藩をそのまま県という新たな行政単位に置き換え、順次統廃合を実施するという道筋を作る。
 これが「廃藩置県」だが、大東に比べると行政単位当たりの面積も人口も非常に少ない。しかし山河が険しい西日本列島では、交通の便もあって小さな行政単位の方が何かと都合が良かった。
 しかし、今後の技術的な発展予測と国家全体で見ると不均衡が目立つため、大明11年(1879年)には大東の日本帝国政府(以後:帝国政府)によって「州制度」が取り入れられる。
 この結果西日本では、平安時代に作られた「道」程度の規模を一つの「州」とする地方行政単位が作られる。大東島ではかつての「国」単位を基本として「州」が作られたが、それでも大東の行政単位の方が規模としては大きい状態が続く事になる。

 なお「州」の区分は、大東島が「凍陰、駒城、陸中、陸南、摘麦、二者、越鏡、遷鏡、征東、茶茂呂」の旧国ほぼそのままの10州で、西日本列島は「北日本(東北、越後・有守)、関東、東海(東海・甲信)、近畿、西日本(中四国)、九州」の6州が置かれた。
 それ以外の地域は距離や人口のため帝国政府直轄で、州は置かれなかった。
 これで、今日に続く「帝国政府(統合政府)=国政府=州政府=県・府」という図式が出来上がる。

 

 新政府で政治と行政を行う者だが、日本新政府は幕末に反幕勢力の中心となった旧薩摩藩、長州藩が中核となって政治を行い、主にもと下級武士達によって運営された。
 そしてその下で、もと江戸幕府で官僚をしていた人々(もと武士)が仕える事になるが、それは下級の者に限られた。上級職以上は日本新政府から出来る限り排除された為、依然として有益な人材を捜していた帝国政府がスカウトしていく事になる。この代表が、江戸幕府末期の重鎮だった小栗忠順などになるだろう。また長州藩出身ながら、才覚を買われた大村益次郎が帝都東京に早々に呼ばれ、日本帝国軍の中枢で活躍したりもしている。
 そして西の日本新政府が、近代化のために壊したいと考えていた武士階級が存在する特権階級制度だが、結局は大東帝国に倣うことになった。
 結果、日本での武士の特権はある程度残されるも、税制や領地に関する制度、法律によって多くの者が現状を維持できなくなり、多くの武士はそのまま官僚、役人へと職を変更していく事になる。
 大東のように私財、資産を持って資産階級となっていた武士が少なかったのが、日本での武士の早急な勢力縮小を促した。

 そして西日本列島では、武士の不満が高まると共に、新政府内でも大東人が中心の帝国政府に対する不満も高まった。帝国政府のやることの殆どは合理的に見て正しいのだが、せっかく政治の実権を握ったはずがそれを行使出来ない事への苛立ちが中心だった。
 それでも主に理性から日本政府中央が激発することは無かったが、地方勢力は別だった。
 主に税制の大幅な改革に伴う事実上の大幅増税による農民一揆に平行するように、不平武士による反乱や武力テロが相次いだ。その最大のものが「九州動乱」と呼ばれる戦闘だった。
 同動乱(内戦)は、日本政府が帝国政府の間に入る形で地方軍(日本軍)のみで鎮圧することで幕を閉じるも、その後も急進的な改革と国造りに対する反動の象徴とされた。
 だが大明10年(1878年)に起きた九州動乱以後、西日本列島も落ち着きを見せるようになり、帝国政府の公平さを重んじた施策もあって本格的な発展と近代化が行われた。

 なお、西日本列島に対する帝国政府の一番大きな施策とは、改革が一定段階に達するまで国防に関する負担を西日本列島は大きく減らし、浮いた予算を国内の近代化政策、社会資本の建設に注ぐというものだった。
 この結果西日本列島の発展速度は早まり、大明20年(1888年)頃には大東にかなりの面で並ぶようになる。
 これは工業化、鉄道敷設、近代的社会資本の整備などで示されている数字で、一人当たり所得でほぼ横並びになるには大明40年(1908年)頃まで待たねばならなかった。

 ■初期の対外政策

 日本帝国としての外交の前に、大東帝国としての外交を先に見ておく。

・南洋領域の確定

 1854年の大東帝国成立以後、大東帝国は内政安定を重視してそれほど活発な対外活動は行わなかった。主に行ったのも領土の確定事業だった。
 その後も大東の外交の中心は、日本との統合に向けられた。しかし近代化を行うためには、出来る限り自力での海外市場と資源調達地が必要となる。加えて、少しでも国内の飽和する人口を移民させられる場所が欲しかった。
 このため太平洋各地の調査についてだけは、かなりの熱心さで実施された。しかも同地域は、欧州諸国も徐々に太平洋に興味を向けつつあるとあっては尚更だった。
 鎖国時代に大東が勢力を広げていた太平洋地域の島々は、北太平洋の東伝列島、先島諸島、ハワイ(羽合)諸島、西太平洋の引田諸島と茶茂呂諸島になる。茶茂呂諸島の南と東に、さらに幾つもの島が有ることは16世紀から知っていたが、小さく貧しい島ばかりりな事も分かっていたし一応は鎖国もしていたので、特に進出も行われなかった。だが他国に領有されたら国防に関わるため、順次標識を立てるなどの対策が実施された。
 しかし当時は帝国主義の時代であり、ヨーロッパ諸国も世界各地での植民地獲得を熱心に行っていた。このため、大東として古くから領有している地域にまで食指を伸ばす有様で、内政を重視しなければならない日本帝国としては、海外進出よりも現時点での領土の防衛を重視しなければならなかった。
 本来ならニューギニア島東部、南太平洋の島々を植民地として、少しでも国家の富を増やしたい所だったが、そのほとんどは叶わなかった。
 南太平洋各地も、イギリス、フランス、加えてドイツが領有し、日本帝国は茶茂呂諸島のより南にあるパラオ諸島、サペドラ諸島など赤道より北側の小さな島々を新たに領土に加えるだけで満足しなければならなかった。だが、東の外れにある大波島の領有は、諸外国に認めさせることができた。これでハワイとの海上交通は完全なものとなり、ハワイを事実上衛星国もしくは保護国とすることで、北太平洋の安定を確保する事に成功している。
 これらの領土確定により、大東は西太平洋、中部太平洋、そして北太平洋のほとんどを領有する事になる。

・近隣の領土

 日本帝国となったとき、江戸幕府の領域だった琉球王朝、樺太島などの領有権確定が必要だった。
 琉球の確定は台湾出兵によって清帝国との間で行われ、琉球王朝は形式的に王朝を維持したまま日本帝国に組み込まれた。
 樺太島は、19世紀中頃に有守島などからの移民によって開発が本格化し、幕末にロシア人が対岸に来る頃にはほぼ日本領として認められるようになっていた。しかし領土の確定が必要なため、1860年に対岸の沿海州を領有したロシアとの間に領土交渉が実施され、そのまま日本帝国領となっている。
 1870年代からは本格的な開拓事業が、有守北部の開発と連動して行われ、厳しい自然に苦労しながらも牧畜と組み合わせたヨーロッパ式農業が取り入れられた。

・北辺の領土

 大東時代からユーラシア大陸北東端、北米大陸の荒須加を領有しているが、日本帝国が行った作業はロシア、イギリスとの境界線の確認作業だけだった。どちらも極寒の地のため、積極的に欲しがる国が無かったためだ。
 ただし領有確定の結果、日本帝国が北極海から太平洋の出口(=シャクシャイン海峡)を占有することになるため、ロシア、イギリスは多少の難癖を付けている。
 それでも、自分たちにとっても辺境すぎる場所のため、極端に文句を言い立てることもできず、若干の嫌がらせを受けただけで領有権を確定することが出来た。当時から、大東の軍事力がある程度警戒されていたからだった。
 そして、近代化に伴う移動手段の革新的改善(蒸気船の利用)によって行きやすくなったし、鉱山などの開発が容易になったため、鉱山開発事業、漁業を軸にした開発に力が入れられた。特に近代化が急速に進んだ捕鯨は、1880年代まで盛んに行われた。

・朝鮮問題

 日本帝国成立後に少し問題となったのが、いまだ海外のことに目を向けず鎖国政策を続ける朝鮮王国に対する外交だった。
 西の日本人の多くは、強引にでも開国させて自らの清帝国、ロシアに対する防波堤にしたいと考えていた。
 だが、日本帝国を実質的に運営している大東人は、朝鮮半島に対して反応が鈍かった。極論すれば、「あんな糞まみれの土地なんてどうでもいい」というのが総合的な意見で、清帝国が保っているうちは放っておいて構わないと考えていた。
 結果、帝国政府としての朝鮮政策は後回しにされ、1875年まで朝鮮政策は手を付けられることはなかった。そしてその後も、ロシアのアジアでの南進に伴う国防という問題が首をもたげてくるまで、鈍い姿勢が続く事になる。
 一方の朝鮮王国の側も、日本が帝国を名乗り皇帝を担いでいることに激怒し、完全に交流を絶ったままだった。

・羽合王国の帝国参加

 羽合諸島には18世紀から大東の捕鯨船が進出して、その影響で18世紀末に羽合王国が成立した。また北太平洋には大東の捕鯨船が溢れているので、長い間調査以外で欧米の船がやって来る事はなかった。
 しかし大東帝国が成立して以後は、捕鯨船保護の目的で大東の軍艦が羽合に立ち寄るようになる。真の目的は、太平洋進出を果たしたアメリカへの牽制にあった。その後も羽合と大東の関係は進み、1875年には帝国政府との間に互恵同盟が結ばれる。
 そして1881年(大明14年)にカラカウア王が来日して、カイウラニ姫と大東皇帝の皇子の一人との婚姻を成立させると共に、国そのものが日本帝国へと参加し、王家と自治権だけ残して主権国家としての羽合は消滅する事になる。
 19世紀半ば以後は、イギリス、アメリカが羽合に対して領土欲を見せた行動を取ったが、パワープロジェクションをかける大東の存在があるため、目的を達することは出来なかった。

 ■立憲体制成立

 日本帝国での近代憲法制定と民主議会開催は、前政権が不平等条約を押しつけられた事も重なって、欧米と対等に渡り合うためには必要不可欠だった。そうでないと欧米諸国が、近代国家として認めないというルールと勝手に作ったからだ。故に他の近代国家に比べると、その道のりは非常に早かった。
 早くは1840年代に、大東国時代に視察調査団がヨーロッパに派遣され、そこで彼らはヨーロッパの自由主義革命の嵐を目撃した。さらに遡れば、文献や貿易商のうわさ話として18世紀末には近代国家の姿は感じられるようになっていた。
 そこに不当な開国という大きな衝撃が襲い、大東人はいち早い近代国家建設へと性急な道のりを進むことになる。
 そして一日も早い憲法制定を求めた為、民主的に作られた「民定憲法」ではなく、為政者が憲法を制定する「欽定憲法」となった。
 だが、憲法制定までには流石に時間がかかり、四半世紀近い歳月を要した。それまでは一部の人間による政治が行われ、近代国家と呼ぶには相応しくない状態に甘んじざるを得なかった。
 だが1879年に「日本帝国憲法」は制定され、翌年の1880年には、最初の衆議院選挙が実施された。
 選挙は、当時「公選」と呼ばれる選挙権を持つ者を制限した民主選挙となったが、それでもヨーロッパ標準に近い選挙だったので当時としては特に問題もなかった。そしてこれで「立法」、「行政」、「司法」の三権分立がようやく揃う事になる。
 だが問題は皆無ではなく、性急すぎる近代化に押し流されていた西日本各地では混乱が見られ、中には選挙一揆と呼ばれる反対運動まで起きたりもした。
 なお、議会は他国でも一般的な「上院」、「下院」に分けられ、特に日本帝国では二つを合わせて「統合議会」と称した。また上院は「貴族院」、下院は「庶民院」とも呼ばれた。
 上院は選挙はなく、各州、王国の代表が選ばれた。中には勅撰議員、終身議員もおり、主に貴族もしくは権利を持つ貴族と専門家達が推薦で選んだ識者や、超高額納税者が選ばれた。ただし辞退者も多く、常に一割程度が欠員していた。
 下院は民政選挙によって選ばれた議員で数が多く、初期の選挙権は「10円以上の納税」というかなり厳しい条件が設けられていたため、「金持ちによる政治だ」と国民からの反発もあった。その後選挙権は徐々に広げられ、半世紀ほど後に「普通選挙」と呼ばれる一定年齢以上の成人男子全てに選挙権を与える制度へと進歩していく事になる。

 日本帝国初の議会選挙では多数の政党が成立してたが、やはり対立軸は大東島の南北二つの地域と西日本列島の三つに分かれた。日本自由党、日本共和党、日本民主党が最も多い議席を獲得した政党になるが、日本自由党が西日本列島、日本共和党が新大東州、日本民主党が旧大東州と勢力が分かれていた。選挙活動地域の影響もあるが、それぞれの地域の民意を反映したものとも言えるだろう。この点は、アメリカに少し似ていた。だが他にも多数の政党が乱立し、日本ではイギリス、アメリカのような二大政党制ではなく多党制が続いていく事になる。

 だが議会が開かれるようになっても、議員の質の問題もあって初期の政治は一部の重鎮による政治が一般的だった。この点は制度としても置かれ、皇帝は「元老」と呼ばれる重鎮から意見を聞いて政治の参考とした。また諮問機関として「枢密院」も置かれ、大きく憲法が改定される半世紀ほどの間は、この状態が続く事になる。

 日本帝国が出来た時は軍の統帥は憲法上では皇帝にあったが、欽定憲法制定によって皇帝の輔弼する宰相が実際の権力を行使する形に改められた。
 この結果、皇帝の軍事に関する権利は憲法上なくなり、「君臨すれど統治せず」の形が憲法制定によってより強くなる。