■■インペリアリズム(1)

 (※神の視点より:円の国際的価値は大東が1円=1ドルで設定しているので、日清戦争以前だと史実の150%の価値になります。なお、史実日本の金本位制度制定後は2円=1ドルですが、こちらの世界は1円=1ドルのままです。)


■初期の日本帝国軍

 帝国主義時代において、国家の軍事力は何よりも重要だった。
 「列強(グレート・パワー)」から身を守る術がなければ、征服され植民地となるしかなかったからだ。
 日本帝国も、極論してしまえば国防の為に国家と民族の変化と革新を強引に進めたのであり、軍備の充実は常に大きな問題であり続けた。

・1880年代、90年代の財政

 日本帝国で最初の民主選挙が行われた年、国家予算は約1億7000万円(1円=1ドル)あった。このうち75%が、大東または大東の植民地からの税収だった。
 大東が先に近代化したり荒須加金山などの存在が大きいとは言え、江戸時代を脱して十数年の西日本列島の経済的な遅れを見て取ることができる。
 江戸時代の日本は、江戸時代の名残が強い税率のおかげで庶民は世界的に見ると比較的豊かだったが、国は貧しく大資本家がほぼ存在しなかったのだ。
 だからこそ帝国政府は、日本皇国から上がってくる税収を一部振り替えて、日本国内の予算に多く振り向けたさせた。その主な対象となったのが軍事費で、日本帝国全体で国家予算の20%前後だった国防予算に対して、日本皇国が負担するのは自らが出した税収の10%以下に常に抑えられていた。
 おおむね8%程度に抑えられていたので、日本帝国全体での軍事費で見た場合は、本来20%のところが19%に低下するだけに抑えられる。つまり日本帝国政府としては、西日本に大きな軍事負担を課すよりも、公共投資などを強化して経済発展させる方が国家として理に適っていた。
 こうした財政の組み方は、連邦国家だから出来ることだった。琉球や羽合には、国防の観点もあって常に中央から大量の補助金が出されたりもしている。

 10年後の1890年の国家予算は、約2億2000万円(1円=1ドル)。
 このうち軍事費は、出費が嵩んだこともあって30%近くを占めていた。軍事費の比率が拡大したのは、国家建設が一定段階を過ぎたのと、近隣情勢が徐々に逼迫しつつあったからだった。
 そして当時の日本帝国にとっての一番の懸案事項は、ロシア帝国が食指を伸ばし始めていた朝鮮半島だった。

・1880年代、90年代の陸軍

 帝国政府成立以後、近代的軍備の建設に力を入れていた日本帝国は、兵部省という統一省庁を文官組織として置いて、実働組織に陸軍と海軍を置いた。
 陸軍は近代的な軍管区制度が新たに導入され、初期の頃は国防軍としての鎮台が置かれ、特に西日本列島では長らくそのままだった。
 しかし順次、それぞれに鎮台司令部から師団司令部へと変更されていった。
 この結果、1890年までに西日本列島6個、旧大東州7個、新大東州3個の合計16個の歩兵師団が編成され、全く別組織として近衛隊と近衛師団が統廃合で整備された。
 近衛隊と近衛師団の違いは、近衛隊は宮廷や皇族の警護専門で儀典部隊も兼ね、主に東京と京都に配備されていた。
 近衛師団は全日本軍から選抜された兵士を集め、有事の際に先陣を切る日本帝国最強の部隊として編成、訓練されていた。実際に近衛師団は、歩兵旅団3個、騎兵旅団1個、砲兵旅団1個という2個師団に匹敵する贅沢で大規模な部隊編成を有していた。
 また、大東の新大東州のみではあるが、昔ながらの「戦虎」もまだまだ現役兵科として所属していた。
 「剣歯猫」の優れた知覚能力と圧倒的な格闘戦能力は、ライフル銃や大砲が主軸となった戦場でもまだまだ通用すると考えられており、騎兵偵察隊と並ぶ形で「戦虎偵察隊」として正式編入されていた。
 通常の師団は、大東島の場合は歩兵2個旅団、騎兵と砲兵が各1個連隊を基本とした(※戦虎が部隊編成されている場合は、基本的に大隊編成。)。
 対して西日本では、様々な問題から近代的な騎兵が確保できなかったので、騎兵連隊を欠いていた。このため西日本では、大東から西洋馬(スペイン馬)を大量導入した騎兵の編成が徐々にではあるが進められていた。
 また歩兵師団以外だと、大東島では騎兵旅団2個と重砲兵旅団3個が独立部隊として置かれるなど、編成の上でも東西に大きな違いがあった。
 全てを合わせると、1890年代前半の日本帝国陸軍は、歩兵師団17個、騎兵連隊16個、重砲兵旅団3個。兵員総数は、軍人・軍属合わせて平時で約30万人となる。
 1895年の総人口が約1億2000万人だったので、人口比率で見れば軍事力はかなり低くなる。国家予算に占める軍事費の割合も、それほど高くはない。
 しかし、この規模は列強として見た場合では、必要十分と言える規模にまで成長していることを意味していた。あとは後備旅団制度、戦時動員制度などを実働状態にまでもっていけるようになり、巨大な軍を支えるだけの武器弾薬の生産力を国家が持てば他国に後れをとらないことを意味していた。

 一方海軍だが、大東国時代の昔から海外領土をある程度持っていたので、日本帝国となってからもかなりの努力が傾けられていた。
 重視されたのは海外領土の警備と航路防衛で、このため巡洋艦(クルーザー)や護衛艦(フリゲート)の整備に力が入れられた。
 警備艦(コルベット)も整備されたが、小型艦は汎用性に欠ける点が多いため数は限られていた。
 戦列艦もしくは戦艦と呼ばれる大型艦艇の整備は、予算不足もあって重視されず、各時代に抑止と象徴を兼ねて数隻の戦艦(戦列艦)が保有されるに止まっていた。
 1870年代までは、古い時代を引きずった帆船型の戦列艦(蒸気駆動)を整備した。
 この頃まで、旧来の帆船としての戦列艦が現役艦艇として名を連ねていた。現在大東で記念艦として保存されている戦列艦「天翔丸」も、1870年代に建造されたものだ。
 1880年代になると、一部に近代的装いを持った8000トン級の装甲戦列艦の《蓬莱》、《扶桑》が加わる。しかし、まだ艦の中心線上に旋回式の砲塔を備えた艦ではなく、この艦までが旧時代の艦艇と言われることも多い。
 また、技術の進歩が著しい時期なので、すぐにも旧式化して姿を消している。

 1890年代前半には、念願の欧州列強と互角の能力を持つ1万トン級戦艦の《景観級》(《松島》、《橋立》、《櫻崎》、《久瀬》)と呼ばれる日本、大東各地の名勝の名を冠した砲塔を持つ近代的な戦艦が4隻保有された。
 しかしこの頃の軍艦は、建造技術の未熟と技術習得の双方の理由から、大型艦の全てが輸入艦(フランスに発注された)だった。
(※《景観級》は本来6隻整備予定で、残る2隻は《厳島》《千景》が予定艦名だったが、予算不足で4隻に減らされた。)
 さらに対清政策で、イギリスに最新鋭の戦艦が相次いで発注されたが、実戦配備されるのは1890年代後半を待たねばならなかった。
 それでも1894年には、軍人・軍属総数約5万人、艦艇総排水量20万トンと、東洋一の海軍と言われるほどにまで成長する。

 ■「日清戦争」

 「日清戦争」は、1894年(大明27年)7月から1895年(大明28年)3月にかけて行われた、主に朝鮮王国(李氏朝鮮)の主権をめぐる日本帝国と大清国(清帝国)の戦争だった。
  同時に、日本帝国が行う初めての対外戦争でもあった。
 日本帝国と清帝国の朝鮮半島を巡る対立は、既に世界的にも認識されており、ごく普通に国土と人口で圧倒する清が優位だと考えられていた。日本も1億人を越えるが、何しろ清帝国は4億人以上の人口を有していた。
 しかし帝国政府としては、様々な情報収集と研究によって、現状の清帝国軍に勝つのは十分可能と考えていた。問題はどの程度勝つか、どの程度の戦争期間が必要か、どの程度の戦費を使うか、だった。
 朝鮮半島を独立させてロシアに対する帝国の防波堤を作るのが目的とは言え、帝国主義的戦争にあって損をしては元も子もないからだ。また清帝国を滅ぼして、自らが新たな王朝を開くつもりも毛頭無かった。
 このため帝国政府は、事前の研究の末に戦費3億円、帝国軍の半分を戦争に投じることを内密に決める。
 無論、目論見通り戦争が進まない可能性も考慮して、念のため全面戦争の準備も進めた。
 世界の一般表や西日本列島の一部政治家の予想と大きく違って、日清戦争とは日本帝国にとって「勝てる戦争」、もしくは勝つことが分かっている戦争だった。

 実際、いざ戦争が始まってみると、日本軍の圧倒的優位で戦況は進んだ。
 近代的な国家と軍隊を作りあげた日本帝国に対して、清帝国の軍隊のほとんどは近代的装備で上辺を装っただけの「張り子の虎」ならぬ「鍍金(メッキ)の獅子」だった。
 清帝国については軍隊以外も旧態依然としており、そこに満州族(女真族)という異民族が建てた王朝という要素が加わり、兵士(民衆)にはまるでやる気が無かった。
 日本と戦った軍隊も、李鴻章の実質的な私兵以外は役に立たなかった。そもそも清朝軍は、近代的軍隊としての訓練がほとんど行われておらず、負け始めると簡単に瓦解して敗走した。
 特に大東が保有し続けていた「戦虎」部隊は清国兵達の恐怖の的で、欧米の観戦武官も「猛獣部隊」として注目した。
 「戦虎」の活躍は主に偵察と少数による夜間襲撃だったが、それでも「戦闘兵器」として大型の猛獣が戦闘に投入されている事は世界的にも大いに注目された。この影響で、欧米列強の一部は大東から戦虎となる「剣歯猫」とその運用ノウハウを輸入し、研究する事にもなる。
 欧州列強は、軍用犬の代わりになるかもと考えたのだ。
 そしてこれが切っ掛けとなり、世界中に長い牙を持つ無地の虎である「剣歯猫」が「サーベル・タイガー」として広く知られるようになり、世界中の動物園と一部の牧場で一般的に広く見られるようになっていく。

 そして戦闘開始当初から、日本軍が火力を中心に圧倒して戦闘を優位に進めたため、まともな戦闘はほとんど発生しなかった。
 一度だけ発生した海上戦闘(黄海海戦)も、当初日本側の巡洋艦部隊が突出したため各個撃破の好機と見て清朝艦隊が突撃するも、日本側が後詰めで戦艦部隊を投入すると逃走を開始。しかし既に前衛艦隊と絡み合う状態で逃げ切れず、清朝海軍はたった一戦で日本海軍に壊滅的打撃を受けた。
 結果、清国の惨敗で戦争の幕が降りる。

 日本帝国が使った戦費は、ほぼ予想通りの3億円。動員した軍隊も、戦時充足した常備軍の半数を少し超えた程度で収まった。
 日本にとって、あまりにも予想より容易い戦争だった。
 そして日本帝国軍が、政治的動きとして北京進撃の素振りをわざと見せた時点で、列強各国が講和の調停に乗り出す。
 清帝国の「東洋の眠れる獅子」というメッキが剥がれた以上、清帝国は列強にとっての獲物であり、弱者同士の戦争の結末として領土割譲は最低限に抑えるべきだと考えていた。また、北京を本当に攻め落として国家が崩壊したら、面倒が増えるだけだと日本を含めて誰もが分かっていた。
 だからこそイギリスなどは、清に賠償金のための借款(純金による法外なもの)を申し入れるなど根回しに余念がなかった。
 しかしここで、日本帝国政府は少しごねた。無論目的は、自分たちがより多くの戦争の果実を得るためだった。

 なお、当初の講和の争点は以下の通りだった。

一、清国は朝鮮の独立を承認。
二、清国は遼東半島・台湾・澎湖島を日本に譲渡。
三、清国は賠償金2億両を金で(一括で)支払う。
四、欧米並みの条件の対清条約を日本と結ぶ。
  新たに重慶・杭州などを開港する。

 この中で日本は領土割譲に拘ったが、それは国内で溢れだした余剰農民(労働者)の移民先が欲しかったからだ。だが日本帝国自体は、国内開発に力を入れる段階だと為政者達も考えていたので、初期条件は国内の不満を解消するための方便でもあった。
 そこでイギリスは、日本は遼東半島割譲を取り下げ、清国は賠償金一億両(純金換算で百トン)上乗せにしようと提案した。
 これで賠償金は3億両(=円)となるので、戦費も全て回収できることを意味していた。本来なら、日本としては交渉の落としどころだった。無理に領土割譲しても、列強各国からの心証が悪くなるし、最悪外交問題も抱えなければならないことを考えれば、遼東半島は取り下げるべきだったからだ。
 だが、もう少しごねても大丈夫と判断し、さらに交渉を重ねる。
 そしてギリギリまで交渉を粘り、戦争再開も考慮に入れるという強気の姿勢を示す事で、賠償金額は4億両にまで引き上げることに成功し、ここで日本帝国政府も手打ちにした。
 イギリスも日本の講和促進のため清をさらに押して、遼東半島の代わりの賠償金の大幅上乗せで対応させた。清国も父祖の地の一部を蛮族に渡すよりはと納得し、イギリスの申し出を受け入れて莫大な借金を行い、日本への賠償金を整えた。

 かくして「下関講和条約」は結ばれ、清帝国は朝鮮半島の主権を失ったばかりか、台湾島、澎湖島の割譲、戦時賠償金として日本に四億両(テール=4億円)の支払いを受け入れる講和条件にサインする。当然だが、四億両の金貨(金塊)は、イギリスの金庫から清帝国を素通りして日本帝国の金庫へと流れた。
 また、日本が新たに得た台湾島は、ほぼ未開の土地に等しい南国に準じる大地だったが、根気強い統治と開発によって徐々に発展し、移民地の一つとしても発展するが、それは随分先の話しだった。

 なお、この戦争を契機に、西日本列島でよく起きていた病気の脚気がほぼ駆逐されていた。
 西欧医学に基づく科学的な原因究明にはまだかなりの時間を要することになるが、大東では小麦、馬鈴薯を主食に組み込んでいたが、これを陸海軍全体に広く導入したのが日清戦争だった。
 日本軍将兵からは、せっかく兵隊になったのに白米(精米)が食べられないと不評だったが、それも大東での肉食文化などを合わせることで不満も回避された。
 そして軍での栄養価の高い食事の広まりが、米(精米)だけを食べることで発生しやすい脚気を駆逐していく事になる。また、多くの将兵が交わった事で、西日本列島と大東の食生活が相互交流する大きな機会ともなった。
 そして何より、初の対外戦争は西日本列島と大東島が日本帝国として自分たちを意識する大きな契機となった。

 ■戦間期

 日清戦争での勝利によって、日本帝国は初の対外戦争の勝利に沸き返ることになる。また同時に、対外戦争によって「日本民族」としての結束が大いに強まった。そして日本帝国自身は、いよいよ搾取される側から搾取する側、つまり「列強」としての名乗りを上げ始めるようになる。
 しかしその前に通過すべき道は険しかった。

 何よりも大きな問題は、当時のロシア帝国が押し進めた極東政策だった。
 遼東半島を日本が得なかった代わりに、ロシア帝国が清帝国の借款(借金)の一部肩代わりを表面的理由に遼東半島先端部を租借した。
 この時ロシアは、清国に1億ルーブルの借款を行い、その代金代わりとして遼東半島を租借。さらにザバイカル方面から満州北部を通ってウラジオストクにつながる鉄道、その中間点(ハルピン)から遼東半島(ターリエン=大連)に至る鉄道の敷設権(東清鉄道)を手に入れる。
 しかもロシアは、1891年からフランスから資本と技術、資材を導入する事でシベリア鉄道の敷設を本格的に開始しており、1897年には西シベリアを横断して1902年には部分開通の予定だった。
 その上ロシア皇帝ニコライ二世は、いかなる理由からかアジア進出に非常に乗り気だった。
 当然ながらロシアの脅威は北東アジア地域で高まりを見せ、日本の外交と軍備もロシアに対向したものへと急速にシフトした。
 日本が受けるロシアからの圧力も強くなり、清帝国から得た賠償金の80%以上が軍備に直結する重工業の拡充と臨時軍事予算に投じられた。
 1894年の国家予算が約2億5000万円(1円=1ドル)なので、国家予算の1年分以上が軍備に投じられた事になる。
 そしてこの時を中心にして2億8000万円の軍備拡張比が、10年間の間に投じられる。この数字は通常国家予算内での軍事費以外の数字であり、当然これ以外の正規の軍事費が加わる。

 1904年の国家予算が約5億9000万円(1円=1ドル)なので、10年で国家予算は二倍以上に伸びていた。産業が拡大したり人口が増えた分以上に、様々な増税が大きく影響している。一人当たり納税額も、平均10円から20円へと二倍に伸びていた。
 一人当たり所得が大きく伸びたのはもちろんなのだが、ロシアに対向するだけの軍備を整える為に、日本帝国中で増税が実施された結果だった。このため10年で国力が二倍に伸びたり、所得が向上したわけではない。
 それだけ無理をした結果でもあるのだ。
 しかし無理をしただけの甲斐はあった。

 まずは、イギリスとの間の条約改定で、1894年に平等条約を結ぶことに成功した。これは今までの近代化と日清戦争の勝利による大きな成果だった。
 続いて、清朝で起きた「義和団の乱」とそれに続く「北清事変」で、規律正しい日本軍は国際的に高い評価を得ることが出来た。
 そして1902年、主にイギリス側の理由によってだが、イギリスとの間に「日英同盟」を結ぶに至る。
 この時点で帝国政府は、これでロシアのアジア進出はある程度止まり、戦争は回避できるだろうと考えた。
 何よりイギリスという大国の存在が抑止力となるし、相手がまともに日本の国力を調べれば、普通なら強引な進出の抑制と日本との戦争回避に外交の舵を切る筈だからだ。しかも日本は、自国防衛の為に朝鮮半島が維持できれば当座は満足なのだから、ロシアが強欲をかかない限り妥協はできる筈だった。
 しかしこの時代は、白人優越主義が蔓延する時代だった。欧米諸国のほとんどは日本の本来の国力を正しく評価せず、当然ながら調べもせず、偏見に満ちた見当違いな考えしか持っていなかった。日英同盟を結んだイギリスですら、一部を除く殆どの者が自分たちが軍艦を売ったから日本軍は強い、と言う程度にしか考えていなかった。その最大の論法が、ロシアは日本の十倍の国力がある、という一般論だった。
 確かに陸軍の常備戦力を見れば、十倍近い格差があった。だがそれは、日本帝国が海軍を重視しているからに過ぎない。イギリス政府は多少違う見解を持っていたからこそ日本との同盟に踏み切ったのだが、ロシア人は日本帝国の国力をほとんど理解していなかった。兵士の規律の正しさも、臆病者だからだと誤解していたほどだ。
 その証拠に、ロシアの北東アジア侵略は年を経るごとに激化し、日本との対立も増えた。その副産物で、大韓帝国と名を改めた朝鮮半島が、自らの事大主義の対象をロシアへと変更して日本帝国から大いに失望を買うという外交の一幕も見られた。
 そして日本帝国は、ロシア帝国が自分たちの絶対防衛線に至るのは時間の問題と予測し、ロシアの膨張を止めるには軍事力しかないという結論に至り、自らの国力の限界を賭けた軍備増強、国領増進に邁進した。

 ■当時の世界情勢

 19世紀末から20世紀初頭にかけて、欧米諸国は帝国主義的戦争に明け暮れていた。
 イギリスは南アフリカで「ボーア戦争」を行って、未曾有の規模を有する世界最大の金鉱を手に入れた。しかしこの戦争での一時的な疲弊と、膨張を続けるドイツ対策のために、日本と同盟に踏み切る事になった。
(※この前後のイギリスは対ドイツ戦略として、日英同盟以外にもアメリカとの協調関係の構築、フランス、ロシアとの協商を結ぶなど非常な努力を行っている。)

 日本同様の新興国アメリカは、1898年に同じ白人国家のスペインに難癖を付けて戦争を吹っかけ、スペイン人の植民地をほとんど奪ってしまった。
 この戦争でアメリカは、日本に太平洋各地の寄港地の寄港もしくは貸し出しを申し入れ、スペイン領だったフィリピンへ攻め込もうとした。しかし日本は、戦争に対して局外中立を宣言しているため、国際常識に則ってアメリカの申し出を謝絶した。
 この背景には、古くからスペインとの交流の深かった大東人が、スペインに義理立てしたという要素が見逃せない。その証拠に、アメリカの神経を逆なでするように羽合などに日本帝国の軍艦が追加で派遣されたりした。
 アメリカは、大西洋からインド洋を経たルートでのフィリピン侵攻も考えたが、イギリスなど欧米諸国も戦争が広がることを回避するためなどの言い訳でアメリカに寄港地を貸さず、このためフィリピンはスペインの植民地として残されることになる。そしてアメリカは、自分たちに協力しなかった日本帝国への悪感情をさらに一つ記憶することになる。

 植民地分割がほぼ終わったアフリカ大陸でも、残り滓の奪い合いがハイエナ同士の争いのように行われた。
 太平洋でも、本来の先客である日本を押しのけるように、イギリスの残り滓をドイツ、アメリカが奪っていった。この結果、日本帝国とドイツの関係が悪化している。
 しかもドイツ、アメリカ共に、日本が既に領有を確定している島々にまで食指を伸ばすほどだったが、日本が対ロシア戦備として多数の艦艇を次々に編入すると、無理して北太平洋に入り込むことはなかった。
 だが、「アメリカ=スペイン戦争」でカリブの覇権を得たアメリカは、いよいよ太平洋への進出を行おうとして、日本との間に破格の金額でのハワイの売却を持ちかけるなど自らの欲望ののままに動いた。このため日本は、アメリカの申し出を謝絶すると共に、羽合への艦艇常駐や守備隊の増強などを実施した。
 この時代は、力だけが正義であり自らを守る術だったのだ。

 ■日露戦争前の軍備

 日本帝国海軍は、1896年、1902年に大規模な軍備拡張を実施する。
 だが、1904年の日露戦争開戦時に間に合ったのは、ほとんどが1896年の軍拡による部隊や艦艇だった。
 日本帝国陸軍は、師団数の倍増を計画した。現状の17個師団を戦時に後備師団以外で34個師団に増強する計画だ。
 まず西日本で3個、大東で5個増設され、これで近衛師団と合わせて「25個師団」体制が作られる。
 そして1902年に4個師団が増設され、1904年、1905年にもそれぞれ2個師団ずつが設立された。
 さらに、近衛師団を分割する形で2個師団体制とする計画も通過した。全て完成すれば、従来の二倍の34個師団となる。
 このうち1個師団は大洋師団とも言われたように、日本帝国が有する太平洋地域に移民した人々とその子孫を中心にして編成される屯田兵師団だった。中にはハワイ王国軍の連隊(実質は大隊規模)も含まれていた。
 しかしロシアとの開戦に間に合ったのは29個までで、戦中に6個師団の増設が間に合うと、予備に拘置されていた師団が順次追加で戦場に投入されている。

 歩兵師団よりも人数当たりの経費が全然違う騎兵、重砲兵の整備も精力的に行われ、合わせて砲弾備蓄についても日清戦争の教訓に従って生産体制共々大幅に増強された。戦虎もまだ現役で、戦虎偵察大隊が一部師団に属して、山間部など騎兵の使えない地形での活躍が大いに期待されていた。
 また大規模な外征、つまり大陸への出兵を想定して3〜4個師団で「軍団」という一つ上の戦略単位を作る制度も作られた。軍団は歩兵師団2〜4個、騎兵旅団1個、重砲兵旅団1個を基本編成として、大規模な外征の際には3個軍団単位で派遣し、さらにその上位の戦略単位として方面軍司令部を置く事とされた。円滑に命令を伝えるため有線通信(電信)も整備された。そしてこうした司令部組織も平時から編成、訓練されるようになり、戦争への備えを加速させた。
 加えて陸軍は、千島半島などでロシアと国境を接しているため、極寒の地での国境警備にも力を入れた。ロシア領とは狭い海峡を隔てただけの樺太島の各所にも相応の駐屯施設と備蓄、さらに一部では要塞化工事も実施された。
 こうした日本の防衛対策はロシアを刺激し、ロシアはオホーツク海沿岸地域、黒竜江河口部などにかなりの数の守備兵を送り込まざるを得なくなった。ロシアにとってあまりにも辺鄙な場所で、尚かつ交通網が不十分なため、ロシアの負担の方が格段に大きかった。

 一方帝国海軍だが、従来の清帝国に対向、凌駕する海軍ではなく、拡張著しいロシア帝国海軍に対向できる軍備が目指された。
 当然大幅な増強が必要で、従来の数倍の規模へと一気に膨張することになる。
 この軍備計画を、帝国海軍は「八八艦隊」と呼称した。
 「八八」とは、旧式戦艦8隻、新鋭戦艦8隻を中心とする艦隊の事を指し、戦艦を中心に多数の装甲巡洋艦、巡洋艦など多数の補助艦艇を整備してバランスの良い海軍の建設が目指された。
 以下が、開戦時の大型艦の概要となる。

 旧式戦艦(7隻):
 8000トン級:《蓬莱》、《扶桑》
 1万トン級:《景観級》(《松島》、《橋立》、《櫻崎》、《久瀬》)
 賠償艦:《鎮遠》

 新式戦艦(10隻):
 1万2000トン級:《敷島》《初瀬》
 1万5000トン級:《三笠》《朝日》《富士》《八島》
 1万6000トン級:《香具》《足柄》《不破》《水城》

 装甲巡洋艦(10隻):
《出雲》《磐手》《浅間》《常磐》
《八雲》《吾妻》《春日》《日進》
《射水》《阿騎》

 防護巡洋艦(24隻):
 ・《浪速》《高千穂》 ・《千代田》    ・《秋津州》
 ・《和泉》      ・《須磨》《明石》 ・《吉野》《高砂》
 ・《千歳》《笠置》  ・《新高》《対馬》 ・《音羽》
 ・《飛鳥》《斑鳩》《信楽》《藤原》《難波》《征東》
 ・《生駒》《穂高》《鈴鹿》《志摩》

 機帆船型旧式巡洋艦、護衛艦:合計16隻

 他、水雷駆逐艦、水雷艇、通報艦など多数。クリッパー型を中心に帆船も若干数所属。

 ※ほとんど艦の名称は、日本人全体の団結を図る意味も込めて、万葉集に出てくる地名から取られている。平家の時代に日本が分立するまでの事は、大東でも広く知られていた。

 見て分かるとおり、新型戦艦の増勢が著しい。同時期に装甲巡洋艦も手に入れているので、戦艦と装甲巡洋艦は毎年1隻ずつ調達していた事になる。
 反面、防護巡洋艦の新造艦率は低く、従来の巡洋艦中心の海上交通路や植民地防衛を重視した方向性は影を潜め、ロシアに対向するべく大型艦中心へと大きく転換していた。
 新旧合わせて17隻の戦艦数は、数ではロシア帝国と同数になる。
 だが、1万6000トン級とも言われる新鋭戦艦群は、1903年から04年にかけて編入されたばかりだった。
 《不破》《水城》は初の国産戦艦だったが、開戦時はまだ艤装が行われていた。このため練度が低く、開戦時はイギリス製の《三笠》に旗艦が置かれていた。
 なお、さらに2隻の戦艦を迎え入れて、《景観級》以前の戦艦を退役させた段階で、第一期の「八八艦隊」計画の完成となる。そして日露戦争中は、「八八艦隊」が完成を見ることは無かった。
 一方で、装甲巡洋艦数もロシアの現役艦8隻に対して新鋭艦ばかり10隻と優勢で、世界的に見ても数ではイギリス、フランスに次ぐ数を持っていた。
 そして戦艦17隻、装甲巡洋艦10隻という勢力は、一時的だが敵となるロシアを抜いて世界第三位の海軍に成長していた事になる。
 この艦隊を日本帝国海軍は、新型戦艦中心の第一艦隊、戦艦と装甲巡洋艦混成の第二艦隊、装甲巡洋艦のみの第三艦隊、旧式戦艦の第四艦隊、北太平洋警備の北洋艦隊、南洋警備の南洋艦隊、羽合方面の東方艦隊に分けて配備した。
 北洋艦隊と南洋艦隊、東方艦隊は防護巡洋艦数隻の艦隊なので、ほとんどが第一から第四艦隊に集中していた。また、各艦隊は基本的に大型艦6隻の編成を取っていたが、これは旗艦からの命令が十分に届くちょうどよい数字と判断されていたためだ。そして第一から第四艦隊は、全て大陸に近い日本の西部のどこかの港に配備されていた。

 なお、日本帝国海軍の当時の拠点だが、最も大きい鎮守府が旧大東州の首都東京近辺の素島対岸にある長織市に置かれていた。
 同地は古くから大東水軍の拠点であり、首都防衛と共にすぐに太平洋に出る事も出来る東の要でもあった。
 西日本列島だけでなく、実質的な日本帝国海軍最大の拠点は瀬戸内海の呉及び近在の柱島に設置され、帝国海軍の教育機関もここに集中していた。
 瀬戸内海は古来から水軍(海賊)が盛んだったため、大東側からも異論はほとんど出なかった。なにしろ大東に渡った海賊も、出自の姓名が示す通りこの辺りから移民していった者達だったからだ。
 それ以外だと、大東島南部の南都に近い加音市には、当時から大きな海軍工廠も建設されており、太平洋への進出拠点ともなっていた。加音鎮守府には、数大くの整備用ドックもあった。
 大陸に対しては、西日本列島の九州北西部の佐世保が、駐留及び出撃拠点として急速に開発・整備されつつあった。加えて、日本海側の舞鶴、ロシアに近い大湊の拠点建設も急がれた。そして佐世保の例にもあるように、最初は清帝国、次にロシアと大陸からの脅威が大きいため、海軍の主要艦艇は西日本列島の西部に集中配備される傾向が強かった。
 日本の脅威は、大陸からやって来るという事を如実に現していたと言えるだろう。
 

 ■日露戦争(開戦まで)

 「日露戦争」は、1904年2月8日から1905年9月5日まで行われた。
 戦争の原因は、基本的にロシアの北東アジアでの膨張政策のためで、加えて白人国家として有色人国家の日本帝国を「舐めて」いたからだった。
 しかしロシア皇帝のニコライ2世は、日本美術を好む知日家で、皇太子時代には来日経験もあり日本政府から盛大な歓迎も受けた。
 この事は日本帝国側もよく知っていたので、ヨーロッパ的な皇室外交を行うことで外交的な解決は可能と考えていた。実際、日本帝国の大明皇帝からはニコライ2世に親書が出され、ニコライ2世も好意的な返書をしている。
 だが「大国ロシア」が「弱小な有色人種国家」に譲る事はなく、日本帝国はやむなく自衛戦争としての戦争を決意するに至る。

 1904年の日本帝国の総人口は約1億4500万人。国家予算は約5億9000万円。総人口ではロシア帝国とほぼ同じで、国家予算ではロシアがやや大きいぐらいだった。
 ただし、ロシアの方がそれまでの富の蓄積が多いので、一概に当時の数字だけで語ることは出来ない。それでも日本がロシアに侮られるというのは、現代の視点で見るとかなりおかしい。
 もっとも、日露の格差は日本政府も正確には掴んでいなかったが、少なくとも人口が似たような事を知っていたので、短期決戦の攻勢もしくは徹底した防衛戦なら負けることはないと考えていた。何しろ、ロシアにとっての「極東」は、その名の通りロシアにとっての辺境だからだ。

 なお3倍の差があれば、戦争では防衛戦に徹しても負けることを意味し、逆に攻撃ならば三倍の戦力が必要になる。故に劣る側が攻勢を取るのなら、相手の戦争体制が十分じゃない間に一気に押すしかないと考えられた。
 つまり日本は、短期戦の戦術的勝利に自らの活路を見いだしていた。また海軍力がほぼ互角で、相手は本国と極東に戦力が二分されているという不利があるため、この点では大きな優位だと考えられていた。

 日本帝国軍の戦術は大きく二つ。
 一つは、陸と海からロシア太平洋艦隊主力の籠もる旅順港を完全に封鎖する事。もう一つは、残る全軍を短期間で満州平原に投入して、ロシア極東軍の現有野戦部隊を撃破してしまうこと。
 日本側の勝利の鍵は、いまだ完全開通していないシベリア鉄道だった。
 当時のシベリア鉄道は基本的に単線で、バイカル湖には鉄道は敷設されておらず、1905年までフェリーで渡る状況だった。
 このため日本側は、ロシアがロシアがヨーロッパから満州までの鉄道輸送力は、一ヶ月当たり陸軍師団2〜3個と見積もっていた。
 これに対して日本の海上輸送力だが、船舶保有量は当時約250万トンあった。全てが外洋航行可能ではないが、軍隊だけに限れば一ヶ月で10個師団を大陸に送り込むことが出来た。全軍展開にも三ヶ月かからない計算だ。無論、各種物資、弾薬、さらには現地での輸送作戦のための鉄道、馬匹なども送り込まないといけないので、実際は6〜7個師団程度になる。それでも全軍を4ヶ月で満州南部に展開可能で、ロシアとの輸送力の時間差こそが日本に勝利をもたらす筈だった。
 海軍は基本的に旅順艦隊の撃滅の機会を伺うも無理はせず、旅順艦隊を漸減しつつ、本国艦隊迎撃まで戦力を温存する積もりだった。旅順艦隊の撃滅が至上命題でないのは、太平洋方面の海軍力で日本側が大きく優勢なので、ロシア極東艦隊がまともに出撃してこないと予測されていたからだ。

 日本側の予定では、決戦は開戦から半年後。ロシア本国からのバルチック艦隊の到着もなく、それで戦争には実質的にケリがつく筈だった。
 そして日本帝国政府も、自らの国家財政と国力が長期の戦争に耐えられないことを十分以上に知っていたので、軍の短期決戦方針を強く支持した。
 一方ロシア軍は、海軍は太平洋艦隊がヨーロッパからの増援を待ちつつ持久し、陸軍はハルピンまで決戦を避けながら順次後退し、大幅な増援を受けた上で攻勢に転じて日本軍を殲滅する積もりだった。
 後退戦術からの反撃は、ロシア帝国のお家芸だったので必勝の戦略とすら言えた。