■■インペリアリズム(2)


 ■日露戦争(1)

 戦争は日本軍の奇襲の形で始まる。
 初戦は、海軍による旅順軍港の奇襲作戦と朝鮮中部の仁川でのロシア艦艇の撃破になる。
 旅順奇襲では、駆逐艦部隊による夜間襲撃が実施されたが、日本帝国海軍内での競争心がかなりの戦果を産んだ。
 今更言うまでもないが、日本帝国は大東と日本を中心とした連邦国家であり、外に対しての結束は相応に固いが、軍内部での対立や競争などが日常的に見られた。
 陸軍の場合は、近衛以外は出身地域別に編成されるから問題も少ないが、海軍は基本的に一つの組織に収まらざるを得なかった。それでも艦ごともしくは艦長など幹部によって、日本派、大東派に分かれる事がよく見られた。バランスよく配置した場合、トラブルが日常化しがちだったためだ。
 この時も、駆逐戦隊ごとで日本と大東に分かれた功名争いが行われ、24隻投入された駆逐艦は合計48初の魚雷を積極的な接近と機動の後に放った。
 そして在泊していた戦艦7隻のうち4隻、大型の巡洋艦2隻に命中魚雷を浴びせ、うち戦艦1隻、巡洋艦1隻には以後出撃不可能となる大損害を与えることに成功する。
 命中魚雷数は9発から11発といわれ、大きく損傷した艦には複数命中していた。これは日本側駆逐艦がかなり接近して攻撃を命中させた証拠であり、日本海軍内の巧妙争いの結果だった。
 しかし損害も少なくなく、主に旅順要塞からの砲撃によって出撃数の4分の1に当たる6隻が撃沈している。奇襲攻撃でも大きな損害が出るほど、敵に肉迫した証拠だと言えるだろう。

 開戦時の日本側の積極姿勢を前に、旅順のロシア太平洋艦隊は消極的となった。一ヶ月後には将兵からの信任が厚い艦隊司令に交代して士気が持ち直すも、日本側が行った機雷封鎖作戦で旗艦ごと司令官を失うと、またも戦意が大きく落ちて艦隊保全に入った。
 だが、この戦いの結果がロシア本国で問題視され、その後の損害もあって早くも4月末に、ロシア本国のバルチック艦隊は「第二太平洋艦隊」と改名され、アジア派遣の準備が始められる。
 当然日本側も対応せざるをえず、執拗な攻撃と封鎖を行う中でロシア軍の機雷で自らも戦艦を失う大損害を受けながらも、夏には旅順を脱出しようとした旅順艦隊との艦隊戦を行い、撃滅には至らないまでも実質的な無力化を達成する。今までの戦訓をもとに多数の艦隊で敵艦隊を包囲できるよう配置した事が、この時の日本海軍の勝利を呼び込んだ。
 それでも日本側は、常に逃げ腰のロシア太平洋艦隊を完全につぶせないことが早期に分かった為、陸軍による要塞攻略が開始されることになる。これで大東から総予備の2個師団と重砲兵旅団が大東第5軍団として旅順に派遣され、日本第三軍団と合同して遼東方面軍として旅順要塞攻略に当たることになる。
 大兵力での要塞攻略は、伝統的に攻城戦に関心の強い大東側から強く提案されたものだった。要塞戦に関心の薄い西日本の軍人達は、攻略開始前は「臆病な」大東人を小馬鹿にしていたと言われる。どちらが正しかったかは、歴史が示している通りだ。

 一方平原での陸戦だが、夏頃に大きく動いた。
 日本軍が予定通り一気に大軍を満州南部に送り込むことに成功したからで、8月までに21個師団が大陸に上陸していた。このうち3個師団は日本第三軍団として旅順の封鎖任務に就き、騎兵など支援部隊を含めた残り全てがロシア軍主力との決戦を求めて急ぎ北進した。
 北進したのは大東4個軍団、日本2個軍団の合計18個師団と独立騎兵旅団1個、重砲兵旅団2個で、朝鮮半島から進んだ日本第一軍団以外は横並びで満州平原を押し進んだ。
(※第一軍団には、戦虎偵察隊が1個大隊が臨時編入されていた。)
 8月の「遼陽会戦」では、攻める日本軍が約32万、守るロシア軍は約22万5000。数では日本軍が圧倒していたが、本来日本軍の想定では二倍の兵力差がある筈だった。
 ロシアがシベリア鉄道を片道運行するなどで続々とヨーロッパから増援を送り込んだ結果、日本側の意図は半分近く崩れていたのだ。
 しかし、戦術的に勝ち続けないと戦争そのものの前提が崩れる日本軍は、敵を包囲殲滅するため予備兵力すらほとんど持たない状態の総攻撃を実施し、ロシア側の誤断もあって日本側が勝利を掴むことになる。
 この戦いは、日本軍の猛攻の裏に豊富な予備兵力があると誤断したロシア側が後退を決意したため戦いは終息したが、攻める側の数が多かった事が日本側に幸いし、戦闘終盤の追撃戦では日本軍がかなりの戦果を挙げることができた。
 日本軍の死傷者2万5000に対して、ロシア軍は約5万の死傷者と3000名の捕虜の損害を受けた。兵器の進歩によって、今までにない大きな損害が双方で発生したが、戦いはまだ始まったばかりだった。

 ■日露戦争(2)

 旅順要塞の戦いは、近代要塞攻略戦としては世界的に見てもほぼ最初の戦闘だった。そして西日本列島の人々は、基本的に要塞というものが分かっていなかった。自分たちの歴史上で、二度の大東侵略と石山の陣ぐらいしか大規模な要塞というものに出会ったことがないからだ。そして江戸幕府の天下太平の中で、その記憶すら歴史の中に埋もれていた。
 しかし近代国家としての日本帝国陸軍は別であり、要塞攻略に必要な重砲兵、工兵の戦術と兵力を一通り揃えていた。大東人は、大きな要塞の攻略が難しいことは深く理解していた。このため、一部日本軍幕僚が進言した準備不十分な正面からの突撃は却下され、周辺部を制圧しつつ十分な作戦準備が行われることになる。
 このため最初は8月に日本側から提案された総攻撃は行われず、9月19日に旅順への最初の総攻撃が実施された。
 攻撃に参加したのは5個歩兵師団と2個重砲兵旅団で、敵陣地近くまでの塹壕開削はもちろん大規模な坑道爆破も行ったので、日本帝国陸軍としては十分な対策を施したと考えていた。しかし近代要塞に対する見積もりは甘く、5000名以上の死傷者を出して第一次総攻撃は失敗する。
 そして一定期間の旅順防衛が可能と考えたロシア政府は、旅順が保持されている間に制海権を得るべく、遂に本国艦隊(バルチック艦隊)を出撃させる。
 当然日本側は焦り、可能な限り早い旅順への総攻撃を決定する。
 さらに前回の反省から、要塞に対する詳細な調査が実施され、攻勢正面を変更して挑んだ。
 10月26日の第二次総攻撃では、「203高地」としか呼ばれていなかった場所を激戦の末に奪取し、旅順港内を視界内に収めることで戦闘の実質的な決着はついた。「203高地」は第一次総攻撃で予備的な攻撃を仕掛けたことでロシア軍がその重要性を認識したため、日本軍の予想よりもはるかに激戦となった。
 だが後は、日本軍にとって相手が降伏するまで、重砲による港内への砲撃を続けていれば良いような戦闘となる。そして「203高地」の重要性を認識したロシア軍の反撃が行われたが、兵力に優越する日本軍は同高地を守りきった。
 しかし相手は要塞なので、攻略自体の手を緩めるわけにもいかなかった。その後も一ヶ月近く要塞戦は続き、日本陸軍は想定よりもはるかに多い2万名もの将兵が死傷する。それでも旅順が孤立した要塞だからこの程度で済んだのであり、後方からの補給と援軍が十分出来たのなら、十年ほどの後の西ヨーロッパでのような悲劇を生んでいただろう。

 一方、砲弾の多くが旅順方面で消費されているため、遼陽で勝利した後の日本軍主力は前進が停滞していた。これに対してロシア軍は、多くの増援を受け取った事もあって、旅順に対する負担を軽減する事を目的とした攻勢を実施する。
 しかし、現地ロシア軍内部での政治的駆け引きも絡んでいた。
 総司令官クロパキトンは、ヨーロッパから新たに派遣されたグリッペンベルグ将軍が副将各でやって来る前に、自らの功績を作っておこうと意図したものでもあった。
 こうして起きたのが、1904年10月の「沙河会戦」だった。
 この戦いは攻めるロシア軍、守る日本軍という形で始まるが、攻められた側の日本軍が異常なほどの積極姿勢を示し、相手を逆に中央突破しようと動いたことから予想外の大激戦となった。
 投入された戦力は、ロシア軍20万に対して日本軍は後方での再編成している部隊が多かったが31万と優位にあり、しかも戦闘終盤はこの殆ど全て部隊が投入されていた。
 加えて、日本側の最も運動する場所には騎兵部隊を集成した、騎馬1万騎近い騎兵集団があった。騎兵のほとんど全てが駒城など新大東州の大東騎兵で、欧米各国からも高く評価されるほど非常に訓練が行き届き、また新時代に対応して機関銃、火砲などを豊富に持つ重武装部隊でもあった。騎兵が多数の火砲を有する理由は、当面は防衛的戦闘が行われると判断されていたからだったが、攻勢に際しても図に当たった。
 この騎兵集団の動きをロシア側も掴み、自らも世界に誇るコサック騎兵の大集団をぶつけることにした。ロシア側としては、しょせん島国の騎兵に世界最強のコサック騎兵が負けるわけがないといった心境だったと言われている。当時の世界中の意見も、ロシア側の考えを肯定している。
 しかし戦闘は、ロシア軍にとって不本意なまま続く。
 攻めかかった日本軍陣地からは機関銃と重砲の弾幕が吹き荒れて、前進どころか死傷者の山を築き上げるだけに終わる。しかもロシア軍が身動きできない状態で、日本軍はロシア軍の攻勢正面の反対側から一気に攻勢に転じてロシア軍中央を突破してしまった。騎兵部隊同士の激突でも、騎兵同士が戦う前に日本側は火力戦を展開し、一部を除いてまともな騎兵戦は出来なかった。
 結果ロシア軍は大幅な後退をせざるをえなくなり、しかも攻勢初期と戦闘終盤での日本軍の追撃で大きな損害を受けてしまう。
 ロシア軍の死傷者6万に対して、日本軍の死傷者は2万程度。戦闘後の総合的な戦力差自体も、ロシア:日本=14:29(万人)と日本側が二倍以上の圧倒的優位に立った。

 ここで日本軍は、一つの選択を迫られる。
 厳しい満州の冬を前に冬営の準備に入るか、好機に乗じて一気に奉天を攻略してそこで少し遅い冬営に入るか、だ。
 そしてこの決断を促したのが、旅順での作戦成功だった。
 日本軍は進撃続行を決意し、既に奉天前面まで下がったロシア軍に対する決戦を強要するべく前進を開始する。
 「奉天会戦」は1904年11月6日〜10日にかけて行われた。
 ロシア軍は、後退したところで2個師団の新規師団の補充を受けたが、戦力総数は13個師団、18万と劣勢だった。砲弾の量も、ロシア軍の基準から見ると不足していたし、後退してきたばかりなので陣地構築も十分では無かった。
 日本軍も1個師団の増援と補充兵を受け、さらに強力になっていた。開戦時、予備兵力で留め置かれていた近衛第二師団と最後の重砲兵旅団が、旅順への増援に連動する形で満州総軍に送り込まれ、ようやく戦列を整えることが出来たのだ。この結果日本軍は19個師団、32万の兵力を擁していた。

 戦闘開始当初は、不完全ながらも強固な野戦陣地に籠もって戦うロシア軍に対して、日本軍は完全に攻めあぐねていた。しかし数の優位を活かし、包囲行動を実施することで相手の動揺を誘った。
 この戦いでも騎兵が重要な役割を果たした。
 戦闘前から各所に放たれた騎兵を恐れたクロパキトン将軍が、自らのコサック騎兵を後方での警戒活動に使ったため、戦場にロシア軍の騎兵がほとんどいなくなっていたのだ。
 これに対して日本軍は、威力偵察任務で戦線後方をかき乱す以外では、大東師団が持つほぼ全ての騎兵を集中した1万騎近い騎兵部隊を包囲行動の先端に置いた。結果、ロシア軍が後退するよりも早く日本軍騎兵が後方遮断に成功し、慌てて後退を始めたロシア軍の約半数は日本軍に包囲されてしまう。
 この段階で慌てて戻ってきたロシア軍騎兵も戦闘加入し始めたが、日本側は包囲の輪を閉じて陣地を作り、砲列、機関銃列を敷いてロシア騎兵を寄せ付けなかった。この騎兵による戦いでは、ごく少数だが自動車も投入されており、主に輸送面だが無視できない活躍をしている。
 戦闘結果から「奉天包囲戦(ホウテン・ポケット)」とも呼ばれる戦いで、日本軍は約5万の死傷者を出すも、ロシア軍4万を死傷させ負傷者を含め9万を捕虜とした。
 ロシア軍の損害は、包囲下の死傷者の重複分を差し引いて11万にもなる。戦闘参加した全軍の半数以上を失う、ロシア軍史上記録的な惨敗だった。
 クロパキトン将軍は辛くも戦場からの離脱に成功したが、彼はその後敗戦の責任を取る形で罷免され、慌てるように派遣されたグリッペンベルグ将軍が冬の間に総司令官となる。

 ■日露戦争(3)

 「奉天会戦」後、戦える兵士の数が戦闘前の三分の一近くまで激減したロシア軍は、戦線が維持できなくなり後退を重ねた。
 その後半月ほどは、ロシア軍の後退と日本軍の追撃が続いた。しかし日本軍は、短期間で長くなった補給線の確保、維持に手間取った。当然だが、前線で弾薬などが不足する日本軍の追撃は徹底せず、新たに5000ほどの捕虜を得るも長春の前面での進撃停止を余儀なくされた。
 なお、奉天での勝利で士気が崩れたのか、11月26日旅順守備隊も日本軍に降伏した。要塞内にはまだ食料や弾薬は数ヶ月戦えるだけ残されていたが、要塞守備を行えるだけの兵力が既になかった事が降伏の最大の原因だった。
 そして旅順を攻めていた日本軍は、その後僅かな休暇をしただけで、ピストン輸送で長春前面に移動を実施した。
 そして旅順の情勢に関係なく、12月の時点での両軍の兵力差は、ロシア軍が3個師団を新たに補充しても日本軍が倍以上の優位にあった。
 そして日本帝国軍参謀本部は、この優位を見て国内で新たに2個師団の編成が済んだので2個師団の派兵を決めるが、増援を満州平原には送り込まずウスリー方面で攻勢に転じてウラジオストクを落とそうと考える。
 樺太からは、権勢目的も兼ねて海軍陸戦隊がアムール川河口部を攻めた。ロシア領を占領しなければ、ロシアが講和に傾かない可能性があるからだ。また攻める地域や地形や敵の兵力密度などを考慮して、国内待機状態だった戦虎3個大隊も投入が決められた。
 満州平原の方でも、旅順にいた2個軍団(5個師団と重砲兵旅団)がそのまま援軍に向かうので、春が来ると同時に長春で勝負を付けて一気にハルピンまで進軍する準備が行われた。
 しかし日本軍は、当面は補給線の確保と維持に非常に大きな努力を傾けざるを得ず、対してロシア軍は今までいいところの無かった騎兵を用いて、日本軍の後方を妨害しようとした。だがロシア軍の騎兵は、文字が読めない兵士が多いなど問題があり、効果的な妨害はでなかった。
 結局、冬の間は双方軍と弾薬、物資を溜め込むことに邁進し、僅かに騎兵による偵察や小規模な戦闘が断続的に続いただけだった。

 明けて1905年2月半ば、日本、ロシア双方が動き始める。
 この時満州中原には、日本軍26個師団、38万、ロシア軍16個師団、25万が展開していた。今までの戦争で30万近い兵力を失っているロシア軍としては、開戦前には予想もしなかった陸上での不利な状況だった。
 具体的に見ると、数では日本軍が五割近く優位だが、冬の間構築に努めた陣地に籠もるロシア軍は、守る側としての優位があった。また騎兵戦力ではロシア軍が二倍近い優勢だったが、機動戦を仕掛けるのが日本側なのでロシア軍の能動的な優位はあまりなかった。
 2月26日から両軍の運動が始まり、3月1日に「長春会戦」が開始される。
 戦闘は前回同様に、都市丸ごと包囲殲滅を企図する日本軍に対して、両翼の防備を厚くしたロシア軍が応戦する形となった。また戦線の両翼では延翼運動と呼ばれる前進競争になり、戦線は長く延びていった。
 必然的に両軍の兵力密度は低下したが、それが日本軍の本当に意図した事だった。3月4日、日本軍は全ての予備兵力を戦線中央より少し東寄りのロシア軍の各軍団の間に投入し、一気に中央突破を図ったのだ。
 日本陸軍は、相手に敵が同じ戦術を取ろうとしていると安心させた心理的間隙を突いて、中央突破、背面展開による敵撃滅を図ろうとしたのだった。
 日本軍の戦術は、まずは奉天同様の見せかけの包囲殲滅戦術と重なる事でロシア軍の動揺を誘う。そして頃合いを見て突如中央突破を開始した日本軍に対して、ロシア軍は戦力を中央に呼び戻して突破を防ぐか、このままの戦力で防戦を続けて包囲されることを防ぐかのジレンマに陥る。
 そして中途半端な兵力配置のまま決断を先延ばしにしてしまったロシア軍は、ついに日本軍の中緒突破を許し、ロシア極東軍の戦線は崩壊した。
 戦闘の結果日本軍は、最終的に現地ロシア軍の約半数の撃破及び捕虜とする事に成功する。包囲して捕虜としたのは3万ほどだったが、自らの損害は死傷者6万ほどだったので、相手に倍の損害を与えたこと加味すれば圧勝と言って差し支えないほどの大勝利だった。

 しかもこの時の勝利は、日本軍がまだ余力を残していた。戦果の多くも、戦闘終盤に後退するロシア軍への砲撃、砲撃で潰走状態となったロシア軍への追撃で得られたものだった。しかもロシア軍に対する追撃はその後も続き、ロシア軍を追うようにハルピン前面までの前進に成功する。
 そのままロシア軍がハルピンを失わなかったのは、ハルピン前面に既にある程度の野戦陣地の構築が行われていた事と、ヨーロッパロシアからの増援2個師団の展開が間に合ったからだった。
 また日本軍が、さらに伸びた補給線の維持が難しくなったことも大きな要因だった。日本軍はなまじ損害が少ないまま進撃を続けたことで、前線への補給が追いつかなくなっていたのだ。
 この時点で日本軍32万、ロシア軍16万と、やはりと言うべきか日本軍が二倍の戦力を擁していた。ロシア軍の欧州方面からの戦力補充は、まったく間に合わなくなっていた。だからこそ、日本軍の補給の不足は致命傷とならなかった。
 そして日本軍は、兵力の優位を活かしてロシア軍を圧迫しつつ、日本軍騎兵がハルピンを中軸とする東清鉄道の破壊や周辺の威力偵察を活発に実施し、鉄道の運行を大きく狂わせてしまう。短時間なら、運行自体を止めた事もあった。
 この結果、ハルピン前面に籠もる16万のロシア軍は、数で二倍の日本軍に半ば包囲された上に補給も満足に受けられない状態に置かれてしまう。しかも日本軍は、兵力の余裕を活かして、騎兵ばかりでなく歩兵師団の一部までが東清鉄道まで進んでいた。

 しかもこの頃、他でもロシア軍の悲報が続いた。
 日本軍が朝鮮半島北東部に新たに軍団を上陸させ、陸上からウラジオストクを包囲するべく進軍を続けていたのだ。そしてほとんどの戦力を満州中原に集中していた現地ロシア軍には、3個師団を擁する日本軍を止める手だてが無かった。
 4月までに、ハルピンからウラジオストクに伸びる東清鉄道は完全に遮断された。内陸のウスリースクの街に周辺の兵力を集めたロシア軍は、圧倒的に少ない戦力で絶望的な防衛戦を行わなくてはならないまでに追いつめられた。
 またアムール川流域の辺境では、樺太から川を遡上する形で進んできた日本軍が各地で蠢動しており、特に少数で遊撃戦を展開する戦虎部隊は、現地ロシア軍を恐怖のどん底に突き落としていた。

 そしてこの時点で、ロシア軍が進めていた一つの計画が宙に浮いてしまう。
 言わずと知れた、ロシア本国艦隊・バルチック艦隊の太平洋回航だ。
 3月半ばの時点で、まだフランス領マダガスカルの入り江に虚しくたむろしていたが、遂に行き先を失ってしまったのだ。目的地のウラジオストクはいまだ健在だが、陸から包囲された軍港に行くほど無駄な事はない。しかも旅順要塞および旅順艦隊なき今、全ロシア海軍に匹敵する日本艦隊を倒す算段も無かった。
 結局、バルチック艦隊の本国引き上げが決まった。これが「無駄な遠征」の結末だった。
 しかし戦争は続けなくてはならなかった。
 戦争の仲介役に事欠いていたからだ。