■■インペリアリズム(3)


■日露戦争(4)

 開戦前は、講和の仲介はアメリカ合衆国が担うと見られていた。
 しかしアメリカは、日本に対して法外な「仲介費」を求めたため、日本がそれを渋ると、アメリカ側が日本との交渉をうち切ったと伝えられている。

 アメリカは、講和の仲介と多額の借金の肩代わりの実質的な代償として、日本領荒須加もしくは羽合諸島もしくは先島諸島のいずれか、もしくは全ての購入を打診したのだ。
 その購入予定金額は10億ドルを超えたと言われているが、アロー戦争でのロシアの清朝に対するような行いに対して、自衛戦争を遂行中の日本が首を縦に振るはずも無かった。
 アメリカの要求を前に日本側の代表は、足元を見るにも程があると激怒したと言われる。

 そして以後の日本政府内では、アメリカに対する不信感と不快感が非常に大きくなった。
 そしてこの影響で、民間ベースで進んでいた満州利権に関する予備交渉も、ほとんどが暗礁に乗り上げてしまう。
 このためアメリカ国内では、ユダヤ系資本がアメリカ政府を強く非難するという光景も見られた。セオドア・ルーズベルトが1905年の大統領選挙で苦戦を強いられたのも、ユダヤ系財閥との軋轢が大きく影響していた。
 そしてアメリカは、国家として日本のセコンドから離れ、ロシア側セコンドのドイツ、フランスはあまり表だってロシアを支援する気もないため、本来なら1904年内に決着が見えたとも言われた戦争は1905年に入っても続いた。
 しかし戦術的な敗北が続くロシアが、ヨーロッパの本国軍の多くを満州に向かわせようと動き始めると、フランスが焦り始める。
 当時のフランスの外交戦略は、ロシアの陸軍力を利用してドイツの動きを封じることにあるが、ロシアがアジア極東にのめり込みすぎるとフランスの外交戦略が機能しなくなってしまう。
 このため「長春会戦」後、フランスがイギリスとの間に交渉を持って、日露戦争の講和会議の段取りを取り始める。
 講和会議の場所は、最初はお約束だとばかりにベルサイユ宮殿をフランスは提供するつもりだったが、ロシアが有色人種相手にしかも不利な交渉で「派手な会議」をしたくないとごねた。
 だがイギリスは、日本と同盟関係にある以上、講和会議の場所を提供する気はなかった。否、出来なかった。
 そしてフランスといえば、会議場はパリ市内の有名施設かベルサイユ宮殿しかない。そしてフランス以外に、戦争の仲介役が果たせる国は無くなっていた。
 そしてそのフランスは、ロシアに借金の返済をちらつかせるまでに焦りを強めた。
 結局、ロシアは妥協せざるをえず、世界史上で数え切れないほど開催されたパリ講和会議の一つが、日露軍のハルピンでの対陣が続く中で開催される運びとなった。

 講和会議においてロシアは、実質的な白紙講和を強硬に求めた。
 有色人種国家相手に、領土も賠償金も出すつもりがなかったからだ。しかも「若干」負けたと言っても、本国軍が負けたわけではないとも強弁した。
 だが、決戦といえる大規模な会戦で二度も壊滅的打撃を受けた上に大きく後退し続けている以上、現状でのロシアの敗北は素人目には明らかだった。
 国際市場での日露双方の戦争債権の売れ行きが、ロシアの不利を如実に物語っていた。
 しかもロシア軍には、ヨーロッパからの大規模な増援なくして今後の戦局の逆転と勝利はあり得なかった。それはフランスが望まなかった。そして仮に、セコンドからフランスが離れてしまうと、ロシアは戦費の面で大きな不安を抱えることとなる。当時のフランスは、ロシアを金融面で支えていたからだ。
 そしてロシアとしても、日本よりドイツを敵として気にしなければならないので、アジアへのこれ以上の増援に反対する国内の声も強かった。また旅順艦隊が全滅し、バルチック艦隊は道半ばで引き返すという失態を国際社会に見せたので、ロシアの敗北は目に見えた形で世界に広まっていた。
 しかもこの頃ロシアでは、裏で日本が暗躍した革命騒ぎが起きて、正直戦争継続どころではなかった。
 ロシアとしても、何らかの落としどころが必要だった。もしくは、もう一押しが必要だった。

 そこで日本軍は、来るべき講和会議をさらに有利にするため無防備な極東ロシア各地へと軍を進めた。
 まずは、ウラジオストクを完全に包囲した。6月からは北樺太を起点として、オホーツク海沿岸各地の町に軍を進め、さらにアムール川も小型艦艇を入れて遡航した。
 東シベリア東部の各地にも、騎兵を中心とした小規模な部隊がスキを突いて進んでいった。
 これらの戦いは、騎兵に長けた新大東州の兵が大活躍した。
 また、日本のみが保有する剣歯猫も活躍しており、特に辺鄙な場所、見通しの悪い場所では、剣歯猫の力がまだまだ通用する事を教えた。このため日本軍では、まだまだ剣歯猫が軍制式兵科として運用され続ける事となる。

 東清鉄道のハルピンより西側では、日露の騎兵による鉄道争奪戦が繰り広げられたが、文字通り鼬ごっこで鉄道の完全稼働はまったく望めなかった。日本軍による車両ジャックすら起きたほどだ。一時進出した日本の歩兵部隊も、ロシア軍が総力を挙げて追い払った。
 それでもロシア軍が日本軍の誘いに乗ることはなく、ロシア軍の側からの再度の決戦もあり得なかった。
 ロシア軍の増援はさらに満州北部へと送り込まれていたが、ハルピンまで到着したのは全体の半分程度、残りは日本軍の鉄道妨害が邪魔をしてハルピンに進めないでいた。ウラジオストクへの増援は、この時点ではほぼ不可能だった。
 しかも6月頃の時点では、依然として日本軍の方が数が多かった。
 このため日本軍は、決定的戦果を求める政府の決定により、あまりやりたくはなかったハルピン攻略を開始する。
 この頃満州北部まで進撃した日本軍は、2個師団の増援と多数の補充兵を受け取り、40万近くまで増強されていた。
 総人口に対して動員兵力を少な目にしていたので、いざというときの若い補充兵にはまだ事欠いていなかった。戦費の方も、欧州諸外国の反ロシア感情と、日本軍の優位が最初から続いているため、戦時国債の売れ行きも好調だった。大統領選挙でごたついているアメリカでも、ユダヤ系資本の国債購入は引き続き行われていた。
 対するロシア軍は、ハルピン市周辺に約18万、ハルピン北西部の東清鉄道沿線に9万近くいた。
 ハルピン市方面の3分の1とハルピン北西のロシア軍は、3月以後急ぎヨーロッパから送り込まれた増援部隊で、ロシア軍の最精鋭部隊を含む8個師団にも及んでいた。ドイツに対する圧力が弱まると、フランスが焦るわけである。だが、既に約40万の前線兵力を失っているロシア軍としては、もはやなりふり構っている場合ではなかった。

 なおハルピンは、市の北部を北東から南西にかけて松花江という比較的大きな河川が流れているため、日本軍が町を包囲するように進撃することは短期的には不可能だった。
 ロシア軍の方も、川が邪魔をして北西部に展開する軍が日本軍の西方から攻撃する事は無理だった。またロシア軍は、市と川を背に置いた背水の陣とも取れる形で布陣せざを得なかった。
 要するに、ハルピンでは本来どちらも戦いたく無かったのだ。
 しかし戦争の決め手は、本来は日露双方ともハルピンに置いていた。そして赤い砂の舞うハルピンは、日露の最後の決戦場となった。

 ■日露戦争(5)

 ハルピン会戦は、1905年6月13日に日本軍の一斉砲撃によって幕を開ける。
 日本軍としては、北西部のロシア軍を2個軍で牽制してつけ込ませず、ハルピン前面のロシア軍主力を残りの戦力で押しつぶして川に落とし、それが嫌なら相手に降伏を迫るという形になる。
 ハルピン外縁のロシア軍陣地は、3月までの構築とその後三ヶ月間の野戦築城によってかなり強固となっていた。
 しかし補給の不足から、セメント、鉄材など要塞化するための建設資材が足りず、さらに配備すべき重砲、火砲、機関銃が不足していた。弾薬についても、ロシア軍が望む量は得られなかった。
 ロシア本土からの増援兵力の一部は、日本軍に捕捉されないように大回りで歩いてハルピンに入った。だが、たった一本の鉄道を自由に使えない事が大きな不利を呼び込んでいた。
 またハルピン市街は、ロシアが東清鉄道を引いてから一から作った町のため、当時の都市規模は限られていた。石造りなどの強固な構造物がまだ少ないため、大軍が市街戦をすることはほぼ不可能だった。だいいち、都市を陣地化する資材も無かったし、当時は市街戦という発想そのものが無かった。ロシア軍自体も、市の郊外に布陣していた。都市部にあるのは赤十字の野戦病院ぐらいだった。
 対する日本軍も、自らの国力を越えるほど遠方に大軍が進出しているため、補給状況は厳しかった。ハルピン到達後すぐに攻撃しなかったのも、前線への補給が間に合わなかったからだ。
 逆に6月に総攻撃を開始したのも、ロシア軍の増援が日本軍の予測を越えて急すぎたからだった。
 それでも鉄道を円滑に使える日本軍の補給の方が有利で、兵器、弾薬、そして兵士の補充もロシア軍より円滑に行われた。そして日本軍が望んだ時期に、攻勢を行うことが出来た。
 
 「ハルピン会戦」の結果は、順当というか兵力差で日本軍が押し切った。
 両者激しく戦ったが、負け続きな上に背水の陣のためロシア軍全体の士気が低かった。二代目総司令官となったグリッペンベルグ将軍も既に長春の戦いで負けているので、将兵の人望を集めることは出来なかった。
 つまりロシア軍は、心理的に戦う前から日本軍に負けていたと言えるだろう。その証拠は、ロシア軍が川に押し込まれたときに如実に現れ、戦線崩壊することでロシア軍の敗北が決定した。
 戦闘は、基本的に最初に攻勢を開始してイニシアチブを握り続けた日本軍優位に進んだ。ここでは西日本列島と大東の兵士の競争心が刺激され、互いに進撃競争となったのが巧く働いた。
 ロシア軍は、当初は犠牲を厭わない日本軍の猛攻に強固な陣地に寄ることで耐えるも、増援として到着した2個軍団は外から日本軍を攻撃するも振るわず、ロシア軍全体が連携の取れないまま戦闘が推移した。
 このためハルピンに籠もるロシア軍の士気は徐々に低下し、いつ止むとも知れない日本軍の猛攻の前に志気を挫かれ戦線を崩壊させてしまう。言ってみれば、ロシア軍の自滅だった。
 特に延々と降り注ぐ重砲弾は、ロシア兵の士気を落とした。

 ハルピンは陥落し、ロシア軍の死傷者は12万人にも及び、さらに捕虜も5万人出た。これで戦争でのロシア軍の死傷者及び捕虜の総数は50万人を越え(※約半数が捕虜。戦死者は戦病死を含めて14万人程度。)、度重なる敗北と極東各地の日本軍の侵攻もあって、もはや戦争を投げ出すしかなかった。
 当時のヨーロッパ型の戦争としては、損害が大きすぎた。50万という数字は、巨大なロシア軍にとっても全軍の4分の1にも及んでいた。
 しかし日本軍も、ハルピンでは無理な攻勢のため約10万の死傷者を出したので、日本軍にとってはギリギリの勝利だった。北西部から強引に増援に出現したロシア軍への対処に成功して撃破していなければ、包囲されなくとも敗北していたのは日本軍の方だった。
 このため薄氷の勝利と言われることもある。

 そして「ハルピン会戦」でロシアは本格的に講和のテーブルに付き、日露によるベルサイユ講和会議が本格化する。
 争点は、やはり賠償金と領土割譲だった。
 度重なる敗北と極東地域の保持の難しさから、ロシア側も占領された地域の領土割譲にはある程度譲歩する姿勢を示した。
 だがそれでも、太平洋の出口となる沿海州・アムール州の割譲は論外として、ほぼ唯一の連絡路となる東清鉄道を渡す気も全くなかった。もちろんだが、賠償金を支払う気もなかった。払うぐらいならと、戦争続行の構えすら見せた。
 そうした中でロシア側が提示した割譲領土が、日本領のユーラシア大陸東端に続く東シベリアの東部地域だった。
 しかもロシアは、ベルホヤンスキー山脈以東を、「売却」という形で日本に譲る案を提示する。戦争初期の頃は、日本帝国から千島半島やアレウト海沿岸地域を奪うつもりだったが、戦争に負けた以上逆に防衛困難なところを切り捨てる格好だった。
 売却提示価格は1億5000万ルーブル。土地面積的には破格といえる価格だが、僅かな金鉱以外にタイガとトナカイしかない極寒の地と考えると妥当とは考えられなかった。それに日本には購入する金が無かったし、これ以上の借金は難しかった。
 とにかく南満州鉄道の権利譲渡、遼東半島の権利譲渡はすぐに決まり、ハルピンまでの乗り入れもロシア側は受け入れた。
 あとは領土割譲だが、日本側は売却なら多少は利用価値も出てくるレナ川流域を含めるように訴え、ロシア側は金を出さないなら、より東側のチェルスキー山脈以東としてオホーツク沿岸のマガダン市も含めないと強硬だった。時には、領土割譲なしとすら強硬論を展開した。日本側も、最悪は戦争再開とまで考えた。
 結局双方が譲歩を示し、東経135度前後にあるレナ川及び支流のアルダリア川を経てオホーツク海に出る線を新たな国境線として、レナ川は完全中立の国際河川とする事が取り決められた。売却価格は、ロシア側が最初に提示した1億ルーブル(=円)で決着した。またレナ川とアルダリア川は、日露共用の国際河川とされた。
 結果、以下のように「ベルサイユ日露講和条約」は成立する。

・レナ川以東の日本への1億ルーブルでの売却
・南満州鉄道の日本への利権譲渡(ハルピンまでの乗り入れも認める)
・南満州のロシア利権の日本への譲渡
・遼東半島の租借権の日本への委譲
・韓国の独立の保証(再保証)

 なお、日露戦争の後始末として、もう一つ国際交渉が実施された。日本と清国の交渉だ。
 この原因は、日本とロシアが戦争をした場所が、清国領内だという点にある。にも関わらず、清国は戦争当時国ではなかった。
 しかし清国は、戦争でロシアが勝利するのは確定事項と考えていたので、清国はロシアとの間に国家間の密約、「露清密約」を結んだ。
 それは日本に大きな不利益をもたらすもので、国際法上で戦争当事国でもない国が行ってはいけないことだった。
 しかし密約であり、本来なら露見する事は無かったのだが、この情報が証拠と共に日本側に漏洩してしまう。日本側の情報収集の努力の結果だとも、ロシアがより困る事を望む国が荷担した事だとも言われているが、真相は歴史の闇の中だ。
 しかし露見は事実であり、日本は調停国の役をイギリスに依頼して、清国との間に交渉を持った。そして清国は言い逃れ出来なくなり、密約を交わすも何もしていないのに、日本に対して再び敗者の側に立たされてしまう。
 この場合、清国は賠償金を支払うべきだが、1900年の「義和団事変(北清事変)」で課せられた莫大な賠償金もあって、既に金銭での賠償能力がなかった。日本に渡せる位置の鉱山や港湾の利権もなかった。
 このため領土賠償を行うことになり、日清戦争の時に日本側が求めた遼東半島全域が賠償範囲に充てられる。これは領土賠償であり、租借ではなく領土割譲とされた。加えて、隣接する遼寧省の各種日本利権も九十九年契約に変更された。
 そこまでしても日本の清国に対する怒りは収まらず、以後関係は酷く冷却化する事になる。

 ■日露戦争後

 日露戦争の日本帝国としての総決算は、動員200万、戦死者6万、負傷者12万、戦費26億円(=ドル)となる。
 うち外国からの借金6億で、加えて東シベリアの半分の代金の1億ルーブル(=ドル)が加わる。戦費のかなりは、極端な増税と国内向けの戦時国債発行で賄われたが、国家予算の4倍以上の戦費を国内だけで賄うことは出来なかった。
 戦費そのものはロシアの20億ルーブル(=円)より多いので、国力がまだ不足する日本帝国にとっては大きな負担となった戦争でもあった。
 しかしロシアの脅威が大きく低下し、そのロシアとも1906年に協商関係を結ぶことで一定の安全保障を確立した事もあり、その後日本帝国政府は大幅な軍縮を実行する。年間予算に占める軍事費の割合は、平均20%程度にまで大きく抑えられた。
 浮いた予算は、一部が減税とされるも、残りは経済の再建と国内の社会資本整備を目的とした公共投資に投入した。また軍縮で浮いた兵器、一部弾薬は近隣を中心に諸外国に売却され、借金返済の足しとした。

 軍備も大幅に削減された。
 戦時に後備師団を含めて36個師団にまで拡大した陸軍は、戦争中の活躍にも関わらず縮小が決められ、30個師団体制とされた。
 海軍は、旅順で得たロシアからの捕獲・賠償艦の改装を見送り、旧式艦の処分(一部輸出)、新造艦艇の建造遅延もしくは中止などの大幅な削減が実施されている。ロシアからの賠償艦も、半分以上がロシアに有償返還された。
 しかし、旅順戦以外で活躍の場が無かった海軍だったが、海上通商路防衛を大東政府がある程度理解していたため、極端な削減は実施されなかった。逆に戦後は、防護巡洋艦など更新が遅れていた艦艇が新造されている。また、東シベリアの半分を得た事で、同地域の防衛、つまり北極海での活動も考えなくてはならなくなり、海軍として本格的な砕氷船の整備も開始されている。
 こうした動きに軍は大きく反対したが、平時に多くの予算を消費する海軍の発言権が戦争の影響で大きく低下した事もあって、極端に大きな声にはならなかった。
 また、将軍や将校には昇進と勲章(+年金)と賛辞を送ることで対処され、さらに動員解除と共に軍の定年制度を導入する事で年寄り軍人を現役から一掃した。
 加えて、戦闘で活躍した将兵を称える為の報償と勲章制度も制定し、国民からの支持を多少なりとも得ると同時に、ずっと後方にいたエリート軍人達を敢えて冷遇する措置も取った。
 こうした階級を問わない実質を伴った報償や勲章に、主に西日本の軍人が反発を示したが、大方において支持された。これは、軍中央の権高なエリートに対する、前線将兵からの反発があったからでもあった。
 戦訓を踏まえて軍事に関する改革も実施され、参謀本部は総参謀本部として陸海軍合同で改めて常設され、軍の統帥と指揮の一本化も図られた。
 合わせて憲法も一部改正が行われた。

 ただし、戦争では陸軍大国ロシアとの戦いだけに陸軍の活躍が目立ったので、国内での陸軍の発言権が強まった。
 文官組織の兵部省もこの声を無視することが出来ず、平時における軍事費の陸海軍比率は今まで7:3と海軍が大幅に優遇されていたのを、6:4程度に変更した。しかしこれは、近隣に大きな脅威となる海軍国がないので、軍事費の削減という国家の方針にも合致したため、海軍が不満を持った以外で大きな問題はなかった。
 当時の日本に、アメリカを明確に仮想敵とする考え方は無かった。しかも多くの大陸利権を持った事で、陸軍の維持、増強は必要な措置でもあった。
 一方、戦勝で気の大きくなった国民に対しては、報道各社への厳しい指導、政府からの可能な限り正しい情報の提供である程度沈静化させた。だが、ロシアというヨーロッパの大国に勝利したことからくる「一等国日本」という思い上がりが、その後も日本の近代史に付いて回る事になる。

 ■日露戦争後の日本外交

・欧米関係

 日露戦争後日本は、「第二次日英同盟」を結んでより強固な攻守同盟として、ロシアとの間にも協商関係を結んだ。またこの戦争での勝利によって、欧米諸国のほとんどとの間の不平等条約がようやく解消される事になる。
 「一等国」とは言わないが、当時の欧米世界での「一般国」になったのは間違いない変化だった。
 しかし日本の外交が全て順調だったわけではない。
 アメリカとの関係は、日露戦争中にかなりこじれていた。さらに、戦争債務を多く購入したアメリカ資本による南満州鉄道参加を結果的に断ることとなり、その後さらに関係悪化が進んだ。
 しかも1907年には、アメリカ西海岸で日本人移民禁止へとさらに関係悪化が強まることになる。
 日本が北米大陸北西部の荒州加(アラスカ)を有している事も、アメリカとの関係をアメリカ側から悪化させる要因となった。
 だが、アメリカが1906年に世界周遊航海した戦艦16隻を用いた「グレート・ホワイト・フリート」では、日本は熱烈歓迎をして迎えており、この時代の外交関係のこじれはまだ許容範囲でもあった。それに日本にとってのアメリカは、アメリカが太平洋に面する国ではあっても、近隣の国という認識があまり無かった。
 一方のアメリカは、日本帝国が北米大陸北西部のアラスカ(荒須加)を有する事が、彼らにとっての懸念事項になっていた。
 アラスカが日本の自治州なら問題も少ないのだが、アメリカの定義だとアジアに有るはずの日本帝国も「アメリカ大陸の国家」にも該当するからだ。
 このため、アメリカの対日外交は慎重さと警戒感の双方を高まらせる事になる。

・満州

 戦後、満州南部は完全に日本の勢力圏となった。
 その象徴が清国から割譲した遼東半島と遼東半島の大連からハルピンへと伸びる南満州鉄道だった。同鉄道については、日露戦争での仮約束でアメリカ資本(ハリマン)の参加が決められていたが、日米の外交関係の悪化と戦争で得られた利権が少なかったため仮の約束は白紙撤回され、日本単独による経営が行われることになった。
 この結果、アメリカはアジア極東への進出の機会を失い、日本との間にさらに外交的な溝を作ったと言われることが多い。
 しかし、この事を問題視した政治家は当時の日米にはほとんどおらず、出資予定が民間ベースだったこともあり、アメリカ政府が政治的に反発する事もほとんど無かった。
 また、日本が鉄道運営の際に集めた資金の貸出先の大口の一つがアメリカ資本(モルガン財閥)だったのも、アメリカ側の不満をある程度は解消していた。
 ただし満州経営にアメリカ資本が参加できたのは、日本側が戦時国債を買ってくれたアメリカ資本への感謝を示したに過ぎず、アメリカ政府に何かを示した訳では無かった。

 その後満州は、日本の独力により精力的に開発されるが、当時日本各所で溢れていた人口のはけ口として、遼東半島が大きな役割を果たした。
 何しろ当時の日本は、中華地域、インド地域に次ぐ人口地帯だった。
 そして満州が、清国の長年の政策の影響で人口希薄地帯だったこともあり、中華系移民を厳しく規制した上で日本帝国各地からの農業移民が積極的に実施され、急速に拡大していく事になる。
 遼東半島が制式に日本領となった事もあり、なおさら移民が伸びた。
 日本各地からの移民は満鉄沿線でも爆発的に伸びて、戦後十年もすると南満州は日本の新天地としての地位を確立し、経済的にも大きく発展するようになる。
 一方で日本帝国政府は、中華地域からの移民、流民を強く制限するなど、満州を中華本土から切り離す向きを徐々に強めていくようになる。

・朝鮮問題

 日露戦争前にロシアになびいた朝鮮民族の事大主義に基づいた危うい動きを、日本は警戒していた。そして日露戦争の結果、朝鮮半島の生殺与奪の権は日本の手に帰することが国際的にも認められる事となった。
 日露戦争後の日本では、主に西日本が開発のための「併合」を推していたが、大東は「保護国」として帝国主義的な管理・運営以上は不要だと判断していた。
 西日本の政治家、軍人の一部は、朝鮮半島を併合して開発することで、自分たちの防波堤にする事を考えていた。大東の一部もこの意見には賛成していたが、十分開発できるまでに必要な経費と努力を考えると無駄が多すぎると判断した。
 日本人の移民や指導による農地開発も、朝鮮半島の現状を前にしては、日本の利益より不利益が大きいと考えられた。
 加えて大東人の多くは、朝鮮半島に対する感情がかなり希薄だった。

 大東人は、中華文明にこそ一定の敬意を持っているが、朝鮮半島は歴史的経緯から無視するか憎んでいる傾向が強かった。大東人は、「あんな所」や「あんな奴ら」とかなり口汚く罵る事も多かった。
 この背景には、元帝国が存在していた頃の朝鮮の大東に対する行いが、脚色をつけて語り継がれていた事が遠因になっていた。
 そして日本帝国としては、朝鮮に対して欧米列強一般程度の植民地政策を行うことを決める。
 結果、大韓帝国は、日本の保護国としての未来が決定した。
 大韓帝国と王朝、両班と呼ばれる特権階級は当人達の都合によりそのまま残されたが、それは全て朝鮮半島内の事だけだった。
 国名も「大」の文字を外させて韓王国(※対外名称は単にコリアとされた)として、皇帝も対外的には国王(キング)として登録された。
 保護される国が帝国を名乗るのは、欧米との外交上でも話しにならないからだ。
 そして日本帝国の保護国となるが、日本国内の他の国家や地域と同列に置かれることは決して無かった。
 ちなみにこの政策自体は、意外な事に中華民国からも承認されている。中華民国としては、朝鮮半島が日本の支配領域なのは気に入らないが、朝鮮半島が勝手に独立を言い立てることはもっと気にいらない事だったからだ。
 そしてコリアは日本に外交、軍事、中央税制を奪われ、さらに今まで積み上げた借金のカタとして多くの利権を日本に差し押さえられる事になる。
 日本資本で敷設した主要鉄道の全て、釜山、仁川などの重要港湾部、電信の敷設権と最優先使用権、関税権、主要な炭坑、鉱山の採掘権を日本に借金の抵当として譲渡された。さらに、釜山港、縦貫鉄道とその付属地は99年契約で租借(便宜上西暦2009年まで)された。
 この結果、朝鮮半島の経済的利益は、完全に植民地化したり併合したよりも多くが日本に奪われたと言われている。
 しかも日本からの借金は増大を続け、逆に朝鮮民族自身による近代化、国土開発は韓王国政府の伝統的な民衆の無学化政策によって低迷を続けたため、日本の主に経済的な支配は年々強まっていく事となる。