■■グレート・ウォー


■大戦前の日本帝国

 「グレート・ウォー」、「世界大戦」と呼ばれる戦いが起きた1914年頃、日本帝国は完全に世界の列強の1つに数えられていた。
 同年の国家予算は約20億円(=ドル)。軍事費は4億円を少し切る程度と、軍事費は列強の中ではアメリカに次いで低額で限られていたが、近隣諸国との力関係と距離を考慮すれば必要十分を満たしている。
 この状況を全ての日本人が納得していたわけではないが、少なくとも大東島の東京に帝都を置く日本帝国政府は、そう考えていた。

 日露戦争以後10年程の日本は、国内開発と新たに得た利権および割譲した領域の開発に多くの国費を投じており、また既に得ていた植民地での開発も加速させていた。
 建国時大東と西日本の間にあった所得格差もかなり是正され、日本帝国本国の各地にかなり均等な割合で産業の発展も促されていた。
 国内の社会資本を整備を推し進める事で、農業から土木事業に労働人口を移動させ、産業を大幅に発展させる素地を作り、さらに次の労働人口の吸収先を作ろうというのが、国家戦略上での大きな目的だった。
 まずは、当時の世界列強の大まかな統計数字を見ておこう。

 ・1913年の各国総人口 (万人)
日本:15600  
米:9200、英:6570、独:6700、仏:3960、伊:3500、露:16700

 ※本国のみ ※英国のみカナダなど白人自治領含む。英本国のみだと4500(万人)程度。

 ・1913年の一人当たり実質国民所得 (ドル)
日本:55  
米:255、英:240、独:180、仏:160、伊:90、露:45

 ・1913年の粗鋼生産力  (万トン)
日本:210  
米:2600、英:1380、独:800、仏:280、伊:90、露:450
(※ベルギー:140、オーストリア:220万)

(※神の視点より:分かりやすく言えば、総人口は史実日本の3倍、一人当たり所得は4割増、GDP、粗鋼生産力は約4倍となる。領土面積は、本国が樺太込みで約3倍の114万平方キロ、全体で500万平方キロ前半ぐらい(日本列島の約13倍)。)

 「グレート・ウォー」直前の日本帝国は、本国が温帯地域の肥沃な場所に位置するアジア国家らしく、非常に多くの人口を抱えていた。
 一方で一人当たり国民所得では、いまだロシア以外の列強とは比較にならなかった。これは、近世型農業国から出発してまだ日の浅い新興国だから仕方がない。
 だが、国家としての総生産(GDP)になると、米英独に次ぐ順位だった。無論、国力を単純にGDPで語ることはできない。そのままだと4億人以上の人口を抱える中華民国が、イタリアを越えるGDPとなってしまう。
 また日本の領域は、海外植民地を含めると凍土ばかりながらブラジルに次ぐ面積を有していた。勢力圏とする海洋地域も、北太平洋の多くを占めるなどかなり広い。
 単に数字だけだと、かなりの大国という事になる。

 そこで出てくるのが近代化の指標とされる粗鋼生産力だが、日本の数字は微妙だった。国力が不足するイタリアには大きく上回りオーストリアに匹敵するも、他の列強からは大きく下回っていた。
 しかも、ヨーロッパのように近隣に近代的な粗鋼生産が出来る国がないので、鉄は高品質の輸入品以外は自力生産していた。このため国内消費量は、列強として見るとかなり低くなる。
 一方で石炭などは、国内に大規模な露天掘りが出来る良質鉱山があるため、2億トン以上が産出され多くが国内で消費されるまでになっていた。
 鉄鉱石については自国内で生産(産出)していたし、石炭は完全自給しているのでこの点での優位は強かった。新しい資源である石油も、この頃はほとんどが照明油と潤滑油用だったが、国内の北樺太の緒端油田が既に稼働して自給していた。
 それ以外だと、主に西日本列島で銅、鉛など多く種類の鉱産資源が少量ながら産出されているので、当時は国内で不足する資源は少なかった。このため、南満州の利権として得たフーシュン炭田の開発が一部疎かになったほどだ。
 一方で、国内では人口が爆発的な増加を続けていたため、新たな入植地を欲していた。その結果が、満州での精力的な行動になるだろう。
 この頃の日本の問題は、国家債務の多さになるだろう。依然として、日露戦争時の借金返済に苦しめられていた。だからこそ、必要性の低下した軍備を可能な限り削減して、公共投資など国内開発に回して国力拡大に努力していた。
 だが、産業の未発達、国内資本の少なさ、限られた商品輸出先など帝国主義的先進国として足りないものが多すぎて、かなりの行き詰まりを見せていた。

 ■開戦頃の日本帝国軍

・陸軍: 平時定員:約37万人
 歩兵師団:30個(西日本:10個、大東:19、近衛:1)
 騎兵連隊38個(騎兵師団2個含む)、重砲兵旅団:6個

 ※戦時は当初予定で60個師団、250万人体制を予定。総動員時は限定段階でさらに二倍を予定。
 ※世界唯一の戦虎兵も健在。
 ※平時編制は、多くが定員をあえて大きく下回っている。

・海軍: 平時定員:約8万人
 弩級戦艦:8隻、準弩級戦艦:4隻、前弩級戦艦:8隻
 超弩級巡洋戦艦:4隻、準弩級巡洋戦艦:8隻
 装甲巡洋艦:10隻

 ※他、巡洋艦以下補助艦艇多数。
 ※超弩級戦艦が国内各所で建造中。

 平時の軍備は、大きくは以上のようになる。列強として見た場合、軍事力は上位に位置する。それでもヨーロッパのように、近くに競争相手となる国家がないので、日露戦争以後ヨーロッパで急激に悪化した軍備拡張競争の影響は最小限だった。
 それでも海軍は、ドイツの海軍拡張に煽られたヨーロッパの影響で、1910年代から海軍の拡張が加速している。1番艦をイギリスに発注した《金剛型》超弩級巡洋戦艦が、グレート・ウォー開戦までに半数の4隻が就役したのも、世界規模での軍拡の影響だった。弩級以上の戦艦、巡洋戦艦が合計12隻という勢力も、イギリス、ドイツに次ぐ規模だった。
 一方陸軍は、島国にも関わらず列強の中では平時としては大きな規模だった。
 海外領土への配備も、国際条約や近隣諸国との話し合いで限定していたので本国駐留も多く、使用する予算を常に限っていた。
 陸軍は、そこで浮いた経費を各部隊の重武装化に注ぎ、さらに師団1個当たりの火力増強に向けていた。また普段からの備蓄弾薬の充実と、有事の際に生産力を拡大できる軍専用施設の充実など後方支援体制の充実にも力を入れていた。
 日露戦争で多くの教訓を得た陸軍は、単に兵士の数を揃えるよりも質の向上に余念がなかった。騎兵がいっそう充実されたのも、広大な海外植民地対策よりも質の向上という方向性が強かった。もっとも、列強随一の大人口国家である日本では、歩兵を充実させていてもキリがないという向きがあった事も確かだった。
 また国際的には、ロシアを陸上で破った世界第三位の軍事国家としての評価があり、有色人種国家という偏見を廃しても有力な軍事力を持っていると考えられていた。

(※神の視点より:1910年代の史実日本との比較)

経済力・国家予算:史実の4倍(総人口は約3倍)
国防予算:国家予算全体の20%程度。(史実よは25%かそれ以上)
一人当たり所得:史実の140%(比例して人件費、生産単価も上昇)
陸海軍予算比率:陸:海=4:6(※史実=3:7)
結果、軍事費は海軍が史実の二倍、陸軍が三倍
陸海軍の規模、海軍は史実の二倍、陸軍は兵員数は五割り増しで、質が大きく向上。

 ※大東島は、日本列島の倍の人口、開発しやすい広大な平地(+農地)、それなりに豊富な鉱産資源を持つ。さらに大東島の近代化は史実日本より10年ほど早く、一部産業分野は四半世紀のアドバンテージがある。

 ※海軍の規模は史実の180%、陸軍は250%程度。予算が規模と同じではないのは、編成や装備が若干贅沢になるため。陸軍は大東のせいでやたらと騎兵が多い。
 加えて所得の違いによる給与の差もある。

 ■日本帝国の第一次世界大戦

 ヨーロッパで「第一次世界大戦」が始まった時、日本帝国はイギリスと「日英同盟」を結び、ロシアとの間にも協商関係があるため、自動的に連合軍側と考えられていた。
 東アジアでのドイツは、中華民国に多少の利権を持つだけなので、同盟軍の盟主となるドイツと日本の関係は極めて希薄だった。
 そうした状況だが、イギリスがドイツに宣戦布告したからと言っても、日英同盟では日本が参戦する義務はなかった。
 だが日本は、イギリスなど連合軍に対して、自らの連合軍参戦と近隣のドイツ勢力の攻撃を強く主張した。真意は、ヨーロッパが戦争にかまけている間に中華市場を少しでも牛耳るためで、そうした日本の思惑は列強各国も理解していた。
 当時日本帝国は、肥大化が進む国内の人口に対して、溢れた人々が移民すべき土地と、そして国内で生産した商品の市場を求めていた。日本帝国自身の人口が多く海外領土も広い方だったが、列強としての日本には足りないところが多すぎた証拠だった。
 国内発展での内需拡大も、当時は限界があった。
 連合軍も、早くも長期戦が確定した戦争に対して、日本の参戦を認め尚かつ日本に負担を与えることで、戦争の果実を得ることを認める方向に動いた。
 要するに、背に腹は代えられないという事だが、連合軍が日本に求めた事を要約すれば「取り分が欲しければ欧州で血を流せ」と言うことだった。
 そしてこの言葉を聞いて、意外という以上にやる気を出したのが日本帝国海軍だった。

 日本帝国海軍は、日露戦争での活躍を陸軍に取られて以後、「金食い虫」と後ろ指を刺され続けてきた。このため、ここで良いところを国と国民、ついでに欧州列強各国に見せてたいという思惑からだった。しかも誂え向きに、開戦からしばらくの連合軍はドイツの通商破壊艦艇を恐れていた。
 そして日本帝国海軍は、太平洋各地の自らの海上交通路を守るため、当時としてはイギリスに次ぐ陣容の海上護衛組織といえるだけの艦艇と組織を有していた。
 だがイギリスが何より求めたのが、半数が揃ったばかりの《金剛型》超弩級巡洋戦艦群だった。
 これが1914年9月の事で、日本帝国海軍はイギリスの申し出を互いの武官同士の話し合いで快諾し、日本帝国政府にも自ら積極的に働きかけた。そして日本帝国政府は、自らの参戦と中華民国地域への攻撃を連合軍各国に認めさせた。
 だが、同年11月に連合国が日本に対して1個軍集団、30個師団の派兵を求めた時は謝絶している。
 最低でも日本が保有するほぼ全ての外洋船舶に当たる300万トンの船舶が必要な上に、補給と本国からの補充兵の派遣が難しいなどが主な理由だった。また、日露戦争の影響が続いており、派兵のための国富、戦費も非常に不足していると強く説明した。
 そしてこの頃の英仏も、とにかく日本が有力な艦艇を本格的に派遣することで当面は満足しており、中途半端な陸軍を派遣されるよりはと考えていた。西部戦線は予想外の長期戦、塹壕戦となったが、まだ底なしに消耗する総力戦が開始されていなかったからだ。

 そして日本帝国海軍は、艦隊の一部をアジアでの戦闘用に残すも、主要戦力の半数以上を準備でき次第インド洋、地中海へとまずは派遣することを決める。派兵の当初予算を作り出すため、海軍は艦艇の建造予算を自ら運用費に振り向けたほどの熱の入れようだった。
 一方日本帝国陸軍は、ヨーロッパへの本格的派兵には強く反対していた。
 日本政府も、連合軍からの要請は距離や補給など様々な問題をあげて謝絶を続けていた。ヨーロッパというあまりにも遠隔地への補給や補充の困難を嫌ったからだ。
 また陸軍は、一度送り込んでしまうと何かあった時に引き戻すのが難しく、さらに西欧諸国に使い潰されると予測していた。そして日本人の多くは、他人の戦争で血を流すことを嫌がっていた。
 そうした中で、1915年初頃から順次日本帝国海軍の欧州派兵が開始される。先陣を切って派遣されたのは、インパクトを込めてイギリス生まれの《金剛型》超弩級巡洋戦艦を中核とした新鋭艦ばかりを集めた精鋭艦隊だった。
 この艦隊は、シンガポール、インド、スエズなど行く先々で大歓迎を受け、結局そのまま政治的要求によって地中海を横断して一度は英本土のポーツマスまで行くことになる。ネームシップの《金剛》にとっては里帰りだった。
 そして英本土でも盛大な歓迎を受け、ヨーロッパに日本の存在感を示した。この事に日本海軍、日本政府共に満足し、その後の海軍派兵拡大が認められるようになっている。

 日本艦隊の第一陣が英本土まで至ったのは1915年夏頃で、実のところドイツの水上通商破壊艦はほぼ駆逐された後だった。
 日本艦隊も、道中でドイツ艦の捜索に参加するなど各所で様々な役割を担い、イギリス海軍からはかなりの信頼を得ていた。そして北海方面以外でドイツ海軍が一時的に姿を消した事もあり、ヨーロッパに派遣された日本帝国艦隊の多くがそのまま北海に配備される。
 これ以後「遣欧第一艦隊」と呼称され、1916年春にはさらに新型の超弩級戦艦2隻を追加派遣した。既存の超弩級巡洋戦艦4隻、弩級戦艦8隻に加えると、ドイツ大海艦隊主力と同程度の大型艦戦力を保有する有力な艦隊となる。
 しかも揃え始めたばかりの高速巡洋艦(=軽巡洋艦)、新鋭の航海型大型駆逐艦なども続々と送り込んだため、艦隊規模が大きくなりすぎた。このため、英本国艦隊と同じスカパ・フローに配備される。
 海軍大国の面目躍如と言った所だろう。
 だがスカパ・フローでは、様々な思惑から泊地内でも僻地に置かれた。そしてイギリス艦隊の出撃が優先されるため、全力出撃の際には後から出撃することも余儀なくされた。
 この事に派遣艦隊から不満も出たが、日本は外様なので仕方ないという論法で我慢された。
 しかしこの配置の結果、1916年5月31に起きた「ユトランド半島沖海戦」では完全な後詰めとして、イギリス主力艦隊(ジェエリコー提督率いるグランド・フリート)の後ろに日本艦隊は続く事になる。
 もっとも、日本艦隊の艦隊平均速度の方が英艦隊より1ノット速かったため、英本国艦隊がドイツ大海艦隊主力と会敵した時には、終盤には戦闘加入が間に合った。
 そしてこの時ドイツ艦隊は、自らの判断ミスも重なって「死の騎行」とも呼ばれる、凄まじい数の連合軍艦隊の「T字」にまともに突っ込む事になる。
 ここで後衛となった日本艦隊は、半ば偶然に好位置を占めた事もあり、囮として突出したドイツ巡洋戦艦部隊に追い打ちと言える打撃を与えている。だが、日本艦隊は武功を焦ってしまい、イギリス艦隊主力の慎重さとは対照的に突出し、多くの戦果を引き替えにドイツ艦隊からの砲火を受け、かなりの損害を受けることにもなった。
 幸いイギリス海軍のように主力艦の爆沈は無かったが、短時間の間に4隻もの脱落艦を出した。日本艦に爆沈が無かったのは、弾薬庫またはその近辺への直撃が幸運にもなかっただけで、その代わり機関部を打ち抜かれて立ち往生した艦は多かった。
 その後夜間の追撃でも、半ば偶然にドイツ艦隊の退路と併走する形での追撃する機会を得て、深手の巡洋戦艦《ザイトリッツ》にトドメを刺すなど、またも多くの戦果を得ると共に、その対価として相応の損害を受けることになった。
 海戦の結果は、日本艦隊の奮闘もあって戦果の上でも連合軍の勝利に終わった。
 そして犠牲に似合うだけの大きな戦果を得たことに、日本帝国海軍は大いに満足し、自らの戦果を日本本国に高らかに宣伝した。
 戦果に関してはイギリスからも賞賛され、勲章が多数授与された他、戦後には感謝の言葉を記した石碑が立てられたほどだった。
 イギリスとしては、賞賛せざるを得なかったという面もあるが、結果を称えないほど狭量でも無かった証拠だ。

 かくして日本帝国海軍は、日露戦争での不遇な状況に対する雪辱に似た感情を払拭したわけだが、今度は日本帝国陸軍が焦りを強めた。
 しかしこの頃、陸での戦いは本当の意味での総力戦の度合いを深めていた為、出兵は出兵した分だけ大きな損害を受けることを意味した。このため陸軍内では、戦果を挙げて国民の目を一気に引きつけた海軍への対向を唱える声と、派兵に対して躊躇の声の双方が強くぶつかり合った。この陸軍内での論争は、結局大量派兵は物理的に不可能だとする「言い訳」を盾に、過度の損害、損失を恐れて派兵を断ることになる。
 このため、イギリス、フランス、ロシアだけでなく、遅れて参戦したイタリアや国家存亡の危機が続くベルギーやセルビアまでから派兵要請をされても、陸軍と日本政府が首を縦に振ることは無かった。
 その代わり日本政府は、依然として士気旺盛で追加派兵にも意欲を見せる海軍の増加派遣を行う。
 内訳は、さらに就役した新鋭戦艦を中核とした国内に残余する戦艦群、新兵器潜水艦に対向するための多数の大型駆逐艦を始めとする護衛艦艇群となる。
 国内で量産が進むイギリスからもらった図面から建造した護衛用の駆逐艦も、部隊が編成される側からヨーロッパに進路を向けた。
 「欧州で(敵を)呑もう」は、当時の日本海軍将兵の合い言葉だった。そしてこの派兵により、西日本と大東の海軍内での対立やわだかまりは、ほぼ解消されたと言われている。
 派兵規模は、日本帝国海軍のほぼ全力と言える状態であり、1917年までに国内に残る主要艦艇は、編成中の部隊を除けば旧式の前弩級戦艦と一部巡洋艦を除きほぼ皆無といえる状態だった。
 《金剛型》巡洋戦艦は後期型4隻の派兵も実施され、同型艦が8隻も揃った姿は諸外国を驚かせたりもした。
 一方では、日本海軍の後方支援体制の貧弱さが露呈され、給油艦、給兵艦(弾薬補給艦)、給糧艦(食料補給艦)、工作艦など多数を、当面は徴用船の改装で、戦争中盤からは急ぎ建造した艦艇で補った。そして駆逐艦など護衛艦艇の充実も重なって、日本海軍は一気に外洋海軍へと脱皮していく事になる。
 そして遣欧艦隊司令部がほとんど聯合艦隊司令部となり、規模の大きくなりすぎた艦隊司令部自体も北大西洋艦隊、地中海艦隊の二つに分けられていた。さらにシンガポールを本拠とするインド洋艦隊もあったので、まさに海外に展開する艦隊こそが聯合艦隊だった。
 また一方では、日本国内で多数の船舶が建造され、日本本土や道すがらの国や地域で多くの物資を積み込んでヨーロッパへと向かった。また、欧州からの物資が途切れた国や地域にも、日本で作った製品を満載して赴いた。

 日本の海軍重視の派兵に、陸での苦戦が続くフランスはあまりいい顔をしなかったが、イギリスは深く感謝をした。特にドイツ海軍が潜水艦を用いた無制限通商破壊戦を行ってからは、イギリスは日本を最も信頼した。戦争中、主要産業地帯を占領され物資の多くを海外に依存するようになったフランスも、海での日本の活躍には相応に感謝した。
 その証拠に、イギリス、フランス共に日本(海軍)に最新鋭の戦闘機を供与している。このおかげで日本海軍は、自らの組織に「海軍航空隊」を陸軍に先駆けて導入する事に成功している。日本海軍最初の水上機も北海で飛ばされた。
 そして海であるだけに水上機の運用も戦争中に始め、さらには日本本土において戦争中に「航空母艦」の計画までが動きだすことになる。
 また海軍は、ほとんど独自の判断で自らの海兵隊を増強し、イギリスから装備の供与を受けることで、「陸軍部隊」の西部戦線派兵を実現している。
 と言っても、規模は兵数1万名ほどで、せいぜい1個旅団程度だった。配置もほとんど後方で、小競り合い程度でしか戦うことは殆ど無かった。だが、日の丸を西部戦線ではためかせた事は、フランスからも高く評価されている。
 日本海軍の行動に日本帝国陸軍はさらに焦り、そして越権行為だとして海軍を強く非難し、ついに陸軍の派遣に大きく舵を切るかに見えた。
 実際、日本国内では派兵に向けての会議が行われ、日本帝国陸軍も派兵に向けた準備を進めるようになる。
 しかし日本政府の正式決定より早い1917年4月、ついにアメリカ合衆国が連合国側で参戦すると、遠い日本がわざわざ派兵しなくてもよいという風潮が連合軍内と日本帝国の双方で強まってしまう。日本帝国陸軍もやる気を無くし、取りあえず日本帝国海軍への政治的攻撃へと傾倒するという悪循環を産んでしまう事になる。しかも陸海軍の軋轢は、シベリア出兵にも影響を与えた。

 結局日本は、ヨーロッパなどに10万人以上の兵力を派遣するも、その全てが海軍所属の将兵となった。
 そして日本帝国海軍にとっての戦争とは、日露戦争ではなく第一次世界大戦であり、代表的海戦はユトランド沖海戦となったのだ。
 日本人にとっての第一次世界大戦も、陸での凄惨な戦いをよそに海軍の戦争と認識された。海軍と日本政府の双方が、日本国民に海軍の活躍を広く伝える事に腐心したからだ。
 とはいえ世界的には、ユトランド沖海戦での日本海軍は多くの戦果を挙げるも脇役であり、日本海軍が思っているほど知名度の向上には繋がらなかった。
 むしろ日本海軍の活躍として知られているのは、一見地味な海上護衛任務だった。戦争中盤から数も大きく増えた事もあり、能力の高さと任務への姿勢から「地中海の守護神」とまで称えられたし、ビスケー湾などでの死闘をイギリスと共に戦ったことが非常に高く評価されている。西欧沿岸各地に残る感謝の記念碑が、今日にもそれを伝えている。
 当の日本海軍内の水雷戦隊自体も、自分たちの主任務は戦艦に突撃する事ではなく、海上護衛任務と対潜水艦戦だという認識を持つようになった。

 ■日本の戦争特需

 「第一次世界大戦」は、1917年3月のロシアでの革命と1918年春以後の同盟軍諸国での戦争経済全体の崩壊によって、同年秋に唐突な幕引きを迎えた。
 アメリカの参戦が必要だったという意見もあるが、主に心理面で重要だったが物理的に必要性は低かったかもしれない。同盟各国の戦争経済の崩壊こそが、戦争終結の一番の決め手だった。
 そして日本の参戦と派兵も、ヨーロッパの戦いに大きな影響を与えることはなかった。日本帝国海軍は犠牲と苦労に見合うだけの戦果と名声を得て大いに満足したが、戦闘面での日本への影響ははっきり言ってその程度でしかなかった。

 そして日本に極めて大きな影響を与えたのが、俗に言う「戦争特需」だった。
 戦争の間(1914年度→1918年度)に輸出額は従来の4倍に跳ね上がり、11億円(=ドル)あった対外債務は、27億円の対外債権へと変化した。国の借金だけで、差し引き40億円の黒字と言うことになる。
 生産の計数的といえる拡大によって、経済の重工業化も大きく進んだ。それまで大東島の一部地域の重工業化が進んだに止まっていた日本帝国全体での工業生産も、各地での製鉄、造船、各種重工業の発達によって大きく変化した。
 工業化の指標となる粗鋼生産量は、ちょうど大型高炉(溶鉱炉)の建設が重なっていた事もあって、開戦時のほぼ三倍となる600万トンを突破。一気に世界第四位(※米英独の次)に躍り出た。また、戦争中に無数の船舶を建造したことで、こちらも一気にイギリスに次ぐ世界第二位の海運国へと躍り出た。
 当然GDP(国内総生産)も大きく伸びて、名目で3倍、実質でも150%以上の伸びを示した。GNP(国民総生産)で言えば、約160億円が500億円近くへと増大している事になる。このため急速な物価高騰も起きたが、実質所得の拡大により日本国内での中流層が格段に増加した。
 そして国民所得の向上に伴い、国家予算は約10億円(=ドル)から約30億円にまで大きな上昇を見せた。単純な国力で見れば、ドイツ、ロシアが没落したのでアメリカ、イギリスに次ぐ世界第三位へと順位を上昇した事になる。一人当たり所得は、まだ先進国とは言えなかったが、もはや「東洋の小国」の国家規模では無くなっていた。 
 戦争特需で財をなした「成金」という言葉は、当時の日本の流行語となった。

 ■中華情勢

 世界大戦でヨーロッパ列強が身動き取れない間、日本帝国は中華大陸への進出を一気に強化していた。
 近代化以後の日本の基本政策は、国内の巨大な人口と相応の広さを持つ国土を利用したアメリカやロシアのような内需拡大政策だった。だが、本国近辺以外の領土が開発、移民に向いていない為に限界があった。加えて、やはり外貨を得るための海外市場も必要だった。
 そして当時、欧州列強によって分割された世界で、まともな市場となる場所は中華大陸しかなかった。
 そして上記したように日本にも植民地はあったが、ほとんどが極寒の荒れ地か熱帯のジャングル、さらに南洋の小さな島々ばかりで、総人口に比べると国内移民を全て合わせても規模は限られていた。
 しかも、ほぼ全ての場所が資本投下できる場所としての立地条件が極めて悪かった。ほとんどの場所が、まともな鉄道を引けないような自然条件だった。
 国内でも、台湾、樺太共に規模が限られているので、条件は似たり寄ったりだった。
 このため、資本投下先としての満州が必要だという事になる。満州全域の陸地面積が日本帝国本土に匹敵するといえば、広さもある程度理解出来るだろうか。
 そして日清、日露戦争以後多くの利権を中華民国内に持つ日本帝国は、中華民国に対して「対華二十一ヶ条の要求」を出す。
 日本としては、今まで通りの帝国主義的な行動の一つに過ぎなかった。だがこれを、中華民国が世論が変わりつつあったヨーロッパに対して訴え、特に中華市場参入と日本の中華地域からの排除、排斥を狙うアメリカが目に留めて、その後の大きな国際問題へと発展していく。
 またヨーロッパ諸国は、自分たちが戦争で手一杯なうちに日本が中華市場を好き勝手している事に相応の不快感を持っていた。
 そして風向きの変化を感じた日本政府は、欧米諸国からの反発回避のために融和外交に転じ、アメリカとの間に協定を結ぶなどの行動に変化する。
 しかし日本の中華地域での動きは、その後も加速を続けていく。
 一見「持てる国」な筈だが、実際は「持たざる国」である日本としては、止まることの出来ない行動だったからだ。

 なお、日本の保護国状態にある韓王国が、ひそかに代表をパリに送り込んで日本の「非道」を訴えるも、諸外国はまったく相手にしなかった。
 それどころか、同じように保護国を持つイギリスなどは、日本に対してもっと統治を厳格にするべきだと苦言を呈する程だった。この事は、力のない者が相手にされないという帝国主義的考えが、依然として強いことを物語る事例と言えるだろう。
 そしてその後の日本は、朝鮮半島の保護国化政策を強化し、保護国よりは植民地寄りの政策へと転向する事になる。
 ただし日本帝国政府は、朝鮮半島の開発は、鉱山などごく一部を除いて積極的には行わなかった。この点は欧州諸国と同様に、植民地政策を実施した事になる。
 一部では食糧増産のための開発や、実質的な移民を行いたかったが、日本政府内で一度は決まった取り決めを覆すのが難しいという内政が求めた結果だった。

 ■パリ講和会議

 「第一次世界大戦(グレート・ウォー)」の総決算であるパリ講和会議で、日本は主要国として参加する。
 地位としては、最後に大軍を派兵したアメリカの後塵を拝することになったが、「一等国」になることを一つの目標としていた日本としては、ついにここまで上り詰めたという感慨があった。
 しかし、日本が勝利の報酬として得られたものは限られていた。
 ドイツからの賠償金は、戦争で甚大な被害を受けたヨーロッパの国々にこそ必要とされていたからだ。このためドイツが太平洋に持っていた領土が、日本への賠償とされる。この場合の対象は、東部ニューギニア、ビスマーク諸島、サモアになる。
 そしてサモアは西サモアを有するアメリカが得るので、東部ニューギニア、ビスマーク諸島が対象とされたが、この時オーストラリアが異常なほど反対した。
 オーストラリアとしては、自分たちも戦争で多くの血を流したのだから、正統な対価が欲しいという事もあった。だがそれ以上に、「野蛮な有色人種」が自分たちの側に植民地を持つことが、極めて大きな屈辱だと考えられたからだ。
 しかしイギリスとしては、ヨーロッパに有力な艦隊を派遣した日本に、それなりの分け前を与えなければならなかった。
 結果イギリスが間に入って調停を行い、ニューギニア島北東部は英連邦の形でオーストラリアが得て、日本はビスマーク諸島を得ることになる。
 この事はオーストラリアでは痛恨の出来事とされ、以後日本を敵視する外交姿勢を極端に強めると共に、ビスマーク諸島「奪回」を外交と軍備の旗印とするようになる。
 そして、大規模な海軍を派遣した日本に対する賠償としては、ビスマーク諸島だけではいかにも少なかった。一時はドイツが中華民国に持っていた権利を与えることも考えられたが、ドイツが持っていた中華利権は基本的に中華民国に返還されるので、日本には賠償金や賠償物を渡さざるを得なかった。
 このため日本は、ドイツが支払う賠償金のうち1%を得る権利を獲得する。全額が1320億マルクなので約13億マルクになるが、日本が費やした戦費とほぼ同額だった。
 だが、実際日本が受け取れたのは、戦艦や各種兵器、重工業製品などを含めても、賠償額の10%程度でしかなかった。とはいえこれは他国も同様だし、ドイツ経済の状況、政治の変化などもあるので致し方なのない事だった。
 それに日本としては、戦争特需でこれ以上ないぐらいの利益を得ていたので、極端に気にはしなかった。
 加えて戦艦や航空機、工作機械など、最新鋭のものを手に入れることが出来たので、賠償として得たものにそれなりに満足もしていた。

 ■シベリア出兵と極東共和国

 1917年3月と10月の二度の革命により、ロシアでは世界初の共産主義国家が誕生する。
 これをほとんどの列強が自らの重大な脅威と認識し、革命を失敗させるための軍事行動を実施した。このうちロシア極東地域で行われた行動が、チェコ兵の救援を表向きの理由とした「シベリア出兵」だった。
 出兵は1918年夏に各国の合意の元で始まり、主力は近在の日本が担った。何しろ日本帝国は、シベリアと国境を接するし、何より近在で一番多くの軍事力を出すことが出来た。
 政府も軍(陸軍)も積極的だった。
 アメリカも派兵には意欲を見せたが、アジアに植民地がなく派兵に手間も時間がかかるため、諸外国だけでなくアメリカ国内からも批判が出て、象徴的意味合いしかない小数を派遣したに止まっている。
 日本軍は、主力が各国と共にウラジオストクや満州へと上陸するも、別働隊が満州全土を占領。さらに樺太北部から黒竜江沿岸、東シベリアのレナ川西岸にも出兵を実施していく。
 この事に、ほぼ外野でしかないアメリカは不快感を示したが、ヨーロッパ側ではこれ以上の出兵や干渉が実施されていたので、ヨーロッパ諸国は特に気にしなかった。
 それよりも革命を阻止、もしくは影響を最小限にすることが先決だった。出兵当初は、日本の行動こそが正しかった。
 だが1918年11月にドイツが降伏すると、連合軍は出兵の大義名分を失ってしまう。
 このため各国は1920年春までに撤退するも、日本軍だけが領土拡張の未練のためシベリアに残った。
 しかも、ロシア領内での日本人虐殺事件を契機として、日本国内の世論に押されて出兵規模を拡大し、さらに北の僻地にある自らの国境線の守備兵力も大幅に増強した。
 占領地域も大幅に広げて、バイカル湖まで達した。
 日本の軍部を中心とした拡張論者が目論んだ事ではあったが、日本全体の民意の結果でもあった。
 しかし日本の積極的もしくは侵略的行動に、ロシア人達が強い警戒感を抱くこととなった。
 もっと奪いに来るのではないかと考えたのだ。
 このため、成立して間もないソヴィエト連邦ロシアは、日本の軍事力に大きく怯えて政治的な緩衝国家として極東共和国を作る。ロシア人達としては、自分達で支えられない地域を生け贄に差し出した形だ。
 領土としたのはバイカル湖以西の広大な地域で、日本とソヴィエトとして成立した地域に広がっていた。
 とはいえ、政権首班のA・M・クラスノシチョコフはソ連の関係者であり、国家自体はソ連が作った衛星国だった。また日本軍に対しては、赤軍のゲリラ、パルチザンが攻撃を仕掛けた。

 これに対して、赤軍の攻撃に対して威力を発揮したのが、古来から大東で「生物兵器」として用いられてきた剣歯猫だった。
 この時は、特に北部の寒さに強い個体が多数、選抜されて投入されていた。
 剣歯猫は、日本帝国となっても主に大東軍で用いられ、諸外国での軍用犬と似た役割で用いられた。日清戦争、日露戦争でも投入され、相応の活躍を残した。
 軍の近代化に際して、呼び方は戦虎(バトル・タイガー)から軍虎(ミリタリー・タイガー)とされ、主に小数で活動する国境警備隊や偵察部隊で、優れた感覚を利用した偵察・哨戒兵器として重宝された。ジャーマンシェパードを越える軍用動物として活用されたのだ。
 しかしそれだけに止まらず、生物としては最上級クラスに属する戦闘力の活用も忘れられておらず、小数での奇襲攻撃、乱戦、森林地帯などでの戦闘活動を前提とした訓練が実施されていた。
 共に活動する兵士も、単に剣歯猫の扱いに長けているだけでなく、高い戦闘技量が求められた。
 主な海外での活躍は日清戦争、日露戦争での偵察活動で、シベリア出兵でも本来は偵察用として投入された。
 だが、この戦いでは、対ゲリラ戦に非常に大きな威力を発揮することが確認された。特に心理面での効果は非常に大きく、日本軍が「野獣」を用いているという噂が尾ひれを付けて共産主義パルチザンに広まり、戦意を大いに萎えさせることにつながった。

 また一方で、日本はパルチザンの討伐に際して住民に対する物心両面での慰撫を最初から心がけた。この点では、何度か行われた日本人同士の戦争の教訓が歴史書から導かれたとも言われる。
 さらに日本側の事情として忘れていけないのが、陸軍が非常に積極的だった事だ。陸軍は第一次世界大戦で活躍した海軍への政治的対抗心から、政治的にシベリア出兵を利用し、そして国民から評価を受けるために力を注いだのだ。
 結局日本軍は、歩兵5個師団、騎兵2個旅団、軍虎2個大隊、総数11万もの兵力を投入する事になる。
 使った戦費も膨大だったし、一部では買い占めなどによる経済的混乱も見られたが、日本国民は概ねシベリア出兵を支持した。

 その後、シベリア各地での戦況は膠着状態に陥る。
 そして極東共和国は「ポ・ソ戦争」で大敗したソ連側の都合によって存続が決まり、白軍の生き残りの一部が日本軍の手で入り込んできた事もあって、パルチザンの勢力も減退、ソ連の支配力も低下した。
 そして何より日本が一向に引く姿勢を示さないため、ソ連は極東共和国との間に再び交渉を持ち、領土を沿海州、ウスリー州、アムール州に限る事で正式な独立を認めた。
 そして極東共和国は、日本との交渉に望んで独立の承認と日本軍の駐留を求める。またソ連との間にも非公式の会談が行われ、日本とロシア(ソ連)の新たな境界線の取り決めが実施される。
 こうして極東共和国は、実質的な宗主国がソ連から日本へと移り、日本の衛星国としての歩みを始めることとなる。
 一方のソ連は、ロシア帝国末期に手に入れた大平洋への出口を完全に失うことになってしまい、日本への恨みを大きくする事になる。
 だが一方では、日本と政府間交渉を持った事がソ連の独立を国際的に認めさせる大きな一歩ともなっているため、全く損してばかりでもなかった。

 日本は極東共和国と日本海、オホーツク海の完全な安定を手に入れることが出来たが、対価は小さくなかった。3000名の戦死者と5億円(=ドル)の借金(戦費)を費やしたからだ。
 だが極東共和国は、1922年のワシントン会議でも社会主義、共産主義を恐れる国際世論に後押しされる形で国際的に承認され、反革命派のロシア人の流入、日本人移民の増加により、その後発展していく事になる。