■■イデオロギー・エイジ(1)

 グレート・ウォー(第一次世界大戦)が終わってすぐの世界は、平和に向けての努力を行った。
 グレート・ウォーが、それだけ平和を決意させるほど衝撃的で悲惨な戦争だったからだ。だが、グレート・ウォーでは、実際のところ何も解決していなかったし、別の問題も数多く吹き出していく事になる。それは時代が求めた変化でもあった。
 いっぽう、少し後の1930年には、新たな日本帝国皇帝が大東島旧大東州中央部にある帝都東京の広大な宮殿で即位した。
 称号を「大幸」とし、新たな元号も同じ名とされた。そして人々は元号のように「幸」ある時代が到来したと思おうとしたが、動乱の時代の幕開けだった。
 なお、祭祀の王である日本(西日本列島)の裕仁天皇から帝位を承認された大幸皇帝は、まだ20代の若さだった。
 これは先の大明天皇同様に、彼の父に当たる皇太子が皇帝を継ぐ前に先に逝去してしまっていたからだ。しかも、彼よりも継承順位の高い兄も既に病没していたため、非常に若い年齢での即位となった。そして若さ故に覇気が溢れ、しかも才能を持ち合わせていた事もあり、その後の日本の歴史に大きな影響を与えていく事になる。


 ■海軍軍縮会議(1)

 「グレート・ウォー」の後、パリ講和会議に連動して二度と同じ過ちを繰り返さない事を主な目的として、数々の国際会議が開催された。
 この最大のものが「国際連盟(LN)」の設立で、日本は常任理事国に選ばれ、ついに名実共に世界の主要国となった。
 しかしその後、主に日本とアメリカとの間に新たな争いの火種になりかねない事態が進む。グレート・ウォーの引き金の一つともなった、いわゆる「建艦競争」だ。
 1920年当時、日本はイギリスに次ぐ世界第二位の海軍大国となっていた。しかも日本帝国海軍は、グレート・ウォーでの活躍を国民と政府にも認められ、「気分」が大きくなっていた。
 国内にも「世界一の海軍」への熱望が高まりを見せ、海軍予算は戦争の終わった1918年以後も年々増額していた。
 そして19世紀末頃からの日本海軍の伝統的な軍備拡張計画の基本が、「八八艦隊」だった。これは新型戦艦8隻、旧式戦艦8隻を中心にした艦隊整備計画で、新型戦艦は就役から8年以内を目指すというものだった。
 また艦隊整備計画には、装甲巡洋艦もしくは巡洋戦艦を8隻整備する目標もあった。このため、8×4の意味を込めて、「八四艦隊」もしくは「四八艦隊」と呼ぶこともある。
 なお「8」という数字は、1つの戦隊を組む際に有機的な運用が可能な数字から割り出した定数でもあり、機能的な海軍力整備を目指すという意志も込められている。

 1920年当時は、以下の数を保有していた。
   
   ・新型(1.5〜3万トン級)
 ・超弩級戦艦  :4隻
 ・超弩級巡洋戦艦:8隻

 ・弩級戦艦   :8隻

※主砲12インチ砲8門以上装備
※超弩級は主砲が12インチ砲以上

   ・旧型(1.5〜2万トン級)
 ・準弩級戦艦  :4隻
 ・準弩級巡洋戦艦:8隻

※主砲12インチ砲4門+大型副砲多数装備

   ・前世代型(1〜1.5万トン級)
 ・前弩級戦艦:8隻
 ・装甲巡洋艦:10隻

※主砲12インチ砲又は8インチ砲4門(一部例外あり)

 このうち日露戦争の主力だった前弩級戦艦、装甲巡洋艦は完全に旧式化していたので、それ以外の32隻が主力艦艇といえる。
 しかもこの頃日本は、軍民合わせて合計12基の大型建造ドックもしくは大型造船船台を保有し、平時はこのうち8基を用いて軍艦を建造していた。建造施設の多くは、日露戦争頃か第一次世界大戦中に完成したものだった。
 そして12基という数は、イギリスに匹敵する数だった。
 主な海軍の建造施設は、西から西日本の呉工廠、大東南部の加音工廠、大東北部の新谷工廠で、加音工廠には当時日本にしかない大型造船ドックと大型船台が1つずつあった。
 民間の大型船台は、西日本に2箇所、大東に6箇所あった。鉄鋼生産の中心でもある大東の大坂、南都、宍菜は造船の中心地で、民間の造船施設が数多くあった。そしてグレート・ウォーで西日本の工業化も進んでいたが、この頃はまだ大東の方が重工業が発展していた。
 そしてこれらの施設で、1920年の時点で次の「八八艦隊」を担う各種8隻の超弩級戦艦または超弩級巡洋戦艦が建造中で、さらに8隻の戦艦が既に予算通過して、うち4隻の建造が始まっていた。世界大戦の影響で施設が増えただけでなく各地の造船能力も大きく向上したので、建造速度も速かった。
 また既存の超弩級戦艦、超弩級巡洋戦艦は、全て45口径14インチ砲(もとはヴィッカーズ社製)を装備していた。これより前の艦艇(主に準弩級艦)は、排水量、速力、そして何より主砲の技術的な問題から、1920年の時点では旧式艦と考えられていた。
 このため日本海軍は、とにかく《長門型》戦艦4隻を建造すると、すぐにも次のさらに優れた戦艦群の建造を開始した。《長門型》以後の戦艦は強力な16インチ砲を搭載しており、しかも高速戦艦という新たなカテゴリーに属する優秀な設計だった。
 だがこの海軍拡張は、諸外国にとって大きな脅威と認識された。日本海軍自身としては十分身の丈にあった規模と考えていたが、それはあくまで世界大戦以前の世界標準であり、日本の国家予算や国力から見た視点であって、世界大戦後の諸外国から見れば違っていたのだ。

 なお、1920年の日本帝国の国家予算は約30億円(=ドル)で、海軍予算枠は6億円程度だった。
 陸軍、兵部省を含める軍事費全体は9億円を超えるが、国家予算に占める軍事費の割合は30%程度なので、十年ほど前のドイツとイギリスの建艦競争に比べれば財政的には十分健全で穏便なものだった。
 しかも海軍予算が急拡大したのはグレート・ウォーが始まってからで、海軍としてはようやく自分たちの望む艦艇整備を開始したという程度の認識しかなかった。何しろ日本は、太平洋の北半球の3分の2に広がる海洋国家なのだから、ある程度の規模の海軍は必然だと考えられていたからだ。

(※神の視点より:我々の世界は2円=1ドル。最も高額となった1921年の海軍予算が5億円。2〜2.5億円程度が当時の適正値。)

 日本帝国の海軍拡張は、列強、特にアメリカにとって看過できない事態だった。何しろ日本の領土は荒須加という北米大陸にまであり、しかも西海岸から4000キロ「しか」離れていない先島諸島、羽合諸島も日本領だった。
 アメリカにとって、心理的に見て日本は隣国であり十分脅威となる国なのだ。
 しかも、アメリカが次なるフロンティアとして目指すアジア、太平洋の道を全てふさぐ有色人種の国家だった。
 だからこそアメリカは、日本の「軍拡」に焦るように国力に任せて「三年計画」を予算通過させたが、急ぎすぎた計画のため肝心の戦艦、巡洋戦艦の設計および建造が遅れていた。実戦経験の蓄積も足りないため、設計や思想に古い面も見られた。
 このため1921年11月に海軍軍縮会議が開催された時、日本海軍が16インチ砲(正確には41センチ砲)を搭載した戦艦を相次いで4隻完成させていたのに対して、アメリカは途中から設計を改めて16インチ砲を搭載した戦艦1隻しか完成していなかった。
 14インチ砲搭載大型艦の比率も、日本の12隻に対して11隻と数で劣っていた。軍縮の対象となる弩級戦艦の数でも8隻と同数で、前弩級戦艦以外の全てで日本海軍に劣る状態となっていた。
 そうした状態で、アメリカの首都ワシントンで世界初の軍縮会議が開催される。ワシントンでの開催は、アメリカの焦りを現すものだった。1日でも会議開催が遅れれば、建艦競争で日本が優位に立つ可能性が十分あったからだ。

 ■海軍軍縮会議(2)

 海軍軍縮会議当初、アメリカは国力つまりこの当時はあまり概念として知られていなかった「国民総生産」の高さに応じた軍縮比率を提案する。
 言うまでもないが、日本の軍備を制限するための作戦だった。
 しかし、日本はもとよりヨーロッパ諸国からも非常に強い反発を受け、提案を退けざるを得なかった。
 このためアメリカは、多少は分かりやすい粗鋼生産力による比較も持ち出したが、やはり各国から総すかんを食らった。
 どちらの提案も、経済力、生産量に勝るアメリカが極端に有利となる条件だからだ。
 次に、既存戦艦全ての総排水量から、これからの各国比率を割り出すべきだと論陣を張った。しかしそれだと、グレート・ウォー終了時に100隻近い戦艦、巡洋戦艦を保有していたイギリスが、圧倒的比率を保有できることになる。
 このため多数の負担に耐えられないイギリスが、適正な基準とは言えないと逆に反発し、今度も日本や他のヨーロッパ諸国もイギリスの言葉に賛同した。そうして、旧式化している前弩級戦艦、装甲巡洋艦は、最初から条約対象外として議論からも除外する事になる。
 こうなると数、排水量の双方で日本がアメリカを上回っていた。

 ・1922年初頭時点の保有量(準弩級戦艦、同巡洋戦艦以上)

・英/12インチ砲戦艦(準弩級):8
   12インチ砲戦艦:9
   12インチ砲巡洋戦艦:4
   13.5インチ砲戦艦:12
   13.5インチ砲巡洋戦艦:3
   15インチ砲戦艦:10
   15インチ砲巡洋戦艦:3

・日/12インチ砲戦艦(準弩級):4
   12インチ砲巡洋戦艦(準弩級):8
   12インチ砲戦艦:8
   14インチ砲戦艦:4
   14インチ砲巡洋戦艦:8
   16インチ砲高速戦艦:4(+2)

・米/12インチ砲戦艦(準弩級):13
   12インチ砲戦艦:8
   14インチ砲戦艦:11
   16インチ砲戦艦:1

 超弩級艦で比較すると、英:日:米=28:16:12となる。しかも日本は、建造中だった《駒城型》戦艦2隻が乗員も乗り組み実質的に完成していると申請していた。状態の調査も、各国大使館立ち会いで行われた。
 しかしこれを認めると、アメリカはますます劣勢となる。そしてイギリスは、グレート・ウォーでの恩義があるので日本に対して同情的で、アメリカはその点でも不利だった。とはいえイギリスの真の意図は、日本とアメリカを対立させてより少ない総量規制を敷く事にあったと言われることが多い。
 そして同会議において日本は、現状比率を確認した上で米英と同率を求めた。アメリカは強く反対したが、日本は現状数量からの比較で妥当な数字で、尚かつ太平洋各地に多くの植民地や領土を保有するので国防上必要だとして譲らなかった。
 そしてイギリスも、日本と同様の理由で一定数の保有数を確保したかった事もあり、日本を強く非難しなかった。イギリスの弱腰にアメリカも総量では譲る姿勢を示すも、今度は16インチ砲搭載艦の保有量でねじ込んできた。
 日本の対米英同率を認める代わりに、各国間の均衡を保つべく米英も日本と同数の16インチ砲搭載艦の保有を新規建造を含めて認めるというものだった。これが通れば、アメリカは建造中の5隻を就役させて日本との戦力比率を埋めることが出来る。
 そして日本も、総量で米英同率が認められるなら認めると返答し、イギリスも合意した事から次は総量自体の話し合いとなった。ここで日本は自らの望む保有量を満たすため、最低限の数字として100%=55万トンの基準値を求める。
 これに対して米英は、自らの新規建造枠を含めて60万トンを求めた。またイギリスは、自らは16インチ砲搭載艦は4隻の建造に抑える代わりに、若干の総量超過を求めた。

 ・会議終了時の主力艦数  ※( )は新造艦就役後

・英/13.5インチ砲戦艦:4
   15インチ砲戦艦:10
   15インチ砲巡洋戦艦:3
   (16インチ砲戦艦:+4)

・日/14インチ砲戦艦:4
   14インチ砲巡洋戦艦:8
   16インチ砲高速戦艦:6

・米/12インチ砲戦艦:1
   14インチ砲戦艦:11
   16インチ砲戦艦:1(16インチ砲戦艦:+5)

 この結果、イギリスは数では世界最大だが艦ごとの大きさでは日米に劣ることになる。日本は、先に16インチ砲搭載艦を浮かべた為、他国よりも若干旧式艦を保有せざるを得なくなった。
 この事もあって、その後の日本海軍は戦艦の近代改装に熱心となっている。
 なお新造艦就役まで、米英は数に応じた既存戦艦の保有を認められているので、瞬間的に日本が世界最大最強の海軍を保有することになった。加えて日本は、全体の半数が高速の巡洋戦艦で、さらに新鋭戦艦の全てが高速戦艦だった。
 このため低速の戦艦ばかりのアメリカは、日本海軍に対して極めて強い劣等感を感じることになる。アメリカは、建造中の2隻の巡洋戦艦を除いて、どれも速度性能で大きく劣っているからだ。
 総量以外だと、個艦制限は基準排水量4万トン、主砲16インチ砲が上限とされた。さらに改装は就役から5年以内の禁止、それ以後の近代改装でも排水量3000トンまでとされた。
 戦艦以外にも航空母艦の保有規制も定められ、13万5000トンを基本として戦艦と同じ比率の保有枠とされ、建造中の戦艦、巡洋戦艦からの改装も認められた。
 それ以外にも重巡洋艦、軽巡洋艦の定義が行われるなど、軍縮規定は多岐に渡った。

 そして日本の《駒城》《土佐》、《長門》《摘麦》《陸奥》《征東》、アメリカの《メリーランド》《ウェストヴァージニア》《コロラド》《ワシントン》《コンステレーション》《コンスティテューション》、イギリスの《ネルソン》《ロドネー》《アンソン》《ハウ》の16隻の16インチ砲搭載戦艦を「グレート・サミット」と呼ぶ事になる。もしくはやや小型の《コロラド級》4隻を抜いて「マジェスティック12」と呼んだ。
 後者の場合、どの戦艦も排水量4万トン、16インチ砲装備、最高速力28ノット以上の高速戦艦だった。さらに日本の《駒城型》、アメリカの《コンステレーション級》、イギリスの《フッド》は特例で条約超過となる。また日本は未完成2隻(《赤城》《天城》、後に《天城》が《加賀》に変更)、アメリカは《コンステレーション級》の事実上の前クラスとなる《レキシントン級》を条約に従い大型空母として完成させている。

(※《コンステレーション級》は計画では43,200トンだったが、建造初期だった事と条約超過が大きすぎるとして、排水量1500トン分を削減して就役している。このため当初予定よりもさらに軽防御構造に設計変更されている。)

 そして海軍軍縮以外でも様々な会議が行われたが、その中で太平洋の安全保障と日英同盟が議題に上った。太平洋の安全保障では、太平洋各地の軍備を制限することで軍事的緊張を回避しようと言う、アメリカの提案だった。
 しかし、太平洋に面するもそれ以外で領土を持たないアメリカにひどく有利な条件のため、各国、とりわけ北太平洋全域に領土を持つ日本が強く反発した。
 日本の国土防衛の抑制が目的なのがあからさまなので、日本はアメリカが西海岸も制限対象に一部含めるのならと、逆に条件を付けた。これに対してアメリカは内政干渉に等しいと激高し、結局話しは流れてしまいアメリカと日本の不仲を印象づけるだけに終わった。
 一方の日英同盟だが、日本は同盟の存続は特に問題ないという見解を示し、同盟存続に賛成していた。しかし世界的にも二国間同盟は問題が発生しやすいと認識されたため、ここに20年間続いた日英同盟は解消される事となった。
 代わりに米英仏日によって「太平洋条約」が結ばれたが、ほとんど実行力のない紳士同盟以下の存在だった。

 ちなみに、この会議でどの国が利益を得たのかという議論では、様々な議論が行われた。
 日本が米英同率を得た事、会議時点での総量で負けていたアメリカが同率に持ち込んだ事、建艦競争の体力がないイギリスが日米を押さえ込んだ事、このどれに最大の利益があったのかという議論だ。
 議論は専門家の間でいまだ続いているが、やはり白人優位の時勢にあって有色人種国家である日本がトップと肩を並べたことをもって、この時代における勝者と言えるだろう。

 なお日本帝国海軍が所謂「ワシントン体制」で保有した戦艦は以下の通りとなる。

《駒城型》戦艦
同型艦:《駒城》《土佐》(《凍陰》《加賀》)
基準排水量:41,200t
主砲:16インチ2×5・最高速力:29.5ノット
※( )は未完成艦。

《長門型》戦艦
同型艦:《長門》《摘麦》《陸奥》《征東》
基準排水量:36,720t・主砲:16インチ2×4
最高速力:27.5ノット

《伊勢型》戦艦
同型艦:《伊勢》《陸南》《日向》《茶茂呂》
基準排水量:32,900t
主砲:14インチ2×6・最高速力:25ノット

《金剛型》巡洋戦艦(戦艦)
同型艦:《金剛》《比叡》《榛名》《霧島》
    《翡翠》《新高》《龍牙》《伊蔵》
基準排水量:26,330t(後期型は26,760t)
主砲:14インチ2×4・最高速力:27.5ノット

 ■日本経済の発展と停滞

 「グレート・ウォー」による戦争特需で大きく発展した日本経済は、ようやく「東西格差」とも呼ばれていた大東島と西日本列島の経済、産業の格差が大きく狭まった。
 日本の近代的な経済発展は、先に産業革命を開始して基本的な「国力」に勝る大東が先駆けていた。さらに大東島には世界有数の有望な炭田地帯があり、20世紀前半では十分な埋蔵量を持つ良質な鉄鉱石鉱山もあった。銅など他の金属資源は日本列島にあったが、銅以外は量が限られていたので、20世紀が四半世紀を過ぎる頃には輸入が中心となっていた。
 そうしたアンバランスの中にあっても、西日本列島の方が進出先となる大陸に近いという立地条件から、開発には力が入れられていた。軍事拠点も西日本列島の方が多かった。
 それでも大東との基本的な差は埋めがたかったのだが、それが未曾有と表現できる戦争特需によって大きく是正される事となった。
 この事は、日本国内での東西対立回避に大きく貢献していると言われることが多い。もし西日本列島と大東で格差が開いたままだった場合、最悪内戦に突入していたという予測があったほどだ。
 そして1923年9月に起きた関東大震災以後、江戸時代終焉以後低迷が続いていた江戸を中心とする関東一帯は、政府による積極的な財政投資と極めて大規模な再開発の結果、わずか10年ほどで見違えるほどの発展を遂げ、その後は東西日本の中継点としても大いに発展する事になる。

 しかしグレート・ウォーが終わってしまうと、日本経済は一転して大きな不況へと突入する。
 日本帝国政府は、国内開発を促進する積極財政と公共投資の増大によって事態打開を図るも、初期の頃は事態を甘く見ていたため徹底さに欠けていた。
 徹底化が図られるのは関東大震災以後と大恐慌以後の二段階あったが、1920年代半ば以後からの国家資本主義的な政策は、結果として「財閥」と呼ばれる一部の大企業集団に資本が集中していった。
 また、関東大震災の被災地となった江戸の大規模復興計画と極東各地への進出によって、尚更財閥に多くが集中する形が形成されることとなった。
 なお、日本帝国内の財閥として代表的なのは、西日本の三井、住友、安田、大東の五芒、中川、剣菱、神羅、倉峰の合計8つで、合わせて「八大財閥」と呼ばれた。
 次点クラスの財閥を加えて十二財閥という括りが使われることがあるが、やはり八大財閥の方が圧倒的に使用頻度も高かった。
 それだけ力が強大だったからだ。
 そして政府による公共投資重視政策と財閥への資本集中などから、1920年代、30年代の日本は経済面で全体主義の温床となる国家社会主義もしくは国家資本主義に急速に傾いたと言われる事が多い。
 だが、当時の日本経済は、まだ先進国には少しばかり及んでいなかった。人口が適度に多いため国としての総生産量、国家予算は大きくなったが、技術や概念で足りないものも非常に多かった。
 だからこそ、長期の不況を乗り切るためにも一極集中の流れも必要だったと言えるだろう。

 なお、経済政策の一つとして金本位制に基づく「金解禁」が取り上げられることが多いが、近代国家建設以前から日本は世界有数の産金国だった。
 20世紀に入るまでは北米大陸西端の荒須加の金鉱があり、日露戦争以後ロシアから獲得した領域にも有望な金鉱が見つかって、1910年代から大規模な機械力を導入して本格的な操業が開始されていた。
 どちらも極寒の地にあるので開発コストはかかったが、コストに似合うだけの金を日本帝国銀行の国庫に溜め込む一助となっていた。だからと言うわけではないが、日本の金解禁は列強に並ぶ1927年に実施されている。アメリカの好景気が極大に達しつつあった頃だ。
 金解禁で他国と同調できたのは、日本帝国内の経済規模が比較的大きく、多少なりとも余裕があったからだった。そして再び金を禁輸したのも大恐慌が起きた1929年11月と早く、国際的な金融感覚は十分持っていたと言えるだろう。

 ■極東共和国

 極東共和国は、1920年に成立し1922年に独立した。
 当初はソビエト連邦ロシア(ソ連)の属国もしくは共和国の一つのような状態だったが、当時の日ソの国力差と日本の執拗な干渉が、ソ連に極東地域を手放させる事となる。
 独立したばかりのポーランドに大敗した事、建国後の経済が全くうまくいかない事など、ソ連が手放す理由が多々あったからだ。
 ソ連が後押しした首相のA・M・クラスノシチョコフも、すぐにも現実主義路線を取って日本を自らの新たな宗主国と認めた。共産党は合法とされたが、その後乱立した政党の中に埋もれてしまい、すぐにも野党へと転落した。
 ロシア帝国時代を支持する亡命者が多いため、共産主義、社会主義が支持されなかった影響だった。
 その後、日本を事実上の宗主国として、日本からの大量の投資が実施され、ロシア帝国時代よりも開発が促進される事になる。
 1924年には、早くも日本からの農業移民が開始され、1926年には日極互恵条約も結ばれた。
 世界各地に亡命したロシア人の一部も、共産主義ではないロシア人の国ということで移住してくる者が徐々に増えた。世界中に亡命した資産を持つロシア人からの投資も年々増えた。ロシア正教会、コサックなどロシア伝統の勢力も多くが流れ着き、そして国内から共産主義を排除する大きな力となった。

 極東共和国が日本の勢力圏になって、日本が受けた一番の変化は軍事面だった。オホーツク海は完全に日本の勢力圏で囲まれ、ロシア人は太平洋から完全に閉め出されることになった。日本がロシア人(ソ連)から受ける脅威は、シベリア鉄道の向こう側だけにほぼ限定されるようになった。
 東シベリア各地で国境を接しているが、実質的に近代的な戦争が出来る自然環境ではないので、ユーラシア大陸北東部に対する日本の国防はほぼ安定したと言える。
 逆のことはソ連にも言えて、ソ連も日本に対する防衛負担を大きく軽減出来ることができた。だからこそ、極東共和国が日本の勢力圏になったと言えるだろう。
 そして、日本海軍は仮想敵を一つ失ったため、ますますアメリカを仮想敵とする傾向を強める事にもなる。

 また一方では、政治戦略的にも満州を半包囲する形になったため、日本の満州進出はますます拍車がかかることになる。巨大な国内の人口飽和問題を抱える日本帝国にとって、移民先と自分たち専用の食料供給地の確保は、もはや急務だった。
 北満州のロシア帝国利権だった鉄道などの権益も、ソ連政府は日本へと次々に売却していった。この結果、1920年代半ばまでに満州の鉄道のほぼ全てが満鉄の支配下となり、極東共和国、朝鮮半島の鉄道と合わせて極東主要部を路線下に収めることとなる。
 そうして極東地域は日本の完全な勢力圏となっていったが、独占は反発を産みやすく東アジア市場進出をもくろむアメリカとの対立は、日本の勢力拡大に比例して悪化していく事になる。