■■イデオロギー・エイジ(2)


■混乱の予兆

 グレート・ウォー以後の日本は、徐々に自ら袋小路へと進んでいるように見えていた。
 原因は複数ある。

 まず何より、いまだ帝国主義という名の保護貿易が一般的な世界で、自らが自由にできる有望な海外市場と資本投下先が無かった。
 日本帝国は資源や食料供給地の全てを賄えず、発展と共に多くを輸入に頼るようになっていた。加えて、国内で飽和している列強としては最も多い人口の「棄てる先」がなかった。
 確かに日本帝国は、荒須加、オホーツク海とレナ川の間の北海州、南太平洋地域など、地図の上では本国をはるかに上回る広大な領土を持っていた。
 実際の土地面積も、本国の約118万平方キロメートルに対して、4倍以上の約500万平方キロメートルあった。
 しかし温暖な本国以外のほとんどが、極寒の不毛の大地か熱帯ジャングルが覆う南洋の小島だった。
 にも関わらず、本国人口は新興国特有の急激な人口増加線を示し続け、1930年代には2億人到達が見えていた。
 この数字は、列強としてはソ連(ロシア)すら抜き去って最大数になる。(※英連邦を含むイギリス除く。)
 確かに、人口増加に伴って国内生産高の上昇も続いていたし、公共投資重視の政策、内需拡大政策もあって国土の開発や重工業化のさらなる進展、国民所得および税収の増加など多くの面で利点はあった。何より豊富な国内人口は、国内の発展に伴って巨大な国内市場を形成した。
 勢力圏(極東共和国など)を含めた海外植民地への移民も、20世紀に入ってからの統計数字でも累計で200万人を越えていた。

 だが、何度も言うように、帝国主義の続く時代つまり保護貿易時代にあっては、自前の海外市場と資本投下先が必要だった。
 しかも、できるだけ大きな規模が必要だった。そして日本帝国にとって条件に合致する場所は、中華民国とその北部に当たる満州しか残っていなかった。
 既に保護国としている朝鮮半島も使えなくは無かったが、規模が中途半端な上に保護国としていた為、出来ることも限られていた。
 また、「利益回収が遠い未来となる朝鮮半島に長期間投資を続けるぐらいなら、まずは国内への投資を」という国内での声が強いこともあり、朝鮮半島は自らの利権内での開発と資本投下に限られていた。
 このため朝鮮半島のほとんどは、いまだ中世のまどろみの中で半ば放置されていた。
 朝鮮半島で重視されたのは、鉱産資源の開発と占有くらいだ。
 また、1920年代からは極東共和国を衛星国としたが、土地面積はともかく寒冷で人口も少なく、地下資源にも乏しいため、経済的には有望と言えなかった。
 だからこそ日本帝国は、日露戦争以後は満州(南満州)の開発に多くの努力と資本を投じてきた。
 しかし世界大戦以後の世界情勢下にあって、人口4億人がひしめく中華市場はいわゆる「最後のパイ」だった。そしてそれを独り占めしようとする日本は、有色人種国家という事も相まって、欧米列強から警戒されそして嫌われた。
 国連常任理事国、世界三大海軍の一国という名誉ある地位も、白人国家にとっては基本的に不快でしかなかった。
 隣国の中華民国にとっても、歴史的に自分たちよりはるかに「格下」である日本の台頭は極めて不愉快な事実だった。
 だからこそ日本は、中華市場に進出すればするほど世界中から叩かれ、そして被害者意識と反骨心、そして白人世界に対する恐れから行きすぎた行動に出てしまうのは必然だった。

 なお、日本が十分な市場と資源供給地、そして移民先を持っていれば、話しは大きく違っていたと言われる事がある。
 だが、総人口2億に達する日本を満足させるには、ヨーロッパの半分程度かアメリカ合衆国くらいの場所が必要なのだから、前提条件として不可能と言うしかないだろう。

 混乱の時代への撃鉄は、1929年10月の大恐慌だった。
 大恐慌の発生によって世界経済が大きく後退し、「持てる国」はブロック経済と呼ばれる強固な保護貿易主義へと舵を切り、「持たざる国」の窮状はいっそう進んだ。
 国内資源が不足する日本は、傾斜生産と内需拡大で国を発展させるも、加工した工業製品の輸出先に事欠く上に、発展により資源や優秀な工作機械を輸入すればするほど外貨流出になるという悪循環に陥っていた。
 その結果、日本帝国が行ったのが「上海事変」、「満州事変」とそれに続く満州国の建国だった。

 一連の大規模な謀略は、表向きは一部軍人の暴走とその追認という形を取っていた。だが実際は、日本帝国が国家として実行した事だった。行動自体は、グレート・ウォー以前なら極端な国際批判に晒されることは無かった可能性が高い。
 少なくとも、阿片戦争よりずっとマシな侵略戦争だった。
 それに満州は、国際的に日露戦争以後日本の領分(勢力圏)と考えられていた。そこに傀儡国家や植民地を作ることは、帝国主義的観点から見れば一般的な行動でありすぎた。
 むしろ日本帝国の場合は今まで「遠慮」していたぐらいだと、帝国主義の先駆者であるイギリス、フランスなどは内心で思っていたほどだ。

 事件自体は、まずは上海での日本邦人殺人のため日本軍が治安維持出動して、これに当時ナショナリズムが昂揚し始めていた中華民国が過剰反応を示した。
 そこで日本は、邦人保護を名目に本国から軍を増強して戦闘が拡大し、さらに中華民国全体での日本人に対する保護活動として、満州での行動が開始される。
 そしてこの段階で、日本軍の庇護の共で命脈を保っていた現地軍閥の張作霖が、清帝国最後の皇帝溥儀を天津から救出して担ぎ上げて挙兵。
 日本軍は、彼らの要請を受ける形で、満州族父祖の血である満州での軍事行動を拡大。万里の長城より北側の中華民国領域を軍事的に制圧し、翌年春に「清朝」の正統な後継国として「満州国」の建国へとつながる。
 この時日本は、満州の邦人を守るという名目で本国から軍を次々に増派し、自らの意志の強さを内外に示した。
 タイムスケジュール的には、1931年9月に起きて翌年の1932年3月に建国となる。実質半年で事が実行されたのであり、日本の用意周到さを見て取ることが出来る。
 しかし第一世界大戦後の世界、欧米諸国の新たな暗黙のルールには反する行為だった。
 そしてそれを中華民国も理解していた。

 当然、中華民国は国連に提訴し、これを受けて国連(国際連盟(はリットン調査団を派遣して満州国の独立が不当だと判断した。
 そして国連は、日本の利権は従来通り認め、さらなる利権の拡大すら認める方向を示すも、溥儀を名目君主、張作霖を首相とした満州国の建国は認めなかった。
 満州族などの限定自治のみを認め、日本軍に対しても利権地域以外からの撤退勧告案を可決。
 これに対して日本帝国政府の代表(大東出身の草壁伯爵)は、勧告案への反対票を投じた席上で、「不当な勧告案」が撤回されるまで国連への出席を行わないとボイコットを宣言。職員も全て引き揚げさせ、完全な居直りを決め込んでしまう。
 日本の一部、特に西日本列島の報道と世論の一部は、「脱退」しなかった事を激しく叩いたが、多くは日本政府の行動を支持した。
 ただし日本の国連に対する動きは、日本国民に対するパフォーマンスであり、本来はボイコットすらしたくは無かったと、後に公開された様々な公式文書、個人の書簡、日記などが公開されている。

 この頃既に多くの国民が、「大国日本」に酔っていた何よりの証拠だった。
 

 日本の行動に対して国連は、常任理事国の資格停止を決議するも、それ以上は実質的に何も出来なかった。
 欧州諸国が今まで一般的に行ってきた行動でもあったため、中華民国が強く求めた求めた除名処分も行われず、それより一歩譲った形の脱退勧告案も決議以前の段階で取りやめられた。
 国連から完全に追い出すことで日本がいっそう暴走し、さらに自分たちとの交渉チャンネルを減らすことが強く警戒された結果だった。
 また、列強の多くが「脛に傷持つ身」なので、内心日本に同情的な国が多い上に、何より明日は我が身と考えたからだ。
 正直、中華民国など市場として以外どうでも良かったのだ。

 

 ■軍国主義への道

 満州国建国の結果、日本は世界から軍国主義へと足を踏み入れたと解釈され、日本国内でも表向き実働した形の軍に対する支持は大きくなった。
 不景気と諸外国からの圧力への反動と言ってしまえばそれまでだが、押さえ付けられていただけに、溢れ出したエネルギーは巨大だった。
 また日本の場合は、国家元首である皇帝が満州国建国の動きを支持したため、逼塞感を感じていた国民は皇帝が自ら行ったと解釈し、そして皇帝と軍を支持した。

 そして日本と似たような行動に出た国が、日本同様に「持たざる国」であるドイツ、イタリアだった。しかも両国は、「全体主義(ファッショ)」と呼ばれる一人の独裁者を中心とする急進的な政体を持ち、日本以上に軍国主義的だった。
 一方で日本自身は、自らの事を立憲君主体制で自由主義だと考えていた。皇帝を君主(元首)としているが立憲国家であり、独裁者もなく多党制で普通選挙による選挙も毎度行われていた。制度的にも、独裁者の出現が出来ないように何重にも安全弁があった。
 大恐慌以後は軍人が多少大きな顔をするようになっていたが、政府が軍をコントロールするという形は十分に守られていた。満州に軍を派遣したのも、それを決めたのも東京の統合政府だった。
 だが、政府および国家が軍を用いて強硬路線を進まねばならない理由が、世界情勢として形成されつつあった。

 全体主義や日本での擬似的な軍国主義的風潮を生み出した大きな原因の一つが、「共産主義(コミュニズム)」だった。
 当然中心はソビエト連邦ロシアであり、日本は同国とレナ川を挟んだ対岸の国という間柄にあった。日本の満州での暴走も、共産主義を大陸で防ぐという目的もあった。
 日本としては満州全土を得て、ようやく一安心したところだった。
 しかしロシア人が「極東」と呼ぶ地域で危機感を強めていたのは、むしろソビエト連邦の方だった。

 ソ連(ロシア人)の側から見れば、日本はレナ川東岸、樺太島を既に領有し、朝鮮半島、南満州の権益も持っていた。極東共和国ももぎ取られ、自らは太平洋への出口を完全に失ってしまった。
 しかも日本は、北米大陸の北西端部も領有しているので、北極海から出る海峡まで制していた。
 経度で見れば、北極圏の約30%は日本のものだった。
 そこに新たに満州全土が加わり、ロシア人に取っての極東の実質的防衛線は、バイカル湖にまで下げられた。
 この結果、極東共和国、満州国と接するザバイカル方面、日本と接する東シベリアは、国防という点では実質的に切り捨てざるを得なくなったほどだ。
 加えて日本は皇帝を擁する立憲君主制度の国家で、国内では共産主義を徹底的に弾圧していた。当時の日本は、世界的に見て共産主義が最も失敗している地域の一つだった。極東共和国の共産党も、似たような状態に追い込まれていた。満州事変以後は、満州からも共産主義勢力は徹底的に駆逐された。
 加えて、敵対状態の中華民国に対しても、共産党対策のため手厚く支援しているほどだった。
 対してソ連は、1931年秋だとまだ第一次五カ年計画の途中で、総人口、経済力、重工業力、そして軍事力の全てで日本に大きく劣っていた。
 だからこそソ連は日本を警戒し、ソ連に警戒された日本も赤いロシアを警戒した。満州国建国の原因は、こうした日ソの対立関係も強く作用していた。
 そして満州国建国以後、満州は日本の大陸での強固な「砦」と考えられ、また新たな資本投下先、移民先、資源地帯として極めて急速な開発と資本投下が実施されていく。

 だが、日本の満州での行動は、必然的に中華民国との全面対決を意味していた。

 ■1930年代半ばの北東アジア情勢

 満州国建国以後、日本は国家経済を維持、発展させる為、半ば必然的に国際的な孤立への道へ進んでいた。
 国際連盟には一応名前が残っていたが、実質面ではそれ以上ではなかった。民主党のフランクリン・ルーズベルトが大統領となったアメリカ合衆国との関係は、主にアメリカ側の勝手な言い分によって年々悪化していた。
 アメリカが唯一いい顔を見せるのは、日本が大量の商品を買う時だけだった。
 日本から満州を奪われた中華民国の国民党政権は、当面は国内の共産党殲滅に力を入れるも、日本への敵意と恨みをいっそう募らせた。
 そして日本国内では、国民が外圧による不満のはけ口を求め、さらには自分たちを悪い状況に追い込んでいると考えるイギリス、アメリカへの悪感情を募らせていた。

 とはいえ日本の政治は、諸外国が考えている以上に比較的健全に機能していた。これは、大東と日本を中心とする実質的に連邦国家だった事が影響していると言われている。
 極端な言い方をすれば、軍人が政治に関わることが非常に難しく、ごく一部の政治家が権力を掌握できないように仕組みが作られていたからだ。逆に有事の際には無定見になりやすく、政策もぶれやすいと言われていた。
 満州を巡る事件、そうした結果の一つと言える。
 一部の国から軍国主義と言われながらも、国防の事務方の兵部省は完全な文官組織だった。軍人は、退役して一定の年を経ないと議員(地方議員含む)には立候補すらできなかった。
 皇帝ではなく兵部大臣と内閣総理大臣が、憲法上でも軍の統帥権(指揮権)を握っていた。
 軍人や国粋主義者の一部は、国家元首である皇帝にこそ軍の統帥権があると言い立てる者もいたが、憲法上でも当初から否定されているので、程度の低いアジテーション以上にはできなかった。
 強引に問題視しようとした政治家や報道組織(主に一部の新聞)もあったが、逆に皇帝を政治利用しようとしていると糾弾され、政治家は政治から追い出され、報道組織も社会的制裁が実施されている。

 議員制内閣によって内閣総理大臣が選ばれるが、内閣総理大臣が独裁者となることは、制度の面からも日本人の民意からも不可能だった。
 新帝が即位してからは、何かと政治的発言を行ってはいるが、皇帝には権威はあっても実質の権力は制度上形だけしか与えられていなかった。それを利用しようとする輩も、殆どは国が阻止していた。(皇帝も宮内省から怒られていた。)
 また、国民のほとんどはアメリカ、支那(中華)への悪感情を徐々に募らせていたが、だからといって安易な軍事力の行使は否定していた。
 財政出動で公共投資ではなく軍事費を大きく増額した内閣などは、1930年代にも関わらず1年も保たずに呆気なく倒壊したほどだった。一部の新聞が扇動してみたが、むしろ民衆から強い非難を浴びて発行部巣を大きく落としただけに終わった。
 一方では、軍事費が年々増額を続けていた。
 特に満州に手を出して以後は、ソ連(ロシア)、アメリカ、中華民国などほぼ全ての国々に対して、対応に迫られるようになっていたからだ。そして海軍はアメリカ、陸軍はソ連を指向して、実際の軍備の必要性もあって、兵部省や内閣も平時として見ると野放図な軍備増強に走らざるを得なかった。

 そもそも日本帝国は、東シベリアのレナ川以東の広大な領土を日露戦争以後保有していた。とはいえロシア帝国が健在なうちは、協商関係もあったので国境となっているレナ川は平和な国際河川だった。
 双方国境警備隊を置いてはいたが、基本的にはロシアからシベリアの収容所を脱走した人々の越境を阻止する以外の任務は事実上なかった。現地の兵士達は、定期的に懇親会や食事会を開いたり、ウォッカと焼酎の交換を行ったりと、それなりに友好的だった。
 それだけ両国にとって辺境だった証拠でもあった。
 だが、ソビエト連邦ロシアの成立以後、事態は徐々に変化、いや悪化していく。極東共和国が成立したため日本にとっての防衛線は大きく遠のいたが、逆にソ連が日本から受ける心理的脅威が増したためソ連がシベリアの軍備を増強し、それに日本も対応せざるを得なかった。
 特に満州事変以後は、両国の緊張が増した。満州国を作ることで、日本はソ連に対する非常に深い縦深を確保できたが、ソ連が第二次五カ年計画で極端な形の重工業の建設に成功し、平時としては異常なほどの軍備増強と機械化を行った事は大きすぎる脅威となった。

 1933年以後の満州国境線となる満州里・ザバイカル方面は、平原が広がっている事もあって軍隊を並べやすくチキンゲーム状態となり、日ソどちらかが軍備を増強すれば相手側が対応するという状況が続いた。
 このため1935年の時点で、日本帝国陸軍は全軍の4割に当たる10個師団、しかも重装備の部隊を満州北西部に配備していた。
 これにレナ川流域の3個騎兵旅団や満州での支援部隊が加わるので、実質的には全軍の半数近くがソ連に直接向けられていた事になる。
 加えて、満州の副首相となった張作霖の元軍閥を中心とした満州国軍の編成にも相応の努力が傾けざるを得ず、建国から僅か数年で10万の規模を持つようになっていた。
 しかし軍閥を軍隊にするのは難しく、教練を受け持った日本軍(の顧問団)は実際の戦闘力に大きな疑問を持ち続けていた。それでも数は力だった。少なくとも日本がソ連と向き合う間、中華民国を黙らせるぐらいの効果はあった。
 何しろ中華民国軍の殆どが、同じ軍閥だからだ。
 また衛星国の軍隊なら、ソ連からの復讐や粛正を恐れる極東共和国の軍隊の方が頼りになり、アムール川方面の防衛は装備だけ渡してほぼ任せられる状態だった。
 そして平時の日本陸軍は総数37万人程度なので、半数の16万と言う数字であっても同時期のソ連極東軍よりもかなり少なかった。
 既に大きな規模を持っていたソ連赤軍は、ヨーロッパ方面の戦力を削減してまでして小規模の実質旅団規模だったライフル師団(狙撃師団=歩兵師団)を20個以上配備し、支援部隊を含めた兵員数は25万以上あった。
 このため日本帝国陸軍も、1920年代にいったん廃止した5個師団を復活させ大陸の兵力配備数の増強と維持を行わざるを得なかった。当然ソ連側も日本に応じた兵力を極東へと送り込み、悪循環は続いた。
 そしてこの日ソの対立を好機と見ていたのが、中華民国の独裁者となった蒋介石だった。

 蒋介石は、日本人とその傀儡となった張作霖(※当時満州国の副首相兼国防相だが、実質的には首相より権力を持っていた。首相は満州人出身)、皇帝溥儀らに対して、基本的に万里の長城より北にいるのなら当面は放置するつもりだった。
 日本や満州よりも、華北部奥地で残存している中華共産党を殲滅する事の方が先決だったからだ。
 しかし、自国商品を好きに売れる市場を求める日本は年々南下を続けており、1935年に事実上万里の長城を越えてしまう。
 これは蛮族による中華秩序の破壊に当たり、中華世界の新たな皇帝となった蒋介石が許せることではなかった。そこで共産党の件を一時棚上げしてでも、日本と満州の敵に対して「教訓」を垂れることを決める。
 具体的には、軍備の多くがソ連に向かっている状況を利用して、上海で日本軍に対してのみ紛争を起こして上海の租界から日本を事実上追い出すことだった。
 この場合、日本があくまで平時の軍備で対処する限り、蒋介石に勝算があったと言われることがある。
 だが蒋介石は、基本的に「中華の世界」を中心にしか事象が見られない人物だった。外交に長けていたと言われることもあり、アメリカを対日外交に利用したが、これもあくまで中華秩序の中での行動でしかない。故に蒋介石は、日本という隣国を完全に考え違いしていた。

 そして当時の日本帝国は、世界有数の大国に成長していた。