■イデオロギー・エイジ(3)


■イデオロギー

 「主義」。英語で言うところの「〜イズム(ism)」は、「イデオロギー」という形でも表現され、第一次世界大戦から第二次世界大戦にかけての時代の潮流だった。
 「全体主義」、「軍国主義」、「民族主義」、「国家主義」、「資本主義」、「民主主義」、「共和主義」、「自由主義」、「共産主義」、「社会主義」。多くの政治的な主義主張が、異なる宗教同士のように激しくぶつかり合った。
 「共産主義 (コミュニズム)」を国家として掲げるのは、唯一ソビエト連邦ロシアのみ(※ほぼ属国常態のモンゴルもあり。)。
 最も急進的な主義であり、当時の知識層を中心とした理想主義的な傾向の強い人々の多くから支持を受けるも、世界中の国家からは激しく敵視されていた。
 そして共産主義敵視の中で急速に台頭してきたのが「全体主義」で、全体主義は「軍国主義」、「民族主義」、「国家主義」、中には「社会主義」すら内包した。「個人は全体に従属する」という都合の良い主張により、何でも取りれる事が出来たからだ。
 全体主義の先駆けはムッソリーニが立ち上がったイタリアとなるが、国力などの差から1932年以後はドイツが中心となっていた。
 これら二つの対局にあるのが「民主主義」で、基本的に欧米諸国のほとんどがこのカテゴリーに含まれる。
 基本的には「民主主義」政治を実施して「資本主義」経済を持つ状態で、さらに先鋭的な「自由主義」を最も極端化していたのが「共和主義」国家でもあるアメリカ合衆国とされていた。
 こうした世界情勢の中で、世界有数の大国となった日本の状態は色々な意味で中途半端とされていた。

 日本は、当時の列強、先進国が白人国家ばかりの中で唯一の有色人種国家のため、「民族主義」の傾向が強いのは当然とされていた。
 そして皇帝を頂点に戴いた立憲君主国家であるが、皇帝に政治の実権がないため独裁者ではなかった。もちろんだが、絶対君主でもない。民主選挙も途切れることなく行われ、議院内閣制のため首相も定期的に変わっていたので、基本的には民主政治が機能していた事を示している。
 だが、民族主義と市場の不足から海外への膨張傾向が強く、「軍国主義」にあるとされた。
 もっとも、「軍国主義」と言われつつも、軍隊は内閣、兵部省という行政組織によって統制(コントロール)されていた。軍隊および軍人は、制度上政治に関わることがほとんど出来なかった。
 つまりは「帝国主義」の一変形でしかなかったと言える。

 当の日本の軍人達は、新興国特有の不満を相応に抱えていたが、実力行使をして政治の実権を握ろうという動きにまでは至らなかった。軍国主義の象徴とされる満州事変も、実際は日本政府が水面下でゴーサインを出した帝国主義的行動に過ぎず、軍人達の殆どは命令に従ったに過ぎなかった。
 だからこそ実行犯の軍人達は、表向きはともかく実際は軽い処分しかされなかったのだ。しかも関わった軍人のほとんどは、その後栄達している。
 その後、一部考え違いをした跳ね上がりも出たが、政府によって即座に綱紀粛正が実施されている。軍部全体も、これに文句は言っていない。
 西日本人だけなら有耶無耶という可能性もあったと言われるが、直接的な事を好む大東日本人の多い統合政府の行動は、外に対しても内に対してもやはり直接的だった。
 1930年代序盤に相次いだ一部急進的な国粋主義者の政治的事件(テロ)も、政府は特務警察(=後の機動隊)を設立するなどして断固たる態度で当たった。その結果、共産主義体制に匹敵すると言われる、一部は弾圧だったと結論されるほどの治安維持活動が行われた。
 なお、主に共産主義者、無政府主義者を取り締まる「治安維持法」を軍国主義のやり玉に挙げる「リベラル」もしくは「進歩的」学者が今日多数いる。
 だが時代を考えれば世界の潮流に合致したものだし、現代でも多くが通用する事でしかない。実際現代でも、「破壊活動防止法」として生き続けている。
 日本帝国という国家は、連合帝国という少し変わった連邦国家であり、有色人種国家の列強という変わったポジションにあったが、主義の面での極端な偏りはあまり無かったと言えるだろう。
 同じ有色人種国家なら、蒋介石と国民党に支配された中華民国の方が、よほど全体主義であり軍国主義だった。

 ただ、日本に隣接する国々との関係が、日本の国際的立場を年々悪くしていた。アメリカ合衆国、ソビエト連邦ロシア、中華民国のいずれもが日本を敵視していた。アメリカのルーズベルト政権は表向きは敵視とまではいかなかったが、アメリカと日本の関係は年々悪化していた。
 そして近隣諸外国の強硬な姿勢に対して、1920年代の日本政府が「弱腰」だとする国内世論の高まりがあった。だからこそ満州事変や満州国建国、軍事費の上昇を日本国民は肯定したのだ。
 外圧こそが日本を動かすと言われることがあるが、この時代もその類型に当てはまると言えるだろう。
 

 

 ■1930年代の日本

 世界に不穏な空気が濃厚になり始めていた1937年夏頃、日本帝国は名実共に大国化していた。
 日本帝国の国力は、一部の最新の統計学資料に詳しい者を除いて、ほとんど気付かれないうちにアメリカ以外の大国を凌駕するほどにまで成長していた。
 大規模な財政投資による内需拡大で、大恐慌から世界的に見ていち早く立ち直った事も大きな要因だったが、日本の基礎的な国力が大きくなっていたからだった。
 本国の総人口は、約2億1000万人あった。と言っても、「外地」とされる植民地を全て含めても1000万人ほどしかなく、これもほとんどが台湾島の住人だった。北辺の領土は、土地だけは広大だが、人口はごく僅かであり続けた。
 植民地はともかく、本国の人口は同じ大人口国家のソ連やアメリカすら上回る数字だった。新興国特有の若年人口が多いピラミッド型の人口構造ながら、総動員時の兵員数は無理をしなくても1700万人に達する事になる。
 しかもいまだ新興国なので、人口は大きな右肩上がりで増え続けていた。仮に人口増加率が2%でも、毎年400万の人口が増えることになる。
 実際当時の日本は、それ以上の数字を示していた。
 日本が膨張傾向を強め、満州という新たな開拓地を丸ごと欲しがったのも、人口増加に対して国家を維持するための必然だったのだ。
 その証拠に、満州には国家規模で続々と移民が送り込まれていた。

 一人当たり所得は、ヨーロッパ列強では下位に属するイタリアより少し下程度にまで向上して(※1人当たりは約150ドル)、GDP(国内総生産)は315億ドルだった。
 当時ダントツで世界一の経済力を持つアメリカが900〜1000億ドル辺り(※1人当たり所得は約700ドル)だったので、単純な国力差はアメリカの3割程度となる。
 しかし全世界比率で見ると、全体の約12%に達する。
(神の視点より:史実日本のGDPは、日米開戦の1941年に250億円(76億ドル・1ドル=3.3円)。統合日本との格差は約4倍)

 単純なGDP比較だと、1930年代前半にアメリカ、イギリスに次ぐ世界第三位に達し、1930年代終盤だとイギリスを抜いて世界第二位に浮上している。
 そう、世界の敵となりつつある当時のドイツよりも、国力で上回っていたのだ。
 しかしこの数字は、当時は統計立てた計算方法が無かったため、ほとんどの者が知らなかった。特に欧米では、人種偏見や不見識もあって、日本とはアジアの果てにある「小さな」島国という認識しかなかった。
(※日本の領土として、荒須加、東シベリアを地図に表示しない欧米の地図が多い事が原因している。)
 だが、日本の場合は基本的に人口の多さがGDPに結びついているのであって、近代国家としての国力や軍事力には直結していない。先進国として必要な先端技術も不足するものが多かった。
 要するに、図体だけが大きかったのだ。
 しかし中華民国のように、無駄に大きかっただけではない。近代国家として自力でやっていくには、相応の近代産業が必要だったからだ。

 近代国家の国力指標と言われる年間粗鋼生産量は、平時だった1936年統計で1700万トン近くあった。当然だが余剰生産能力があり、さらにこの頃は国内経済の発展に伴って大規模な新規施設の建設が進んでいた。
 このため、全力生産を実施した場合の想定では、数年後の最大生産力は2500万トンを越えると予測されていた。
 しかも日本帝国には、日本が日露戦争以後からずっと育てあげてきた満州の生産量も加わる。満州の伸びは、満州国建国以後は日本の膨大な投資もあって異常なほど進んでいた。合わせれば、粗鋼生産力は3000万トンを大きく上回る。
 日本勢力圏全体での最大予測数字は、飛び抜けて生産量の大きな一位のアメリカには遠く及ばないが、2位、3位のソ連、ドイツを追い抜くか並ぶ数字だった。
 新興国の日本がこれほどの生産力を持つのは、ひとえに本国に当時の技術程度では適度といえる数値のほぼ限界で大人口を抱え、日本帝国が近代化以後に国土をひたすら自力で開拓・開発していったからだった。
 そして自力で開発したければ、自前の製鉄所を始めとする重工業以下のあらゆる産業が必要で、土木建築を始まりとして巨大な内需を生み出した。そして大東島は、世界有数の大きな島であるだけでなく、世界的にも優れた平地の塊であり、開発が容易かつ大規模化しやすかった。加えて、肥沃な温帯地域にあるという大きな利点を有していた。
 広大な農地に膨大な人口肥料を投じることで、農業生産も何とか人口増加に追随していた。

 この日本発展の流れは、多少規模が違うが開拓国家のアメリカ、ロシア(ソ連)に強く見られる傾向だった。ただし日本の場合は、人口規模は申し分ないが開発できる土地が不足していた。このため多くが中途半端だった。
 それでも鉄道総延長は植民地を含めると10万キロメートルに達し、船舶保有数もアメリカよりも若干多く1200万トンを越えていた。
 平坦な大東島は特に鉄道網が張り巡らされ、西日本列島と大東の間には無数の船舶が行き交っていた。
 船舶保有量は、1920年代はアメリカに追い抜かれていたが、1930年代の日本政府の指導もあって、1939年にアメリカを越えて世界第二位に返り咲いた。
 さらに、海で隔てられた日本国内の二つの主要地域を効率重視で高速で結ぶため、船舶以上に航空機の発達も非常に早かった。
 1920年代から、日本の空を行き交う郵便機は日本では一般的な姿だった。さらに満州国建国で、発展に拍車がかかっていた。
 1930年代に入ってからは、大型の旅客機が次々に就役して人々を運ぶようになった。おかげで航空産業の発展も急速で大規模なものとなった。

 一方、日本に地下資源が足りないと言われることが多いが、最も足りていないのは、この時代には近代国家に不可欠とされた石油とされていた。その石油も、小規模ながら北樺太油田があるので、まったく無いわけではなかった。
 この頃日本は、民間はかなりを石炭で賄っていたが、それでも軍と民間を合わせて1800万キロリットル程度(=1500万トン)の石油を消費するようになっていた。
 主な理由は、日本国内でモータリゼーション(自動車)が起こり始め、さらに大量の船舶を保有していたからだった。軍での使用は、比率で言うと3分の1程度だ。
 しかも急速に増加傾向で、これに軍用燃料の増加が国家としての消費量を大幅に拡大しつつあった。1940年には2500万キロリットルに増加している。
 これに対して、国内での石油生産量(産出量)は最大で300万キロリットル程度だったので、多くの石油を輸入に頼っていた。
 このため海軍は、有事(戦時)に備えて国内各所に石油の備蓄基地を作っていたが、備蓄自体は1941年の時点で1000万キロリットル(800万トン)と心許なかった。
 故にドイツで発明された人造石油(※石炭から科学合成でガソリンを得る技術)の技術特許を取得し、有事の際に生産する体制の構築を急いでいた。

 しかし、朗報もあった。
 1932年秋に、新たに手に入れた満州北部で、大規模な油田が発見されたのだ。
 しかし同油田は、当時としては深い深度に油層があるため採掘コストが高かった。さらに試掘してみると、ナフサ、揮発油(ガソリン)、軽油という上質の精製物が採れる比率が少ない、石油としての質がかなり悪いものだった。
 それでも自分たちの勢力圏内であり本国からも近いことから、早くも1933年には大規模な開発が開始される。連動して、開発された油田に対応した能力を備えた大規模な精油所の建設も開始される。
 だが開発は当初極秘とされ、1935年に一部で商業採掘が開始されるも、諸外国が詳細を知ることは無かった。
 当時満州は、日本の手で異常なほどの投資が行われ、膨大な量の物資と人が流れ込んでいたので、日本はこの中に石油開発の予算、資材、人材を紛れ込ませていた。
 諸外国が日本の行動に本格的に不信感を持ったのは、1937年頃からだった。
 日本の製鉄所が、どう考えても石油採掘に使う鋼材を大量に生産している統計数字から露見した。また、さらに詳細に調査してみると、大量のタンカーが発注されていた。精油所も、大規模な施設の建設が日本各地で行われていた。
 そして決定的だったのは、諜報員が持ち帰った満州鉄道を走る100両編成のタンク車の車列だった。
 全てが満州内陸部での大油田存在を伝えていた。
 この事を日本に問いただしても、多くは北樺太油田の開発促進だという答えしか返さなかった。満州内陸部についても、ごく小規模の油田開発が行われているとしか返答しなかった。
 だが、北満州油田の開発は、異常な速度で進められている事は間違いなかった。膨大な予算、資材、人員を投入することで、1940年には年産2000万トン以上の商業採掘が行われるようになっていた。
 この結果日本は、1940年には揮発油(ガソリン)、軽油、ナフサ以外、ほぼ自給できるまでになった。低質の重油など、1938年頃から輸出に回すほどだった。
 日本各地の道路舗装にも、屑油を利用したアスファルト舗装が俄に増えだした。
 しかもガソリンなどは、採算度外視すれば人造石油で賄うことが可能なだけの精製施設の建設が進んでいた。
 風雲急を告げる頃には、アメリカ、イギリスが日本を追いつめる最有力の手段と考えていた石油を、外交カードとしてほとんど使えなくなっていた。
 
 一方では、国内(+勢力圏内)には石炭が大量に輸出できるほどあったし、鉄鉱石も20世紀前半の製鉄規模なら十分以上の埋蔵量が国内にあった。その上、満州でかなりの補完も出来た。
 ボーキサイト、ニッケル、錫、亜鉛、原料綿など足りない資源も多かったが、全く無いわけではなかった。状況は、ヨーロッパで孤立が進むドイツ、イタリアよりも随分とマシだった。
 しかし、それでも資源輸入国であり、様々な資源を大量に輸入していた。海で囲まれた国なのに、産業用の工業塩を大量に輸入していたりもした。
 1930年代前半までは、粗鋼生産能力の低さから屑鉄やアルミニウム原料のボーキサイトもかなりの量を輸入している。そうした資源地帯を持つアメリカ、イギリス、特にイギリスとの関係は、絶ちたくても絶てないのが当時の日本だった。
 そして日本が中華市場を求め満州を牛耳った事から、日本は地下資源を持たない貧しい国というのが、この当時の国際的な一般評価だった。
 総人口が2億人に達することも、欧米一般にはほとんど知られていなかった。当然ながら、人口に裏打ちされた相応のGDPを持つことも知られていなかった。
 欧米諸国で日本の国力をほぼ正確に知っていたのは、英国の中枢部くらいだと言われた。

 ちなみに、1936年の日本の国家予算は一般会計で45億円(※1ドル1.7円程度に下落。)で、うち軍事費は12億円を少し超える程度だった。
(※神の視点より:この二倍の数字にして史実と比較してみてください。)
 軍事費は、金額はともかく予算全体での比率で言えば25%程度だった。他の列強と比べるとアメリカ、イギリスを除けばむしろ低い程だった(※既にドイツ、イタリア、ソ連が非常に大きな数字になっている。)。しかも1920年代は15%程度を推移していたのだから、日本がいかに軍事費を使わない軍国主義国家だったかが分かるだろう。
 日本は、地道な国内開発と産業振興にひたすら国家予算を続けた国家だったのだ。ただし、満州事変頃から軍事費は上昇し、一種の積極財政と公共投資的側面で赤字国債をかなりの額発行したので、1930年代の国家予算の状況はあまり好ましいとは言えなかった。

(※神の視点より)

 史実日本の軍事費は20%後半から30%台を推移して、満州事変以後は40%以上が当たり前のようになった。さらに支那事変以後は、事実上の戦時国債を積み上げた上で60%以上になっている。
 対してこの世界の日本帝国は、国家予算規模は史実の約4倍で一人当たり所得も向上しているため、額面通りの倍率の予算が兵器に化けるわけではない。1人当たり所得は史実日本より30〜40%ほど高い想定なので、製造単価を含めて人件費にその分取られている計算になる。
 なお、史実での1936年の国家予算は約23億円。軍事費は約11億円。しかしこの世界の円の価値は、最初に作った日本での金本位制の関係で史実の二倍になるので、数字では4倍近い差となる。
(※史実は1ドル=2円で開始。この世界は1ドル=1円。さらに1930年代は史実だと1ドル=3.3円、この世界だと1.6円〜1.7円を想定。)

 軍隊や兵器の数は、予算的には生産コストを差を含めても実質3倍程度を揃えられる計算になる。
 そして軍の規模が4倍ではない分だけ質が向上する。
 平時では、史実の五割り増しの規模の軍隊を実質3倍の予算規模で養っているので、基本的には陸海軍共に近代化や重武装化、機械化が進んでいる。陸軍も、欧米一般先進国並の質と装備を有している事になる。海軍については、当時の世界で最も贅沢な環境と言うことになる。1936年でも、史実日本の約二倍の軍事費を使っている計算になる。
 そして1920年代は、国際協調や外交の問題から投じてよい軍事費が限られているので、史実のように軍事費で無理をせずその余力を延々と国力増強に投じているという結果になっている。これが史実の三倍の人口を抱える国家であるにも関わらず、GDPの継続的な向上へと結びついている。
 このため大東島(など)を持つ日本帝国は、史実の三倍の総人口と丼勘定で四倍の国力という数字が出てくる。
 無論、これより小さな数字や、規模が大きくなったが故に発展が停滞する可能性もある。逆に、数字を都合良くいじって、超大国にする事もできなくもない。
 なお今回の想定では、日本列島だけだと史実の140%程度の国力となるので、絶対数の比較だと火葬戦記のお約束ともいえる極端な国力増強が行われているわけではない。

 ■クーデター

 1936年2月26日、大東島旧州中央にある帝都東京で軍事クーデターが実行された。
 実行したのは、西日本列島出身の下級将校を中心としていた。だが、首謀者といえる人物や大物軍人、政治家が荷担していないと言う極めて特殊な軍事クーデターだった。
 クーデターの原因は、基本的には西日本列島と大東島の経済格差だったと言われている。また、当時経済的な発展を見せつつあった日本全体での、持てる者と持たざる者の経済格差も原因だったと言われることも多い。確かに、都市と農村の格差は、当時の人々も強く問題視していた。
 クーデターを決行した軍人達は、「君側の奸の排除」や「大幸維新」などをスローガンにして帝都主要部を実力で占領しつつ政府要人を暗殺し、自分たちが信奉する軍人などへの政権委譲を訴えた。
 国家元首である日本皇帝を、殺害や廃位するつもりは全く無かった。むしろ彼らは、皇帝は被害者の一人だと考えていた。この事は、彼らの要求の中に明確に記されていた。

 このクーデターに対して、日本帝国政府および日本軍内部は意見が分裂した。
 古くからの西日本と大東の対立と、陸軍と海軍の対立が見られたためだ。西日本の軍人、陸軍軍人の一部はクーデターに同情的だった。
 これに対して、政府要人で元海軍軍人の大臣を複数暗殺された海軍は日本、大東出身を問わず怒り心頭し、帝都近辺に艦隊を集めると共に海兵隊の準備を早急に進めた。
 あまりの迅速さと規模に、すぐにも内戦が始まるのかと思われたほどだった。
 しかし、実際にクーデター軍に拳を振り降ろしたのは、皇宮を守護していた近衛隊(ガーズ)だった。
 当時まだ20代半ばだった大幸皇帝は、「君側の奸」という言葉を聞いた時点で周囲が驚くほど激怒。「朕が自ら国の行く末を決めているのであって、決して臣下の言いなりではない」と言い放ち、皇宮を警護していた近衛隊に直ちに招集を命令する。
 そして、侍従長が重傷で宮内省が機能しないところに、政府中枢の人物が駆けつけて止める前に、足早に半ばクーデター軍の名目的な包囲下にあった広大な宮殿(皇宮)から自ら(皇城警備の)兵を率いて出陣した。
 政府や兵部省、陸海軍が事態を把握するよりも早い行動だった。

 なお、日本帝国憲法において皇帝は国家元首であり、軍の統帥権は内閣総理大臣が「補弼する」という一文をもって実質的な全権を握っていた。
 皇帝が持つのは、任命式などの名目上の権威だけだった。
 だが、皇宮警護が任務の近衛隊は、軍の組織上では皇帝直轄の部隊とされていた。宮内省の下に置くわけにもいかないからだ。内務省の指揮下など論外だった。 
 それを皇帝自らが指揮すると言っている以上、その場で誰も止めることが出来なかった。特にこの時、首相はクーデターから逃亡中で行方不明、宮内省大臣が暗殺の対象となり、侍従長も重傷だったため、諫言できる者もいなかった。
 結果、白馬にまたがって近衛軍の先頭を進む大元帥の軍服に身を固めた皇帝の姿と、皇旗(皇帝の旗)を見たクーデター軍は、それだけで一瞬にして瓦解。
 全員が平伏して武装解除してしまう。
 かくしてクーデターは、皇帝自らが皇宮から出陣して僅か1時間足らずで事実上霧散する形で終息した。

 このクーデターの結末は、大東出身の皇帝が直接統治を自らの歴史と伝統としている存在だと言うことを、西日本の軍人(人々)が根本的なところで全く理解、認識していなかったが故だと言われる事が多い。
 西日本での「天皇」は長らく「権威」だったが、大東の「皇帝」は「権力」であり続けた事が原因していた。

 そして時代は近代であり、皇帝と直接の反逆者の問題だけで事件は収まらなかった。その後日本帝国内では、綱紀粛正のかけ声のもとで人事面での粛正の嵐が吹き荒れた。
 「大幸維新」は起きなかった代わりに、実質的な「大幸粛軍」が起きた。

 そして皇帝に弓引いた形の陸軍は、日本国内での権威を大きく失墜させ、海軍がより多くの政治権力を握ることになる。これは国家予算に如実に現れ、陸:海=6:4という満州事変以後陸軍優位に傾いていた流れを一気に変える事になった。
 それ以外にも、日本全体に悪い影響があった。
 結局のところ、政治家の多くが軍に対して臆病になり、軍人の政治への参加の道が大きく開かれる事になったからだ。兵部大臣も、時限立法ながら戦時における現役武官制度の通過によって戦時に置いては現役軍人もできる事になった。
 このため以後の日本は、クーデター事件を機にして完全に軍国主義化したと言われるようになる。
 もっとも、戦時における現役武官制度自体は、その後も20世紀が終わるまで続く事になる。

 ■第二次ロンドン海軍軍縮会議と軍拡再開

 ワシントン海軍軍縮会議以後、世界規模での海軍軍縮会議はたびたび開催されていた。
 1926年のジュネーブ会議はまとまらなかったが、1931年に締結されたロンドン会議では、「補助艦」とされた艦艇の枠が主に決められた。

 ジュネーブ会議では、広大な自国領内の警備を理由としてイギリス、日本は軽巡洋艦の枠の確保を求めていた。
 しかし日本に対して太平洋で圧倒的に不利なアメリカが、重巡洋艦と呼ばれる8インチ砲を搭載した艦艇の大幅な増加を求めたため会議は決裂した。
 この反省を受けて1930年秋から開催されたロンドン会議では、巡洋艦枠の一部を重巡、軽巡のどちらに使っても良い事にされ、その枠の分だけ日本とイギリスは軽巡洋艦を、アメリカは重巡洋艦を作った。
 駆逐艦についても、当時日本が1800トンクラスの巡洋性能を向上させた大型駆逐艦(※特型、5インチ砲6門、61センチ魚雷9線・9発)を大量に建造していたが、大筋において上限1500トンで落ち着いた。
 戦艦についてもワシントン条約を5年延長し、さらに保有数を削減する事が決まった。この結果、アメリカ、イギリス、日本の各国は保有する戦艦のうち2隻を練習艦、標的艦もしくは廃艦して削減した。
 結果日本は、重巡洋艦15万トン、軽巡洋艦19万2000トン、駆逐艦15万トン、潜水艦5万2700トンの枠内で艦艇の整備を実施する事になる。
 当然だが、戦艦、空母枠と同様に米英同比率だった。
 そして1939年の時点で、戦艦16隻、空母5隻、重巡洋艦15隻、軽巡洋艦30隻、駆逐艦100隻と一般的に総称される艦艇を整備していった。

 そして次の軍縮会議は、戦艦の建造規制が無くなる1936年内発効を目処に新たに準備が進められることになった。
 1931年に締結された「ロンドン海軍軍縮条約」では、戦艦の新規建造禁止は10年間から15年間に延長されたが、それも1937年には期間が切れてしまう。このため次の軍縮会議が、1936年開催を目処に開始された。
 軍縮会議への日本の参加は、満州事変と満州国建国で孤立化を深める状況の打破になると考えられた。しかし、イギリス、アメリカ、特にアメリカの、日本に対する外交圧力は強かった。また、中華民国、ソ連、コミンテルンの国際的な反日宣伝活動もあり、会議への参加は日本にとって大きく不利な選択だと考えられた。
 条約による日本に対する締め付け機運も強まり、今まで日英米同比率なのを日本を不当に低い保有率とする方向性が、予備交渉の段階から言われていた。
 そして日本国内での協議の結果、軍縮会議開催に向けた予備交渉からの離脱、ワシントン体制からの離脱を決定。これを諸外国に通達した。
 これにより、日本は1936年1月1日から国際外交上では自由に軍艦を建造できるようになる。
 日本が会議から抜けて以後も、イギリス、アメリカを中心に会議は続けられ、一定程度の軍縮条約が結ばれた。
 一方で完全な国際的孤立を避けたい日本も、自主的な規制努力を実施すると諸外国に通達した。

 その後日本では、既存戦艦16隻(+2隻)、大型空母2隻に対して、軍縮条約の制限を越える大規模な近代化大改装が開始される。
 また1934年度計画の艦艇から、1936年就役以後の艦艇に対して実質的な条約離脱も行われた。
 そして1936年度予算から、本格的な海軍拡張が開始される。諸外国が新たな条約発効の1937年から海軍拡張を開始するのに対して、1年のアドバンテージを得たことになる。
 と言っても、基本的には既存艦艇の代替艦への置き換えが中心で、日本海軍としては大きな軍拡をしている気はなかった。現状が維持できれば、国防には十分と考えられていたからだ。
 この頃は、まだ列強同士の本格的な船倉はないと考えられていたからだ。
 だが、条約に縛られず旧式化した艦艇を一気に刷新する大規模な海軍整備計画は、アメリカを中心とする国々の警戒感を呼び起こすには十分だった。しかも日本海軍は、3年間隔で3度の大規模建艦を行い、10年で旧式艦艇を全て刷新する長期計画も発表していた。

 そして日本の動きに対して焦りを見せたアメリカでは、自らの経済対策もあって1937年に続いて、38年、40年春と3次にわたるヴィンソン上院議員発案の海軍拡張を法案通過させる。
 これは日本に対する軍拡を呼び込み、日本も当初三カ年計画だった1936年度計画を2年に圧縮し、1938年には次の大規模計画を始動させ、さらに1940年にも追加拡張を行った。
 また欧州でも、1935年に英独海軍協定が結ばれてドイツの海軍拡張が始まり、イギリス、フランスもそれぞれ海軍の拡張を開始して、世界規模での海軍拡張競争が再開される。

 日米による平時における海軍の大規模な拡張は、基本的に1年早く始めた日本が一歩リードする形で進んだ。
 また一方で、当時日本国内にある大型艦建造施設は、軍民合わせて大型12基、中型8基だった。
 これに対してアメリカは大型16基、中型11基を有していた。
 単純に数で言えば、アメリカが日本の3割り増しの規模を有していたことになる。建造効率もアメリカの方が高かった。
 しかし予算や人員の問題があり、しかも1937年次のアメリカは厳しい緊縮財政下での海軍拡張開始だったため、先に軍拡を開始した日本の方が余程大規模に海軍拡張を推進した。
 日本が新たに建造施設を作りはじめ、大型艦建造施設の過半を軍艦建造に注ぎ込んだのに対して、アメリカでは1938年度計画が動き出すまで、民間船すらまともに建造されない状態が続いたほどだ。

 そして日米両国がずっと全面戦争をしない場合、アメリカが日本海軍を圧倒できるのは、1940年秋に成立した「両用艦隊」が完全に完成する1945年の後半以後を待たなくてはならなかった。
 しかも圧倒と言っても、アメリカは法案名通り二つの海洋に艦隊を置かねばならないので、大西洋を切り棄てなければ日本に全面的に攻め込むことが不可能というの実状だった。
 加えて言えば、北太平洋、中部太平洋は日本領か日本の強い影響下なので、日米の全面戦争になればアメリカは自国の西海岸が主戦場になることを覚悟しなければならなかった。
 アメリカの為政者は、例え誰であろうとも日本と安易な対立を煽ることは出来なかった。
 当然だが、この建艦競争は世界情勢にも影響を与え、国力で勝るアメリカが日本の軍拡のために政治的行動に制約を受ける状態が以後しばらく続く事になった。