■■2nd_War(1)


■アクシス

 「アクシス(枢軸)」という言葉は、1935年頃に「ベルリン=ローマ枢軸」という形で歴史上に登場した。そしてそれ以後、ドイツを中心とする全体主義(ファシズム)陣営を現す言葉の一つとなった。
 アクシスに加わる国は、基本的にドイツ、イタリアと、その二つの国に征服もしくは影響下に置かれた国になる。
 それ以外だと、全体主義の独裁国家だった。内乱後のスペインなどが好例となるだろう。そして東アジアにも、アクシスに与する国があった。

 1933年にドイツでアドルフ・ヒトラーが総統の座に就いた頃、ドイツ外交は中華民国へのアプローチをさらに強めていた。
 もともと第一次世界大戦後のドイツは、外貨獲得のために混乱が続く中華地域への武器輸出に熱心で、各中華勢力も信頼性の高いドイツ製武器を重宝していた。
 国民党の蒋介石らは、ドイツからかなりの数の軍事顧問すら雇い、精鋭部隊用に軍服やヘルメットまでドイツから直輸入していたほどだった。
 故に、当時の国民党軍の記録映像を見ると、殆どドイツ軍に見えるほどだった。
 この流れは、ドイツでナチスが政権を取ることで強まり、中華民国側の言い方で「独華合作」と呼ばれる借款や小銃、被服などの軍需工場建設にまで話しが発展していた。
 ドイツとしては外貨獲得の為であると同時に、ソ連の反対側にある北東アジアに、ソ連を牽制できる友好国を得ておこうという考えがあった。
 中華民国としては、自らの軍備を増強してまずは国内の共産党を殲滅し、さらには諸外国、特に日本を「国内」から追い出すことを目論んでいた。

 一方、ドイツの一部が日本と接触を図る。
 日本もソ連と国境を接する国で、大きな国力と軍事力を有しているから、ドイツとしては一定の価値があると考えられた。
 さらに言えば、日本はアメリカを牽制できるだけの強大な海軍も有しているので、中華民国以上の価値だと考えた者達が、ドイツの一部に居た。
 そして満州を牛耳ったことで、ソ連との対立がいっそう深まった日本帝国に対して、ヒトラーのお気に入りだったリッペントロープ(後の外相)とドイツ外務省のごく一部と、当面の理で物事を見る一部の軍人達が接近した。
 日本でも、ヒトラーとナチスの派手な政策に感化された者や、ソ連に強い脅威を感じる軍人などが、ドイツへの接近を画策する。また日本としては、ドイツと接近することで中華民国への武器輸出による軍備増強を阻止するという目論見もあった。
 もっとも当時の日本は、日華両者の国力差もあって中華民国を大きな脅威とは認識していなかった。
 満州事変での中華民国の不甲斐なさが、日本人の心理面での直接的な原因もあったが、国力、軍事力共に日本帝国が圧倒しているという現実があったからだ。
 いざとなれば実力でねじ伏せられる、というのが中華民国に対する日本の一般認識だった。自分たちが望まない限り、中華民国との本格的な戦争はあり得ないとすら考えていた。
 故に心理的に余裕があり、日本にとって脅威である共産主義を叩くべく、中華民国に支援や援助をしていたくらいだった。
 大国的思考と言えばそれまでだが、日本の中華民国に対する認識はその程度だった。
 このため、ドイツと中華民国を離反させるために、日本がドイツと関係を深めるという外交的な方向性はかなり弱かった。

 また、日本にとってドイツの価値は、ロシア人の国の西側に面しているという事だ。この点で、ロシア人を封じる為の協力関係が結べないかと考えられた。一方のドイツも、ロシア人の背後を抑える存在としての日本には強い興味があったので、この点では利害一致していた。
 だがそれも、1930年代前半では日本、ドイツ双方とも関心は高いとは言えず、両者が接近する要素としては十分では無かった。
 しかも日本としては、ソ連、共産主義を牽制するためにドイツとの関係を深めよりも、イギリスなど西洋列強諸国と連携を深める方が理に適っているという意見の方が、国内で圧倒的に強かった。
 それに当時の日本は、満州事変以後国際的孤立が深まったので、信用回復にかなりの努力を割いていた。にも関わらず、国際的信用が高いとは言えないドイツ(ナチス政権)との関係強化は、日本にとって逆効果だという意見が非常に強かった。
 実際問題、当時の日本は共産主義に立ち向かうという方向で、イギリス、フランスなどとの関係改善を本気で模索し、一部実現すらしていた。
 ドイツとの関係を強引に進めようとした外務大臣や駐独大使が、事実上のパージをされたほどだった。
 ただ一方で、英仏との関係を改善するために、ドイツが英仏に接近しているのを利用しようと言う考えも存在していた。
 しかし大筋としては、ナチスが牛耳ったドイツとの必要以上の関係強化は、国際外交に全体にとって逆効果だと考えられていた。当時イギリスとドイツが接近を図っていたが、日本人の多くは戦争に怯えるイギリスの弱腰外交だと見ていた。
 また日本の外交担当者の多くが、予備を含めて交渉したナチス政権、とりわけ全権を握っていると言うリッペントロープとその取り巻きの一部を信頼できないと考えた。
 特に秀才集団である高級官僚達のリッペントロープに対する見立ては、外交官ではなく法螺吹き、山師の類だった。
 そして、総人口2億を抱える中央官僚制の近代国家を運営する日本中枢部の人達から見て、ドイツのナチス政権は余りにも「素人」に映った。
 その後判明するように、実際多くが事実もしくは正しい判断だったのだが、日本側の不審からついに日本とナチスドイツの関係が必要以上に深まることは無かった。

 ドイツとの不仲が続いた結果、日本は1940年開催予定のオリンピック招致に失敗したと言われるが(※1940年はイタリアで開催予定となった)、日本がドイツとの外交で後悔したことと言えば、ほとんどそれだけだった。
 そして何より、ドイツの東アジア外交の主流派は、日本よりも中華民国をはるかに重視していた。だからリッペントロープのスタンドプレーが片思いのまま失敗に終わると、後は日本に見向きもしなくなる。
 以後ドイツは中華民国への投資と関係強化を深め、一定程度の軍事力と生産体制の構築は、蒋介石に不要な自信を与えることになる。
 1936年に中華民国の言うところの「華独合作」、世界史上での「ドイツ・チャイナ防共協定」の締結に至り、以後数年間は中華民国に大量のドイツ製武器弾薬が渡り、ドイツ製の兵器製造用の工作機械が売却される事が決まる。
 その間中華民国からは、タングステンなど鉱産資源が主に輸出され、その蜜月関係が世界に喧伝される事となる。

 なお、対日外交で失敗したドイツのリッペントロープだったが、その後「英独海軍協定」の締結で一気に頭角を現してドイツ外相に就任し、その後世界を混乱させる外交を第二次世界大戦が勃発するまで展開していく事になる。

 ■日華開戦

 1937年夏に「第二次上海事変」が起きるが、中華民国にとってあまりよいタイミングではなかった。
 同年6月、ソビエト連邦ロシアで軍部に対する空前の大粛正が始まり、その事が既に諸外国にも知られていたからだ。
 そしてソ連が、軍事的に身動きできないことを日本人もある程度知っていたのだが、蒋介石はソ連の事情を全く考慮せずに、日本に対するリアクションを起こした。
 「華独合作」に余程勢いを付けられた格好だ。

 現代では、蒋介石の行動に当時青息吐息の中華共産党が関わっていたと言われる。だが、この説は基本的に中華共産党や世界中のコミンテルン、共産主義信奉者たちが政治宣伝で一般化させただけだった。
 西安事件がターニングポイントだったとも言われる。
 この頃の中華共産党は、延安に命からがら逃れるも国民党軍の攻撃の前に、本当に青息吐息だった。日本と中華民国(国民党)を戦争させようとするテロを用いた謀略も、それほど巧くいっていなかった。
 満州国内では、共産党はほぼ殲滅されていたほどだ。
 しかも日本は、共産党対策では国民党と連携することを日常とすらしていた。このため瑞金からの逃避行で、よく共産党が生き残れたと言われるほどだった。

 それでも1937年7月7日の「廬溝橋事件」が日華全面戦争の発端とする説が強いが、当時の日本側は単なる共産主義テロとしか考えていなかった。
 軍の記録、政府の公文書、外交文書にも残されている。
 廬溝橋のある北京方面でも、警戒程度は上昇したが軍はほとんど動いていない。実質的には、テロリストの摘発を強化したぐらいだった。その後も続いた北京(北平)方面での共産主義テロも同様に対処した。
 中華国内で国民党と共産党がそれぞれ日本を攻撃したのは、単なるスタンドプレーの結果に過ぎなかった。
 そして上海での日本への軍事行動は、国民党と国民党の独裁者である蒋介石が、「華独合作」で自信を得て、日本を国際的に孤立させるべく実行した事だった。
 日本軍が大きく動けば、既に関係が大きく悪化しているアメリカと強く対立し、ドイツとアメリカの力を借りることで日本を排除しようというのが彼の大まかな考えになる。

 かくして、10万以上(総数30万人)の国民党軍の精鋭部隊が、国際法を無視して上海租界の軍事的中立地帯に塹壕(クリーク)を作り、日本人の多く住む地域を半包囲し始める。
 だがこれはテロではなく、明確な国家による軍事行動だった。

 1937年8月に「第二次上海事変」が起きるが、日本は事態を楽観していた。蒋介石は、明らかにヘマをしたのだ、と。
 相手は国際法違反をしていたので、その事を国際社会に訴えれば、戦わずして相手が引き下がる可能性が高いと踏んでいた。
 その上で、自分達は被害者となり、中華民国は大きく外交失点するだけなのだから、相手のミスもいいところと言うのが、事件発生当時の日本側の感想だった。
 加えて、中華民国も国民党も日本軍が本気になって戦えば、すごすごと引き下がり向こうから事実上の白旗を振ってくると侮っていた。
 そして実際に、日本帝国と中華民国の国力差は懸絶していた。
 軍事力については、数だけは中華民国軍が多かったが、武器弾薬の殆どを輸入している中華民国軍は、訓練された精鋭部隊を除くほとんどが、旧時代の軍閥という名の野盗やゴロツキ、無職者の集合体であり、「軍隊」として体を成していない組織が殆どだった。
 「華独合作」でさらに多くのドイツ製武器を得ることが出来たが、それは戦時に使ったらすぐに無くなる程度のものでしかない。さらに言えば、ドイツと約束した中華民国内での兵器工場の建設は、まだ計画途上だった。
 蒋介石自身も、装備を調えた国民党直属の精鋭部隊以外がアテにならない事は知っていたので、上海での日本軍攻撃には自らの子飼いの兵力を中心に差し向けた。

 経緯については省略するが、初期の「上海事変」は小競り合いであり宣伝合戦だった。
 しかし、日本が中華民国の国際法違反を世界に訴えても、欧米諸国の動きは低調だった。
 西欧諸国は第一次世界大戦の心理的影響で、戦争や国際紛争に敏感であり、そして臆病だった。
 アメリカのように、明らかに中華民国の肩を持つ国もあった。
 既に中華民国と防共協定を結んでいたドイツも、当初はほとんど沈黙していたにも関わらず、だ。
 一方でドイツは、中華民国の武器の追加発注に応えていた。
 これは、日本に対する敵対行為であり、日本のドイツに対する心証を非常に悪くする一手となった。日本政府は、アメリカに対するよりも先にドイツに強く抗議したほどだった。

 そして日本は、国際法を犯した中華民国への懲罰として上海方面に大規模な軍の遠征実施を世界に対して発表する。
 国際連盟の事も久しぶりに「思い出し」、中華民国の中立法違反を訴える書類を提出した。
 中華地域用の「九カ国条約」対策としても、悪いのは先に違反した中華民国だと強調して、日本の正当性を訴えることを忘れなかった。国際外交に疎いと言われることの多い日本だったが、この時は及第点以上の外交活動を行っていたと言えるだろう。
 しかも全てを、世界中のマスメディアに広く公開した。
 悪いのは、明らかに中華民国だった。
 そして日本政府は、これ以上中華民国が違反を続ける場合、宣戦布告と軍事行動も辞さずと発表する。

 これに対して中華民国(蒋介石)は、戦争状態になるとアメリカが中立法があるので支援どころか貿易すら出来なくなるため、戦争ではない戦闘状態もしくは紛争状態で日本を貶めて、最終的には追い出す動きを続ける。
 アメリカなど一部の列強も、日本より中華民国を支持した。中華民国はどうでもいいが、強大化した日本の力を少しでも殺ぎたかったからだ。

 そして情勢の結果、日本政府は中華民国政府に対して正式な手続きを経た上で最後通牒を突きつける。24時間以内に明確な回答と行動がない場合、48時間以内に宣戦布告を実施し、軍事行動を開始すると宣言する。
 しかも日本政府は、その事を世界中の報道各社に同時に発表した。
 これに対して、既に戦闘が行われているため国際的にも引っ込みが付かなくなっていた中華民国(蒋介石)は強気の姿勢を崩さず、むしろ上海での軍事行動を強化した。
 これで日本が悪役(ヒール)になり、国際的に日本を中華の大地から追い出しやすくなると考えたからだ。

 もっとも、蒋介石は大切なことを忘れていた。いや、気付いていなかった。
 実際の軍事力を比較すると日本軍が懸絶していたという事を。

 日本は、通告した通り中華民国に対して宣戦布告を実施。既に準備を終えていた軍が素早く行動を開始する。
 「日支戦争」の勃発だ。
 もともと満州(=対ソ連)向けの即応部隊として国内に1個軍団(3個師団・約7万人)が準備されていたので、日本陸軍の動きは非常に早かった。日本海軍も、すぐさま揚子江沖合に有力な艦艇を展開した。
 このため反日傾向を強めていたアメリカなど一部諸外国は、戦争自体が日本の謀略だと考えたほどだった。
 だが紛争当初は、現地中華身国軍は数で圧倒していた。装備も悪くなく、ドイツ製の軽戦車すら装備していた。
 現地日本軍は、海兵隊が2000名程度駐留する以外は、旧式の装甲巡洋艦が停泊している程度だった。しかし海軍の旧式装備で重武装であり、また海軍内から選抜された兵士で構成されているため、海兵隊はねばり強く戦った。
 そしてすぐにも、日本本土から援軍が来援する。

 来援したのは、大船団に載せられた陸軍部隊と、それを護衛する海軍の大艦隊だ。
 しかも沖合には、航空母艦までも展開していた。
 上海郊外に上陸した日本軍は、上海に駐留する数も少なく警備部隊程度の装備しか持たない日本海軍海兵隊とは格段に違っていた。
 陸軍の正規3個師団に支援部隊を加えた軍団規模の大部隊な上に、全ての師団が戦車連隊と機械化捜索連隊(機甲偵察大隊)を持ち、うち1個師団が歩兵など全ての兵科が自動車化され、支援部隊に重砲兵旅団などを持っていた。
 このため、上海に押しよせた大船団は、優に100隻を上回る大規模なものだった。
 各師団の装備(数と質双方)も、当時の欧米の第一級のものとほぼ同程度あった。急速な機械化が進んだ陸軍大国ソ連と戦うことを考えれば、当然の装備と編成だった。だが、列強より劣る軍隊でしか持たない中華民国軍に対するには、質の面では過剰な戦力だった。
 そして中華民国側が準備した塹壕は、戦車部隊と機械化された重武装の歩兵部隊にとっては障害物にもならなかった。
 また装備だけでなく、戦術も大きな隔たりがあった。
 国民党軍は、ドイツ軍事顧問によって塹壕戦を基本とした第一次世界大戦型の戦闘を想定し訓練していた。ドイツから軽戦車をもらったが、それも陣地防御に使うつもりでいた。

 一方の日本帝国軍は、第一次世界大戦の塹壕戦を研究しつくした上に、急速に機械化を進めていたソ連赤軍との満州外縁の草原地帯での戦いを想定して、高度な機動戦、機械化戦を前提としていた。
 戦車に対する認識も、中華民国では歩兵と共に戦う「鉄牛」だが、日本では大東人が言い始めた「鉄騎」、「鉄の騎兵」と呼んでいた。
 中華民国軍が、戦車は旧来通り単に歩兵に随伴する移動するトーチカと見ていたのに対して、日本帝国陸軍は機動性を重視していたという事になる。
 日本陸軍内では戦車に対する理解は大東系軍人の方が高く、西日本が歩兵支援の戦車を求めたのに対して、大東では早くから機動性と対装甲戦の重視が言われていた。
 この時部隊を率いていた指揮官も、大東北部の武士出身の守原大将(伯爵家の分家筋の地爵(バロン)家当主)だった。

 日本の大軍派遣に対して、中華民国は大本営を設置し全国総動員令を下した。さらに蒋介石自らが陸海軍総司令に就任し、全国を4つの戦区に分けて純然たる全面戦争体制を取った。
 日本が宣戦布告したので、自らも仕方なく宣戦布告を実施した。
 対外向けでの声明では、日本の侵略に断固戦うと事実上の徹底抗戦を発表した。だが宣戦布告したことで、日華ともに戦時の国際法に縛られることになり、貿易、特に武器の購入に大きな支障を来すことになった。
 特に武器を輸入しないと戦えない中華民国にとって、長期戦を選択できない事を意味していた。
 仮に他国から支援なり援助を受ける場合、支援する国は日本との戦争状態を覚悟しなければならなかった。
 また中華民国にとって、日本が早期に大軍を派遣したことは予想を越える事態だったが、このまま全面戦争に持ち込む事で日本を「悪者」にして、国際的に有利になると言う算段があった。
 ここまでは、ある程度は蒋介石の目論見通りだった。
 あとは広大な国土を利用した持久戦をしつつ、諸外国を利用して日本を中華世界から追い出し、最終的には自分たちが勝利する筈だった。
 困難はあるが、蒋介石はやる気になっていた。

 上海の国民党軍は、流石に精鋭部隊だけに奮闘した。
 日本側の戦力が少なかった事もあって、戦況は一時膠着状態に陥った。
 このため蒋介石は、さらに国際世論に訴えるべく行動を強め、アメリカを中心に中華民国を支持する動きが強まった。
 特に外交上では、戦争開始前に日本が色々と腐心したにも関わらず、日本を非難する声が強まった。
 当然と言うべきか、日本国民は不条理に日本を非難する国に対する敵意を募らせる事となる。

 だが、10月になると戦況が一変する。
 上海近郊の杭州湾に、日本軍の大規模な増援が上陸し、「上海包囲戦」が実施されたからだ。
 これで戦況が一転。杭州湾に上陸した日本軍は、先に上陸した部隊よりも重武装だった。戦車を中心とした実験的な機甲師団(戦車師団)を含む、重武装の機械化部隊だったからだ。
 このためほぼ無血で上陸して大胆な機動戦を始めると、旧来の軍隊でしかない中華民国軍では全く対応できなかった。
 ドイツが供与した軽戦車を前面に押し立ててもみたが、機関銃しか装備しない小型の軽戦車では、本格的な戦車を大量に装備する日本軍の敵にもならなかった。しかも運用するのが、不慣れな中華民国の兵士とあっては尚更だった。
 上海に展開していた中華民国軍30万は、以前として数では劣る日本軍に呆気なく包囲され、側面と背後から攻撃された事で一気に瓦解した。

 一連の戦闘で国民党精鋭部隊がほぼ殲滅されると、追いつめられた蒋介石は、いっそう全面戦争の面を政治的に押し出そうとした。
 だが日本軍は、上海近辺の中華民国軍を掃討すると、上海周辺から進撃しようとはしなかった。
 日本帝国政府は、事態を外交に持ち込んだ。
 宣戦布告はしたが、日本の目的は上海の中華民国軍に懲罰を実施するためだからだ。
 日本は、イギリスなどに仲介を頼むと共に、国際連盟に中華民国の国際法違反を分かる限り証拠を揃えて訴え出たのだ。
 先年のクーデター騒ぎで綱紀粛正が行き届いていた日本陸軍も、現地軍が勝手に動くような事は無かった。現地で動こうとした者は皆無では無かったが、中央から派遣された将軍達と現地の憲兵隊により拘束され、その後強い処罰が実施されたほどだ。
 そして日本側が写真など物的証拠付きで提出した中華民国の違法行為は、中立地域での軍の展開、陣地の構築、先制攻撃、中立国への攻撃、自国民に対する暴力と掠奪、兵士と分からない状態での戦闘行為など、数え上げればキリがないほどだった。
 しかも日本軍は、上海にいた各国関係者を連れて現地視察もさせており、中華民国の政治的劣勢は明らかだった。

 そして本来なら、日本側の意図としてはこれで戦争終結の筈だったが、事態は思わぬところで動く。
 満州国の張作霖が好機到来と蠢動し、自らの元軍閥を中心とする満州国軍を動かして、現地日本軍を出し抜く形で一気に中華民国領内に侵攻。
 当時北平と呼ばれていた北京を占領してしまう。
 これで事態は一気にこじれ、諸外国は日本が時間稼ぎの謀略を働いたのだと対日姿勢を硬化し、あとはなし崩しに全面戦争になだれ込む事になる。
 日本としては、飼い犬に噛まれたようなものだった。

 ■日支戦争(1)

 日本政府公称で「日支戦争」とされた戦争は、なし崩しに日支全面戦争に発展・拡大した。
 しかし両者共に短期戦を予定していた為、貿易面で大きな支障を来すようになる。国家間の戦争状態となったため、中華民国には武器と支援が、日本には資源の輸入と製品の輸出に問題が出たからだ。
 そして日本の中華での大規模な軍事行動は、上海での行動だけで無くなったため、列強間で結ばれた中華地域での軍事活動を禁じた「九カ国条約」に違反する。
 まずはこの点において、日本は国際非難される事になった。
 加えて日本は、他国に攻め込んだので完全な侵略者となった。
 事が上海周辺で収まっていれば問題も少なかったが、もはや全てが言い訳に過ぎなかった。こうなっては、日本としては中華民国を降伏させるより他無かった。
 もっとも、貿易を制限したのは当面アメリカだけで、他国は戦争特需にあやかるべく貿易をむしろ活発化させた。中華民国への支援も、戦争を長期化させてより多く儲けるために積極的になった。アメリカのルーズベルト政権は日本が侵略者だと非難していたが、この頃は非難以上ではなかった。
 そうした戦争に際して日本は、短期間で大軍を動員して一気に勝敗を決しようと本格的に動き始める。

 全面戦争となって以後、日本軍は短期終結を目標として続々と軍を編成して、多くを中華民国領内に送り込んだ。軍需工場は戦時生産に移行して、大量の武器弾薬を生産した。
 結果として日本国内から失業者がいなくなり、都市部を中心として戦争特需に沸く事となる。
 1937年が終わる頃、日本軍は常備軍内での限界とほぼ同じ数の24個師団90万人もの戦力を中華民国内に投入していた。さらに満州国軍が約15万人あった。加えて、さらに60万の部隊が日本本土および満州国内で準備中で、三カ月以内に投入可能だった。
 その上日本陸軍は、戦争を短期決戦で終わらせるため、手持ちの戦力の八割以上を投入する覚悟すら持ち、実際準備を進めていた。つまり日本陸軍は、50個師団、200万の兵力を対中華民国戦に投入する意志を持っていた事になる。
 この数字は、事実上の準戦時動員が進んでいた日本帝国陸軍240万人の8割以上に相当する。
 他に、約2倍に増員された海軍将兵と海兵隊員合わせて20万人があったが、世界中でも列強と呼ばれる国での100万人以上の兵力出現は、ソ連を除けば世界大戦(グレート・ウォー)以来の出来事だった。
 諸外国が警戒するのも当然だった。

 この頃は、再軍備を宣言したドイツも、それほど多くの軍人はいなかった。しかも日本は人口大国で国力も相応に有しているため、その気になれば1000万人以上の陸軍を編成することも可能だった。
 日支戦争が本格化して、世界は初めて日本の本当の姿を知って警戒感を強めた。
 これに対して中華民国軍は、上海事変の前で自称300万の軍隊を有していることになっていた。
 しかし実際頼りになるのは、全体の約三分の一を占める蒋介石の私兵集団といえる国民党軍だけで、その国民党軍の精鋭部隊は既に上海の戦いで主力が包囲殲滅されていた。
 約50万の兵士が戦死するか捕虜となり、中華民国軍は戦争開始当初から実質的に壊滅状態と言えた。
(※捕虜の方が圧倒的に多かった。)
 このため中華民国は、大陸奥地への後退戦術、遅滞防御戦術を徹底する方針を固めていた。だが、この時は日本側の機械力を動員した戦闘の方が、雑多な軍閥の集合体でしかなかった中華民国軍の動きより大きく勝っていた。
 その様子は、まさに騎馬民族に蹂躙される漢民族といった様相を呈したと言われる。

 日本は外交的解決を期待し、1937年内は可能な限り軍事的行動は控えた。張作霖軍閥である満州国軍が北平(北京)を占領して大掠奪を行ったが、現地日本軍は補給以外で何も活動しなかった。
 一方、日本本土では、軍の大幅な動員と派兵準備が急ピッチで進められた。また、満州国内に駐留する日本軍の約半数も、戦時編制への動員が進められた。
 そして1938年1月には、さらなる大軍を揚子江方面と華北方面の双方に展開し、機械化部隊を全面に押し立てて一気に進軍した。
 南北どちらも方面軍規模に拡大され、合わせて20個師団以上が投入された。しかも機械化、自動車化された部隊を可能な限り先鋒部隊に据え、さらに空軍(主に陸軍航空隊)も準備した。
 上海での戦いを早くも反映させたものだが、野戦で敵主力を包囲殲滅するために準備を行ったからだ。
 そして日本軍は、軍閥中心の中華民国なので軍隊を潰せば勝てる勝てる戦争だと考えていた。

 そうして1938年内に行われた一連の戦闘、「南京進撃」、「徐州作戦」、「武漢作戦」での包囲作戦、電撃戦によって、中華民国軍の数の上での主力部隊の包囲殲滅に成功する。
 「人馬は進む」と日本国内では歌われたが、実際は大量のトラックと自動車、そして戦車など各種装甲車両が投じられ、中華民国軍は空襲を受け機械化部隊に後ろから追い立てられるだけだった。
 そして日本軍は、上海での戦いを合わせると1年足らずの戦闘で200万以上の兵力を、殲滅もしくは降伏に追いやった。
 またこの段階で、沿岸部を中心にまだ生き残っていた地方軍閥のかなりが、日本軍との友好関係を作るか中立状態に入った。
 南京から逃亡した国民党政府は四川盆地に逼塞したので、陸上での正面からの戦いはほぼ終息した。中華地域の広大な沿岸部の平原地帯は、日本軍の占領下となった。
 1938年末には予定通り200万の兵力が投入され、日本は予定通り戦争に決着が付いたと考えた。戦術的には、希に見るほどの完全勝利だったからだ。
 日本帝国陸軍は、歴史的大勝利と宣言したほどだ。
 だが、重慶に逃げ込んだ国民党政府、と言うよりも蒋介石は降伏しなかった。まだ鉄道が通じていない大陸奥地の四川盆地にある重慶から、徹底抗戦を唱えていた。
 加えて、俄に元気を取り戻した共産党軍が、北部奥地を中心にして日本軍に対してゲリラ戦を繰り広げるようになった。

 そして「戦争に勝った」と考えた日本は、政治家達が少しばかり心理的余裕を取り戻す。軍人達が計画した重慶への爆撃は一時延期され、中立国を経由した中華民国との停戦に向けた話し合いのための接触を図るようになる。
 しかし、蒋介石のあまりにも頑なな姿勢の為、日本側の努力は無に帰して、虚しく時間だけが経過した。また日本国内では、国粋主義者や報道機関などに扇動された国民が、中華民国との安易な停戦に反対した。
 日本政府としては、そもそも中華民国との全面戦争はいらぬ出費でしかなかった。無駄な出費を少しでも早く終わらせるため、中華民国が満州国を正式承認すれば戦前の状態まで復帰してもよいとすら考えていた。
 だが、すでに数万の死傷者を出している状況から、勝者として何か有力なものを賠償で得なければ、日本国内でも国民が納得しない状態だった。

 結局、この時点での停戦は流れ、日本は体制を整えた上での新たな攻勢の準備に取りかかるしかなかった。