■2nd_War(2)


■日支戦争( 2)

 1939年5月、日本軍は世界初の戦略爆撃と言われる「重慶爆撃」を開始する。
 重慶のある四川盆地は、冬の間は霧で空が閉ざされるため、5月から10月の半年間程度しかまともな爆撃が出来ない気象条件にあった。
 そして日本側からの講和のアプローチが失敗したことを受けて、この時期から中華民国を交渉のテーブルに引きずり出すための攻撃として、「重慶爆撃」爆撃が開始されたのだ。

 爆撃は約半年間実施され、日本軍は陸海軍併せて約150機の中華民国空軍機を撃墜もしくは破壊し、都合5000トンの爆弾を投下した。爆弾の中心は焼夷弾のため重慶全市はほぼ焼失し、防空壕などの準備が整っていなかった中華民国政府関係者にも多くの死傷者が出た。
 だがこの爆撃は、軍事的にも政治的にも失敗だった。
 からくも爆撃を逃れた蒋介石は、さらに奥地の成都に後退して徹底抗戦を唱え続けた。そして都市無差別爆撃によって国際的な日本への批判が一気に高まり、前年からの停戦に向けた日本の動きは、空爆準備のための時間稼ぎとすらとられた。
 もっとも、ドイツと関係の深い中華民国を表だって支援する西欧諸国は現れなかった。何しろ1938年秋頃から、英仏にとってドイツは仮想敵であり、ドイツが中心となった枢軸陣営は敵と言えた。
 そしてその一角に中華民国にあるのだから、支援するのはお門違いも甚だしかった。
 英仏などは、むしろ日本との貿易を増額させて、自らの戦争前に少しでも稼ごうと動いていた程だ。
 そして兵器の自給ができない中華民国は、日本を少しでも弱体化させたいソ連だけからの支援を頼りとして戦うも、もはやじり貧状態だった。
 そして息も絶え絶えとなった蒋介石達だったが、世界はさらに急速に動き始めていた。

 当時の中華民国は、「華独合作」という協定によって親密な関係にあり、世界的に見て中華民国は準枢軸陣営と見られていた。防共協定の対象のソ連が中華民国に紡機を供与していると言う不思議な構図になっていたが、ソ連も英仏にとって敵のようなものなので、あまり関係もなかった。
 特にドイツの膨張に歯止めがかからないと見られたズデーデン問題以後、つまり1938年10月以後は中華民国の行いに肯定的な見方はかなり減ていった。
 日本としては、1938年秋から翌年春までが日支戦争を終息させる最大のチャンスだったのだ。
 だが日本は、中華民国が白旗を振ってくると楽観して停戦外交に出たのだが、蒋介石の頑なな姿勢のため停戦や講和に失敗してしまう。
 その年の5月からは日本の重慶爆撃が大規模化し、日本の国際的な非難と孤立は進んだ。欧米諸国ばかりか、ドイツからすら強い非難の言葉を受けていた。
 しかし、ドイツの対日批判は、中華民国とドイツの関係を世界が思い出す切っ掛けともなった。
 しかも、戦争中に出くわした兵器の多くやドイツの軍装に身を包んだ中華民国軍兵士、さらに重慶の空を守る戦闘機の一部がドイツのメッサーシュミット社の機体とあっては、中華情勢に注目する人々としてはドイツと中華民国の関係を無視することは出来なかった。
 日本もドイツへの敵意を募らせていた。

 そしてさらに1939年8月、ドイツとソ連が不可侵条約を結ぶと、中華民国の行動は枢軸陣営の行動の一環ではないかと主に日本では見られた。
 要するに、日本軍を中華民国に引きつけてソ連に利する行為を行ったと見られたのだ。
 日本軍が中華民国内で身動き出来なければ、ドイツとの関係を結んだソ連は日本との関係で優位に立てるだけでなく、東欧などでも好き勝手出来るからだ。
 そこにきての第二次世界大戦勃発により、侵略している側の日本がむしろ枢軸陣営の壮大な謀略に陥れられた被害者なのではという論調が、特に枢軸及び共産主義に怯えるヨーロッパで起きた。
 そして大戦勃発後は、ドイツと戦端を開いたイギリス、フランスが日本への接触を増やした。
 とは言えその日本は、中華地域での戦火を拡大するばかりで、あまつさえ都市への大規模な無差別爆撃に踏み切っていた。この点、アメリカなどが非難するように弁解の余地は無かった。
 しかし当時の東アジア情勢は、世界の傍流でしかなかった。
 1939年9月1日にナチス政権下のドイツが突如ポーランドに侵攻し、これに対してイギリス、フランスがドイツに宣戦布告を実施。
 第二次世界大戦が勃発した。
 中華地域では、日支戦争勃発の時点で第二次世界大戦が起きたと声高く言うが、日支戦争はあくまで局地戦争に過ぎなかった。

 そして、第二次世界大戦の勃発で、中華民国の国際的な立場は一気に悪化した。
 準枢軸陣営である中華民国も、欧州諸国からほとんど見限られる事になるからだ。英仏は中華民国との通常の貿易も事実上停止し、ほとんど交戦国一歩手前状態になった。
 英仏はアメリカからの支援ルートの維持すら謝絶し、支援に使う援助ルートの起点となる場所を他国に提供しなくなった。
 英仏にとって、中華民国は明確に「敵」になったからだ。
 だからと言って日本を味方として扱ったわけではないが、中華民国にとって外交環境が極度に悪化した事は間違いなかった。
 しかも、戦争を始めたドイツからの支援や援助、貿易は完全に途絶した。ドイツから中華民国に運ぶルートが途絶された上に、ドイツは自らの戦争のために武器弾薬が必要だからだ。
 英仏寄りの姿勢を示すアメリカは、ルーズベルト政権がいかに親中的といっても、ドイツと関係の深い中華民国を今までのように支持するわけにもいかなくなった。
 何しろ中華民国は、間接的に英仏の敵となったからだ。

 そしてその後に中華民国を支援したのが、主にソ連とアメリカになる。両国は、日本を軍国主義の侵略者と断じて中華民国を支援したが、この取り合わせは少し異色だった。
 しかも規模の点でソ連が対華支援の主力を占めており、世界的にも準枢軸陣営として非難されている中華民国を支援する事は、アメリカ政府としても声高には出来なかった。
 ルーズベルト政権に対して、野党の共和党などは中華民国への支援を停止するように求めたりもしている。
 とは言えアメリカには中立法があるので、当時のアメリカの支援は国債の購入、反日ロビー活動、第三国を経由しての一般物品の貿易に限られていて、中華民国にとっての本当の命綱は蘇rんだった。

 一方、中華民国だが、ドイツのポーランド侵攻から半月ほどして、慌てるように英仏と接触を持ったが、殆ど門前払いを喰らった。
 ドイツとの協定の破棄もしくは空文化、日本との戦争終結、可能ならばソ連との関係断絶、これをしてようやく交渉に値すると言われたからだ。
 中華民国にとって、どれも出来る事では無かった。
 中華民国としては、戦争で物理的関係がほぼ途切れたドイツよりも、西欧諸国の援助や支援を期待したいところだったが、全てが甘い考えだった事を痛感させられただけだった。
 そして蒋介石にとっては、日本との現時点での和解は問題外だった。故にソ連の武器は必要で、当面の兵器や義勇兵の供給者であるソ連とドイツとの関係を思えば、ドイツとの外交関係は現状維持しなければならなかった。
 また、ここで仮にドイツとの関係を絶つと言っても、英仏の冷たいあしらいを見る限り、国際的な信頼が得られるとは流石に考えなかった。

 第二次世界大戦の勃発によって情勢の大きな変化はあったが、日本にとって中華民国との戦いの泥沼化には当面変化はなかった。
 とにかく、日本にとって鉄道のない四川盆地にすぐに攻め込むのが極めて難しいので、平原地帯での占領統治を安定化させつつ、北部の奥地にある西安の攻略と西安を起点とした四川盆地侵攻に力を入れた。
 そしてその上で、日本本国では大量の航空機と爆弾の生産が進められる。
 占領地での治安維持と徐々に勢力を増しつつある北部の共産党軍殲滅のために、軍の動員もさらに進められた。1941年夏には、全てを押しつぶす為に必要な150個師団、600万人の動員が実施される予定だった。
 平行して航空戦力の充実も進み、1940年春には陸海軍共に多数の新型機を含む1000機以上の実戦機を奥地の前線に揃え、5月からの四川爆撃に対して万全の体制を敷いた
 蒋介石を完全に吹き飛ばし、汪兆銘(汪精衛)を次の為政者として立てて戦争を強引に終わらせようと計画したのだ。

 事ここに至って、日本は本当の総力戦を決意したと言えるだろう。
 このまま座して失血死するよりも、大胆な治療を選択したのだ。

 平行して日本国内では、国民に対する戦時統制と総力戦に向けた体制が徐々に強化されていった。
 1939年4月に「賃金統制令」が出され、同年秋には「国民徴用令」が出された。さらに戦争が長引く場合に備えて、「価格統制令」、「小作料統制令」が準備された。
 また戦費調達のために、国民に対して貯蓄が奨励された。銀行などに貯まった膨大な資金で国債を購入し、さらには国民に消費させない事でインフレを抑制するという政策も推進された。さらに政府は、戦争が続いた場合は一部物資の配給もこの時点で検討していた。
 とはいえ、日本帝国政府の対策と懸念は、結果として杞憂で終わることになる。日本国内での戦闘特需も、日支戦争が泥沼の停滞期を迎えるまでに終息に向かうことができた。

 と言っても、日本軍による攻撃が功を奏した訳ではない。世界情勢と各国間の関係、そして日本の国力と軍事力が複雑に錯綜した結果だった。
 確かに日本軍は、1940年5月から2度目の重慶爆撃を今までにない規模で計画、そして実行に移した。その攻撃規模は、同年7月から9月に行われたヨーロッパの「バトル・オブ・ブリテン」にすら比肩される事があるほどだ。
 だが、1940年4月から9月にかけてのヨーロッパでの戦況の変化こそが、日本に最も影響を及ぼすことになる。

 ■第二次世界大戦(1)

 1940年4月8日:ドイツ軍、北欧侵攻開始
 1940年5月10日:ドイツ軍、西欧侵攻開始
 1940年5月10日:イギリス、チャーチルが首相に就任
 1940年5月26日:「ダンケルク作戦」開始
 1940年6月10日:イタリア、対英仏宣戦布告
 1940年6月14日:パリ陥落
 1940年6月22日:フランス降伏
 1940年6月末:ドイツの和平提案をイギリスが蹴る
 1940年7月10日:「バトル・オブ・ブリテン」開始
 1940年8月12日:ドイツ、英航空戦力の撃滅戦を開始
 1940年9月1日:ドイツ、英本土侵攻作戦の準備を開始
 1940年9月7日:ドイツ、英本土空爆の目標をロンドンに変更
 1940年9月17日:ドイツ、英本土侵攻作戦を無期延期
 1940年9月30日:ドイツ、英本土への昼間爆撃を中止

 日本軍が大規模に重慶を爆撃している間、概ね上記のようにヨーロッパ情勢が推移した。ヨーロッパ情勢に、東アジア情勢は関係がなかった。
 そしてヨーロッパの動きに一喜一憂したのが、国際的に孤立したままの日本帝国ではなく中華民国だった。世界から準ドイツ陣営と見られていた中華民国は、ドイツがイギリス・フランスとの戦争に勝利すれば、国際情勢と共に自らの状況が大きく変化すると大きな期待を寄せていた。
 一方で5月半ばからは、各種爆撃機900機、戦闘機400機を準備した日本軍が大規模な重慶爆撃を開始した。そして中華民国を枢軸陣営と見た場合、西ヨーロッパとは全く正反対の戦況が出現する。

 都合三度目の大規模な重慶爆撃に対して、日本軍は陸海軍合同の巨大な航空兵団を武漢周辺に集結。爆撃に使うための機体、燃料、そして大量の弾薬を集めた。
 列強三位の国力と生産力を十分に投入したものであり、1940年春の時点では世界最強級の航空戦闘集団だった。制空権獲得の為、多数の新型戦闘機も投入されていた。
 日本軍の航空集団は、5月半ばから6月後半にかけて重慶市のほぼ全市を完全に破壊し、中華民国は累計1万名以上の一般人の死者を出した。投下された爆弾の総量は約1万トン。
 当時の日本軍機は重爆撃機の積載量は平均して1トンから2トン程度だったので、のべ7000機が爆撃を行い、1日平均で150機以上の爆撃機が出撃した計算になる。
 6月末に行われた最大規模の爆撃では、100機の戦闘機が護衛する約300機の爆撃機が一度に500トン近い爆弾を落としている。
 爆撃では重慶だけでなく、さらに奥地の成都も対象とされた。
 加えて、重慶に伸びる各国の支援ルートとなる幹線道路に対しても、戦術爆撃を中心に機銃掃射を含めた激しい空襲が実施された。
 幹線ルートは、武器など援助物資の輸送路だった。中世の戦いで言えば、火攻めと兵糧攻めを合わせて行うようなものだった。
 状況的には、もはや中華民国の降伏以外の選択肢はなかった。
 このまま日本軍の爆撃が行われれば、重慶は臨時の政府施設もキレイさっぱり吹き飛ばされ、蒋介石以下国民党政府関係者の本当の意味での生死も定かでなくなる可能性も十分にあった。
 日本軍は、重要施設と思われる地域には大型爆弾も投下していたから、厳重に防御された地下の防空壕すら危険になっていたからだ。日本軍は、重要施設と思われる地域には直径20メートルものクレーターが出来る大型爆弾も投下していた。

 そうした絶望的な爆撃の中で、中華民国の国民党はドイツの勝利をアテにした。ドイツが勝ってイギリスが降伏すればヨーロッパの戦争は終わり、欧米諸国の目が再び中華民国と日本に向き、日本に対して有利な国際世論形成が出来ると考えたからだ。
 このためフランス降伏が確実視されるようになると、強硬な姿勢を表明する放送すら行うようになった。ヨーロッパでの戦争に勝利したドイツを利用して、自らの戦争を戦略的勝利に持っていこうという露骨な算段だった。
 この事は重慶に疎開していた各国代表にもあえてリークされ、日本に対する大きな政治的揺さぶりとなった。

 だがこの時中華民国は、あまりにも自国本意に考えすぎていた。
 ドイツに対する徹底抗戦を決意していたイギリスを、そしてイギリスの宰相となったウィンストン・チャーチルを本当の意味で敵に回してしまったからだ。
 そしてヒトラーに勝つためならば悪魔とでも手を結ぶと後に語ったチャーチルは、戦時にあって国際的に孤立する日本と握手することに全く躊躇がなかった。
 チャーチルにとって、日本は悪魔や共産主義者よりマシな相手だったからだ。

 それにイギリスにとって、日本を味方とすれば利点の方が多かった。
 日本が連合軍に参加すれば、数ヶ月後には中華民国に向けていた大軍をヨーロッパに注ぎ込む可能性が出てくる。それが無理でも、現時点で半ば仕事のない強大な日本海軍を地中海や大西洋に呼び寄せることが十分可能と考えられていた。
 そう世界に向けて発信するだけでも、政治的には大きな効果があるのは確実だった。
 ドイツと関係の深い中華民国などより、当時世界最強の海軍国の一角である日本を味方にすることは、イギリスの利益に合致していた。
 そして今までは、ドイツの動きが静かだったので日本は無視しても問題なかったが、自らの窮地にあって日本の欧州に対する中立状態と枢軸陣営の中華民国との交戦状態は都合の良い状況だった。

 イギリスは、早くは1939年9月にドイツに宣戦布告したすぐ後から、日本との接触を持った。
 また一方で、一時期支援していた中華民国に対しては、ドイツとの関係を改めるようにメッセージを送っていた。
 そして1940年5月中頃からは、さらに東アジア外交を活発化させる。このまま紛争状態を続ける場合、中華民国を枢軸陣営と認定して宣戦布告も辞さないと言う強気の発言を行う。
 当然だが日本との交渉を活発化させ、国際外交への復帰を果たしたい日本もイギリスからのアプローチに飛びついていた。
 支那の泥沼から抜け出せるばかりか一気に国際復帰が叶うのだから、日本としては棚からぼた餅、瓢箪から駒といった状況だった。
 特に日本海軍は乗り気だった。中華大陸では、航空隊以外やることが殆どないからだ。気の早い将校は、夏には欧州だと家族に知らせたと言われる。
 とはいえ6月に入った時点では、フランスが降伏寸前でイギリスも窮地に追いつめられているので、中華民国はかなり強気だった。ドイツへの接近も強めていた。
 日本国内では、敗北するかも知れない連合軍に日本が参加すること、連合国側で参戦する事への反対の方が強かった。参戦した途端に、イギリスがドイツに両手を上げたら目も当てられないというわけだ。

 そうした中で、主に大東系日本人の軍人、一部政治家が、「じゃあ、イギリスが降伏しないよう、即座に支援を開始すればいい」と主張した。直接的な行動を好む大東人らしい考えで、常識の通じない戦時なのだから、少々逸脱した行動も問題ないという論法だった。
 既に世界情勢は、不倶戴天の敵と見られていたドイツとソ連が不可侵条約を締結したり、共産主義に反対する日本と準枢軸陣営の中華民国が事実上の全面戦争を行っている時点で、十分以上に「複雑怪奇」だった。日本が多少アクロバットな行動をしても、今更だと言う事になる。
 そうして日本は、まずは交戦国の中華民国と関係の深いドイツの侵略戦争を外交的に強く非難し、イギリス、フランスなどとの関係改善を図るための具体的な一歩を踏み出した。

 戦時下での日英の急速な歩み寄りに「待った」をかけたのは、英仏への戦争支援を実質的に開始していたアメリカだった。
 アメリカ政府は、日本が「正しい道」に戻ろうとすることを歓迎しつつも、その前に中華民国との実質的な戦争状態の完全解決を求める。さらに中華大陸からの全面撤兵こそが望ましいという、満州からの撤退すら臭わせる言葉を発する。
 そして既にアメリカから支援を受け始めていたイギリスは、アメリカの言葉を全て無視することは難しかった。
 それに現実問題として、日本が中華民国との戦争状態を終息させないと、ヨーロッパへの本格的な陸軍部隊の派兵は夢物語でしかなかった。
 日本とイギリスは交渉を進めつつも、短期的に決まったのは東アジアでの不可侵協定、相互の最恵国待遇での貿易、日本からイギリスなどへの武器輸出の大幅増加、そしてイギリスなどによる日本と中華民国の停戦に向けた仲介だった。
 だが、日本が求めた満州国の独立承認などの問題は、短期的に解決できる問題ではないとして棚上げされた。
 満州国の事は、アメリカが横やりを入れたものだ。

 しかしイギリスと日本が、自分たちの間で決めたことを発表したのは、非常に大きな政治的インパクトを世界に与えた。
 ドイツ宣伝省は、いつもの調子で日本を嘲笑したり悪し様に罵ったが、言葉が出た事こそが日本の行動に意味があったことを伝えていた。イギリス国民は、まだイギリスの味方が居ること、それが先の大戦でも大艦隊を派遣した東洋の国だった事を思い出して勇気づけられた。
 また小さいことだが、アジアに配備されていたイギリス軍の殆どが、急ぎ足で他に必要とされる場所に移動していった。二線級の戦力ばかりだが、地中海方面の増強など全く使い道がないわけではなかった。
 しかし、イギリスの危機は続いた。
 「バトル・オブ・ブリテン」と呼ばれる英本土上空の制空権を巡る空の戦いは熾烈を極め、一時はドイツ軍が侵攻直前にまでイギリス空軍は追いつめられた。
 この間、既にイギリスと和解して協力関係を結んだ日本は、すぐにもイギリス向けに船を多数出して、イギリス本土で不足していた大量の武器弾薬を送り届けている。
 この時の船の一部はドイツ海軍の潜水艦Uボートに襲われており、日本人の最初の「戦死者」だと言われ、イギリスでは戦中に記念碑までが建てられた。
 しかも日本は、非公式ではあるがイギリス本土に義勇兵としてのパイロット派遣もおこなった。1940年秋までだと数は50名程度だったが、ブリテン島東部沿岸を守る一助となった。
 「ZERO」という名を持つやたらと航続距離の長い謎の空冷戦闘機の存在は、当時の戦場伝説の一つとなったほどだ。

 そして1940年9月末にイギリスの当面の危機が去ると、戦争は長期戦になるということで、中華民国側の抗戦意欲が大きく低下した。
 しかも重慶を中心とする四川盆地への日本軍の爆撃は夏の間も継続して行われ、実質的な抗戦もほぼ不可能となっていた。
 重慶は、防空壕以外に建物がないとすら言われた程だ。
 さらに、日本軍が攻勢を強めていた北部奥地の要衝西安が陥落した。加えて、イギリスの実質的な協力もあって、一時的であれ他国から中華民国への支援ルートが、ソ連のものを除いて完全に途絶した。
 アメリカはソ連を介してしか、物理的な支援も援助も出来なくなった。
 しかも翌年春には、日本軍が四川盆地に侵攻してくるという予測が故意に流された。さらに日本は、連合軍としての最初の活動として、ヴィシー・フランス側に与したインドシナへの侵攻を行う可能性もあったし、実際日本とロンドンに亡命していた自由フランスとの間で考えられていた。

 こうした状況を前に、蒋介石は日本以外の国々を敵に回したことをようやく悟ったと言われる。
 そしてイギリスを敵に回したことは、アメリカをも間接的に敵に回したに等しく、蒋介石の戦略の失敗を意味していた。ソ連がまだ頼れなくも無かったが、ソ連は共産主義国家で主義の面で蒋介石の敵であり、ソ連自体が国際的には孤立しているに等しかった。
 状況を打破するには、自らも枢軸側に立って参戦し、ドイツがイギリスを打倒するのを期待するぐらいしかなかった。だがそうなると、イギリスを後援しているアメリカを完全に敵に回すことになる。
 何にせよ、対日戦略は完全に破綻していた。
 このため1940年秋、アメリカ、ソ連などの言葉と援助の申し出を半ば無視して、中華民国は日本との間に停戦を実施する。

 1940年11月には、イギリスの仲介によりシンガポールで行われた日華の停戦会議では、相互不賠償、中立地帯の再設定、日本軍の三ヶ月以内の占領地からの全面撤兵を基本条件として、さらに満州国、蒙古自治連合の中華民国による正式な承認で手を打つことになる。
 中華民国は、満州国承認だけは最初断固拒絶していたが、日本側が最低条件だとして主張して譲らず戦争再開までちらつかせたため、中華民国も渋々受け入れた。
 また中華民国政府は、日本から中華共産党対策の支援を受ける約束も取り付けていた。蒋介石と国民党としては、外の脅威に負けたのではなく、先に国内政策を重視するために戦争を止めたに過ぎないと言う形を政治的に作った事になる。
 当然だが、中華共産党は切り捨てられた。

 またこの会議を契機として、中華民国は国際的にもドイツなど枢軸陣営との関係を最低限にまで希薄化させ、以後連合軍に自らの名前を並べるべくイギリスなどとの間で交渉を進めていく事になる。
 一方で、連合軍になる事が簡単に進まなかったのが、日支戦争で強大な軍事力を持つに至った日本だった。