■■2nd_War(3)


■アメリカ、ソ連の対日戦の場合の軍事想定

 1941年に入った頃、ヨーロッパでの世界大戦は当事者以外にとっては少しだけ「階段の踊り場」状態にあった。そして同時期、東アジア情勢が、主に日本の対向国にとって緊張状態にあった。
 日本帝国は、日支戦争が終わった時点で約500万人の兵士を動員していた。加えて、さらに100万人の動員を進めていた。
 中華民国との戦争が続いた場合は、総兵力160個師団、550万の巨大な陸軍が誕生する予定だった。海軍も大規模な動員を進めていたので、動員数も600万人に達する予定だった。
 各部隊の質の面も、機械化、重火力化が可能な限り進められていた。特に航空戦力の拡充は顕著だった。
 軍需工場は、兵器と弾薬を3交代24時間のフル操業で、増産に次ぐ増産を重ねていた。新兵器の開発速度も、戦時レベルにスピードアップした。
 そして1941年に入った時点で、目指した状態はほぼ完成しつつあった。
 この大兵力で、今度こそ本気で中華民国を滅ぼすつもりでいた。
 四川盆地や華北奥地に攻め込むため、陣地突破用の新型の重戦車や、進撃に必要な輸送用トラックも多数生産しつつあった。
 航空機も、爆撃機を中心にさらに増産が進んだ。

 一方海軍だが、ただでさえ英米と同等の海軍を持つ上に、他国に先駆けて軍縮条約から解き放たれ、1936年からかなりの規模の海軍拡張を実施していた。
 既存の艦艇だけでも、戦艦18隻、正規空母7隻、軽空母2隻、重巡洋艦15隻、軽巡洋艦30隻、駆逐艦100隻、潜水艦50隻という陣容を誇っていた。
 加えて1936年度計画だけで、大型戦艦4隻、大型空母4隻、巡洋艦8隻、他多数という艦隊拡張計画を開始した。
 この拡張規模は、アメリカ、イギリスへの対抗を考えたものと言われることが多いが、調度兵器の更新時期だった影響の方が大きかった。
 でなければ、米英を足したほどの新造艦艇は計画しなかっただろう。
 だが、日本に刺激されたと言われるアメリカが、1937年に続いて38年に大規模な海軍拡張を実施すると、呼応して1936年度計画を1年前倒しにした上で、1938年度計画を開始する。
 1938年度計画は前の計画よりさらに大規模で、大型戦艦4隻、大型空母6隻、重巡洋艦4隻、軽巡洋艦12隻を中心としていた。しかも計画された戦艦の半数が、情報が非公開ながら条約を大きく上回る巨大戦艦だと言われていた。
 もちろんだが、大量の航空隊の建設も計画には含まれていた。

 どちらの計画も、経済力で三倍の国力を有するアメリカの計画を上回っていた。このためアメリカは1940年春にもさらに拡張計画を実施し、さらに同年7月に「両用艦隊法」を可決して、日本を遙かに上回る海軍拡張を開始する。
 だが日本も負けておらず、1940年に中型空母4隻と多数の小型艦艇を中心とする追加の拡張計画に踏み切った。1942年にも、さらに大規模な拡張を計画していた。
 これらは、殆ど戦時計画だった。
 とはいえ、日本が事実上の全面戦争中だと思えば、国力から比較して海軍拡張は限定的だった。この点からも、アメリカに隙を見せないための計画であって、アメリカとの本当の戦争を目的としているのではない事が見て取れる。
 その証拠と言うべきか、本当に戦時に必要な艦艇の建造計画は、この時点では計画以外では研究と一部設計くらいだった。
 また陸海軍双方が保有する航空隊、つまり空軍だが、陸海軍共に1000機以上の第一線機を抱えており、1941年春には稼働機数が総数5000機に達する予定だった。
 パイロットの養成と機体の大量生産も、計画が大きく前進しつつあった。そして航空兵力の面でも、アメリカの計画にかなり先んじていた。

 そして巨大な軍事力を生み出したのが、欧米各国のほぼ全てが軽視していた当時の日本の国力だった。この点を見てから、次に進もう。

 ・1940年度の日本の各種統計概要

・総人口: 約2億2000万人
・総動員時の最大兵力数: 1400万人(※予測値)
・国内総生産  : 682億円(1ドル=約2円)
・一人当たり所得: 310円(1ドル=約2円)
・粗鋼生産力: 約2600万トン
・船舶保有数: 約1300万トン
・石油消費量: 約2150万キロリットル(1800万トン)
・石油採掘量: 約300万キロリットル(250万トン)
・石油備蓄量: 約1800万キロリットル(1450万トン)

※石油に関しては、満州国より大量に輸入。一部を欧米より輸入。
※為替レートは、日本の戦時国債多発により円の価値が一時的に約二分の一に低下。

 

 領域は、保護国のハワイ王国を含めると広大な北太平洋のほぼ7割にも広がっていた。国土面積も500万平方キロメートルを越えるという事を考えれば、世界の地下資源の偏在は日本人達にとってはかなり理不尽に感じたことだろう。
 近代国家の血液とも言われた石油に関してだと、満州で見つかった大油田(油層も深いし質も低い)がなければ、英米に対する無謀な挑戦を行わなくてはならなかった可能性が高ったと言われる事が多い。
 石油以外にも、既に近代国家として産業の発展した日本では、他にも足りない資源も沢山あった。だが、近代国家の血液とも言われる石油が国内で最も不足していたからだ。
 日本が、大規模で有望な油田を持つ欧米各国との関係を重視しようとしたのも当然の選択で、イギリスの申し出はまさに渡りに船だった。
 何しろ、当時世界の大油田は、非常に偏った場所でしか採掘されていなかった。

 そして国力の指標である国内総生産だが、中華民国との全面戦争によって一気に膨れあがっていた。
 無論この数字は一時的なもので、このままいけば戦後に大きな不景気に見舞われるのは間違いなかった。
 1936年から1940年で名目上約二倍に膨れあがったのも、巨大な戦争による受注で余剰生産力が全て生産に回った事が強く影響していた。約5割も上昇した粗鋼生産についても同様だった。
 加えて日本には、満州国の資源や生産力でアテにできた。石油などは、その最たる資源だった。
 保護国で遅れたまま植民地的に放置されている朝鮮半島も、資源の少ない日本にとっては、地下資源の面でそれなりに利用価値があった。
 つまり、日本が有する領域と国力は、一国というよりは一つの地域と呼びうるものだった。
 また世界各地との貿易も途絶しておらず、主に東南アジア地域からの資源輸入は拡大傾向で行われていた。
 石油、錫、ボーキサイト、生ゴム、キニーネなど、日本が東南アジアに依存する資源は少なくなかった。

 そしてソ連とアメリカは、日本がイギリスを助ける予定とはいえ、軍事的にフリーハンドになったことで大いに焦った。

 まずはソ連から見ておこう。
 ソ連は、自ら極東のザバイカル方面を中心に約30個師団(ソ連の師団はかなり小型)を中心とした80万の兵力を防衛的に配備していた。
 防衛的なのは、日支戦争半ば以後の日本軍との軍拡競争に、最早つき合えなくなっていたからだ。有事の際のバイカル湖までの後退は、もはや規定計画だった。
 日本陸軍は、日支戦争が終わるまでに35個師団、120万の兵力を満州に置いていた。部隊の半分程度は、ソ連との兵力上積み競争の結果だ。だが、残りは戦争がさらに泥沼化した場合、華北部の中華共産党を総攻撃するために集めつつあった部隊だった。
 しかも中華大陸そのものには、250万の兵力を展開していた。
 そして本国には、予備を含めて120万の兵力があり、さらに戦争終了時点で100万の兵力が編成及び訓練中だった。
 この数字は、当時のソ連全軍を越える規模であり、ソ連を焦らせるのに十分な数字だった。スターリンなどは、当初は誤報や誤情報と断じたほどだった。

 そして日支戦争が終わると、日本陸軍は中華中原から250万の兵力を引き上げなければならないが、うち3分の1程度は鉄路満州へと移動した。華北に投入予定だった満州の部隊も、当面はそのまま維持された。
 日本陸軍は、まずは上海などから軍主力を日本本土に引き上げ、これをいち早く動員解除する事を優先したからだ。
 満州に移動した兵力については、約束を履行するためのやむを得ぬ措置と対外的に発表されたが、ソ連牽制が目的なのは間違いなかった。
 そして一時的であれ、1941年春までに約200万の兵力が満州に溢れることになる。ソ連は、万が一日本が対ソ連開戦を実施したら、三ヶ月でバイカル湖まで奪われると予測していた。
 そして石ころ一つ渡す気のないソ連の独裁者スターリンは、日本が動員解除するまでの措置として、日本との間に平和条約、できれば不可侵条約の締結を図ろうと接近する。
 一方の日本は、基本的に共産主義者を信用していなかった。
 加えてロシアは、昔からの仮想敵だった。
 しかもソ連は、日本が日支戦争をしている間に多くの戦力を満州などに並べ、さらに国民党を支援していたのだから当然だろう。中華民国への軍事支援、武器輸出については言うまでもない。
 日本にとって、この時点での次なる敵は、ドイツよりもソ連だった。
 だからこそ、戦争が終わるとすぐにも満州の兵力を大幅に増強したのだ。
 この日ソの対立の激化をイギリスはそれなりに好意的に見ていたが、アメリカは日本の軍備増強や軍国主義、さらにはチャイナに対する侵略を非難した。

 一方、依然として親華姿勢、反日姿勢を続けるアメリカは、日本との海軍拡張競争に進行速度の面で負けている状況を極めて危険視していた。
 日支戦争による日本の大規模な軍拡も、戦争の原則を無視して日本を強く非難し続けた。
 アメリカの政策には、ルーズベルト政権および民主党の、反日的傾向と親華傾向が強いというのもある。
 さらには親ソ傾向と、アメリカの各所に居た共産主義のシンパなどが、ソ連を援護するべく反日政策を進めさせたとも言われている。
 だが一方で、日本が強大な海軍を保有し、広大な北太平洋全域を実質的に支配し、さらには北米大陸の一部に領土すら持つという日本を、明確に自国の脅威と認識していたからこその強硬姿勢と取ることも出来るだろう。

 そして、ルーズベルト大統領がアメリカ海軍首脳部に詳細なレクチャーを受けた時、悲観的な報告ばかりだった。
 海軍は、日本とアメリカが今後どことも戦争しないと想定した場合、1945年下半期までアメリカが主に主力艦艇の総量において不利な立場に立たされると、資料や数字を上げて説明した。
 アメリカが大西洋と太平洋の両洋に艦隊を置かねばならない現実を考えれば、アメリカが「両洋艦隊」に倍する規模の海軍拡張を実施しない限り、日本に対する不利を覆せないと言うことだった。
 最悪の想定では、日本側がアメリカを攻撃する場合に最初の攻撃が奇襲攻撃となって、しかもアキレス腱のパナマ運河を破壊するというものだった。
 つまり日本を外交的に追いつめれば、日本側から手を出す形で戦争を起こすことは可能だが、ルーズベルトが望んだと言われる日本本土へ短期間で侵攻できる可能性はほとんど無かった。
 日本という国家は、十分な国力と軍事力を有する国だった。
 大統領に近いシンクタンクが出した結論でも、日本を完全屈服させるには最大で7年必要とはじき出していた。
 そして7年もの戦争には、アメリカ経済が耐えられないと結論していと言われる。
 しかも万が一全面戦争になった場合、当面の戦場は最低でも東太平洋であり、かなりの確率でアメリカ西海岸が戦場となる可能性を示していた。西海岸一帯が占領され、中西部が激しい空襲を受ける可能性も示されていた。
 しかも戦中に分かった話だが、日本は対米戦備として秘密裏に爆撃用の航空機を搭載する潜水空母複数を建造し、東海岸を爆撃する計画すら開始し、早くも1941年には一部完成していた。
 さらには、航続距離1万キロメートルの大型爆撃機の開発も急いでいた。
 日本軍(正確には日本海軍)の軍事戦略が、アメリカ東海岸を向いていたのは明白だった。

 なお、アメリカの海軍力の不利や日米戦での西海岸での戦闘の可能性は、20年近く前から議論されていた。
 このため、共和党を中心とする議員やアメリカ議会のかなりが、ルーズベルト政権の偏った親華反日政策に反発していた。ルーズベルト政権への反発から、共和党議員が日本の事を研究したり、日本と関係を深める行動も見られた。
 西海岸の華僑が行うロビー活動にも、厳しい目を向けた。
 明らかにアメリカが中華民国の肩を持つと、日本との関係が悪化しすぎるため、アメリカ議会が行き過ぎた親華政策を止めるよう議案を提出したことすらあった。
 日本の政治家の一部も、一定程度の関係を維持するためにロビー活動や親米活動を粘り強く行った。

 また、アメリカと日本だけが太平洋を挟んで戦っても、ヨーロッパの戦いとは無関係だった。
 何しろ当時の日本には、同盟国が無かった。それだけでなく、ドイツとは半ば敵対しているほどだった。このためイギリスは、アメリカに日本と故意に関係を悪化させないように強い要請が出たりもしていた。
 しかしルーズベルト政権の親華反日政策は、不思議と変わらなかった。日本の国際的な立場がどう変化しようとも、日本は軍国主義でありアジアの侵略国家だと言い続けた。またアメリカだけは、満州国の承認を拒み続けた。
 主な理由が、アメリカ東部の支配層から見て、日本がアメリカの太平洋進出、チャイナ進出の最大の障害だと言われる。
 加えて、日本が北太平洋の全域を支配している事も、アメリカが目指す世界戦略上で非常に不都合だったからだと言われることは多い。
 理由はどうあれ、非常に自国本意と言えるだろう。

 なおアメリカから見て、日本はアラスカ(荒須加)を保有する「北米国家」の一つと定義されている。
 また、北太平洋上東部の先島諸島、羽合諸島(王国)も保有しているので、「近すぎる国」と一部では認識されていた。
 また極東もしくは東アジアの国ではなく、北太平洋の国とも定義されていた。
 そして何より、「文明の遅れた有色人種の国」がアメリカと同等かそれ以上の海軍を持つなど、主に東部の白人至上主義者にとって受け入れがたい事実だった。
 しかも日本の海軍力は「ネーヴァル・ホリデー」下でアメリカと同等であり、1930年代半ば以後は日本との過度の対立は国家安全保障上で可能な限り避けるべきだと考えられていた。
 こうしたアメリカ国内の感情と姿勢が、日支戦争でアメリカが中華民国を極度に重視しなかった背景にもなっていた。

 そして日支戦争が終わると、アメリカから見ての日本から受ける軍事的圧力は極度に拡大する。
 日本だけが本格的な全面戦争で軍の規模を大きくするばかりか、初期の海軍拡張計画艦を続々と就役させつつあったからだ。
 一時的な軍事バランスは大きく崩れ、圧倒的に日本優位となっていた。
 一方では良識も遅蒔きながら目覚め、国際的に孤立した軍事大国を放置することそのものが問題と考えられた。
 そこでルーズベルトの不本意ながら、イギリスの考えに同調する形で日本を連合軍に引き込み、ソ連を押さえ込みつつナチスドイツの早期打倒を図るという政策へと徐々に変更されていく事となる。
 そうしなければ、アメリカはヨーロッパ市場を全て失ってしまうからだ。それは日本や中華など極東問題よりも、はるかに重要な問題だった。

 ■第二次世界大戦(2)

 日支戦争が終わって以後、日本は日本なりに連合軍寄りの姿勢を強めた。イギリスに武器の輸出(バーター取引)や援助も、積極的に実施するようになった。
 ソ連との関係悪化と極東の僻地での対立状態も、当時ドイツとソ連が不可侵条約を結んでいる事から、少なくともヨーロッパの連合軍からは好意的に見られていた。
 特に日支で作った大量の武器弾薬は、当時窮地に立っていたイギリスに大量に日本の船で運び込まれた。
 イギリスの各地に入稿する日の丸を掲げた船に、イギリス国民は強く勇気づけられた。しかも41年に入る頃からは、日本海軍の艦艇が護衛するようにすらなった。
 これはドイツのUボート潜水艦が、ドイツに対して中立国である日本の船(商船)も無制限通商破壊の戦略に従って沈めたからだ。
 そうした状態の頃、ドイツが突如ソ連に全面侵攻を開始する。
 日本にとって、ソ連の脅威が一時的であれ消滅し、自らの孤立した状況を打破する千載一遇の機会の到来だった。

 世界が転換して後の日本にとっての最初の大きな外交舞台は、イギリスの誘いに乗る形での1941年6月に開催された「大西洋憲章」への参加だった。
 既に6月22日に、ドイツが突如ソ連へ攻め込んで自国近隣での軍事的脅威が消滅したので、実際に会議場について以後の日本の動きはかなり積極的だった。
 ソ連との間の援助交渉は、ソ連側の我が儘により難航していた。だが、日本軍の動員解除に対応したソ連極東軍の移動に関する協定は早く結ばれ、日本軍が満州から消えるよりも早くソ連軍は極東から急速に姿を消していった。
 そして7月、日本帝国首相は国産の新型大型機を用いて足早に渡米。アメリカとの間にソ連へのレンドリース航路の解放、北太平洋上での軍備削減など安全保障を話し合うのが目的だった。
 加えて、イギリスに対しては1年以内の参戦を約束した。
 だが「大西洋会談」に参加するため、日米そしてイギリス政府が調整した末の外遊であり、首相はそのまま米英日首脳会談を行った。先にアメリカとの話し合いをしたのも、「大西洋会談」を円滑にするためだった。
 その間、日本本土からは、インド洋経由で就役したばかりの最新鋭戦艦《大和》がアメリカへと巡航速度無視の高速で向かい、あまりの巨体にニューポートへの入港の際にアメリカ国民の度肝を抜いた。

 そしてイギリス、アメリカに加えて日本の三首脳が洋上で会し、8月12日に「大西洋憲章」が発表されるが、日本側の意見をくみ入れる形で地域や人種に関しては敢えて触れずに発表された。
 このため国際連盟でも議論された、白人と有色人種に関する問題はあえて表面化されていなかった。各国首脳も、この件に関しては大戦が終わるまで明確な発言を避けている。
 ちなみに、日本がアメリカ、イギリスにこの条件を呑ませるため、ドイツが行っている人種差別問題を取り上げたと言われている。
 ナチスドイツが人種差別を行っているのに、対向する自分たちの陣営が同じように人種差別を当然としているようでは、後世の批判を受けると考えられた末の結果だった。
 そし人種差別の件は、その後会議を主導した英米にとっても大きな利益となっている。

 なおこの頃アメリカは、既にルーズベルト大統領が三選を果たし、アメリカはレンド・リース法案の可決や、大西洋各地での実質的な軍事活動によって、自らを連合軍の側に置いているも同然だった。連合軍(U.N.)という言葉も、「大西洋憲章」で登場した新たな言葉だった。
 日本帝国は、「大西洋憲章」への参加によって満州事変から日支戦争にかけての泥沼から何とか抜け出したが、だがこれは一歩にすぎなかった。
 しかし、次の一歩が大きすぎた。
 次の一歩とは連合軍としての参戦、ドイツに対する宣戦布告だからだ。

 一方、大西洋憲章に参加した日本は、この頃まだ日支戦争の後始末に追われ、停戦に対する国民への報償として一時的な戦時体制の緩和を実施していた。
 また、1年以内に連合軍として参戦して再び戦時動員を強化しなければならないが、他の列強に比べてまだ近代国家として遅れた所の多い日本としては、少し休まなければ次の動きが出来ないと言う物理的な理由もあった。
 何しろ次の主戦場は、日本から遙か彼方のヨーロッパだ。
 しかし、大西洋憲章への参加と参戦表明によって、何もしないわけも行かなくなった。
 そこで東南アジア、インド洋での、「治安維持活動」のため海軍の派遣が決まった。
 日支戦争で重慶爆撃以外にあまり活躍の場がなかった海軍は、勇躍彼らにとっての本当の戦争準備を行った。
 1941年末くらいからは、インド洋での実質的な海上護衛戦も開始するようになる。正式参戦はまだ先だったが、もう参戦したも同然だった。既に日本の軍艦が、商船を護衛して英本土に頻繁に赴くようになっていた。
 海軍内では、「遣欧艦隊」の通称が大っぴらに言われていた程だ。
 そしてブリテン本島や北アフリカ、中東には、観戦武官、連絡武官の派遣が積極的に行われ、イギリス、アメリカに駐在する外交員の数も大幅に増やされた。
 逆に、日本に着たイギリス、アメリカの武官、外交官も多数になり、日本と英米との間の交渉も、世界各地で頻繁に行われるようになった。
 日本の参戦は目前に思われた。

 だが日本の参戦に思わぬ障害が立ちはだかった。
 日本国民の民意だ。

 日本人一般からすれば、ヨーロッパでの戦争は遠い世界の出来事に過ぎないし、ようやく支那(中華民国)との不毛な戦争が終わったのに、という気持ちが非常に強かった。
 そのためのガス抜きとして限定的な動員解除を実施したのだが、かえって国民の非戦心理を強める結果になっていた。
 また、政府は共産主義の脅威を言い立てていたのに、何故ソ連を支援、さらには同盟するのかという点でも、政府は民意をなかなか得られなかった。
 政府が説明したナチス・ドイツ、ファシズムの脅威も、実害がない日本ではあまり脅威とは認識されなかった。
 支那問題での反ドイツ感情はあるが、若者の血を流させるほどではないと考えられていた。
 日本政府も民意がないので、簡単にヨーロッパの戦争に参戦するわけにもいかず、お茶を濁すかのようにイギリスなどへの支援を増やすことになる。
 これには日支戦争で大量に作った兵器が充てられ、軍艦から各種航空機、戦車に銃砲、各種弾薬、さらには一般工業製品に至るまで、多くのものが対象となった。
 またイギリスが必要とする船舶、鋼材などの一般品も多数がヨーロッパへと向かう。しかしアメリカほど裕福ではない日本は、支援ではなくバーター貿易が主軸で、日本が必要とする原料資源と交換された。
 ソ連との間にも、少し遅れてだがイギリスと同様の関係が結ばれ、1942年に入る頃からシベリア鉄道はモスクワ方面に行くときは日本の兵器や工業製品を乗せて、ウラジオストクや大連、釜山を目指す時は日本向けの原料資源を満載した。
 また、太平洋を押し渡ってきたアメリカの船も、日本の領域を通過してシベリア鉄道ルートの支援を行うようになった。

 一方では、日本国内では高性能な兵器の開発と量産に向けた動きが一気に加速した。
 今までは近代国家として格下の中華民国が相手だったが、次は工業先進国ドイツとの戦いとなるため、出来る限り高性能な兵器を、出来る限り沢山揃えなければならないと軍が考えたからだ。
 新兵器開発促進のため、主にイギリスからの技術入手(主にパテントの購入)も行われ、少し後には主にイギリスとの共同開発や研究も実施された。
 アメリカからも、兵器の購入が行われた。
 軍艦では、大型艦の建造が減らすか優先順位を大きく下げて、イギリスから情報を得た対潜水艦戦に適した装備の開発と量産が急ぎ始まった。
 建造中の巨大戦艦は、一時の建造中止を経て対地攻撃を重視した航空母艦への改装が開始された。
 ドイツ海軍、イタリア海軍共に、現状の日本海軍の戦力で十分と判断されたからだ。ただし既存艦艇を使い潰す目的で、従来の艦艇の対空、対潜兵装の強化は急ぎ実施された。
 そして大きな軍艦よりも、戦訓から今時大戦で最も重要と考えられる戦車、航空機が開発の主軸となった。
 戦車はより大型で、大火力、重装甲、高機動が目指された。航空機は、既に新型機が量産配備されつつあるにも関わらず、航続距離よりも機体の耐久性や最高速度に重点が置かれた。主力戦車となる中戦車は、従来の二倍の重量(17トン→35トン)に拡大されたほどだ。
 また戦車、戦闘機はもちろん、すべての兵器がよりよい機材の選択と開発が目指された。
 また、日本もアメリカのレンド・リースの対象となったため、アメリカで大量に作られる予定の兵器や製品については日本での開発を除外し、より必要な兵器の開発へと重点的に予算と人員を投じることになる。

 「参戦準備」をしているうちに1942年へと入るが、日本ばかりかアメリカもまだ参戦していなかった。
 アメリカも、日本同様かそれ以上に国民が参戦を否定する向きが強く、アメリカが露骨に行っていた挑発にドイツが容易に乗ってこないからだった。
 日本も、武官という名目の調査隊が北アフリカに入り、ロンドンには多数の武官という名目の連絡将校が派遣されていた。
 本格的な実戦部隊も、日本船舶の護衛という名目で、インド洋を越えてエジプトのアレキサンドリアにまで軍艦が出入りするまでになっていた。
 護衛艦艇は、商船共々頻繁にイギリスの港に出入りしていた。
 日本国内の飛行場では、各種軍用機が溢れかえるようになっていた。
 また「義勇航空隊」が追加で編成され、イギリスのマークを入れた日本人が操る日本機が英本土以外にも飛ぶようになった。
 このため世界では、アメリカと日本の参戦が先か、ドイツがソ連を倒して戦争を終わらせるのが先かと言われるようになる。
 しかしドイツは、1941年冬に首都モスクワの攻略に失敗し、ソ連軍の冬季反抗でかなり押し戻されていた。
 この半年間ソ連軍は、秋まではこれ以上はないと言うぐらいの敗北を続けていたが、秋から冬の到来と共に抵抗力を高め、そして反攻へと転じた。
 だがこの反攻の成功は、独ソ戦開始に伴う日ソ関係の劇的な改善と、秋からのアメリカのレンドリース、日本との貿易にあると言われている。
 しかし日米の物資がモスクワ攻防戦に間に合った可能性は低く、どれだけ早くても冬季反抗からだと考えられている。ドイツの侵攻を止めたのは、ソ連軍の必死の抵抗とロシア伝統の「冬将軍」だった。

 なお、アメリカのレンドリースは、日本の援助やバーター貿易と同様に、太平洋とシベリア鉄道を使うルートが主に使われた。
 太平洋とシベリア鉄道を使うルートは、ドイツ軍による妨害が全くあり得ないからだ。
 また、イギリスが中心になっていたペルシャ湾からの援助ルートは、地中海の危険性が消えるまでアメリカからの距離が遠すぎた。ノルウェー沖を通る北大西洋ルートの危険性については言うまでもないだろう。
 このため、イギリスからソ連への援助物資は日本、アメリカが手伝う形でペルシャ湾から届けられたが、北大西洋から送り込むルートについては、戦争後半まであまり使用されることはなかった。
 反対にシベリア鉄道ルートは、時を増すごとに規模を拡大したため、アメリカ、日本共に自らが製造した強力な機関車や貨車までも大量に供与するようになり、シベリア鉄道は満員御礼状態となった。
 だがこの結果、日本ばかりでなくアメリカも安全にソ連を援助できるようになり、危険な北大西洋ルートはイギリスの支援だけをすればよくなった。
 そして安全性が増した状態でイギリス、ソ連双方が強化される事でアメリカ国民が安心度合いを強めてしまう。しかもアメリカ国民は、自分たちの国が支援を強めることで参戦の気運が下がるという逆効果を産んだ。
 このためアメリカ参戦が1942年11月のアメリカ中間選挙の争点となり、積極的な参戦をスローガンとした共和党が勝利するという結果を残した。だが中間選挙の結果、アメリカの民意は参戦と決し、アメリカ参戦の道筋が整備された。
 そして12月7日、アメリカ合衆国はついに第二次世界大戦に参戦する。

 一方日本だが、日支戦争終了での厭戦感情、遠いヨーロッパでの戦争、白人同士の戦争に対する感情の希薄さが、日本国民にすぐの参戦をさせないでいた。
 また商船及びその護衛艦艇、さらには義勇パイロットの犠牲者という名の戦死者が出ていたので、これも徐々に日本の反ドイツ感情を高めた。
 だが、日本国民を最終的に参戦に動かしたのは、どちらかと言えば侵略国家ドイツに攻撃されている国々や民族に対する義侠心だった。
 日本は国民感情を参戦に傾かせるために、ニュース映画でロンドン爆撃やソ連でのドイツ親衛隊の蛮行などを連日流し、ラジオでも連日速報で戦況が報道された。ソ連からは、両国の合意の元で傷病兵や老人子供の疎開民が日本に多数受け入れられ、その様子が報道各社から国民に伝えられた。
 ドイツ国内でいわれのない差別を受けている、ユダヤ人、ロマ、ポーランド人に対する保護や援助、支援も、主にドイツ占領地から逃れてきた人々に対してだが熱心に行われた。
 特にユダヤ人に関しては、アメリカ、イギリス共に国内に微妙な問題(※保護と差別双方の両極端な主義者)を抱えているので、日本の担当となる事が多かった。
 そうすることで国民にドイツへの敵意を植え付け、ヨーロッパの戦争へ日本が参加する気運を作り上げていった。

 そうして1年近く続いた、日本帝国政府の参戦機運を盛り上げる努力は実を結ぶ。
 アメリカよりも半年早い1942年6月6日にドイツ、イタリア両政府に宣戦布告文書を渡すに至ったのだ。

 参戦理由は、ドイツ軍の攻撃でも自らの謀略でもなく、単に「連合軍としての義務を果たすため」とされた。