■■2nd_War(4)


■第二次世界大戦(3)

 日本参戦の最初の一撃は、宣戦布告から48時間後に行われた。  
 航空母艦6隻を中核とする空母機動部隊による、ドイツの重要軍港だったヴィルヘルムス・ハーフェンに対する大規模な空襲が、その攻撃だった。
 日本としては象徴的な意味を込めての攻撃だったが、大胆な攻撃を予期していなかったドイツは大きな打撃と、そしてより大きな心理的衝撃を受けた。
 ドイツ宣伝省は、日本の連合軍参戦は日本自身が後悔するだけに終わる愚かな行為に過ぎないと強く蔑んだ。
 だが、結果は火を見るより明らかだった。
 何しろ、実質世界第三位の国力を有する国が本格参戦したのだ。

 日本の参戦は1942年6月初旬だったが、日本政府及び軍は戦争準備については非常に先に進んでいた。
 軍の派遣も、実質的には前年の夏からインド洋、中東を目標にして進んでいた。1942年に入る頃には、日本船籍の船を護衛するという名目で、エジプトのアレキサンドリアまで日本海軍の軍艦が正式に来ていた。
 英本土に入る商船も、1941年の夏には多数に及んでいた。
 そして自衛という名目で、ドイツ軍、イタリア軍の空襲に対して反撃も実施している。イタリアの人間魚雷で2隻のイギリス軍戦艦が使用不能になると、すぐさま日本海軍の戦艦1個戦隊が危険を承知でアレキサンドリアに赴いてもいる。
 おかげで、連合軍の戦力に穴を開けることも無かった。
 海軍以外にも、1942年に入ると事実上の先遣部隊が陸軍部隊、陸海軍航空隊の全てで実施された。日本国内での動員体制も、一端の準解除から再び動員へと進み、しかも日支戦争を越える規模での動員が1942年春から開始されていた。
 さらに、友好国からの治安維持の委託という名目で、東南アジア、インド洋各所に日本軍の進出が行われていた。当然イギリスや各自由政府の了解を得ての事であり、1941年冬頃から日本帝国は連合軍として参戦したも同然だった。
 民意の方も、政府が努力した戦意昂揚と、日支戦争を大きく上回る規模の戦争特需の到来のおかげで、日本の参戦に好意的となっていった。

 そして日本が参戦した時、それは連合軍にとって大きな希望をもたらす時期でもあった。
 ドイツ軍は依然強大で、同年5月に北アフリカ戦線では要衝トルブクがロンメル将軍の手で陥落させられ、東部戦線でも勢いを盛り返してソ連軍の反撃を粉砕していたからだ。
 そして参戦から48時間後に行われた日本軍の攻撃は、枢軸側が警戒していたにも関わらず大打撃を与えた。
 本節の最初に書いたように、空母6隻を中心とする今までない規模の空母機動部隊が、ドイツ海軍の根拠地の一つを爆撃した。
 他にも、複数の艦隊が地中海各所の枢軸側拠点を攻撃し、大きな打撃を与えた。
 地中海では、北海以外に2つの機動部隊が投入され、最も大胆なのは旧式の《金剛型》高速戦艦2隻を中核とする高速艦隊打撃が、占領されたばかりのトブルク港を艦砲射撃して火の海にしたことだった。
 しかも日本軍の攻撃はこれだけでなく、即日エジプトでの制空戦闘にも加入し、参戦を待っていた日本軍の1個軍団を乗せた輸送船団がスエズ運河を越えた。
 日本の陸軍部隊については、スエズを越えたら日本の参戦と見なすと枢軸側が強く警告していた為の措置でしかなく、既にシンガポールでは1個軍、約10個師団もの日本陸軍部隊と膨大な量の自動車、装甲車が北アフリカ、ヨーロッパ行きを待っていた。
 現地イギリス軍への補給のための船団、多数の輸送車両なども用意されており、万全の体制だった。
 それに日本本土での動員や移動を考えれば、1942年に入った時点で参戦していたも同然だった。

 1942年7月にドイツのロンメル将軍は、エジプト最後の防衛線となるエル・アラメインに到達したが、そこには既に日本軍の先遣部隊も布陣していた。
 上空には、連合軍からゼロ・ファイターを呼ばれた戦闘機が長時間舞うようになった。
 しかも日本の参戦によって、東地中海の戦況は一気に変わった。
 何しろ、航空隊を含めて日本海軍の3分の1の戦力が一気に投入されたからだ。
 この戦力は、イタリア海軍・空軍の全力に匹敵する戦力だ。
 このため北アフリカのドイツ軍は、地上では5月に大勝利を飾ったにも関わらず、一気に苦況に追いやられていた。
 二群に分かれた日本の空母部隊は、地中海東部を荒らして回り、枢軸側の航空基地群とその後方施設、さらには海上輸送網に大打撃を与えた。
 仕上げは、イタリア海軍の根拠地タラントへの空襲だった。

 一度イギリス海軍に攻撃を受けたイタリアは、タラントへの再度の攻撃を強く警戒していた。しかし攻撃規模が、イタリア軍の予測を大きく上回っていた。
 日本海軍は、当時有する稼働高速空母の過半を投入した大規模な空襲によって、以前の空襲に懲りて防衛体制を整えていたにも関わらず、当地のイタリア艦隊は大損害を受けて半身不随といえる状態に追い込まれた。
 雷撃は無駄と考え行われ無かったが、急降下爆撃、水平爆撃は、爆撃五輪と現場将兵達が競い合う状態で、大型爆弾の連続被弾で、何隻もの大型艦が敢えなく破壊された。
 連動したイタリア南部への空襲で、現地ドイツ軍を含めた枢軸側の空軍背力も大打撃を受けた。
 そしてその上で、マルタ島には大規模な高速輸送船団が入港し、基地機能が停止するほど苦戦が続いていたマルタ島が完全に息を吹き返す。
 同年8月8日に、イギリスの首相チャーチルが将兵の激励のためエジプトを訪問したときの「戦争は明らかに転換した。その事は前線にいる君たちが最も良く分かっているだろう」という言葉は、紛れもない事実だった。
 ドイツ軍のロンメル将軍は、日英合同となった大軍の前に9月にはエル・アラメインから敗走しなければならなかった。
 日本海軍の活躍もあって、枢軸側の北アフリカ、東地中海戦線は、根本から一気に瓦解していったのだ。

 同年12月にアメリカが参戦するまでに、日英軍は北アフリカのチュニジアの一角にまで枢軸軍を追いつめ、地中海の制海権、制空権をほぼ掌握した。
 日本海軍は小数の海兵隊(+空挺部隊)を奇襲的に投入して、ドイツ軍の退路を先に絶つ作戦に出てドイツ軍の消耗を強いた。
 さらに枢軸側空軍の激しい空襲をはね除け、シチリア島との補給路を締め上げた。
 ここで日本海軍は、激しい攻勢の代償として多数の艦艇が損害を受け、枢軸側も多数の輸送船舶を失ったた為、イギリス軍は周辺海域を「アイアンボトム・シー(鉄底海)」と呼ぶほどとなった。
 そして犠牲を厭わず戦果を拡大する日本軍の積極姿勢は、イギリス軍などから非常に高く評価された。
 日本が参戦すぐに大軍を投じて積極的作戦を展開したのは、アメリカが本格参戦するまでに少しでも得点を稼いでおこうという考えによるものだったが、その結果は大きかった。

 日米英のレンドリースを受けたソ連軍も、11月19日に南部のスターリングラード方面で大規模な反攻に転じて、ドイツ軍の有力部隊を包囲下に置いた。
 アメリカの参戦は同年12月7日で、参戦と同時に上陸部隊を満載した大艦隊を仕立てて、北アフリカの大西洋側にあるモロッコへと殺到した。
 戦争が決定的に転換した瞬間だ。
 しかし、イギリス国民を始めヨーロッパの人々の多くは、先の日本参戦とソ連の反攻開始により戦争が転換したと感じている事が多かった。
 アメリカの参戦はだめ押しではあったが、アメリカ政府が思ったほどのインパクトは無かった。アメリカが言った「希望の灯火」は、もう灯されていたからだ。
 だが、アメリカの参戦によって、戦争の帰趨は決したと言って間違いなかった。アメリカの国力と生産力は、当時それだけ懸絶していた。単純な数字で見ても、日本、イギリス(+英連邦)にソ連を足したよりも大きな国力と生産力を持っていたからだ。
 日本が参戦した時、ドイツは有色人種であることを理由に口汚く罵っただけだったが、アメリカの参戦は内心大きすぎる衝撃だったのは間違いないだろう。
 それでもアメリカが参戦した時のヒトラーは、アメリカは金満家の臆病者という程度の評価しかなかったと言う。

 アメリカは参戦から2ヶ月(1943年2月)で、イギリス本土からの戦略爆撃を開始した。だが、国内で準備をしていた事もあって、当初から日本軍よりも大規模だった。
 英本土からの爆撃開始は日本も同時期だったが、日本が100機程度で開始したのに対して、アメリカは最初から300機の4発重爆撃機を飛ばせた。
 そして1943年2月にシチリア島上陸作戦が、日英米三国合同で実施され、これが事実上発の共同作戦となった。
 日米が競うように大艦隊を派遣したので、制空権、制海権共に圧倒的で、枢軸側が付け入る隙はなかった。そして2月にシチリアに上陸したのとほぼ同じ部隊がイタリア本土に上陸すると、戦争開始から枢軸を抜けることを考えていた人々が中心となって、6月にイタリアは呆気なく降伏した。
 ただしドイツが即座にイタリア北部を占領し、一度は失脚したムッソリーニを救出して傀儡としたため、イタリアでの戦いはその後も続く事になる。

 だが戦争の趨勢は、もはや明らかだった。
 日本、アメリカが加わった事で、枢軸側は世界の生産量の70%以上を相手にしなくてはならなかった。
 待っている未来は、圧死しかなかった。

 ■第二次世界大戦(4)

 1943年1月14日、北アフリカ、モロッコのカサブランカで、アメリカ、イギリス、日本のトップ会談が実施された。
 主な内容は、今後のヨーロッパ戦線での事だったが、会議の最後アメリカのルーズベルト大統領が、何の事前協議もない状態で爆弾発言を行う。
 それこそが「無条件降伏」を原則とするという、枢軸陣営の国々に無条件降伏以外の条件で停戦を求めないという過酷なものだった。
 アメリカ側の発言は、当の大統領以外ほとんど誰も知らなかったもので、アメリカとそれ以外の国々との間に見えない溝を作ったと言われることも多い。

 その後の戦争展開は、非常に早かった。
 国力、戦力、生産力の比較から見ると当たり前と言える状態で、ドイツに匹敵する国力の日本、ドイツの三倍以上の国力を持つアメリカが、ヨーロッパに注ぎ込んでくる兵力と物量によって、ドイツは一気に窮地に追いやられていった。
 日英米によるブリテン島からの大規模な戦略爆撃は、ドイツの戦時生産を混乱させると共に空軍を拘束した。
 イタリアでは陸戦を展開し、圧倒的な連合軍艦隊が地中海側から締め上げた。
 しかし、連合軍内で小さな対立が発生する。
 本格的な西部戦線構築の際の強襲上陸地点だ。
 日本は、自らの地の利から南仏上陸を推していた。イギリスは、屈辱の地でもあるドーバー海峡のカレーを推す向きが強かった。
 これに対してアメリカは、フランス北西部のノルマンディー半島の付け根の上陸を意図していた。しかし国力、兵力の大きさが、問題の多くを押し流した。
 上陸作戦は、南仏上陸を敵側に情報リークする形で進め、さらにドーバーに上陸すると見せかけて、本命をノルマンディーに注ぎ込んで一気にパリを解放するという形にまとめ上げられた。
 この作戦で日本は貧乏くじを引く事になったが、その後のギリシア作戦、さらにバルカン半島では主軸を占めるし、フランス上陸後も抵抗の少ない西部戦線の南部方面を担当することとされた。
 また上陸支援では、日米海軍が総力を挙げる事となった。
 一方東部戦線は、43夏以後ドイツ軍は防戦一方となった。ドイツは同年7月頃に大規模な攻勢を計画していたが、同年春の連合軍のイタリア侵攻で全面的な中止になった。
 そして以後ドイツ軍は、ソ連軍に対して機動防御戦術で対抗していくが、多少の時間を稼ぐことは出来てもじり貧でしかなかった。
 そして本格的な反撃を開始したソ連軍の進撃速度は凄まじく、圧倒的な物量でドイツ軍の防衛計画を破綻させていった。
 そして連合軍の欧州反攻に呼応した1944年6月22日から、極めて大規模な突破作戦を実施することで、東部戦線での帰趨をほぼ決することになる。

 連合軍による欧州反攻は、1944年6月に入り1日南フランス、6日ノルマンディーの順番で連続して実施された。もはや、これを止める力はドイツ軍にはなかった。
 南仏では、日米のパイロットが「鴨撃ち」、「ターキー・シュート」と言ったほど、枢軸側の制空力が落ちていた。無数の戦艦や空母を並べた攻撃は、費用対効果を無視した過剰攻撃だと言われるほどだった。
 そして圧倒的兵力差によって防衛網が破綻したドイツ軍は、一定程度しか連合軍をノルマンディーの橋頭堡に押しとどめる事しか出来なかった。
 丁度一ヶ月後の7月6日、パリは解放された。
 南フランスでは、ロシア人による東方大隊ばかりかヴィシー軍が次々に降伏し、ドイツ軍が構想していた遅滞防御戦は内から瓦解した。このため南北の連合軍の間で「パリ競争」が起きたほどだ。
 8月には、連合軍の全ての空挺部隊を結集した空前の規模の大空挺作戦、それに連動するアメリカ海兵隊による敵前上陸作戦が行われた。
 そして戦力不足のドイツ軍を出し抜く事にも成功した為、9月までにライン川東岸のアルンヘムを奪取に成功。
 これでドイツ本土への扉が開かれ、「クリスマスまでに戦争が終わる」と将兵達の間で言われた。
 そして同年10月には日本軍主導のギリシャ作戦が実施され、東欧にも連合軍の橋頭堡が築かれた。

 その頃の西部戦線は、どの部隊が一番にライン川を渡河するかの競争になっており、先に越えたアルンヘムのあるオランダ方面ではオランダの解放が進んだ。
 ドイツ軍は急速な戦線の瓦解に対応できず、ドイツ工業の心臓部であるルール工業地帯が風前の灯火となり、しかも連合軍の攻撃で生産能力を激減させていた。
 だがこの時点で連合軍は、急な進撃のツケを払うべく補給線を前線に伸ばすことに努力しなければならなかった。
 それもライン川河口部に思いの外簡単に進軍できた事から、10月にはドイツ本土に向けた進軍が可能となっていた。
 東部戦線でも、8月末にはポーランドの首都ワルシャワ前面までソ連軍が一気に進軍し、ドイツは東西双方から自らの国境を圧迫される状態に陥っていていた。
 日英軍が主力を占めるイタリア戦線はまだ北イタリア前面だったが、ドイツにとってあまり慰めにはなっていなかった。
 しかもドイツ中枢では、同年7月にヒトラー総統暗殺未遂事件とクーデター未遂事件が勃発して大混乱に陥った。連合軍の大規模空挺作戦や、ソ連軍のドイツ北方軍集団の包囲はこの混乱を突いた形にもなっていた。

 そして1944年秋、もはや戦争の大勢は決定していた。
 あとはベルリンに誰が一番に到着するか、ぐらいだった。
 そして補給という面と、ドイツ人もしくはヨーロッパ人にとって東方からの侵略者への潜在的恐怖心が「ベルリン競争」に大きく影響したと言われることが多い。
 10月に連合軍は、ルール工業地帯の包囲作戦を実施したが、2週間で完全な成功を収めた。同時に北部沿岸を突進したイギリス軍は、最初にエルベ川に到達した。
 南仏やイタリアから北上してきた日本軍は派手な進軍はなかったが、ドイツ南部の丘陵や山岳地帯の占領はほとんど日本の担当だった。
 その頃ソ連軍は、バルカン半島に大規模な侵攻を実施していたが、東部ではポーランド正面から進めていなかった。
 大軍過ぎるため、補給が追いついていなかったからだ。
 ここでソ連軍では、南部の補給物資を北部に回すべきだったという意見が出るが、実のところあまり意味はない。
 ソ連軍にとっての問題は補給路を整備することが第一で、前線への物資の備蓄はその次の段階だからだ。
 だから南部の物資を回そうにも、進軍したばかりの北部に回す手段がなかった。
 ポーランド方面のソ連軍は、早くても11月末でなければ進軍できなかった。
 一度無理をして中規模の攻勢を仕掛けたが、ドイツ軍の反撃を受けて手痛い損害を受けただけに終わった。
 そしてソ連軍が地団駄を踏んでいるのを後目に、連合軍は一気にドイツ西部を進軍した。
 国内戦になるとドイツに地の利があるように思えるが、主に都市での破滅的な市街戦をする気でもなければ、鋼鉄のローラーのように「面」で進んでくる連合軍への対抗が難しかった。
 しかもすでに兵力もなく、最有力の生産拠点を失って武器も全く足りていなかった。

 なお、連合軍にとってドイツ軍の戦車は高性能で、個々で対決したら劣勢は明らかだった。1対4かそれ以上で当たるのが普通なほどだった。
 特にアメリカは、戦略レベルで対戦車戦を合理的に考えすぎていた。量産と海路の運搬を重視して、戦車が戦車と出くわすのは戦場での不幸な事故に過ぎないと割り切り、強力な戦車の開発を怠っていた。
 対照的なのは日本陸軍で、西日本列島では絶対に使えないと言われた、本来はソ連に対して開発されていた50トン級の重戦車を1943年には生産開始し、南仏の戦いから実戦投入を開始。さらにベルリンに向けた最後の進撃までに、ドイツ最強の戦車と互角に戦える改良型の重戦車まで戦場に持ち込んでいる。
 この連合軍最強と言われた重戦車は、戦場のアメリカ軍将兵からも羨ましがられ、日本からアメリカに供与された数少ない兵器の一つとなった。
 この戦車は、いまだ日本軍の一部で使われている猛獣の名をとって「剣歯猫(サーベル・タイガー)」と言われ、その名称で両軍の将兵を勘違いさせることがあった。
 何しろライバルの名も「ティーゲル」、「虎」だからだ。

 ソ連軍が11月末に慌てるようにドイツ本土前面で大攻勢を開始する頃には、連合軍はエルベ川一帯まで進軍し、ベルリンへの最後の進撃を行う寸前だった。
 そして連合軍がドイツ国境に迫ったあたりで、連合軍とソ連軍との間に問題が持ち上がっていた。どこで握手するか、つまり「ドイツや東欧の占領をどの国が行うか」についてだ。
 ソ連は、当初ソ連軍によるベルリン占領とエルベ川での握手を極めて強く求めていた。しかし連合軍の進撃の方がかなり早く、イギリス、日本がソ連軍の行動を強く警戒していたため、占領した軍隊による占領統治とオーデル川での握手を提案する。
 しかも連合軍は、仕事の少ない日米の海軍主導でデンマーク作戦、ノルウェー作戦、さらにはバルト海作戦までを計画し、1945年春には実施予定だった。
 しかもバルカン半島では、ギリシアからブルガリア進駐と、ユーゴスラビア地域への進撃が44年秋から開始されていた。
 この積極姿勢は、ソ連の受け入れられるものではなかった事も、ソ連側の態度をさらに硬化させた。
 しかし物量に勝る連合軍も、勝利の分け前に対して譲る姿勢はほとんど見せなかった。
 結局、話しは明確にはまとまらず、占領した軍隊による占領統治を行うという方針しか決まらなかった。

 そして連合軍、ソ連軍双方ともに進撃を強化したのだが、ドイツ軍はソ連軍に対してより強く抵抗をしたため、ソ連軍の進撃ははかばかしく無かった。
 何しろ自分達がロシアの大地で何をしてきたのかを知っていたので、自分達の祖国が蹂躙された時に何をされるのかを、誰よりも熟知していたからだ。
 このため連合軍がエルベ川を越えても、ソ連軍は東プロイセン以外ではポーランド領内で足踏み状態を強いられた。
 連合軍は、アメリカ、イギリス軍が中心となってベルリン攻略を行い、ベルリン各所には星条旗とユニオンジャックがはためくこととなる。
 終戦は1944年12月28日。
 クリスマスまでに戦争は終わらなかったが、ヒトラーの自殺は20日、ベルリン陥落は22日なので、実質的にはクリスマスまでに戦争が終わっていると賭けに負けた者達が騒ぐ一幕も見られたという。
 そんな事より重要なのは、連合軍とソ連軍がオーデル川で握手した事だった。
 またベルリン進撃をさせてもらえなかった日本軍は、ドイツ南部を経てチェコ地域、オーストリアまで進軍し、チェコとスロバキアの境界近くとウィーンでソ連軍と握手した。
 また他方でも、北イタリアからユーゴスラビア地域北部に進撃と進駐もしているし、ブルガリア方面でもルーマニア地域でソ連軍と握手している。

 なお、ヨーロッパでの激しい戦闘の中で、日本帝国は基本的に「外様」であり補助的な役割に終始した。
 国力ではドイツ、ソ連に匹敵したが、日本からヨーロッパの距離の問題があって(※アメリカよりもずっと遠い)大きな力を発揮できなかった。
 それ以前の問題として、アメリカの存在感があまりにも大きすぎるため、日本の存在が1943年後半ぐらいから霞んでしまったという方が正しいだろう。
 日本軍は軍人、軍属併せて700万人を国内で動員し、そのうちのべ300万人をヨーロッパなどに派兵した。だが、アメリカからレンドリースを受けた事もあり、国力に応じたほどの戦費は使わなかった。
 日本が戦争経済を維持しつつ根こそぎ動員を実施したら、最大で1500万人以上の動員が可能だったからだ。祖国防衛戦ならば、ソ連に匹敵する2000万人以上が動員可能とも言われる。
 この実質動員数こそが、戦後は経済的にアメリカが牛耳ることが分かっているヨーロッパでの戦争において、日本が本気になっていなかった証拠だった。
 それでも日本が比較的積極的にヨーロッパで戦ったのは、戦後出現するであろう新たな体制と対立構造の中で、出来る限り自分の席を広くしておきたいという考えがあった。前回の世界大戦での消極姿勢が、結果として1930年代の国際孤立を招いたという考え方があったからだ。
 だからこそ、アメリカではなくヨーロッパに協力するという姿勢を強めて戦争を実施し、出来る限りアメリカとは一歩距離を置いた。このため戦争では、補助的な役割だったとも言えるだろう。