■■Start Cold_War


■世界大戦の後始末

 
 第二次世界大戦は、1945年1月5日にドイツの無条件降伏の調印によって実質的に終了した。
 しかし一つの終わりは、次の始まりでもあった。

 まず問題となったのが、ドイツの占領問題だった。
 ドイツの最後の総統となったデーニッツが連合軍に降伏のサインを行った時、連合軍、ソ連軍の握手した場所は多くがオーデル川とドナウ川だった。
 つまり、東プロイセン、シュレジェン以外のドイツは連合軍の占領下にあり、旧オーストリア、チェコ、ハンガリーの一部、ユーゴスラビアの山岳地帯、ブルガリアが連合軍の占領下で、それ以外の東欧地域はソ連の占領下となった。ドイツ以外での進撃では、日本がほとんど独自に進軍した。
 しかしソ連は、ドイツの分割占領、ベルリンの共同占領を求めるばかりか、全東ヨーロッパ地域の占領統治も求めていた。
 これに対して連合軍は、ベルリンの共同占領については快諾していた。しかしそれ以外については、既にソ連が行っている行動もあって、なかなか決まらなかった。
 連合軍の中では、当初アメリカはソ連に譲歩する姿勢を示していた。だが、自由ポーランド、自由チェコスロバキア政府は、ソ連の占領統治をさせてはいけないという論調を終始崩さなかった。イギリス、日本もソ連、共産主義に対する安易な譲歩や妥協は否定的だった。
 
 ソ連と米英仏それに日本が、ドイツ各地、一部東欧での軍事的な占領を実施したが、そもそも分割占領が大きな間違いだったと、後世強く批判されている。
 しかも日本軍は、チェコスロバキアのチェコ領内、ブルガリアなどに進駐しており、ドナウ川を挟んでソ連軍と対峙しているので、尚更ソ連との妥協に否定的だった。
 何しろソ連は、占領した先々で共産主義政党を作ったり共産主義国家建設の準備を行っていたからだ。
 その光景は、明日の極東アジアの光景に見えた。
 結局、なし崩しに占領した国がそのまま統治する方針が基本とされ、ポーランド、ルーマニア、そしてハンガリーはほとんどがソ連占領下だったのでソ連の管轄となった。チェコスロバキアもアメリカから半ば見捨てられ、チェコとスロバキアに分割する方向で進んだ。
 このためチェコ占領でソ連と対立した日本は、アメリカに対する不審を強く持つことになる。
 東欧諸国も、脳天気なアメリカがアテにならないと考えた。
 それよりも問題は、ドイツの占領だった。
 オーデル川より東のドイツ領は、現地住民がほとんどドイツ西部に疎開したため、ほぼ無人になっていた。当然ソ連が占領したが、ソ連はオーデル川ではなく最低でもエルベ川より東は、ソ連が占領するべきだと強硬に主張した。
 これは流石のアメリカも認める気はなく、当初アメリカだけが持っていたソ連に対する楽観論も徐々に消えていった。
 だがアメリカは、これから講和会議に向けた首脳会談を行おうという時、延期を求めてくる。ルーズベルト大統領の容態が3月以後悪化し、とても海外渡航出来る状態でなくなったからだ。このため会議は5月とされ、その間外相などがベルリンに集まり予備会談と準備が進められることになる。
 しかし4月18日にルーズベルトが脳溢血で死去したため、各国首脳を交えた国際会議はさらに延期して6月開催とされた。
 そしてこの時間を一番利用したのがソ連だった。
 ソ連が占領した東ヨーロッパ各地で、共産党が勢力を拡大したからだ。しかも、連合国がソ連に民主的選挙による民主的政府を作ると約束させたにも関わらず、共産党独裁政権の道に急速に進んだ。ヨーロッパ各地でも、共産主義運動や場合によってはテロが盛んに行われた。

 それでも首脳会談まではソ連も露骨な行動には出ず、半ば仕切直した形での連合軍首脳会談がベルリン郊外のポツダム宮殿で開催される。
 アメリカ、イギリス、日本、ソ連の四カ国の首脳が集まり、今後の国際社会の枠組みについて語り合った。
 フランスも会議への参加を望んだが、戦争中は準枢軸的な立ち位置だったため、各国から認められ無かった。同じように会議への参加を望んだ中華民国の扱いは、フランスよりもずっと下でほとんど敵国扱いだった。
 会議参加の四カ国のうち、アメリカはトルーマンが副大統領職から大統領になったばかりのため、主導権が握れなかった。イギリスのチャーチルは老獪な政治家だったが、彼の政党は7月末の選挙で敗北すると予測されており、こちらも十分な政治力を発揮できなかった。ソ連の首相は、もちろんヨシフ・スターリンだった。
 この時の日本代表は、1940年から首相の座にあった田村馨だった。彼は大貴族(田村公爵家の傍系)出身ながら、擬似的に戦時内閣となった日本政府を主導して戦争を乗り切り、戦争中各国首脳との度々の会談にも臨んだ。
 年齢は既に70才を越えていたが、老練な手腕と話術で日本の利益を引き出せる人物だと諸外国からも見られていた。
 欧米のジャーナリズムが彼の事を「サムライ・マスター」と呼んだ通り、彼は大東武士の出身だった。日本有数の一族に連なり、イギリスでバロンに当たる地爵の地位を持つ貴族で、さらに人生の過半を政治家として歩んできた人物だった。
 日本代表にとって最も厄介な相手は、ソ連のスターリンで、次がアメリカのトルーマンだった。トルーマンは副大統領から大統領に昇格したばかりで、基本的にルーズベルトの政策を踏襲する事を考えていたが、それは日本にとって不利益の多いものだった。
 このため田村は、最も関係の深いチャーチルと共にトルーマンの考えを改めさせる事に腐心した。またスターリンに対しては、イギリスと日本の連携が目立った。
 日本とイギリスの努力は実り、ソ連軍は今以上西に進むことは遂に出来ず、会談でのソ連の強硬姿勢もあってアメリカは共産主義に対する警戒感を強めた。しかし、ソ連占領下の統治については諦めねばならず、東ヨーロッパの半分がソ連の勢力圏として固定する事になる。
 一方ドイツ占領は、ソ連側が求めた首都以外のドイツ中枢部の占領統治は遂に叶えられなかった。この事が、余計にソ連を頑なにしたと言われているが、譲歩したところで結果は同じだったというのが通説となっている。
 なおこの時に限らず、アメリカがロシア人と共産主義に対して甘いのは、直接脅威を受けた事がなかったという点が大きく影響している。ただし、ルーズベルト政権下では親共産主義者や明らかなスパイもいた事は忘れるべきではないだろう。
 世界大戦の結末とルーズベルトの死は、共産主義の拡大を抑えるギリギリのラインだったのだ。

 ■戦後の枠組

 大西洋憲章以後、国際連盟に続く国際機関の設立に関する話し合いは、連合軍主要国の間で話し合われていた。
 しかし組織を作るよりも戦争が早く終わってしまったため、まだ新たな組織の設立に至っていなかった。ポツダム会議の時点では、いまだ後の「国連憲章」の草案すら完成しておらず、まだ話し合いはこれからという雰囲気も強かった。
 会議は、アメリカ、ソ連、イギリス、フランス、そして日本帝国が中心になって行われた。
 日本の参加には、日支戦争や満州国問題などもあって中華民国が強く反対したし、アメリカ、ソ連も苦言を言った。しかし、連合軍として大軍を派遣して戦った国を疎かにすることは不可能だったし、中華民国は準枢軸陣営と見られていたので発言権はほとんど無かった。一時期中華民国は、敵国条項に含まれかけたほどだった。
 このためアメリカとソ連は、世界の次の覇権をより確かなものとするため、日本を自らの側に引き入れる事を考えるようになる。

 そうした情勢下で会議は進み、拒否権を持つ常任理事国の椅子には、そのまま米ソ英仏日が座った。
 だが、すんなり決まった常任理事国よりも問題とされたのが、列強が有する植民地だった。広大なアフリカ大陸など、当時の独立国は少し甘く見ても4つしかない。アジアについても、東南アジアではタイだけだった。
 イギリス、フランスなどヨーロッパ各国は、基本的に植民地の独立に反対していた。植民地から吸い上げた富で借金を返済し、国を再建しなければならないから、各国にしてみれば死活問題だった。
 それでもイギリスは、英連邦として以後各植民地に徐々に自治を与え、白人居住地域は独立させていた。そして遂にインド帝国を解体して独立させる事になり、インド、パキスタンが新たに独立国家となる運びだった。
 ヨーロッパ以外では、日本が半ば交換条件を付けて各国との交渉を実施した。要するに、満州国を全ての意味で正式承認すれば、保護国の韓王国に独立を与えるというものだ。
 これに対して欧州各国は、戦争での日本の貢献と活躍もあって今更文句を言うつもりは無かった。敢えて言うのなら、なるべく目立たせずに朝鮮半島を独立させて欲しい、と言う程度のものだった。

 これに対してアメリカは、日本が支配権を持つ他の保護国も同様にするべきだと、半ば内政干渉を行ってきた。アメリカが言っているのは、ハワイ王国の事だった。
 アメリカの思惑としては、ハワイの独立を機会に経済的進出を強めて、自らの勢力圏、出来るなら衛星国にしてしまうのが目的だった。しかもアメリカは、今後世界を自由主義体制に本格的に移行させるので、満州国独立の代わりに日本の市場を全て解放するべきだとも迫った。
 アメリカは、戦争が終わるとすぐにも日本に対する圧力を強めた格好だった。アメリカの長期的な外交目的がアジア、特にチャイナ進出で日本が最も邪魔だったのだから、ある意味当然の外交回帰でもあった。

 ソ連は、当初は日本に対して好意的だった。
 満州国についても、戦争中に正式承認していた。目的は明白で、自由主義陣営として中途半端な立ち位置の日本に自らの側に立ってもらうことで、アメリカとの競争で少しでも優位に立とうという意図だ。無論、レナ川、満州などソ連にとっての辺境地域の多くで国境を接する日本との関係を良好なものとして、自らの安全保障の拡大を図りたいという意図もあった。
 だがソ連は、日本に対する甘い言葉の一方で、東トルキスタンやモンゴル方面から中華共産党への軍事支援などを行っていた。
 これは日本にとって不利益だった。
 しかもソ連は、朝鮮半島に対しても、共産主義活動を支援し、ソ連国内でのゲリラ訓練などまで実施していた。ソ連の真の目的がどこにあるのかは明白すぎたが、逆に日本への脅しでもあった。自陣営に属さなければ、共産主義を輸出し続けて混乱させるぞ、という事だ。
 そして、ソ連と日本を結びつける可能性を高める事の危険性は誰もが分かっていたので、満州国承認など日本の要求と意見は概ね自由主義国家群に了承されることになる。
 無論、朝鮮半島の独立との引換だった。
 また日本は、自由主義陣営の一角であることを証明するため、段階的にハワイの独立と台湾への自治を与えることも約束しなければならなかった。
 これは、戦争中のレンドリースなどでアメリカから多くの支援を受けた事などに対する政治的譲歩であり、また多くの天然資源をアメリカ、イギリスなどからの輸入に頼っているからだった。

 だが一方で、アメリカの権高な姿勢は、日本国内にアメリカへのマイナス感情を増す要因となった。

 ■大戦直後の日本の立ち位置

 大戦が終わると、日本は再び孤立感を深めていた。
 大戦中は同盟国ということで、イギリスばかりかアメリカとの関係も比較的良好だった。少なくとも、軍人同士の関係は非常に良くなったと言われることが多い。数々の交渉、外交で政治的な交流も進んだ。
 しかし戦争が終わり講和会議が終了すると、時間と共に大戦以前の状況に少しずつ戻っていった。
 近隣諸国だとソビエト連邦、中華民国との対立が再燃し、関係の深まった西ヨーロッパ諸国は距離的に遠い上に戦災復興で日本や東アジア情勢どころではなかった。
 そして日本自身は、二度目の世界大戦でさらに大国となった事からくる傲慢から、大国的な振る舞いが増えて諸外国からひんしゅくを買うことが多くなった。米ソに次ぐ、世界第三位の大国となっていたからだ。
 また日本は、自らの安全保障政策の一環として、東アジア全体に自らの覇権を拡大する向きを再び強め、大戦前と同じようにアメリカとの関係を悪化させた。

 アメリカは、日本の独自性が強い行動に対して再び悪感情を募らせていたが、日米間の不仲の隙をソ連に突かれて、日本がソ連と共闘関係を結ぶ事を強く危惧していた。
 もしそうなれば、日本が持つ北太平洋、北東アジアの勢力圏が東側陣営に移り、アメリカは本土防衛を考えなくてはならなくなるからだ。しかも日本は強大な海軍を持ち、太平洋に向けて大きく広がっているので、押し込めることが非常に難しい地理的条件にあった。
 日本とソ連が組めば、アジアのほとんどが飲み込まれる可能性もあったので、危惧の大きさは尚更大きかった。
 そして日本の立ち位置を危惧していたのは、西ヨーロッパ諸国も同様だった。日本とロシアが組む事もそうだが、日本の眼前には疲弊した自分たちが有する植民地が、血の滴る肉のようにぶら下がっているに等しいと考えていたからだ。
 一方では、一度総力戦を終えた以上、もう一度総力戦を行うだけの国力と気力を持っている国は無かった。
 アメリカですら、例外ではなかった。戦後になって究極の破壊兵器を手に入れたと言っても、少なくとも向こう5年、出来れば10年ほどは大規模な戦争が起きない事を祈っていた。
 確かにアメリカの圧倒的な国力なら、総力を挙げれば日本を叩きつぶして滅ぼす事も可能だった。だが、戦争の可能性が高まるだけでソ連と日本が手を結ぶ可能性が高まるし、アジア地域の不安定度はさらに増す。
 そして何より、総力戦を行う時代は第二次世界大戦の終わりと共に過ぎ去っていた。
 故にアメリカは、日本との関係を大戦前の状況がウソのように気を遣うようになっていた。

 一方、アメリカへの対向を目指していたソビエト連邦ロシアだが、アメリカが危惧した通り第二次世界大戦の終盤頃から日本への接近を露骨に強めていた。
 講和会議でも、日本に対する気持ちの悪いほどの接近を行った。満州国を承認したのもその一例だった。
 しかし日本人にとって、ロシア人と共産主義は19世紀からの敵であり邪魔者でしかなかった。第二次世界大戦中こそ共通の敵を持っていたが、戦争が終われば根強かった不信感が再び大きく首をもたげていた。
 ロシア人にとっても、日本は自らの東アジア、太平洋進出を邪魔する存在だった。
 シベリア北東端部と極東共和国を奪った相手である事も、決して忘れてはいなかった。
 このため日本の側からソ連への接近は、アメリカから日本に対する譲歩を引き出すために行う外交手段という向きが強かった。
 そして日本の行動が分かっているソ連、アメリカ共に、自らの陣営強化と相手の足を掬うという名目で、日本の行動に付き合わざるを得なかった。
 1930年代に外交を迷走させた日本は、いつ演技が真実になるかが分からないとも考えられていたからだ。
 とは言え日本人の感情としては、赤いロシア人よりもアメリカ人との関係強化を模索していた。
 ロシア人(ソ連)とは長年の対立がある上に、ソ連が中華民国内の共産党を支援して内戦を拡大させているからだ。それに共産主義とも相容れる筈がなかった。
 加えて言えば、ロシア人は国際条約をあまり守らないからだった。日本としては満州防衛のため、そして日本自身の安全保障の為にも、ソ連に対向できるだけの力が必要だった。

 ■新たな対立構造の成立

 第二次世界大戦が終わったが、世界に平和が訪れた訳ではなかった。ナチスドイツは崩壊したが、新たな対立と国際関係は戦争が終わった次の瞬間から始まっていた。
 ごく簡単に言えば、アメリカ合衆国を中心とする自由主義陣営とソビエト連邦ロシアを中心とする共産主義陣営の対立だ。

 そして当初の対立の焦点となったのが、戦争が終わったばかりのヨーロッパだった。ヨーロッパではアメリカは支援と援助で西ヨーロッパに自陣営を作り上げ、ソ連は半ば強引に東ヨーロッパ各地に共産主義政権を作り上げていった。
 この時ソ連は、極めて強引かつ強権的に、それぞれ定めた国境にそれぞれの民族を大移動させた。
 この事はあまり知られていないが、殆ど数年で1000年来の懸案だった国境と民族に関する問題のほとんどを解決した、極めて強引ながら共産主義的合理性の発露と言える政策だった。
 恐らくこの当時の時勢とソ連、そして独裁者スターリンの組み合わせがなければ実現は不可能だっただろう。

 これ以後日本では、アメリカを中心とする自由主義陣営を「西側」と呼び、ソビエト連邦ロシアを中心とする共産主義陣営を「東側」と呼ぶようになる。東西の名称は、ヨーロッパでの地理的な対立構造が呼び名の発端となっている。
 そしてベルリン封鎖で東西対立が明確となり、1949年に西側のNATO(北大西洋条約機構)と東側のコメコン(経済相互援助会議)の成立によって、東西対立構造の基本が出来上がる。
 一方、東アジアは不安定さを増していた。

 第二次世界大戦が終わったとき、東アジア地域の独立国は日本帝国、中華民国、タイ王国、極東共和国、フィリピン共和国、モンゴル人民共和国、そして満州国しかなかった。
 東南アジア地域のほとんどが西ヨーロッパ諸国の植民地で、朝鮮半島も日本の保護国だった。満州国も、国際的に完全に承認されたとは言い切れない状況だった。
 そして五大戦勝国で国連常任理事国となった日本が、東アジア地域の「警察官」としての役割を果たすのが筋なのだが、アメリカは日本をあまり信用していなかった。
 加えてアメリカは、依然として中華市場への進出に熱心で、市場開放された満州でも日本との経済摩擦をさっそく引き起こしていた。
 また中華民国は、大戦前の戦争(日支戦争)の影響で日本を敵視し、アメリカの庇護を求める向きが強かった。
 日本とソ連の対立も、第二次世界大戦が過ぎるにつれて再燃しつつあった。しかもソ連は、日本が本格的に自分の側になびきそうにないと分かると、中華民国への干渉を強めた。中華共産党に、中華地域を支配させるためだ。
 さらにソ連は、満州を含めた日本との国境線の軍備を増強し、東アジア各地の共産主義シンパへの支援も大幅に増やした。
 日本の動きを抑えて、中華地域もしくは北東アジア各地に共産主義国を作り出すのが目的だった。
 東南アジア地域も完全に平穏ではなかった。
 第二次世界大戦で宗主国が一度ドイツの占領下となったインドシナ、インドネシアでは独立運動が起きていた。特にインドシナのベトナム地域では、共産主義勢力が拡大していた。
 しかし西ヨーロッパ諸国は、自らの植民地に他国が介入することを拒絶し、日本どころかアメリカすら干渉できなかった。

 そして日本自身は、とりあえず朝鮮半島の独立を進めていたが、うまくはいっていなかった。
 それと言うのも、日本は欧米標準の植民地政策を朝鮮半島で実施していたため、現地自治政府に独立準備をさせていたからだ。
 そして現地政府とは、15世紀に成立した中世的国家のなれの果てで、現状のままではとても近代国家を作る事が不可能だった。
 このため日本政府が本腰を入れて指導を始めたが、現地政府の無理解と強い抵抗で進まなかった。朝鮮半島から日本が求められるのは、特権意識だけが高い世襲官僚達の懐に入るだけで殆どが消えてしまう各種無償援助だけだった。
 朝鮮半島の取りあえずの独立は1948年に実施され、形式だけ近代的な立憲君主国家にしたが、実態は「近代」にはほど遠かった。あまりにも貧しいため国内に多数ある日本資本の買い取りもできず、独立当初から日本に対して莫大な借金をしての船出となった。
 その上この借金も、当初は踏み倒す気でいたもので、日本が国際法を説いても聞かず、軍隊を少し動かすことでようやく話が付くという状態だった。
 しかも独立後も、問題が多発した。国内の底辺には共産主義が浸透するようになっていた。日本の保護国時代は極力排除されていたのが、腐敗官僚だけになった事で、一気に民衆の不満が噴き出した形だった。
 そして朝鮮半島の急速な共産化は、ソ連が日本に打ち込んだ共産主義の楔(くさび)であり当面は日本を自陣営に引き込むための脅しでもあった。
 このため挑戦半島は、独立後実質的な内乱状態に苦しみ続ける事になる。

 そして冷戦構造が始まってから、ヨーロッパに次いで注目された中華情勢だが、諸外国が呆気にとられるほど素早く状況が推移した。
 当初、中華共産党は弱小勢力だとしか見られていなかった。
 実際戦った日本も、存在を軽視していた。そして中華民国政府は、ナチス・ドイツとも関係を結んだファシズム体制を持つ政権のため、アメリカを始め諸外国は当初半ば放置していた。
 全体主義が進む可能性はあるが、少なくとも共産化する事はないだろうと見ていたからだ。このため諸外国は、戦争終了で余った武器を中華民国に売却して、戦災復興の足しにしていたほどだった。
 だが、事実上の内戦は、1944年には再開されていた。そして一旦は中華民国が全土を掌握し、ちょうどその頃に世界大戦も終わったので、全てにケリがついたと見られていた。
 しかし華北部は日本との戦争中に共産党の支配が進み、その後も農村部を中心にして共産党の支配が及んでいた。
 そこに国民党が乗り込んで、都市部と鉄道を支配する。図式としては、日本軍と中華民国(国民党軍)が入れ替わっただけだった。しかも中華民国は、日本ほど住民慰撫をしなかった。支配して当然だと考えていたからだ。しかも敵である共産党の支配に甘んじていたのだから、敵だとすら考えられ過酷な支配が実施された。
 このため民意は共産党のままで、都市を支配した国民党軍は、都市で孤立した。その事に、紫禁城に残されていた宝物を検分していた蒋介石は、全く気付いていなかった。(※紫禁城は、日支戦争で満州軍と言うより張作霖らに大規模に掠奪されている。)
 しかも共産党は、ソ連から豊富な支援を受けるようになり、蒙古や東トルキスタンで軍隊の編成と訓練を行った。
 ソ連の動きを追っていた日本が、満州での警戒態勢をほとんど戦時状態にまで高めたのと対照的に、国民党は共産党討伐ももうすぐ終わると考えていた。実際、共産党の本拠地だった延安も一度は陥落させている。実際は共産党が現地を引き払っただけなのだが、国民党は理解していなかった。
 そして内乱は反転攻勢の形になり、中華民国(国民党)政府は早くも1946年夏には首都北京を追い出されて南へと落ち延びた。その後も中華民国軍は、共産党軍に負け続けた。各地の軍閥も、次々に共産党に鞍替えして、形成が一気に共産党有利に傾いていった。
 慌てたアメリカと日本が国民党への支援を開始したが、既に遅すぎた。それに国民党側の軍隊の士気が低すぎて、武器や物資を与えてもそのまま共産党に寝返るような情景が一般的に見られた。暴政ばかりを行った国民党側には、民意も無かった。
 この間日本は満州国の国境を閉ざし、スパイだけでなく流民が流れてくる事も阻止した。流民の中に共産党勢力が紛れ込んでいることを強く警戒したからだ。この行動は、後追いながらアメリカも支持した。日本の行動はいちいち気に入らないが、中華中央の市場を失おうとしているのに、さらに満州市場を完全に失う可能性を増やすことも出来なかったからだ。

 1948年には、国民党はほぼ中華国内から駆逐され、蒋介石と政府中枢も南部の海南島へと落ち延びた。
 そしてこの時点で日本にも災いが降りかかってくる。
 中華民国政府が満州、台湾の「返還」を求め、それを国際社会、特にアメリカにも訴えたのだ。
 海南島はそれなりの規模の島だったが、当時は近代化や島の開発が遅れていた。何より大陸との距離がわずか20キロメートルほどで、大陸からの安全性が低かった。共産党に海軍は無かったが、無数の手漕ぎボートで攻め寄せられたら、防ぎようが無かった。
 そして自由主義陣営としては、安易に共産主義国家を認めることも出来ない。そこを蒋介石を突いてきた形だった。だが、かといって自分たちが一度は独立を認めた満州国を国民党に明け渡すことは、様々な点で難しかった。台湾は国際法上で日本領だったので、こちらは論外だった。
 満州国を国民党に明け渡す場合、まず満州国の正当性を否定する事になる。次に、中華民国が自らによる吸収を求めている。当然ながら、満州国皇帝の存在は認めていなかった。
 それに、せっかくまともな国家建設を進めている満州だが、全体主義傾向が極めて強い国民党がまともな国家を作る可能性は低いと見られていた。それに国民党に満州を明け渡して場合、ソ連と共産党中華に包囲されて攻め滅ぼされる可能性が高いとも考えられていた。
 そして何より、日本が認めるはず無かった。また満州は、日本に加えてアメリカにとっても得難い市場だった。それを強欲な事が既に知れ渡っている国民党に渡すことは、自分たちの利益を大きく損ねると考えられた。

 ここでアメリカは、日本との本格的な交渉に入った。
 日本が完全に自由主義陣営としての立場を鮮明として、北東アジアで共産主義との対決姿勢をとるなら、アメリカは日本に対する最恵国待遇、自由貿易協定、さらに進んで二国間の安全保障条約の締結など日本にとって大きな利益のある、アメリカとの親密な関係を結ぶというものだ。
 これでアメリカは、北東アジアでの安定を手に入れる事ができるし、日本は念願の外交関係を手に入れることができる。そして満州は、日米の共通の利益として残し、中華民国は切り捨てられることが決まった。
 そして表だって日本、アメリカが取った行動は、まずは国民党の亡命援助だった。既に台湾に亡命者をかなり受け入れている日本は、人道的見知から枠の拡大を行うという方向で、アメリカは単純に共産主義陣営からの救助とした。
 そして1950年には、北東アジア情勢の不安定化を受けて、日本とアメリカとの間に「日米安全保障条約」が締結される事になる。

 その後蒋介石は、日本とアメリカへの激しい恨み節を唱えつつも結局アメリカに亡命した。だが、国民党の一部が日本の台湾や満州へと亡命したことが、新たな対立構造の中での新たな戦いの狼煙を上げることになる。

 そして中華中央部での共産主義勢力の勝利は、東西冷戦構造の中で宙ぶらりん状態の日本帝国を、否応なく西側に向かわせることになる。
 しかしそれは、新たな時代の到来を予感させる第三世界の盟主という座が見えてきている中での選択肢であり、日本帝国に重大な決断を迫るものでもあった。

 かくして、新たな時代が始まっていく。

引き篭もりルート 了

(※海上の濃い青色は日本の経済水域。)