■■Civil_War(3)


■戦争序盤

 「冬殿事件」後、人々の移動と当面の戦争準備が終わる1852年の秋頃、最初の軍隊同士の戦闘が開始される。
 この時までに、両陣営はある程度勢力が色分けされたが、その状況はかつての戦国時代に似通っていた。戦国時代との違いは、新大東州のほぼ全てが最初から北軍に属していた事だった。また南端の茶茂呂地方が、当初は事実上の局外中立に立った事も大きな違いだった。茶茂呂地方は当初北軍に属すると思われていたが、世界各地の大東勢力圏の維持を誰かがしなければならないし、茶茂呂系の黒姫伯領内には大東で唯一の巨大炭田地帯があった。このため、両者から中立が認められた形だった。またこの背景には、商都としても栄える南都の近代資本家へと脱却しつつある大商人達の存在が、色濃い影を作り出していたことも忘れるべきではないだろう。
 この戦争で大きく頭角を現す五大資本家(五芒、中川、神羅、剣菱、倉峰)のうち、新大東州の宍菜を拠点とする神羅以外は、初期の拠点を南都に置いていた。かつては大坂が大東随一の商都だったが、こちらは戦国時代末期に事実上商人達が逃げ出した為、旧都でしかなくなっていた。
 また、海外植民地の全て及び現地を守備する軍事力は、基本的にその全てが局外中立となる。

 戦争に際する南軍のアドバンテージは、国家の中枢を押さえている事と、域内の巨大な人口だった。対する北軍のアドバンテージは、工業化の進展度合の高さだった。人口では2:1と南軍優勢だが、工業化度合い、資本高、鉄の生産量は北軍が南軍の最低でも2倍、最大で5倍の優位にあった。また北軍には、戦争当初から民衆からの支持が高かった。一方南軍の優位だが、人口以外に東京近辺の大規模な常備軍を動かせるという優位があった。
 「惣軍」と呼ばれていた東京御所直轄の常備軍は、6個「合師」の歩兵4万、騎兵5000の規模があった。これらの兵力は、戦時動員による徴兵を行うことで二倍の兵員数と、東京郊外各所の鎮台(駐屯地)に備蓄されている武器弾薬を支給されることになる。そして南軍は、北軍の者が立ち去った後の御所(中央政府)を好き勝手に使って、大軍を用いて一気に北軍をもみ潰そうとした。
 しかし、名目上天皇直轄である海軍は「天皇の直の命令」を極めて強く求め、命令がない場合は決して動けない理屈付けして、各所で実質的にサボタージュに入った。このため南軍は、海軍将校の家族を脅すことで幾つかの艦艇と水兵、海兵隊を動員するのが精一杯だった。しかも自らの行いによって、海軍の全てから反感を買うこととなった。よって海上では、南軍、北軍双方の大貴族達が私的保有を許された僅かな数の軽戦闘艦艇が、海上戦闘力のほぼ全てだった。

 常備軍の不足する北軍は、当初は防衛体制を固めるべく、陸繋のある境東府近辺を絶対防衛線に設定した。
 しかし、当時は港湾都市として発展していた境東府の巨大な城壁は、既に市街地に完全に飲み込まれていた。
 このため境東府は策源地に過ぎず、二者陸繋こそが本当の絶対防衛線だった。両岸を30メートル以上の断崖で海からも隔てられた幅20キロメートルほどの狭い場所さえ守れば、船を使わずに新旧双方の大東州を行き来することはできない。既に鉄道が旧大東州北部の境都まで通じていたが、この鉄道路線も一度北軍の手によって長い区間で破壊された。
 そして北軍の貴族や武士を中心とする私兵集団である戦闘部隊が陣地構築と布陣を完了する少し前、南軍の手に落ちた大東常備軍の大部隊が殺到する。
 5個「合師」を中心に8万5000の兵力で、騎兵、砲兵も十分に持った、当時の大東軍で最も贅沢な装備を持つ部隊だった。また、相手を圧倒するため、貴族,武士の者が将校としてではなく主に騎兵として参加しており、騎兵の規模は2万近くあった。ただし無理矢理動員されたという向きが強いため、将校、下士官の士気が低かった。
 対する北軍は、在地領主達の集合体である騎兵こそ3万馬と圧倒していたが、歩兵の方は民衆からの志願を含めても騎兵と同程度の3万程度しか集まらなかった。だが士気はかなり高かった。しかも北軍には、当時最新鋭の武器を次々に開発していた大商人の神羅屋が陣営内に居たため、最新兵器の装備率は戦闘直前に格段に上昇していた。
 そして両軍の士気よりも新兵器の存在こそが、この戦争の行方を別の方向へと急転換させる事になる。


■「二者陸繋の戦い」 1852年9月18日

 当時の大東の軍隊は、ナポレオン戦争の情報を元にして作られた軍制(=師団制)を取り入れていた。戦術も同じで、そこに大東伝統の習慣が加わって、決戦時の騎兵の集中投入こそが重要と考えられていた。
 そして決定的時期に騎兵が投入される「予定」なので、まずは双方方陣を組んだ歩兵部隊による銃撃戦が展開された。5個合師、5万の歩兵を中心とする南軍は、相手の方が多い騎兵や戦虎兵を警戒しつつも騎兵投入前に戦闘を決定しようと、かなり積極的な前進を実施した。しかし北軍の前に、戦場での前進はままならなかった。北軍が、当時の大砲並の距離で銃弾を命中させてくるため、当時の通常戦闘距離に入る前に無視できない損害となったからだ。
 これが、「ミニェー弾」を用いる施条(ライフリング)された「神羅銃」の威力だった。非常に長い射程距離の実現と命中精度の飛躍的な向上によって、この戦い以後戦場を席巻することになるその初陣だった。
 それでも南軍は、本来の銃撃戦距離まで詰めて戦闘を行うも、既に先鋒とした3分の1が損害に絶えかねて一時後退しており、圧倒的兵力差にはならなかった。しかも通常距離での戦闘は劣勢で、南軍側の精鋭である筈の常備軍は相手よりも急速に数を減らしていった。士気も高いとは言えないため、戦列の崩れが早くも見え始めていた。
 これに焦った南軍は、数の優位がある砲兵の集中によって戦況打開を図ろうとして、物量差からこれが功を奏した。過剰なまでの砲撃の集中で北軍左翼が崩れ、これを好機と見た南軍は一気に戦闘を決するための兵力を投入する。
 騎兵2万騎による突撃は、この戦争で二番目の規模となった。そして二番目の大損害を出す事になる。
 北軍中央の歩兵部隊は多くの者が神羅銃を装備しており、殺到する騎兵に対して当時の常識を越える射程距離と命中精度の弾幕射撃を実施したのだ。攻撃の成果は、射撃した北軍が驚いたほどだった。
 結果、南軍諸侯やその子弟、武士団を中核とする伝統の騎兵集団は、短時間のうちに3分の1近い大損害を受けて突撃衝力を完全に失い、まだ後方の部隊が戦場に突入しないうちに全面退却せざるを得なかった。そのまま突撃を継続していたら、間違いなく全滅していたからだ。
 そして南軍の退却を好機と見た北軍は、温存していた自らの誇る大騎兵部隊の全力投入を決定。こちらも戦闘を決しようとした。
 これがこの戦争で最も大規模な騎兵突撃だった。
 騎馬3万騎。軍記物のように、勇壮という言葉こそが相応しい堂々たる進軍だった。そして既に敗走しつつある南軍騎兵の後方を捉えるや、次々に南軍の貴族、武士の当主もしくは子息達を討ち取っていった。
 双方合わせて4万騎以上の騎兵戦は、大東戦史上どころか世界中探しても屈指の規模の騎兵戦だった。そして煌びやかな軍装をした北軍指揮官が「蹂躙せよ」と絶叫するまでもなく、北軍騎兵は相手を馬蹄で踏みつぶしていった。
 だが北軍騎兵の栄光もそこまでだった。

 北軍騎兵が南軍騎兵を蹂躙した先には、既に半壊した南軍歩兵の集団と砲兵部隊がいた。そして南軍騎兵の蹂躙で血に酔っていた北軍騎兵の主力は、南軍が慌てて作り上げた十字砲火の「キル・ゾーン」に突入していた。しかし勝利の勢いに乗る北軍騎兵は、自らの数の多さも考えてここで退却して後ろから撃たれるよりも、突撃して活路を切り開く事を決断する。
 まさに騎兵らしい決断だった。しかも、この戦闘で勝利さえしてしまえば戦争自体を短期間で終わらせ、しかも北軍の勝利で飾ることが出来る可能性もあったので、判断が間違っていたワケではない。騎兵達の多くは倒れるだろうが、それだけの価値がある勝利が待っている筈だった。
 しかし北軍騎兵も、近代化への道を進んでいた砲兵、歩兵の弾幕射撃には勝てなかった。北軍の中核だった新大東州が誇る精強な騎兵達は、飛び交う無数の銃弾と炸裂する砲弾の前に倒れていった。
 それでも数が多かったので、一部では相手部隊の蹂躙に成功し、混乱する戦場を旋回しつつ後退する事もできた。さらに一部は、南軍司令部の一部を蹂躙していた。
 南軍が受けた損害は甚大で、全軍の半分が死傷し、もはや後退するより他なかった。
 だが北軍騎兵の払った代償も大きく、3万騎のうち2万騎近くが戦死または負傷で失われていた。そしてその多くは、貴族、武士の当主または子息だった。

 しかし戦いはこれで終わりではなかった。大東での戦乱で半ば「恒例」となっていた夜戦が待っていた。夜戦の主力は、数百年前から代わらずの戦虎遊撃隊で、剣歯猫を操る兵士と随伴歩兵が高性能な神羅銃による狙撃戦が出来るため、ある意味千年近く前の戦虎兵に先祖帰りしたような編成を取っていた。かつての弓がライフル銃に変わっていた。
 だが、細く平たい地形の陸繋はあまり遮蔽物がなく、後退する南軍も戦虎の夜襲を警戒していた。
 この夜の夜戦で南軍は大きな損害を受けたが、襲撃した北軍の4個大隊程度の規模だった戦虎遊撃部隊も同様に大打撃を受け、半ば壊滅した。
 まるで古い時代の終わりに対して、古い側が抗うような戦いだった。


■衆兵の誕生

 以下が、「二者陸繋の戦い」での双方の兵力と損害になる。

・参加
 ・南軍
 総数:8万5000名(工兵、輸送兵、その他軍属除く)
 騎兵:1万9000名、歩兵:5万8000名、砲兵:8000名
 ・北軍
 総数:6万3000名(工兵、輸送兵、その他軍属除く)
 騎兵:2万9000名、歩兵:2万6000名、砲兵:5000名、戦虎兵:3000名

・損害(最終的な戦死者のみ)
 ・南軍:5万3000名
 ・北軍:3万8000名

 見て分かるとおり、双方の軍が軍事的に「全滅」していた。負傷兵を加えると、双方ともまともな部隊はほとんど残っていなかった。双方共に追撃や進軍どころではなく、防衛線の再構築すらままならない状態だった。
 中でも双方にとって大きな損害だったのは、将校や騎兵の過半を占めていた貴族、武士の当主または子息の損害(=戦死傷)だった。しかも戦死した武士達は、武士の中でも騎兵になれるほど身分の高い者だった。
 双方合わせて実に3万人もの特権階級の者が戦死するなど、前代未聞の出来事だった。戦死者の中には大きな領地を持つ伯爵家の当主などまで含まれており、大東の特権階級に極めて大きな衝撃を与えた。同時に、大東の軍隊と社会そのものにも大きな影響を与えることになる。

 なお、封建制の国家での特権階級の数は、末端まで含めると社会全体の10%程度になる。実際に大きな領地や豊かな富を持つものは、2%程度だ。
 大東の貴族(勲爵以上)は、時代の変遷はあっても大きな変化はなく約400家ほどだった。当時の農村部の人口が6000万人を越えていたので、単純に言えば一家当たり15万の人口を抱える領地を持つことになる。中世ヨーロッパなら小国並の規模で、戦国時代の日本でも十分に規模の大きな大名クラスとなる。
 最大の田村公爵家だと、見た目の領内の「総人口」は500万人以上にもなる。ここまでくると、当時の欧州の一定規模以上の国家並だ。
 当然貴族に含まれる数も多く130万人に達し、地爵と武士を加えると650万人にもなる筈だった。これだけの数がいるのだから、貴族や武士が3万人死んだと言っても一見大した事ないように見える。だがここには、大東が近世的封建国家である事と、近世大東の人口拡大と国内開拓のからくりが潜んでいる。

 戦国時代が終わり貴族、武士の領地が新たに確定した17世紀初頭の人口は、おおよそ2100万人だった。その後200年の間に総人口は約三倍に増えて、遂に巨大な大東島は人の手によって開拓しつくされた。北部の僻地にまで大東式複合農業が行われ、燃料、建材など全ての資源となる森林は国や貴族達が厳しく管理しないと、すぐにも消えてしまいそうなほどだった。
 だが新たに増えた開拓地の多くは、国家に対して納税義務がある土地とされた。開拓農民の3割程度が西日本列島からの移民だったし、貴族達が新規開拓された場所を自らの領地とするには、領内といえども多くの面倒があった。
 このため総人口の半分近くが封建的な領地ではなく、国家そのものの領地だった。しかもこの領地は、名目以上で天皇の領地「皇領」でもなかった。文字通り、国に対してのみ納税義務を負っていた。そしてここからの税収こそが、大東という近世的国家を安全運転させていた原動力だった。数千万人分の安定した税金があれば、ヨーロッパ列強に劣らない海軍を持つことも十分可能だったのだ。
 そしてこれらの領地を管理するのは、徴税吏などの官僚を別とすれば、村を治める村長または名主などの豪農だった。彼らは大東各地に古くからいる同種の存在より自立していたが、武士でも貴族でもなかった。また開拓村の中には、特に北部を中心に神社勢力による開拓村もあったが、神社とは宗教ではなく、ましてや政治勢力でもないし特権とは無関係な存在だった。
 故に大東の貴族、武士は、大東自体の総人口から推計される数字のおおよそ半分になってしまう。
 実数では、貴族が70万人、地爵と武士を含めて350万人となる。
 このうち元服(成人)する15才から最高40才程度までの男子が軍役に服するとして、全体の5人に1人程度度となる。これだけだと70万人にも達する。
 この数字こそが、「大東武士百万騎」の所以だ。戦国時代でも、武士(職業軍人)は最低でも50万人いたことになる。

 だが時代の変化によって武器と戦術は複雑化し、兵士を率いる為にはより高度な教育が必要となっていた。そして本国が島国の大東国では、西日本が攻めてこなくなり国内が安定すると、多数の陸軍を抱えようと言う意志に欠けていた。海軍の充実と武士将校の育成にこそ力を入れていたが、陸軍はロシア人と北の僻地で追いかけっこする程度の数と、ヨーロッパに舐められない程度あれば十分と考えられていた。だからこそ開戦時の首都近辺の常備軍が4万人程度だったのだ。4万という数字は、当時の大東の総人口から計算すると0.1%にも満たない。
 また貴族と武士は、全ての面で官僚の担い手だった。官僚の中には軍人も含まれるが、事務職をする一般的な官僚以外にも、警察活動をする者など多数の人員が必要となる。それら全ての官僚を、「僅か」70万人で支えなくてはならなかった。しかも彼らは、国家だけでなく自分たちの家、一族も率いなければならない。常時官僚、軍人になれる数はさらに少なくなる。
 本来、軍人を含めた官僚、役人の数は、総人口に対しておおよそ2%程度(120万人)が必要となる。70万人では半分程度しか賄えず、実際はさらに数字が低くなる。このため大東国は、18世紀頃から多くの民衆を官僚として活用していたほどだった。事務を行う官僚でも指揮をするのが貴族や武士で、実際動くのが民衆という軍隊のような図式が出来上がっていた。
 そして平時においては、軍人の数十倍の数の官僚、役人が必要となる。近世だと安定した国で8〜10対1程度で、この数字を大東に当てはめると7万人となる。実際はこれよりも少なく、3万人程度の貴族や武士が軍事に関わっていた。
 なお、民衆を下級官吏として使うに際しては、従来からの軍事制度が物心両面で役に立った。

 話しを軍人とりわけ将校戻すが、19世紀半ばの大東軍の場合、陸軍の常備軍が海外植民地を含めて15万、海軍が5万ほどの人員を抱えていた。この数字には、軍の官僚組織も含まれていた。そして将校の数はおおむね2%なので、軍人のうち貴族や武士の数は、本来なら4000名程度。毎年100人程度の軍人のなり手が必要となる。軍事に携わる3万人程度の貴族や武士だけでも、将校は十分に供給できた。このため下級武士は、下士官になるのが一般的だった。このため、戦う事は「武士のみに与えられた特権であり義務」という建前は平和な時代の間に崩れ、歩兵の多くと砲兵のかなりを募兵した庶民が占めていた。ただし騎兵だけは、貴族と武士のものだった。
 また水兵の場合は、もともと海賊から発展した経緯があったが、直船を多数運用するには多くの水兵が必要なため、戦国時代から武士以外の者が水兵として活躍していた。それでも将校は貴族や武士のものであり、この点は陸よりも徹底していた。例外は、商船改造の戦闘艦(私掠船)ぐらいだった。

 だが、たった一度の戦いとその後の建て直しにより、事態は大きな変化を余儀なくされた。
 「二者陸繋の戦い」では、義勇兵として戦った騎兵のほとんどが、本来なら軍人ではない貴族や武士の当主または子息だった。武士や貴族としての身分も高い者が多い。その3万人が一日で死んでしまったのだ。この3万人は、武士や貴族の中でも功名心が強くまた血の気の多い者となる。加えて双方合わせて6万人もの軍人も戦死している。
 合わせて9万人、この六割が貴族や武士なので、働き盛りの男子のうち8%もの貴族と武士が失われ、大東の武士社会は一気に機能不全に陥った。特に軍事組織は、専門技術を必要とする事になっていた事も重なって壊滅状態だった。貴族や軍人は慌てて、他の分野から人を軍に引き抜こうとしたが、混乱は軍ばかりか官僚組織、行政組織全体に広がった。
 そして近世200年の安定を経験した国内の民衆にとって、社会を維持する能力のない貴族や武士は、戦わない武士よりも価値がなかった。
 加えて軍そのものでは、将校が壊滅状態に陥っていた。北軍の場合は血の気の多い貴族、武士の壊滅なのだが、こちらも臨時将校となる人材が大きく不足する事態に陥った。

 ここで窮地に陥った双方の陣営は、まずは相手を倒すという一点を目指して、急ぎ民衆からの兵士の大幅導入を決める。民兵使用は大東の戦国時代にも行われた事で、戦時なら問題もないと考えられた。しかし最初は各貴族、武士の領民を軍属以外で扱うことも難しい為、主に都市住民と開拓農民の子孫達が募兵対象とされた。
 そして、あまり高い期待を抱かずに募兵してみると、北軍の方では募集した側が驚くほどの志願者が殺到した。志願者の多くは「革命宣言」に感銘を受けており、さらに宣言を発表したのが庶子の血が入った田村清長という点を評価していた。
 一方南軍でも同様の方法で軍の建て直しと増員が図られたが、当初は芳しくなかった。そこで当面は貴族や武士の軍への動員を強化することにしたのだが、官僚や役人として働いている者の引き抜きを意味しており、行政能力の低下をもたらした。

 そして双方が軍を再編成し、さらに冬営を挟んだ1853年3月、再び戦端が開かれる。
 この時までに双方の装備もかなり更新が進み、高い威力を実証した神羅銃の普及が進んだ。南軍の方も、南都に生産拠点を置く剣菱屋から急ぎ量産された同種の銃(剣菱四八型)を受け取り、北軍に対向できるだけの兵力を揃えようとした。
 先に行動したのは、膨大な数の新兵による大軍団を編成した北軍だった。53年春の時点での北軍の総数は、一気に50万人を越えていた。志願者は100万人を越えたのだが、体格や健康度合い年齢などで半分に絞り、既に完成されていた教本と練兵組織を用いて、半年間で兵士として鍛え上げた。将校の方も、生き残った将校と東京から引き上げてきた将校の卵達を臨時教官として、こちらも即席教育で将校と下士官の数を揃えた。また多数の下士官が、昇進して将校となった。
 この時貴族や武士だけでなく、学歴の高い民衆も将校教育の対象とされ、ついに大東での身分制度の壁が崩されることになる。そしてここで北軍は、戦虎部隊が壊滅状態な事もあって、ナポレオン戦争を研究した末にようやく散兵戦術を導入することを決める。そして新国家建設の熱意に燃える兵士達なら、方陣や戦列を組まなくても逃げる可能性が低いし、高度に発達した武器の前に方陣や戦列は逆効果であることを既に学んでいたからだった。また囲い込み(エンクロージャー)が進んだ大東の農地も、方陣に不向きなことが改めて理解されていた。
 そして20個合師、約15万の軍団を編成した北軍は、策源地の境東府を鉄道を復旧しつつ前進し、昔から北軍寄りの境都への無血入城を果たす。
 民衆の軍隊を民衆が出迎える光景は、大東の歴史が大きく変わる瞬間だった。
 しかしこの民衆の軍隊が、南軍の貴族と武士の軍隊を徹底的に破ると、事態はさらに思わぬ方向へと向かうことになる。


■民衆同士の戦争へ

 戦闘の舞台が広大な高埜平野に移った時点で、戦争の様相が大きく動き始める。
 境都南方の「第一次千原会戦」は、防御に徹した南軍が辛うじて敗北せずにすんだ。防御に徹した場合、射程距離と命中精度が格段に向上した小銃弾幕は、極めて高い効果を発揮した。
 しかし兵力は北軍が圧倒的に優位で、次の戦闘で南軍が敗北すると見られた。一方北軍は、当時境都より南はまだ鉄道路線があまり整備されていないため、今までのように円滑な後方補給活動が出来なくなっていた。当然、15万を越える兵力の前進も難しくなり、急に動きが停滞した。
 平時状態から半年程度では、本格的な近代戦争を行うだけの体制が作れなかったのも北軍の停滞の原因だった。
 そして北軍の前進が止まった南軍の後方では、俄に民衆が軍に志願し始めていた。北軍部隊が旧大東州の古戦場に侵攻したことで、彼らにとっての郷土防衛戦争へと変化していったからだ。
 これは、侵攻してきたのが民衆である点も見逃せない。建国の歴史から見れば、原大東人やアイヌによる逆襲とも映るし、さらに新大東州には江戸時代を通じて日本人の移民も多く、侵攻してきた軍隊にも多数属していた。
 こうした心理が南軍への民衆の志願兵を増やし、南軍も急ぎ訓練と装備の供給を行った。そして大東の大地は、巨大な兵団を短期間で作り上げるだけの多くが既に揃っていた。
 このため北軍が再び進撃を再開すると、10万を越える民衆の軍隊が行く手を阻み戦況は膠着する。しかもその後も、南軍、北軍双方ともに、後方から送られてくる民衆の軍隊を次々に戦線へと送り込み、旧大東州で最も東西の幅が広い大平原で、大軍をずらりと並べた対陣、つまり戦線の形成へと移行していった。しかも双方は損害を抑えるために、その場で塹壕を掘り始めてしまう。
 その間、南軍、北軍双方ともに相手を出し抜こうとしたり、一部の兵力密度を上げて戦線突破を図ろうとするが、防戦有利の原則は動かず、損害を積み上げただけに終わった。


■諸外国の動向

 1853年春、イギリスの艦隊が大東に来航した。
 最初は国際貿易港として、そして当時は大東随一の中立港としても繁栄していた南都にやって来た。
 既にイギリスは大東国に公館(大使館)を首都東京を設置していたし、マレー半島を得て以後は大東国にもやって来るようになっていた。このため、他のヨーロッパ諸国よりも大東の事情に詳しかった。大東で俄に勃発した大規模な内戦の情報も、遠く本国に情報が送られていた。
 イギリスは大東での内戦を、大きな武器売買の機会と捉える一方で、大東が弱った場合に植民地を奪うなどの行動を取ろうと画策した。特にイギリスは、ウィーン会議で別の選択をして逃した豊水大陸を奪いたかった。また、大東が北東アジアでの政治的リアクション能力を大きく低下させたのを狙って、隣の西日本列島に対する行動にも出ていた。日本に対しては、開国を強いて依然として状況が改善しない清帝国との貿易を補完するのが目的だった。
 大東が強いままだと、日本への干渉に何らかの行動をする可能性が高かったが、大東での大規模な内戦はイギリスにとって様々なチャンスをもたらしていた。
 このためイギリスは商船などでの大東の調査を続けつつ、大東への政治的行動の機会を狙っていた。
 その時大東側からの接触があった。接触してきたのは東京を抱える南軍の方で、南軍はイギリスに対して最新兵器の大量購入を持ちかけた。

 イギリス以外だと、既に上海にまで来ていたフランスが大東本国にやってきた国になる。
 また大東の内戦で色気を出したのがロシアで、大東領のサハ(ユーラシア大陸北東部)を狙う動きを見せる。とはいえロシアは、1853年には自らも黒海沿岸のクリミア半島で列強と激しい戦争に突入したため、大東に対する動きはほとんど行えなかった。北の僻地では、ロシアと大東の現地騎兵が、散発的な接触を行ったに過ぎなかった。
 それ以外となると、メキシコとの戦争の結果大東洋側にまで国土を拡張したアメリカになるが、大東洋にはまだ何も持たないため、大東国に何らかの干渉を行うことも基本的に無理だった。アメリカと言えば捕鯨が当時の重要産業で大東洋にも進出していたが、基本的に大東洋北部一帯は大東の漁場で、アメリカ船はモグリ以外で入り込んでいなかった。当然だが、アメリカが捕鯨船の保護や補給地確保を求めて北大東洋に来る理由もない。アジアに対しても同様だ。
 またアメリカは、大東が保有する北米大陸北西部の獲得、つまり侵略戦争も狙ったが、沿岸部を中心に大きなコロニーを作り駐留軍も置いている相手に対して、メキシコのような手は通じなかった。北米の大東駐留軍や総督府も、アメリカの動きは警戒していた。アメリカ側も新大陸の大東軍の戦力はある程度掴んでおり、余計なことをしてせっかく得た大東洋沿岸を失うようなやぶ蛇になる可能性を警戒して、当面は大東本国の成り行きを見守ることにしていた。
 つまり、大東を巡る外交合戦で本格的に動いていた列強は、イギリスとフランスだけだった。
 そして1853年に大東にやって来たイギリスは驚いた。既にとんでもない規模の陸上兵力が出現し、ナポレオン戦争など児戯と思えるほどの大規模戦闘を行おうとしていたからだ。大東に艦隊を持ってきた理由も、あわよくば軍事力を用いた示威行動にあったが、それが不可能な事は明らかだった。イギリスからの話しを聞いて、ロシア、アメリカは最初は話しが誇張されていると考えたが、その後大東に来て同じように震え上がることになる。大東本国に出来上がった大軍団が、戦争が終わると自分たちの境界線の向こう側に来る可能性を考えたからだ。
 ナポレオン三世になって積極性を取り戻したフランスも、イギリスに遅れること半年で大東に船を派遣したが、こちらは最初から商売目的でやって来ていた。同じ時期にはイギリスも目的を商売に切り替え、とにかく目の前の大戦争という果実に欲望のまま食らいついた。
 またイギリスやフランスとしては、一日でも長く大東が内戦をして疲弊すれば、その後大東に対する行動にも出やすいと言う読みがあった。
 だが当時のイギリス、フランスは、クリミア戦争で共同戦線を張りつつも基本的には対立していたので、最初に来たイギリスがそのまま南軍へ、少し遅れたフランスが北軍へ握手を求めた。
 そして以後のイギリスとフランスは、自らのクリミア戦争もあって、数年間戦争特需に沸き返ることになる。