■■Civil_War(4)


総動員

 西暦1853年6月、初期の想定とは全く違う戦争が動き始める。
 既に高埜平原に布陣する双方の軍隊の総数は100万人を数え、それぞれの後方ではさらに数倍の規模の兵士達が集められ、新しい戦争に対応した即席の訓練を始めていた。
 この段階で大東島での戦争は、完全な近代戦へと急速に移行しつつあった。戦争を決するのは「国力」であり、前線に兵士と兵器、砲弾と銃弾、その他補給物資をより多く届けた側が勝者となる戦争となっていた。
 しかし兵器の発達がまだ近代には至っていないため、戦争は長くズルズルと血を流しながらいっさい途切れる事なく続く事になる。こうした戦争は、大東の歴史でも初めての事で、民衆への負担が非常に大きく、政府が民衆に対して果たすべき役割も重要になった。
 そして近代戦争となった時点で、南北双方の政治組織の違いが決定的な差となって現れるようになる。
 南軍は従来の東京御所の政治組織を利用したが、北軍は東京から引き上げてきた者と各貴族や大商人が出した人材で臨時に戦争運営を実施した。このため北軍では、優秀ならば年齢、人種を問わず要職に抜擢した。一介の商人(企業の社主)が大臣に抜擢される事例も見られた。結果として非常に若い人材が、「仮政府」とでも呼ぶべき組織を動かした。そして本来なら経験と実績を持つ南軍の政治組織が圧倒的に有利な筈なのだが、そうはならなかった。
 まず東京御所では、本来属する三割の人員が北軍に流れていた。そしてまずは、欠けた人員で中央行政を行おうとして失敗した。戦争のためにまわす人員も不足し、新たに外から人を大量に増やすという発想にも乏しかった。貴族や武士の間で臨時職員を多数拠出したが、これは南軍の特権階級の組織自体の弱体化をさらに進める結果となった。
 対する北軍は、民衆を説得することでとにかく戦争に勝利することを第一と定め、極めて強固な軍事社会、軍事を最優先とする政府組織を作り上げることで問題の発生を最小限としていた。

 そして1853年中頃に入って本格化した民衆の兵士の動員だが、この頃には志願兵が強制的になって事実上の「徴兵」へと変化していた。先に行ったのは南軍で、戦国時代の事例を探し出して、天皇の命令だとして大量の民兵動員に踏み切った。
 一方の北軍は、当初は先に書いたように志願制だった。しかし志願にも限界があるため、南軍に遅れること三ヶ月後の5月に領域全土での動員を開始する。民衆も側も、時代が変化しつつあることを感じて、この要求に応える姿勢を示した。兵士以外の民衆も、「前線の兵士の苦労を思え」と考えることが一般化され、窮乏する生活に耐えた。
 なお「徴兵」対象は、当初は長男以外の男子で18才から25才とされた。志願の場合は、後方業務を含めると16才から35才となる。
 10年ほど後のアメリカでの南北戦争では、18才から35才までが徴兵し、最終的には全国民の6人に1人が戦争に動員される計画が作られた。アメリカより少し前で、まだ近代と呼ぶには不足する大東での動員は多少緩く、1853年半頃の時点ではせいぜい20人に1人だった。それでも6700万の大人口を抱える国だったため、南北双方が動員しようとした兵員数は実に300万人を越えた。そして双方共に相手の状況を見つつ動員を強化し、最終的には11人に1人、9%までが動員された。数にすると約550万人にもなる。この数字は、比率以外でアメリカ南北戦争での両軍の動員計画を大きく上回るもので、記録は第一次世界大戦まで破られなかった。この点をもって、大東国の南北戦争こそが世界初の近代戦争と言われる。
 だがこの徴兵は、別の流れも生み出した。
 戦争に興味のない者、戦いたくない者の一部が、戦争から逃れるために豊水大陸や北米大陸に移民していったのだ。移民は1854年に25万人を記録し、戦争中に100万人以上が二つの大陸へと旅だった。このうち80%が徴兵適齢期の男性で、副産物として戦後の大東政府は、豊水と北米での嫁を求めて戦争未亡人達や結婚適齢期に入っていた孤児をせっせと国費で豊水に移民させる事になった。

 巨大な軍隊の運用には多数のスタッフ、つまり将校が必要となる。南北どちらの陣営も、将校の不足に悩んだ。今までとは全く違う想定の兵団が出現したのだから当然だが、この対応も南北で違っていた。南軍は貴族、武士が将校という原則を可能な限り守ろうとしたのに対して、北軍は高等教育を受けていれば民衆でもどんどん将校に採用していった。
 また当時の北軍には、常備軍や東京兵部大学の学生から北軍に合流した者の中に優秀な人材が多かった。
 戦争の中で実質的な指導者となっていった田村清長は、本来は海軍軍人だったため陸上の戦いには疎く、その活躍はもっぱら政治家としてで、結果論として非常に優秀だった。だが当時の北軍には、総司令官の大地武尊を筆頭に、柘植輝男、岩壁拓弥、荘来神蔵、後方参謀の輝陽屠龍など、この戦争で活躍した若い将軍たちには事欠かない。しかも彼らのほとんどは、下級貴族や武士、そして民衆出身で、名門貴族の者はほとんどいなかった。
 無論、田村、駒城などの名門貴族の子息も戦列に参加していたが、もはやそれは多数の中の一部でしかなかった。貴族の中での活躍でいえば、大東で最も産業革命が進んでいた草壁伯で商業部門を担当していた嫡男の草壁雄輝が有名だろう。ただし彼の活躍は、資本家、財政家、そして政治家としてであり、彼にとってかなり年少な田村清長の片腕としての活躍だった。

(※北軍幕僚の名前は、史実アメリカ南北戦争で活躍した人の名前をモチーフにしています(笑))

総力戦

 産業革命の進展度合いが、北軍と南軍の違いを大きくしていた。
 当時の大東島は、新大東州と南部の茶茂呂地方により多くの鉄道が敷設されていた。近代製鉄所も、ほとんどが同じ地域にあった。そして茶茂呂は中立だが、新大東州はそのまま全てが北軍だった。このため北軍は域内の移動は、今まででは考えられないほどの規模でしかも短時間に行われるようになった。加えて北軍は、武器や砲弾の供給を削ってでも、必要と思われる鉄道路線の延長を行った。
 対する南軍は、鉄道は一部の主要か移動沿いに敷設が進んでいた状況で、とても戦争全体に貢献できるほどの規模ではなかった。茶茂呂から「購入」しようとしたが、まずは武器、弾薬を買わねばならず、鉄道の延長や増強どころではなかった。このため南軍は、馬、馬車の大規模徴用で乗り切らねばならず、最前線はともかく後方での移動は圧倒的に不利だった。
 さらに南軍の不利は続いた。
 開戦当初は2対1と優勢だった人口差だが、北軍が高埜平野まで進んだことで、その優位はほとんどなくなっていた。旧大東州北部の諸侯と民衆は、新大東州との繋がりが深いためそのまま北軍入りしたからだった。その上北軍の占領地も加わり、500万人もの人口地域が南軍から北軍へと移った。結果南軍と北軍の人口はほぼ拮抗するようになる。
 しかし南軍は、たとえ500万人が北軍側につかなったとしても、不利が減ったとは言えない。

 南軍領域では、とにかく近代的な生産施設が少なかった。このため急速に大量の製品を製造する事が難しかった。これは武器や弾薬だけでなく、他のほとんど全てのものに当てはまった。何とか供給できたのは兵士への食料ぐらいで、被服すら満足に供給できなかった。
 俗に言う「軍服」は、ヨーロッパではドイツ三十年戦争で取り入れられ、以後は相手に自分たちの存在をあえて教えて脅威を与えるため、派手な軍服を競い合った。
 これはヨーロッパ文明に常に触れていた大東にも「流行」として伝わり、18世紀中頃には大東軍も軍服を導入するようになっていた。
 19世紀半ばでも変わらず、近衛兵は純白、陸軍は深い緑、海軍は深い蒼を基調とした派手な服だった。また、軍服導入はいわゆる「洋服」の導入ともなり、大東国全体に洋服の形態を持つ衣服が広まる大きな切っ掛けとなっていた。
 そして今回の戦争だが、その軍服が俄に大量に必要になったのだが、蒸気で動く紡績工場を持つのは北軍だけだった。その北軍ですら巨大化する軍隊への軍服供給に悲鳴を上げていたのに、従来型の生産施設しかない南軍が全ての兵に軍服を供給することは不可能だった。このため軍服の代わりに、派手な群青色の手ぬぐいもしくは帽子が支給され、それが軍服の代わりとなった。手ぬぐいは兵士、帽子は下士官以上で、将校のうち金のある者は自腹で自らの軍服を仕立てた。

 軍服よりも重要な武器弾薬だが、北軍は機械化を進めた近代的な工場群を用いることで半ば以上を自力で賄い、残りを南都とフランス経由でヨーロッパから購入した。南軍は3割も自力で供給できなかったので多くを南都に頼り、さらに足りない分をイギリスから購入した。
 この結果、国産の神羅銃と剣菱銃以外に、イギリス、フランス製の銃が多数使われることになる。イギリス、フランスにしてみれば、持ってきたら持ってきただけ高値で売れるので、笑いが止まらない状態だった。しかしクリミア戦争の規模が拡大するにつれて、ヨーロッパは自前の装備を整える事に努力しなければならなくなり、大東は自前で装備の過半を揃えるようになる。このため大東での工業力は、是非もなく拡大せざるをえなかった。
 このためイギリス、フランスは、自らの戦争のため濡れ手に粟の外貨獲得の機会を逸したと言われることも多い。特にこの時期は、イギリスが自国の金本位制を作ろうとしていた時期のため、失ったものは非常に大きいと言われることが多い。それほどの消費が、この時期の大東で発生していた。
 そうして大東では、終戦までに累計で約400万丁の各種小銃が大東国内に溢れた。徴兵された総数が550万人なので数が合わないが、それはこの戦争が後方で活動する多数の人員を必要とする戦争だった証拠だった。また、前線にいた兵力の最大数は、双方合わせても300万人ほどとなる。これは、常に行われている戦闘で死傷者が出続けているためだ。だから400万丁という数字は、消耗を考えなければむしろ作りすぎたぐらいだった。そして何より、前線の軍隊を維持するために多数の後方要員が必要だったことこそが、近代戦争の証拠だった。

戦争規定

 この戦争は、大東人の中での「戦争規定」を持ち込んだ戦争となった。これは、今まで行われてきたヨーロッパでの戦争の「取り決め」を参考にしたと言われている。また、「戦に民を巻き込むべからず」という大東皇帝の命令(勅命)によって、取り決めが作られたという経緯もある。
 条約は「境都協約」と呼ばれる国内条約で、1853年春に双方合意で取り決められた。なぜ決まりが作られたかというと、今回の戦争が国内の覇権を決める為の戦争だが、諸外国に付け入れられないため、国力の消耗を最小限に留めようと言う意図があった。南北両軍共に、当初から自分たちが勝った後の事を考えていたのだ。また、大規模資本家や国内の中立勢力が、被害を受けないために作らせたものでもあった。国内的には、スポンサーでもある資本家の意向が反映されたと見るべきだろう。
 大きくは以下のような項目に分けて規定が設けられた。

 ・降伏       ・捕虜
 ・戦死者      ・負傷者
 ・都市攻撃の禁止  ・無防備都市
 ・民衆(非戦闘員) ・徴用・徴発
 ・海賊行為

 詳細は割愛するが、基本的には17世紀半ば以後のヨーロッパ世界で導入されてきた事を自分たちも取り入れたもので、一部に大東独自の項目もあった。
 過去の大東でも戦争での決まり事はあったが、文書化されたり条約で取り決めたものではなかった。よく言えば慣例、習慣であり、悪く言えば「社交辞令」でしかなかった。
 しかし境都協約によって初めて戦争での行いが取り決められ、この点でも大東の戦争は近代戦争と呼ぶに値する。
 なお「境都協約」は、その後国際的な同種の条約を作る際の参考の一つとされている。

総力戦と決戦

 大東での民衆による戦争は、1853年夏頃から本格化した。
 大東島中部の高埜平野に300キロメートルに及ぶ戦線が形成され、初期の頃は1キロメートル当たり双方2000人ずつ程度だったが、一年後には1キロメートル当たり最大で5000人にもなった。単純に見ると、1メートルに5人もいる計算になる。
 当然だがこの数字は、前線で戦闘を行う以外の兵士も全て含まれていた。前線に配備されているのは、たいていは少し後ろに位置する砲兵、騎兵、工兵などを含む。銃を持つ歩兵の数は、精々半数程度だ。さらに前線の後方には、前々が突破されたときに投入される予備部隊が各地に配置されていた。だからこそ、これだけの数字になるのだ。だが、1メートル当たり5人という密度は、第一次世界大戦の西部戦線ぐらいしか比較する対象が存在しないほどとなる。
 しかしこの時代は、まだ塹壕を深く掘って対陣するという戦場ではない為、陣地に籠もっている時はともかく、攻め込むときは複数の列を作って秩序だって行軍した。戦線を形成したといっても、それぞれの要所に軍の集団が並んでいる状態で、数百メートルの距離を開けて銃を向け合っているわけではない。また鉄道の敷設がまだ十分ではないので、鉄道路線から遠い所は補給の問題から大軍を置くことが無理だった。
 そして戦場では、短時間のうちに戦力を集中する事に心血が注がれた。後方では、戦時のみ運用できれば良いという程度の簡易鉄道(軽便鉄道含む)が無数に引かれた。
 また砲撃戦には、短時間で圧倒的な弾薬投射量を実現し、広範囲に展開した密度の高い兵力を一気に押しつぶせる「奮進砲(ロケットランチャー)」が重宝された。
 「奮進砲」は、言ってしまえば爆発力と到達距離の長い大きな打ち上げ花火に似ている。というより、そのものだ。斜めに据えられた簡易滑走路に据えられて、一斉にそして大量に打ち出された。大砲に比べて命中精度と射程距離には劣り発車前の事故も多いが、爆発時の威力が大きく何より簡便で安価な為、短期間のうちに巨大化した大東での戦争では非常に重宝された兵器だった。もちろん大量に発射しないと意味のない兵器だが、製造が簡単なため巨大化した戦争の中で十分な数が生産された。
 ロケット砲は同時期のヨーロッパでは既に廃れてしまった兵器だが、大東での戦争は何を用いてでも勝たねばならない戦争だった証とされている。
 そうした戦争における双方の目的は、究極的には一つとなる。言うまでもないが、国家を自分たちの考えで染め上げることだ。戦闘はあくまで手段であって、目的では無かった。しかし北軍、南軍双方には大きな隔たりがあり、北軍は近代的な立憲君主国の建設を目指し、南軍は現状の封建国家の改変以上は望んでいなかった。このため革命派と保守派とも呼ばれたのだ。

 戦術面では、北軍は首都東京を自分たちの勢力圏に含めてしまう事が目標となっていた。既に「国力」で圧倒している以上、首都と天皇を押さえてしまえば、事実上勝利できるからだ。加えて、東京まで進むという事は、南軍の半分以上を撃破したことにもなる。
 対する南軍は、「国力」的には北軍に勝利できる可能性が低いので、負けない事、特に相手が戦争を投げ出すまで戦い続けることを目標に据えていた。
 こうした目的の違いがあるため、攻める北軍、守る南軍という図式は、戦争中ずっと続くことになる。
 そして圧倒的な弾薬投射量で強引に前進しようとする北軍と、陣地に籠もった防御射撃で応戦する南軍という図式のため、双方損害を山積みすることになる。その損害はアメリカ南北戦争やクリミア戦争以上で、半世紀以上のちの第一次世界大戦での激戦地並だった。
 当然だが双方の陣営は、これほど激しい消耗戦を長期間できない事は熟知していた。戦費もそうだが、膨大な死傷者の前に民衆の士気が萎えてしまうと考えられたからだ。実際問題として、1853年夏から1854冬までの間の一度の冬営を挟んだ1年半近くにわたる出口のないような戦闘の連続とそこでの損害は、兵士達の士気を低下させるのに十分だった。こうした点から、当時の大東はまだ近代的な国民国家とは言えなかった。
 戦闘は何度も発生したが、戦国時代中期のように派手で犠牲者が多いだけで結果の伴わなかった。
 だからこそ1854年から55年の冬営で、双方は出来る限りの準備を整えて一気に勝負を付けるつもりだった。

 いっぽう海上でも、戦闘が発生するようになった。
 大東海軍は依然として事実上の中立を維持していたが、両軍に属する諸侯の有する私設艦艇は自由に動けた。南北双方で、個人で合流した海軍将校や水兵もかなりの数に上った。
 だがそれでも、まともな戦闘準備がない事、戦闘が出来るほどの数がない事などから、海上での戦闘が起きるようになったのは、1853年夏以後の事だった。それも最初は両者の兵站の為の護衛とその妨害が主流だった。しかし1854年に入る頃から、北軍艦隊が俄に強化されていく。多くは新鋭艦艇で、ほぼ全てが蒸気で駆動した。そして大規模な物流を海路、河川に頼っている南軍に対する大規模な海上交通破壊戦を開始し、徐々に南軍の経済を締め上げていった。
 東京以外でまともな蒸気船が建造できない事が、南軍の致命傷だった(※南都に発注して建造していた)。そして帆船では、ほとんどの場合で蒸気船に太刀打ちできなかった。
 1854年秋には北軍の海上での優位はハッキリし、膠着状態の陸上での戦いを打破するため、大規模な海上迂回機動や艦砲射撃も実施された。そして地上の要塞や野戦砲兵陣地などからの火薬量の多い炸裂弾を用いた砲撃により、鋼鉄製の軍艦が必要な事が痛感され、北軍の意図もうまくいかなかった。
 また、海上防衛と破壊の双方で戦闘が頻発したが、ここでも守る南軍、攻める北軍という図式は動かなかった。だが陸よりもランチェスター理論が適用される海上での戦闘は、急激に北軍が圧倒するようになり、終戦頃には海上交通破壊ではなく域内全体に対する海上封鎖戦にまで拡大していくことになる。

 1855年春、生産力などでの優位を完全なものとした北軍、劣勢の挽回を図る南軍、それぞれ別の意図をもって戦争に決着を付ける戦闘を実施するべきだと考えるようになっていた。
 3月中頃、双方申し合わせたように双方合わせて100万以上の大軍を一つの地域に集め、極めて大規模な会戦を実施した。
 これが「春分の日の会戦」または「春日(かすが)の会戦」と呼ばれる戦いだ。
 戦闘は3月20日から24日にかけて行われ、双方合計で60万人もの死傷者を出す凄惨な結果となった。
 この戦闘は、基本的に攻める北軍、起死回生を狙いつつも守りを固める南軍の形で行われたが、3日も続いた戦争で双方すでに血まみれのまま膠着状態に陥りかねなかった。南軍も一度ならず突撃を行ったが、北軍以上に大きな損害を受けただけだった。この状況を覆したのが、意外というべきか半年ほど前に「過去の兵器」と考えられるようになった戦虎と騎兵だった。
 戦闘を実施したのは、北軍の伝統階級に位置する人々が中心だった。
 戦虎(剣歯猫)は、まだ戦力密度の低い戦場での夜戦、奇襲戦なら威力は十分に残されており、夜明け前に行われた3個戦虎大隊の夜襲で南軍左翼は大混乱に陥った。戦場の合間合間を隠密行動と浸透突破で抜けていった戦虎部隊が、少し後方に位置する司令部の一部を奇襲したのだ。当然南軍の命令系統は混乱し、適切な指示が出せなくなった。
 そこを黎明と共に、兵力が希薄な地域からの戦場の迂回突破に成功した騎兵が突撃を実施し、指揮系統の混乱で対応が出来なかった南軍の左翼が完全に崩れ、騎兵部隊はそのまま戦場を迂回を続行した。まるでナポレオンの親衛隊のような活躍で、戦場を完全に蹂躙した。こうなると訓練もあまり受けていない民衆の兵士はもろく、士気が崩壊して逃げ散り戦線が崩壊した。
 その後は、基本的に砲兵と歩兵の弾薬面で大きく有利な北軍が押し切り、戦場にいた南軍は総退却の形で崩れていった。
 後世の研究では、この戦いの最終局面の結果から、この時の大東での戦争は近代的総力戦総力戦に向けた過渡期の戦いだったと定義されている。本当の総力戦なら、補給戦で負けた側が最終的に敗北するからだ。また同時に、戦争序盤で時代遅れの烙印を押された騎兵と戦虎の最後の栄光だったとも言われている。

 南軍が大きな戦いで敗北して大損害を受けたため、南軍の退却は一つの戦場に止まらず、そのまま全戦線に波及した。南軍が辛うじて戦線を立て直すまでに、200キロメートル以上の後退を余儀なくされた。その後退した間には、約800万人の住人がいて、永浜などの重要都市もいくつか含まれていた。

終戦

 「春日の会戦」で、戦争の実質的な優劣がハッキリした。
 1854年4月の時点で、北軍は単に人口の点でも二倍近い優位を得ていた。戦力も同様で、他の要素では二倍以上あった。生産力の差は大きく、南軍に占領地を回復する能力はなかった。
 戦術的にも、北軍の最前線から東京までの最短距離も、約100キロメートルまで縮まっていた。その間に南軍の大部隊はいたが、地形障害はほとんどなかった。
 南軍側では戦場に近い諸侯の中にも降伏を選ぶ者も現れ、戦争の趨勢は明らかだった。しかし南軍にはまだ100万の兵力があり、首都東京も押さえていた。都市住民や皇族人質に取るなど、なりふり構わず自暴自棄の行動に出る可能性もあった。また大規模戦闘が終わったばかりで、北軍も体制を整えるため三ヶ月は大規模な軍事行動は難しかった。
 そこで、元帥として既に北軍の実質的指導者になっていた田村清長は、「大東全ての人々へ」で始まる言葉の演説を行う。
 内容は、一人一人の民衆こそがこれからの時代を切り開くという文章を含めたり、国家、義務、権利という言葉が何度も出てきて、フランス人権宣言、アメリカ独立宣言に影響を受けた言葉が含まれており、また意識した演説ともなっていた。
 結果、「春日の演説」は、大東の政治的な近代化の大きな一歩と言われる事が多い。
 しかし戦争を決する本当の一撃となったのは、貴族でも武士でも軍隊でもなく、演説の通り大東一人一人の民衆だった。

 発端は、南軍の支配下にあった小規模な炭坑だった。
 黒岩山脈北部にある南軍の数少ない炭坑では、南軍が戦争を遂行するため過酷な労働と搾取が行われた。
 これに労働者達が反発し、「春日の会戦」で大きく揺れ動き、そして「春日の演説」を聞くことで動き始める。
 1855年5月頃に起きたのは、最初は小さな労働運動だった。起こしたのも歴史に名を残すような人物ではなく、名も残されていない一人の少年(炭鉱少年労働者)だったと言われている。だが運動は瞬く間に広まり、さらに黒姫領内で資本主義経営が過酷に進められていた炭坑にも波及。短時間で巨大な運動となった。そして彼らは、貴族や武士、急速に台頭しつつある資本家に変化しつつある大商人相手ではラチがあかないとして、天皇陛下に直訴する事を全員参加型の合議で決める。
 そして首都東京に向けての行進を開始した。
 最初は、権力者たちはほとんど見向きもしなかった。目的が戦争反対ではなかったからだ。だが人数が膨れあがると無視もしていられなくなり、南軍は軍隊を用いて阻止しようとするが、阻止に動員された兵士の過半は武器を持ったまま行進に合流してしまう。兵士の殆どが兵士としての訓練も少ない庶民だったためだ。この辺りは、フランス革命の初期と少し似ていた。
 行進の目的も、労働環境の改善から労働環境の悪化産んだ戦争そのものを止める事に変化していた。戦争反対を明確に唱えた事で、行進する者の数も一気に増えた。
 行進する人数はいつしか百万人を越え、もはや誰も止めようがなかった。そして目的を聞いた人々も行進を積極的に支援し、南軍の兵士の離反と行進への合流も相次いだ。
 そしてこの行進はいつしか「百万人行脚」と言われ、約400キロメートルの行進を成し遂げた人々に対して、東京の古く厳めしい城塞の門扉は大きく開け放たざるを得なかった。

 東京北方の戦線でも、南軍の兵士が上官つまり貴族や武士の命令をきかずに離反し、一斉に戦線が消滅した。
 これを見た北軍は、自分たちも東京へと進む事を決意する。
 もはや北軍の進撃ならぬ行進を遮る者はなかった。南軍で最後まで徹底抗戦をがなり立てていた貴族将校は、散々無視されたため逆上して拳銃をかつての部下に向けたところで別の兵士に射殺されていた。民衆同士が本格的に戦ったのは実質的に1年程度だったが、極端化した凄惨な戦争に誰もが戦争に飽きていた。
 前線から3日ほど行進した先にある東京でも、全ての城門が開かれ、市民達が歓呼で迎えた。
 その歓呼は、表向きは北軍の将軍や兵士へ向けられたが、実際は新国家もしくは新政府に向けられた歓呼だった。

新政府

 1855年6月、国際公称「大東南北戦争」は呆気ない幕切れで終わった。
 動員された兵士の数は、実に550万人。この数字は第一次世界大戦まで破られることはなかった。戦死者の数は70万人で、兵士全体の13%という当時としてはおぞましいほどの数字を示した。さらに死傷者に拡大すると全体の40%、小さな負傷を含めると50%にまで拡大する。1853年後半の無防備状態での殴り合いといえる戦闘が、死傷者の数を第一次世界大戦レベルと言われるほど高く押し上げた。
 国土の被害も大きく、主戦場となった高埜平野の半分近くが短期間の戦闘で大きく荒廃し、住民にも10万人以上の死者が出ていた。境都協約によって民衆は軍隊と戦争から守られる筈だったのだが、協約に関する教育が兵士の間に行き渡っていなかった事と、生活の場を突然戦場とされた事での被害がかなり出ていた。
 そして戦災を含め、多くの金を浪費した。
 それでも人的、物的損害は、近代国家として見れば十分許容範囲だった。戦死者の数は総人口の1%。3年ほどの戦費は、年間国家予算の5年分程度。海外に対しての決済は、当時も大東に豊富にあった金貨の現金払いで賄われたため、借金は基本的にほとんど無かった。大東人達は、白人に対する借金が何を意味するかを、過去2世紀の世界中での彼らの行動を見ることで学んでいた。

 しかし今までにない大規模な戦争を行ったため、向こう5年ほどは戦災復興と財政再建に全力を投じなければならなかった。
 そうして戦後処理と半ば平行して、大東の新たな国家の枠組みが作られていった。新国家は、戦争に参加した大東の民衆達が求めたものであり、戦争の結果としてもたらさねばならないと考えられていたからだった。
 このため戦争に勝利した北軍幹部が中心になって、新国家の枠組み作りを精力的に、そして迅速に進めた。
 時の天皇、第四十代大承天皇を、まずは国際的標準に合わせる意味も込めて「皇帝(エンペラー)」と称号を変更した(※今までは「王(キング)」と捉えられる事も多かった)。そして皇帝を国家元首として、新国家の国号も決定。国号を「大東帝国」と定めた。
 国家の政治形態は、戦争中に北軍が実施し始めていたものが全面的に取り入れられる事になり、行政、司法、立法の三つを分立させた三権分立の近代国家とされた。
 皇帝には、軍の統帥権、宰相以下大臣の任命権、議会の招集及び解散権が与えられることになる。しかし暗黙の了解として、皇帝が自らの意志のみで行動しないものと考えられた。これは当時のイギリスでほぼ確立されていた、「君臨すれど統治せず」を模範としたものだった。四半世紀ほど後の憲法改正でも明文化されている。とはいえ、従来の政府でも半ば似たような状態だったため、大きな反対や抵抗も無かった。
 そして特権階級の貴族と武士だが、身分制度は大幅に緩和されるも、貴族と武士は階級と一部特権が残されることになる。純粋な資産、国から与えられたのではない土地、農地については、新政府への拠出を行わなくてよい代わり、行政に関する権利は新政府に返上することなった。結果、貴族や武士のかなりが大きな資産家として残る事ができたが、一方では納税に関しては今までにないほど厳しく制定されるため、才のない貴族や武士は大きく没落していく事になる。
 
 そして新たな中央政府だが、皇帝の承認のもとで実際の政治を取り仕切る「宰相」が設置され、これにまだ当時30代前半(34才)だった田村清長が就任。30代での首相就任は、後にも先にもこの一例だけとなった。
 そして田村清長のもとで北軍の中枢にいた人々を中心にして新政府が編成され、議会の設置、欽定憲法の制定、三権分立など近代国家に必要なものを取りそろえて行くことになる。
 また国民に対しても、新たな税制の導入と共に、徴兵の義務、教育の義務という二つの義務を加える事を決める。同時に、選挙権の付与、生存権、教育を受ける権利の大きく三つを国家が国民に与える体制を作ることを決める。
 他にも数え切れないほどの事が一斉に実施されたが、全ては大規模な内戦という大きな変化があったおかげであり、常に内戦で大きく変化していくという大東の特徴を如実に示した結果となった。
 しかし全てが一度に決まって動いたわけではなく、新政府による新しい国家の形成にはかなりの時間が必要だった。その上内戦での荒廃もあるため、尚のことしばらくは内政に力が入れられる事になる。
 だが、そうとばかりも言ってられなかった。
 世界は帝国主義の時代へと突入しつつあり、大東は世界有数の海外領土を有する植民地帝国でもあったからだ。