■■インテグレイション Japan(1)


 ■新領土 

 新しい日本人の国家を見ていく前に、まずは新国家を建設したばかりの大東帝国の領土面積を大まかに見ておく。

 大東本国:70万(平方キロメートル)(大東島+周辺の島々)

 北氷州(サハ):510万(平方キロメートル)
 荒須加:180万(平方キロメートル)
 北米北西部:840万(平方キロメートル)
 豊水大陸:770万(平方キロメートル)
 スンダ:100万(平方キロメートル)
 パプア:80万(平方キロメートル)
 北大東洋地域:2万(平方キロメートル)

 合計:約2550万(平方キロメートル)

 非常に広大な面積で、全てを合わせると南極大陸を除く地球上の約17%つまり6分の1の陸地面積に当たる。そして環太平洋地域の、おおよそ7割の沿岸部に広がっている事になる。
 ほとんどが極寒の大地か砂漠、熱帯ジャングルだが、本国は温帯地域の非常に恵まれた自然環境にあった。それに中には、豊水大陸東海岸、北米大陸西海岸のような有望な農業可能な植民地もある。そして広く分散しているが、船で行くことが出来る利便性を持っていた。蒸気の力で自由に行き来できる時代にあって、自由にかつ大規模に海上交通を使えることは大きな利点だった。
 しかし多くの植民地は、他の巨大な領土(植民地)を有する国と境を接していた。言うまでもないが、ロシアとアメリカだ。
 イギリスとは、豊水大陸は西をインド洋、東は英領ニュージーランドがあるため多少の緊張が必要だったが、ニュージーランドの(白人)人口はまだまだ非常に少なく、イギリスの方が南大東洋での安定を望んでいた。東南アジア地域についても似たようなものだった。大東よりも隣接する諸外国の方が、自分たちに対する干渉を嫌って、あえて大東に手を出そうとはしなかった。
 またイギリスとは北米大陸のカナダと接していたが、お互いに人口希薄地帯のため、特に大きな問題はなかった。
 ロシアとは、昔から東の海の出口を求めて大東の有する北氷州と名が改められたサハ地域を狙っていた。このため新政府は北氷州と地名を改めて統治と防備を強化した。
 大東南北戦争の初期でも、ロシア軍のコサックが大東の混乱につけ込んで領内に入って小競り合いも発生した。
 しかし大東にとって幸いな事に、ロシアはヨーロッパ側の黒海沿岸で列強との戦争状態に入り、大東で新政府が出来た時もまだ戦争を続けていた。大東での大規模な内戦が終わったことを知ったロシアも、慌てて大東との和平を行った。
 一番の問題はアメリカだった。大東としては北米大陸北西部一帯は、今まではこれといった統一名称も付けていないほど重要性の低い場所だった。何しろ山岳地帯と寒冷な荒野がほとんどだったからだ。誰も持っていないから持っていただけの場所だった。しかし一部の大東領は大雪山脈(ロッキー山脈またはコロラド山脈)を越えて、北西部の大平原に及んでいた。
 そしてアメリカの方が、旧大陸の有色人種国家が「自分たちの大陸」に領土を持ち、しかも国境を接しているとして神経を尖らせていた。このため大東がアメリカとの境界線を確認したり、曖昧な場所での確定を行おうとしても、アメリカ側が「難癖」や「無理難題」を言ってくることが常だった。このため大東側も神経を尖らせざるを得ず、北米開発を急ぐと共に役人や国境警備隊を派遣して、境界線の設定と警備に力を入れることになる。特に大東領内へのアメリカからの移民に関しては厳しく取り締まった。この結果、アメリカ側の国境警備隊やいわゆる騎兵隊との間に小競り合いが起きた事もあった。
 しかし大東が十分な武力と組織持っていたため、アメリカ側が無軌道に暴発する事も無かった。
 欧米各国との外交関係も、他のアジアの国のように不平等条約を押しつけられたりはしなかった。それは大東が、科学技術に裏打ちされた近代的な軍隊を十分な数保有していたからだった。それでも欧米列強は、憲法や議会がないので近代国家ではないとする論法を用いたが、大東側もロシアなどを引き合いに出し、また軍備の誇示なども行い、相手国に勝手は許さなかった。こうした事例は、白人勢力が世界を覆い尽くしつつある時代にあって、極めて希少な例だった。

 しかし大東が戦乱と新国家建設で海外へのリアクション能力を低下させたスキを狙った行動が他にもあった。
 その矛先は日本列島だった。

fig.01 19世紀中頃の環太平洋地域


 ■日本の開国 

 西暦1853年6月、ブリテンの艦隊が西日本の江戸幕府に開国を求めて来航する。
 俗に言う「黒船来航」だ。
 ブリテンが日本に対して大胆な行動を取ったのは、二つの理由があった。一つは、今まで近隣に大きな軍事投射能力を有していた大東が、大規模な内戦状態にあったからだ。もう一つは、阿片戦争後も貿易状況があまり改善しない清帝国の代わりとなる、新たなアジア市場を求めての事だった。
 またイギリスの海外植民地と接する大東を牽制し、日本への干渉で大東へ大きな楔を打ち込められればという目算もあった。イギリスとしては、大東が持つ環大東洋各地の利権獲得が最終目的だったとされる。
 そしてイギリスの読み通り、大規模な内戦中の大東にイギリスの行動の牽制は無理だった。

 当時の日本(=西日本列島もしくは江戸幕府)は、後に言われるほど「天下太平」を謳歌していたわけではない。常にオランダと大東から一定の情報は入っていたので、海外情勢に無知と言うことは無かった。阿片戦争以後、ヨーロッパ列強が次々に東アジアに入り込んでいる事も知っていた。そして「大東大乱」という名で大東が大規模な内戦に入ったことも、いやというほど情報が入ってきていた。大東の内戦のお陰で、日本にも大量の発注がきて未曾有の好景気だったからだ。大東での戦争の為に、日本国内では鉄やその他の物資が市場で不足した。その典型は火薬で、火薬不足のため日本各地の花火が中止になった程だった。「成金」と呼ばれる成功者も、多数出現した。製鉄技術など近代産業についても、生産力を拡大するという目的で大きくそして革新的な向上が見られた。
 だが当時の江戸幕府は、海外情勢に対してほとんど「見ざる、言わざる、聞かざる」な状態だった。それに自らが清帝国よりも優れた武器を持っているという点で、ヨーロッパが簡単に手出ししないだろうという楽観論も強かった。日本の江戸幕府は、大東からも一部技術を取り入れて改良した「直船」、要するにガレオン船(帆船・フリゲートクラス)は有していた。大砲、鉄砲も、数は少ないが大東や西欧諸国からの輸入でほぼ最新鋭のものが取り入れられていた。沿岸防衛や陸戦用の大砲や銃も、一定数の輸入が行われていた。兵器自力生産についてすら、幕府や雄藩で研究程度は行われていた。19世紀に入る頃から、本当に少しずつだったが国防に関する取り組みも行われていた。幕府以外にも、沿岸各地の藩にも海岸防備の強化が命令され、戦闘艦艇の建造すら許可制ながら許されるようになった。
 しかし、そうした日本人たちの準備と努力は、まったく足りていなかった。その事を「黒船来航」で思い知らされる事になる。
 当時の戦列艦(大型戦艦)に相当する排水量5000トンクラスの蒸気戦列艦を中心とするイギリス艦隊は、当時の日本人達に極めて大きな衝撃を与える事となった。
 そして大東が内戦中でアテにならないので、幕府(日本)単独で欧州に立ち向かわなければならないと考えられ、これも日本側の焦りを強くさせる。実際、当時の大東は、幕府からの支援要請の書状に対して、まともな回答を行っていない。
 結果、1854年に「日英和親条約」が締結される。軍事力と国力、そして情報不十分のため、不平等条約となった。
 1854年2月にイギリス艦隊が再度来航し、「日英和親条約」を結ぶことで事態が加速する。イギリスに続いて、アメリカ、フランス、さらには長年のつき合いがあったオランダも日本との間に不平等条約を結び、日本の危機感が増す。
 軍事力と国力、そして情報不十分なのだから、あまりにも当然の結果だった。
 しかし二度目の衝撃は、意外なことに隣国からやって来る。
 1855年8月、内戦を終結させ新国家を作ったばかりの大東が、新国家建設を知らせる為という名目で、最新鋭の軍艦を中心とする艦隊を日本の香取湾の浦賀に派遣したのだ。

 大東から来航した大型蒸気軍艦の数は8隻。最新鋭の蒸気戦列艦《水璃丸》を中心とするイギリスを上回る規模の大東帝国艦隊は、江戸幕府に対して大東帝国及び大東皇帝の承認及び改めて国交樹立を持ちかける。またほぼ水面下ではあったが、同盟関係を中心とした海外勢力に対する一致団結を呼びかけた。
 この大東帝国の日本への艦隊派遣は、当時の日本人に非常に大きな心理的衝撃を与えた。
 大東による日本への軍艦派遣は事実上鎖国以来となり、また、自分たちの「格下」と勝手に思いこんでいた大東の力を見せつけられた為だった。
 そしてこれ以後、西日本国内は大きく大東に対する姿勢で大きく揺れることになる。
 最大勢力は、大東もしょせん夷敵(外国)という論法だった。だが次に多いのが、大東も同じ日本民族であるという論法だった。他にも、大東が日本を飲み込もうとしているという反大東の一番過激な一派など、様々な派閥が誕生した。しかしこれらは、西日本列島の人々が「夷敵(外国)」と「大東」を分けて考えている証拠だった。
 そうした中で重要だったのが、当時の天皇だった孝明天皇の姿勢だった。
 孝明天皇は極度の外国、白人嫌いで有名で、大東に対しては同じ日本人だという考えを強く持っていた。この為、大東皇帝を認めてでも大東の力を頼ろうとし、大東との交流を深めるように幕府に圧力をかけた。
 しかし江戸幕府としては、大東と他の国を別に扱うダブル・スタンダードを取れば、欧米各国から突き上げられることを理解していた。このため最初は、大東の申し出と孝明天皇の言葉に対しては言を左右にして、大東を諸外国と同列に扱った。そして国家は承認したが、大東皇帝は有耶無耶のまま認めなかった。
 だが一方では、大東側が提示した条件は江戸幕府にとって極めて魅力的だった。治外法権は従来通り開港地の浦賀のみとして、日本の関税自主権も認める内容だったからだ。そして大東は欧州列強と同等の軍事力と技術力を持っているので、大東との平等条約の締結が外交での突破口になるのではと考えられた。
 大東との間には、1855年10月に「日東和親条約」結ばれ、日本初の平等条約となった。
 そして以後江戸幕府は、大東から大規模に技術や兵器など近代的文物を輸入するようになると同時に、西日本での大東の影響が急速に高まっていく事になる。

 江戸幕府から大東への視察団は、早くも1856年に第一陣が出発。以後、ほぼ毎年送り出され、規模も拡大していった。幕府の許可制で、短期留学も実施されるようになった。この結果、大東が既に達成しつつあった近代化が、かなり広く日本人に知られるようになる。同時に、ヨーロッパにも視察が出されるようになる。
 そして主に大東への視察で分かった事は、日本に不足するものがあまりにも多すぎるという事だった。大東で見た蒸気で動く大きな工場や蒸気機関車が走る鉄道は、当時の日本人には想像の外の文物であり、また深い戦災の傷跡は近代戦争の凄まじさを日本人に間接的に教えた。
 軍艦を含めた武器については、大東での内戦終結で大量に余った兵器が格安価格で日本に押しよせたが、それは当面の国防を補う役割しかなかった。最終的には自分たちで作らないと意味がないし、当時は武器の進歩が著しい時期だったので、すぐに陳腐化する恐れが高かったからだ。
 日本人達は、表面的な文物ではなく、その根底にある技術、知識の修得が必要なことを理解して実践しようとしたが、その道のりは極めて険しく遠かった。
 だがこの頃、世界情勢は日本人に味方していた。
 一番に日本を開国させたイギリスすらその後ほとんど日本に来なくなったのは、まさに世界情勢が影響していた。


 ■19世紀中頃の海外情勢

 ・北米情勢 

 西暦1815年のウィーン会議以後、北アメリカ大陸中原の国境はアメリカと大東の境界線が接触するようになった。アメリカは旧大陸の有色人種国家が新大陸に領土を持つことに強く否定的だったが、大東との境界線と大東領そのものが当時のアメリカ中枢部から遠すぎる事、殆ど重要な地域でなかった事もあって、戦争に至るほど大きな外交的、軍事的問題には発展しなかった。
 だがメキシコがスペインから独立すると、にわかに問題が起きる。それはメキシコが白人国家だと言い難いと、白人社会、特にアメリカが考えていたためだ。しかもメキシコは、スペインから広大な平原が広がるテキサス地域を有していた。そしてヨーロッパから押しよせる移民に対して新たな入植地が欲しくなったアメリカは、意図的に移民を送り込んでテキサスをメキシコから奪ってしまう。
 当然だが、メキシコとアメリカの関係は悪化した。以後メキシコは、大東から武器などを購入するようになる。しかしメキシコの政情不安、財政不安定は続き、そこをアメリカにつけ込まれてしまう。
 そして1845年になると事態は変化する。
 1846年から1848年にかけて行われた「アメリカ=メキシコ戦争」の結果、アメリカ合衆国は国土を大東洋側にまで広げる。当然、大東との国境線は接触する場所が増えて複雑化した。しかも1845年にアイルランドを襲った未曾有の飢饉である「馬鈴薯飢饉」によって、北米大陸に移民が殺到していた。彼ら移民は、続々とミシシッピ川流域やテキサスなど中西部へと開拓農民として移住し、アメリカの人口は急速に拡大した。
 これに対して大東は、駐留軍を増やしたり本国からの移民を増やすなどの努力を実施した上で、アメリカへの警戒感を増した。
 一方イギリスは、当時カナダと呼んでいた地域の開発にはあまり熱心ではなかった。当時のイギリスにとっての本命は、インドを始めとするアジアの市場化、植民地化であり、北米のカナダは移民を送り出す場所の一つでしかなかった。
 だが1848年以後はそうも言ってられないため、アメリカ、イギリス双方が歩み寄る形で、領土に関する交渉が熱心に行われた。大東とアメリカとの間でも、主に旧メキシコ国境での交渉が実施され、大東とスペインそしてメキシコとの間に確認された北緯37度の国境線が確認された。
 この時アメリカは、大東に西部山岳地帯、西海岸の購入をかなり積極的に持ちかけているが、大東側は謝絶していた。このため大東に対して大きな不満を持ったが、とにかくコロラド川流域などの西海岸を得たことでかなりの満足を得た。
 そして大東は、当面ではあったが北米大陸の大東洋側で最も肥沃な平地を確保する事に成功し、アメリカの脅威が増した事もあって植民地開発を精力的に進めるようになる。既に現地には10万の大東人の住民が住み、広大な開拓農地の候補地域が広がっているのだから、開発する経済面での理由も十分あった。
 そしてその後のアメリカは、テキサスと同じ手法での領土奪取を目論むが、大東側が自らの移民を理由に自由移民を拒んだ事、アメリカ側の移民の熱意も低かった事もあり、全くうまくいかなかった。このためアメリカは、まずは西海岸の拠点作りに取り組むこととした。西海岸中部には、コロラド川河口部に南部沿岸唯一のまとまった平地(沖積平野)があったので、アメリカ政府が望んだ白人移民の少しずつ増えた。
 とはいえ大東洋は大東のテリトリーであり、当時のアメリカが望んでいた捕鯨拡大は極めて難しかった。勢力拡大や植民地獲得となると、さらに難しいのが現状だった。
 このため大陸西部で勢力を固める大東を気にしつつも、まだ十分な余地がある国内開発に力を入れる事となる。


 ・アメリカ南北戦争 

 その後アメリカ国内では、当面の領土拡張が頭打ちになった事もあってか、南北に分かれた対立が徐々に激化していった。南部と北部で、考え方、価値観、政策、経済の形態など、様々なものが違っていたからだ。それが頂点に達した1860年11月のアメリカ大統領選挙でリンカーンが大統領に選ばれた結果、ついに南部諸州が連邦からの離脱してアメリカ連合国(C.S.A)(以後=南部連合)を結成。1861年には事実上の戦争状態へと移行していく。
 「アメリカ南北戦争」、アメリカ国内での「Civil_War」の始まりだった。しかし南部連合にとっては独立戦争であり、本来のアメリカ合衆国(以後=合衆国)にとっては、一種の祖国防衛戦争だった。

 この戦争に際して大東帝国は、首都ワシントンに公館(大使館)を置いていたので、すぐにも情報を手に入れる事が出来た。そして南部連合の独立を機械的に処理する。
 これに慌てたのが、本来のアメリカ合衆国(以後=合衆国)政府だった。合衆国は、大東帝国に対してただちに南部連合の独立承認を取り消すように求めるが、大東政府はこれを拒絶する。合衆国は、自らのモンロー主義を持ち出して旧大陸からの内政干渉を強く牽制したが、大東政府は自分たちはメイフラワー号が新大陸に到着する以前から新大陸に領土を有していると反論。合衆国政府の強硬な姿勢に対して、開戦も辞さずという態度を取る。
 結果、合衆国政府は大東政府を交渉相手としないと宣言し、無視という形で事実上の国交断行に踏み切る。これに対して大東政府は、ワシントンの大使館を急ぎ送り込んだ船に引き上げという形で撤収させた後、その足で南部連合首都のリッチモンドに向かわせてしまう。
 なお当時の大東は、南部連合地域で生産される綿花を輸入しており、合衆国地域の工業製品はまったく必要ではなかった。そして大東としては、南部が今の貿易体制のままの方が都合が良かった。そして大東政府の真意としては、ついに大東洋にまで達した合衆国の国力を殺ぐ絶好の機会と考えていた。このためアメリカ南北戦争を巡る陰謀史観では、必ず大東帝国(日本)が出てくる事になる。
 一方、ヨーロッパ列強諸国は、この時点では慎重姿勢を崩さずに静観を決め込んでいた。常識的に考えれば、国力差から北軍の勝利が疑いないので、混乱がおさまった後の合衆国との関係悪化を警戒しての事だった。だが大東の大胆な行動は、徐々に列強各国にも影響を与えることになる。

 南部連合への荷担を決めた大東政府は、南部連合にいまだ国内の倉庫に積み上げられている先の内戦で使った武器弾薬の大量売却を決める。輸送費を含めた料金は事実上の出世払いという気前の良さで、さらには運ぶ為に必要な軍艦や輸送船も売り払ってしまうと言う景気の良い話しだった。商品がだぶついていた大東の武器企業も、いち早く動き出した。
 ただし武器の輸送路に関しては問題があった。大西洋に回りこんでいる時間がないかもしれないし、アメリカ合衆国の妨害の可能性が十分あったからだ。
 このため南軍が1845年にメキシコから得た領土に南軍が形だけ侵攻するのに合わせて、南軍の要請を受けた大東の「傭兵部隊」と「義勇兵」が進出して現地を保障占領。大東洋から陸路で南部に物資を運ぶルートを確保した。
 合衆国は怒り狂ったが、この時点で南部以外に大東と戦争状態になる事は避けて、大東政府に対しては厳重抗議に止まった。

 北米大陸東部での戦争は1861年夏頃に開始されるが、当初の予想を大きく裏切って、南軍の頑強な抵抗によって長期戦の様相を示すようになる。本来なら、大東はこの時点まで南部連合への荷担を示すべきでなかったとする意見も強い。南部は簡単に敗北すると見られていたからだ。
 そして双方の陣営共に、まともに戦争準備が出来ていなかったため、その年の戦争はほとんど行われなかった。このため、冬営を挟んだ1862年3月にようやく戦闘が激化する。
 それまでに大東の武器輸出の第一陣は、大東洋側から陸路苦労しつつ南部連合に渡された。第二陣は武器輸出船団として、カリブ海=メキシコ湾経由で北軍艦隊の目をすり抜ける冒険行のような航海の末に南部連合に到着し、人種偏見を無視したような熱烈な歓呼で迎えられた。第二陣には、大東でもほぼ最新鋭の鋼鉄製の船体を持つ大型戦闘艦艇(南部連合名「パシフィック」)も含まれており、北軍による南部連合に対する海上封鎖作戦はフロリダ半島で停滞することになる。
 海とは対照的に陸での戦闘は激化し、9月17日の「アンティータム」の戦いを迎える。
 この戦闘は、ジョージ・マクラレン将軍率いる北軍が8万7000、ロバート・リー将軍率いる南軍が4万5000と南軍が圧倒的に劣勢だった。だがこの戦いを決したのは、大東が南部連合に持ち込んだ数万丁の小銃だった。この銃は大東南北戦争終末期に登場した「Kenvei(ケンビー)」こと「剣菱後装式」だった。この銃は従来の前装式の銃に対して2倍半の速度で射撃可能で、しかも姿勢を低くしたままの装填が可能という大きな特性を備えていた。ライフルのため、射程距離も十分以上にあった。
 同戦闘は剣菱後装式を装備したほぼ初めての戦闘だったため、北軍は従来のまま戦闘を実施して、圧倒的な小銃弾幕の前に甚大な損害を受けることになる。この射撃は南軍が大きく劣勢という事もあって苛烈で、南軍が優位になった戦場では、あまりの北軍兵士の損害に射撃途中で南軍兵士が射撃を控えた程だった。
 そして北軍は一方では南軍を攻めきれず、別の一方では南軍の戦線突破を許すという致命傷を受けてしまう。しかも北軍将兵は、南軍の常軌を逸した弾幕射撃を前に士気を挫かれ、かなりの数の将兵が背を見せて逃げた。そうでなくても戦闘意欲を大きく減退させ、南軍全体の戦線突破を許すことになる。
 そして進撃を続行した南軍部隊の先には、合衆国の首都ワシントンがあった。

 ワシントンは呆気なく南軍の手に落ちたが、北軍の戦略的優勢が崩れたワケではなかった。ワシントンは最前線に近く、産業地帯はより北部にあったからだ。しかし、首都陥落は大きな政治的効果を発揮する。
 フィラデルフィアに臨時首都を構えた合衆国に対して、イギリス、フランスが「意見」をした。内容を要約すれば、「戦争に勝てそうにないのだから、戦争そのものを止めるべきではないか」というものだった。そして北軍の意見を聞くこともなく、南部連合の承認行動を開始する。
 イギリス、フランスの政治的意図は、大東とは違ってアメリカを南北分断させて国力を殺ぐ事にはなかった。無論それも目的の一つではあったが、一番の目的は北米大陸にヨーロッパと同様の勢力均衡の体制を持ち込むことにあった。そう言う意味では大東が初期から行った事は、まさに勢力均衡に向けた動きであり、大東への政治的評価が高まる事になる。
 なお英仏に続いてスペインが南部連合を承認すると、後は雪崩を打って南部連合を承認する動きが続いた。この結果南部連合は、戦後のどさくさで得たオクラホマ州と、戦後すぐに北軍を「裏切った」ケンタッキー州を加えた13州で歩み始めることになる。さらにその後ロッキー山脈近辺での国境整理のため、南部連合が大東との間の国境を確定した。これで現在の国境がほぼ確定する。
 かくして北アメリカ大陸に、新たな独立国が誕生するに至ったのだ。

 なお、1845年にアメリカがメキシコから得た中西部の領土は、戦争終了時点で名目上は南部連合が占領していた。そして南部は、大東に対する武器弾薬の決済金としての売却を決定。5000万ドルで大東に売却され、南部と大東、メキシコの国境線の安定が図られることになった。
 そしてアメリカ合衆国は、四方を全て仮想敵で囲まれた状態へと追いやられ、政治的に針鼠状態になってしまう。

fig.02 北米大陸(1865)


 ・欧州情勢 

 ヨーロッパでは、1845年のアイルランドでの「馬鈴薯飢饉」、フランス(※フランス革命)を発祥とするドイツを中心とした自由主義革命、クリミア戦争によって明らかとなったヨーロッパでの対立構造の変化、そしてドイツ、イタリアの独立と一連の大きな変化と、地域全体を含めた国家の再編が続く。ドイツでは、ウィーンを中心にして立憲君主国家に向けて大きく前進し、イタリアはサルディニア王国が中心となって統一に向けた動きを加速させた。
 しかし自由主義革命の火を消したのは、意外にも大東だった。
 それは大東の荒須加で、大規模なゴールド・ラッシュが発生したからだ。この時大東政府は、手っ取り早く荒須加を含む北米領内の人口を拡大してイギリス、そしてアメリカの政治的圧力を軽減するため、金が発見されたことを世界中に知らせて、現地の永住権をばらまいた。しかし永住権については、大東国民以外の北米住人を除外としたため、世界の最果てを目指す人々は主に大東国からとなるが、その余波がヨーロッパにも及び、祖国にいられなくなった人々が荒須加での黄金を片手に再起を図ろうと殺到した。
 その後、大東がヨーロッパ情勢に関わると言うことは殆ど無かったが、ヨーロッパでの混乱がアジア情勢に与えた影響は少なくない。


 ・中華情勢 

 阿片戦争以後、中華地域(チャイナ)では混乱が始まる。
 典型例が、1851年から1864年にかけて続いた「太平天国の乱」だった。この内乱は、要するに清帝国が中華帝国として既に末期症状にあることを端的に示していた。官僚の極度の腐敗、人口飽和、国威低下に伴う外患、そして大規模な内乱。全ては数千年間起きてきた事件の焼き直しでしかなかった。
 そして大規模な内乱で混乱して国力が低下したのを見て、諸外国がさらなる外圧を実施した。それが1860年の「アロー戦争」だった。
 戦争当事国のイギリスにとっては、チャイナの貿易を完全自由化する事が目的だった。フランスにとっては、インドシナの主権をチャイナから奪うのが目的だった。
 そしてチャイナを狙っているのは、イギリス、フランスだけではなかった。ロシアとそして大東だった。
 ロシアは、イギリス、フランスとの仲介をするので、辺境の領土を代金として求めた。この時ロシアは、モンゴル(蒙古)の割譲もしくは雑居地とする事を求める。しかし清帝国にとって、モンゴルは父祖の地に匹敵する場所なので、首をなかなか縦に振らなかった。
 そこで割り込んできたのが大東だった。

 大東にとっての清帝国は、阿片戦争までは国交すらなかった。清帝国の建国頃の両国関係のまま、二世紀以上経過していたからだ。阿片戦争後にイギリスに続く形でようやく国交は開かれたが、基本的に清帝国の側から無条件に嫌われ、蔑まされる状態だった。大東の側も、清帝国を「独活の大木」と馬鹿にしていた。そして大東は、自らの欲望の対象としてチャイナ世界を見るようになっていた。
 一方の清帝国は、大東が英仏の仲介を申し出ても、もしできるのなら求めるだけの対価を「与える」と伝えた。これに大東は、外満州(北氷州から黒竜江の北側)の割譲と沿海州の雑居地化を持ちかける。清帝国が半ばほったらかしにしていた地域には、主に商業目的で大東人も入り込んでいたので、清帝国側も「もしできるのなら」と権高に伝えてきた。
 そして大東は、上海ばかりかヨーロッパにまで特使を派遣して、イギリス、フランスとの交渉を短期間でまとめる。
 結果、清帝国と大東の間にも「尼港条約」が結ばれ、大東に西日本列島に匹敵する面積を持つ領土が転がり込んでくる。
 しかし大東がまとめた「天津条約」を清帝国が不満だとして批准しなかった為、英仏と清帝国の戦争は継続した。ここで大東は、国際的な面子を潰されたとして清帝国に宣戦を布告。イギリス、フランス軍に全面協力し、さらには自らも艦隊を派遣する形で清帝国への攻撃を開始した。だがこの時の大東は、やろうと思えば北氷州からの陸路攻撃が出来るのにも関わらず見送り、イギリス、フランスの顔色をうかがうことを忘れなかった。
 清帝国に対するときとは違い、列強としての節度あるゲームプレイヤーである事を英仏などに示したのだ。
 そして1860年に結ばれた「北京条約」において、大東は最も大きな戦争の果実を手にする。
 手にしたのは、沿海州の完全割譲、黒竜江の優先使用権で、上海の外国人居留地(租界)にもその権利を得ることになった。
 この戦争によって、大東という新しいゲームプレイヤーの存在を欧州列強は認識するようになる。だが、それでも東洋の蛮族という色眼鏡があるため、それほど強い認識には至らず、その後大東は北東アジア地域の地歩固めを着実に実施する。

 そして大東が最も重視した国こそが、西日本列島だった。