■■Ocean Trader

 日本と大東をそれぞれ襲った戦国時代。さらに日本による大東への三度目となる侵略戦争。16世紀はまさに戦乱の時代だった。だが終わってみると、日本人達の世界は驚くほど静かになった。
 それはまるで祭りが終わった後のような有様だった。
 しかし祭りが終われば、また日常が再開される。それは個人であれ国家であれ民族であれ違いはなかった。

 本題へと進む前に、まずは歩みを進めるための道具について少し触れてからにしたい。

 

 ■竜骨構造船

 日本人の住む地域は、基本的に他の地域と海で隔てられた島だった。どこか別の国に行きたければ船を使うしか無かった。逆もまたしかりだ。かつて日本列島や大東にやって来た人間も、ここ数千年は皆船でやって来た。しかも日本と大東が戦争をしたいと思っても、まずは船を用いねばならなかった。
 日本と大東、広義の日本人達にとって、船とは無くてはならない文明の利器だったのだ。
 そして船は文明の進歩と共に世界各地で新しい構造が発明され、日本人達も自力での発展と共に東アジアの技術についての習得には余念がなかった。

 世界最大級の完全な離島となる大東島では、日本人(大和人)がやって来る前は、主に茶茂呂人が伝えたと考えられている腕木を船体と交差させて別の小さな船を先端に付ける「アウトリガー・カヌー」を用いた。その後技術が廃れ、一般的な平板底の古代船を用いたが、波に脆いため航海には大きな苦労が伴った。だが逆に脆いおかげで、大東独自で船体の大型化、構造の強化などが時代と共に進んだ。
 日本では、瀬戸内を中心とする内水面が主要な航路であったため船の大型化はなかなか進まず、外板が応力を受け持つ構造の船が伝統的に使われてきた。
 しかし、14世紀の「二十年戦争」では大東島に対する大量の海上輸送の必要性から、数々の改良が伝統船に施されてきた。実質的に太平洋の一部である東日本海は、大東洋に匹敵するほど波が荒い場所が多かったので、東アジア文明の総力を傾けた船でも困難が多かったからだ。
 さらに日本商人と大東商人との貿易競争の結果、15世紀には実質的に島づたいにしか航行できない順風帆走や沿岸航法の段階を脱することになる。外洋で航行する為の、風上への航行を可能にする間切り帆走法が開発されたのも同時期のことだ。また、日本は琉球諸島を経由して明や南海まで半ば沿岸航法で航行できるのに対し、大東からは潮流の早い東日本海を渡らねばならない。必然的に航海技術が向上しなければならなかった。
 そして優れた船を用いて、大東は東南アジア交易へと乗り出すようになる。

 16世紀に入ると東アジアにポルトガル船が出現し、大東は竜骨構造船の存在を知る。明のジャンク船にもない目新しい構造に対して、最初にマラッカで見たとされる大東商人は興奮した。その記録は、興奮した調子の手紙によって後世に伝えられている。そして取りあえず見た目で模倣できる部分は直ちに模倣され、東アジアでの大東船の優位はさらに高まった。
 1560年頃、竜骨構造船を東アジアで最初に採用したのは大東国だった。対明貿易で隻数制限を受け、大型船の建造が目指されたためだ。
 1570年代後半からは、大東の南軍がガレオン船を模した大型軍船の建造に着手する。また大量の輸送需要に対応するには、積載量あたりの価格が多少高くとも竜骨構造船が求められた。
 これ以後日本語の上では、ガレオン船の事を「直船(なおふね)」と呼ぶようになる。
 それまでの大東船は東アジアで一般的な「筵帆」を用いた船が多かったが、大量の綿布が主に南軍海軍に需要されるようになると綿布の製造コストが低下し、一般の商船にも綿帆が利用されるようになった。15世紀末頃から大東島でも綿花は栽培されていたが、これで一気に栽培が広がることにもなった。竜骨の材料となる木材はなるべく一本物に近いことが求められたが、大東国内には長大な良質の原木が少なくなり、日本から輸入される例もみられた。
 日本でも、主に大東から漏れてくる技術を模倣して、少し遅れて船の発展が促された。戦争そのものと、戦争を支える経済のために必要だったからだ。そうして1586年には、外洋航海が可能な竜骨設計船が試作された。伝統的な安宅型軍船に割り当てられる予算は大幅に削減され、同時期から海軍拡張のペースは速まり、大東船を真似た大船が建造されている。これに平行して、日本から大東への原木輸出は禁止された。禁輸を行ったのは豊臣秀吉であり、秀吉はこの頃から大東侵略を考えていた事を証明する証拠とされる。
 また、1570年代に日本で出現した織田信長の鉄甲船の鉄張り構造は、竜骨構造船には利用されなかった。伝統船より喫水が浅い竜骨構造船は、安宅船よりもトップヘビーによる横転の危険性が高かったからだ。甲鉄を張れば舷側の防御力は大きく向上するが、速力を得る為の檣柱や帆桁まで全てを覆うわけにはいかない。破壊されれば、従来の沿岸用のガレー船と異なり、帆船は帆が破損すれば浮かぶ棺桶になってしまう。よって、甲鉄のアイデアは帆船には適用されなかった。しかしその後、船底のカキ対策のため、銅販を張る事がヨーロッパ同様に広まるようになる。

 1600年、戦乱が終わったばかりの大東海軍の改良型直船は、十分な威力を持つ大砲(カノン砲)を40門も搭載した。船首楼と船尾楼は当時のヨーロッパ最新と同様に小ぶりで、その代わりに部分2層甲板を有していた。全長も延長し、逆に全幅を狭めて船速にも優れていた。同サイズの商船の場合、全長140尺(42メートル)前後、全幅35尺(10.5メートル)前後、排水量10000石(1600トン)、積載量7500石(1125トン)程度であった。とはいえこの当時は、実際のところ商船と軍船の構造上の差異は外板(当然木製)の分厚さ以外にあまりなく、軍船でも同程度の積載量を有した。
 この船は、本来は戦乱に使用するべく建造が進んでいたものだったが、戦う相手が国内にいなくなったので政府直轄の軍船として召し上げられ、航路開拓や探検、さらには海外交易路の防衛に使われるようになる。また同程度の船は、平和の到来と共に商船という形で続々と建造され、さらに改良と発展を遂げていく事になる。海外との接触が増えると、新規の軍用直船も建造された。
 一方日本では、大東との戦いが終わると、一気に大型直船の建造は下火となった。商業用の直船の建造は大商人レベルで一事活発になったが、それも江戸幕府の鎖国政策によって極端に縮小し、ついには「伝統工芸」レベルでの建造と技術継承が行われるまでに縮小していく事になる。
 日本での大型船の建造停滞は、鎖国と並んで国内での木材資源の不足が原因しているが、やはり鎖国にこそ大きな原因があったと見るべきだろう。

 ■キリスト教

 日本の鎖国の一番の原因は、キリスト教だとされている。
 日本へのキリスト教伝来は、1549年にイエズス会宣教師のフランシスコ・ザビエルよって行われた。その後ザビエルは、1552年に大東島に渡航して大東国にもキリスト教を伝えた。1555年にザビエルが去った後も、大東にも日本同様に宣教師がやって来た。
 しかし民間宗教である神道以外の「教え」、「宗教」に興味のない大東人は殆ど見向きもせず、一部の好き者が小数信者になったに留まった。また特に庇護する貴族や権力者も現れないため、根付くこともできなかった。しかし南都、大坂と首都東京には、貿易に来るスペイン人向けという名目でカトリック教会が建設されている。大東人にとってのキリスト教とは、かつての仏教同様に外国から有益な知識や情報を手に入れるための外交手段でしかなかった。
 また大東では、西洋の文物のうち火薬兵器、帆船(ガレオン船=直船)を始め新規技術や知識、珍しい文化だけが取り入れられた。特に食生活の取り入れは、肉食が進んでいる分だけ西日本よりも多かった。知識や技術についても、西日本よりも広く深く受け入れられている。

 一方の西日本では、九州地方を中心にしてキリスト教はかなりの浸透を見せた。戦国時代という戦乱の中での病んだ空気が、仏教の代替として新しい宗教を求めた結果だった。また織田信長に代表されるように、一部の権力者は旧勢力である仏教を政治から切り離すべく、キリスト教を積極的に利用した。
 しかし今度はキリスト教が政治へと入り込み始めたため、日本人達は慌ててキリスト教を国内で禁止するようになる。
 江戸幕府によって、キリスト教への弾圧は年々強くなる。カトリック系キリスト教を信奉する国の出入りまでが禁止となり、徐々に江戸幕府によって鎖国が完成に向かっていく。
 禁教と鎖国の決め手となったのは1637年の「島原の乱」で、江戸幕府の決定にオランダ人は自らのアジア進出の拠点となっているジャカルタでしばしの喜びに浸った。
 しかしこの頃の東アジアのオランダ人達は、喜んでばかりもいられなかった。
 北東アジアには、大東というもう一つの日本人の国があったからだ。しかも大東の方が、西の日本よりも強大な存在だった。

 ■琉球問題と新航路開発

 16世紀後半から17世紀の最初の四半世紀の間、西日本列島の海外貿易もかなり活発だった。16世紀末の主な海外貿易である対明貿易(勘合貿易など)において、日本の主要輸出品は以下のようになる。

1. 銅・銀・金など鉱物
2. 刀剣類、玉鋼(地金)
3. 漆器など手工業品

 特に、当時世界の三分の一を産出していた石見銀山の銀が最大級の輸出品で、日本人は銀と交換で大量の絹を求めた。戦国時代の間は火薬の材料となる硝石、人造硝石の需要も高かったが、17世紀に入ると硝石の輸入はピタリと停止する。
 そして安定した貿易の為には、依然として北東アジア貿易の中継拠点となっていた琉球を抑える方が有利だった。このため日本の薩摩藩(島津家)は、1609年に琉球本島にあった琉球王朝へと電撃的な軍事侵攻を実施し、ほぼ即日で軍事占領してしまう。
 とはいえ琉球侵攻そのものは、琉球自身の招いたものと考えてよかった。半ば明の属国である現状を過大評価していたのだ。
 実際には、明帝国は日本・大東の門戸開放要求を一蹴、逆に海禁策を強化していた。明海軍は倭寇(※実態はほとんど漢民族の海賊であったが)に対応するために一定規模の戦力の海軍力を備えてもいたが、沿海での海防作戦に従事することがほとんどであったために、琉球侵攻を狙う日本軍を海上で阻止する能力はなかった。17世紀に入ってすぐの日本の海上戦力は、島津藩などの有力諸侯でもかなりの規模の直船(ガレオン船)を保有していたので、その戦闘力はヨーロッパ列強と遜色ないほどだった。
 しかし、日本の海外膨張は、琉球侵攻がほぼピークだった。以後日本は急速に鎖国へと傾いたからだ。
 だが日本の琉球侵攻に影響を受けたのが大東国だった。
 16世紀に入ってからの大東商人の船は、東アジアと自国の中継拠点として琉球王朝を利用していた。これは琉球本島が黒潮(北太平洋海流)の真上にある為でもある。
 大東側は日本の行動を非難し、取りあえずは今まで通りの自分たちの利用権を求めた。これに対して当初の日本側は、貿易船の規模や量については規制を設けなかった。この当時の江戸幕府は、鎖国の方針はまだ緩かったし、何より大東との関係悪化をかなり警戒していたからだ。だが琉球は実質的に日本領となったので、新たに冥加金(税金=関税)を求めるようになった。こればかりは大東も受け入れざるを得なかったが、だからといって損をする行いはしたくなかった。そこで新たな航路開発に力が入れられるようになる。

 1609年以後、特に1620年代に入ると大東商船の動きは活発化する。今までは、「大東=琉球=明=大越=マラッカ」という比較的安全な南海航路だったのが、最初の中継点の使用が難しくなったからだ。日本が鎖国を強化するため、一方的に大東船の立ち寄りを強く規制してきたのだ。
 琉球で大東に対する「無茶」を通達してきた日本に対しては、本来なら大東側が武力に訴えても不思議ではなかった。だがいまだ戦乱の傷が癒えていない事、国家としては内政に力を入れなくてはならない事を主な理由として強攻策は却下された。そして大東の海外進出は、商人主導となる。
 そしてこの時期、大東の海外航路開発を主導したのが、南部に住む茶茂呂人だった。
 茶茂呂人は、大東島に船でやってきた最初の人類だった。その後も船を用いた活動を活発に行い、大東人の海での活動、特に海外での活動は茶茂呂人抜きには語れなかった。彼らのルーツはフィリピン諸島南部に遡り、南の海での活動を得意とした。また船の建造も巧く、直船の建造にも難なく順応した。直船とヨーロッパで改良発展した羅針盤を手に入れるまでにも、西部太平洋広くに独自進出を行っていた。
 彼らにとっての父祖の地でもある呂宋(フィリピン)に対しての航海と商業活動も15世紀には恒常化しており、大東には新たな家畜となる豚をもたらしている。茶茂呂人は、大東ひいては日本社会全体の海のヴァンガードだった。
 ここからは、茶茂呂人が独自に手に入れていた航路や島々について見ながら話しを進めよう。

・茶茂呂諸島 : 
 既にスペインと茶茂呂氏が、1530年代に拠点を設けていた。どちらの進出が先かと言われるが、少なくとも規模と恒常性において大東の茶茂呂人が上回っていた。島の名前も、茶茂呂人がスペイン人に教えた事が強く影響している。スペイン人が領有権を主張した南部のグァム島だけがスペイン領とされ、他は大東国の領有とされた。
 17世紀後半には、彩帆島で小規模な入植とサトウキビ栽培が開始され、以後大東の領土として恒久的な統治が実施される。
・プロウ諸島 : 
 プロウとは、マレー人の言葉で”島”という意味。大きな珊瑚礁があるため、中継点を設ける事が容易かった。
 その後パラオと呼び改められる。
・ジャイロロ島 : 
 16世紀中頃、モルッカ諸島北部のジャイロロ島のテルナテ港を発見。すぐ隣には、巨大な陸塊のパプア島がある。
 テルナテ港までの航路は、通常使われていた琉球経由の南海航路よりも遥かに距離的に近かった。しかし全ての航路を大東洋上を通らねばならないため、商船が使うには危険が大きかった。このため、17世紀に入って直船が一般化するまで予備航路の一つに止まる。
・バンダ諸島 : 
 ポルトガル商人がモルッカ諸島と呼ぶ島々を含む多島海全体を指す。別名「香料諸島」と呼ばれ、世界的にも非常に貴重な香料のクローブ(チョウジ)とナツメグを産出する。
 茶茂呂商人達は16世紀半ばには自力でたどり着き、以後この地で得た香辛料を大東島に持ち帰り大きな富を得るようになる。
 しかし現地の支配権は16世紀の間はポルトガルが握っていた為、商業的旨味は少なく危険も伴った。

 以上の状態で、大東商人は琉球を経由しない航路の開発を迫られた事になる。そして選択すべき航路は、西大東洋を使う通称「茶茂呂航路」しかなかった。だがこの時の大東人には、荒い波の大東洋を押し渡ることのできる直船と航路を確実なものとする羅針盤があった。
 大東商人は、勇躍新たな航路を使った貿易へと、新に手に入れた船で旅立っていった。また一部の冒険商人や、冒険や探検を生業とする人々が、さらなる「果実」を求めて周辺の海を彷徨った。

・サベドラ諸島 : 
 1610年代初期に到達。以前入手したスペインの海図に載っていた島々。おそるおそる大東が領有を宣言するも、スペインはそれらの島々のことなど忘れていた。このため軍師諸島と名付け直される。とはいえ、小さな珊瑚礁の島々ばかりなので、利用価値はほとんど何もなかった。その後大東人達も立ち寄らなくなり、存在すら忘れていく。
・大スンダ諸島 : 
 ジャワ島、スマトラ島を中心とする。近在のボルネオ島、モルッカ諸島などを含めると世界最大級の諸島地域となる。大東商人が目的とするマラッカ海峡は、この島々の西部に位置している。またジャワ島とスマトラ島の間のスンダ海峡を抜ければ、別のインド周回航路に出ることもできる。

 モルッカでもそうだったが、1620年代に大東商人達がたどり着いたインドネシア地域全体は、以前とは少し変化していた。我が物顔に歩いているのが、ポルトガル人からネーデルランドのオランダ人に変化していたのだ。しかし大東としても、自分たちの国に香辛料を持ち帰らなければならないので、ネーデルランドが牛耳ろうとも香料諸島へと赴かねばならなかった。
 これ以後大東人達は、ヨーロッパ情勢に一定程度関わる日々を送ることになる。


fig.01 大東洋北東部

 

 ■北方開発

 16世紀から17世紀にかけての大東の交易品は限られていた。
 大東の輸出品は、大東特産の剣歯猫の牙やアルキナマコなど原材料、日本列島と同じ製法で作られる刀剣類や鉄の地金、そして溢れるほどの金(黄金)が挙げられる。
 一方当時の東アジアで最も取引されているのは、基本的に銀だった。明帝国が国内で不足する銀、銅を貨幣(の材料)として常に求めていたからだ。そして当時銀と銅は、日本で多く産出していた。このため東シナ海の貿易では、日本が優位に事を運んだ。それでも最も希少な金属である金の価値は絶大であり、国内で大金山を発見して以後の大東商人は、海外貿易で縦横に活躍する事ができた。
 しかしそうした状況に、徐々に陰りが見えてくる。
 大東国内での金の産出量が、目に見えて落ち始めたのだ。16世紀末の時点で、まだ四半世紀ほど採掘は続けられそうだったが、無尽蔵にすら思われた採掘量そのものは一気に半減した。
 この状況に真っ青になったのは、これまで黄金で莫大な富を築いた鉱山商人と黄金財政の上に胡座をかいていた大東国の財務官僚達だった。
 彼らの次なる目標は一つ。金城近辺の黄金が尽きる前に、次の巨大な採掘先を見付けることだ。そして金属を扱うことを知らない蛮族の住む地域には、手付かずの金山、銀山が存在する可能性があり、さらに既に自分たちはそこへ赴く手段を手に入れているという二つの要素が、彼らの行動を大胆にしていた。
 国の主導で大東中の山師が集められ、彼らは直船に乗せられて、半ば航路開発をしつつ当時の大東人が赴くことの出来る場所へと散っていった。
 彼らの努力は報われ、1613年に冬は流氷で覆われる極寒の北氷海の奥地、後に麻臥団と名付けられた町で金を発見する。その後さらに周辺地域での調査を続け、採掘には苦労が伴われるも有望な金山を次々に発見した。また別の一派は黒竜江を遡り、大陸人が外満州と後に名付ける場所の境界線付近でも、砂金とその先の金山を見付けていた。
 これら北辺の地域での金山発見は苦労の連続で犠牲も多く、まさに執念と言えるだろう。

 さっそく各地での鉱山開発が本格化し、合わせて周辺の開発と探索、そして領土化が一気に進められた。当然だが航路も開かれ、北方の冬にも強い丈夫な専用の直船が何隻も建造された。
 大東人達はさらに大陸奥地へと進み、1618年にはサハ地域を北極海に向けて貫く冷那川にまで到達した。ちょうどその年には、西のエニセイ川にロシア人のコサックが姿を現したばかりだった。しかし大東人がロシア人に出会うのは、もう少し先の出来事だった。

 ■大彩島の発見

 約7000万年前、北アメリカ大陸北部からいくつかの陸塊が大東島を追うようにプレートに乗って分離した。
 大東に近い地域を、その名の通り「東伝列島」と呼び、最も東にある島々を先島諸島と呼ぶ。
 これらの島々、特に先島諸島は黒潮(暖流)が親潮(寒流)と混ざり合う北大東洋海流の中に位置する。海流と偏西風の通り道でもあるため、大東島から北アメリカへの帆走航路の理想的な寄港地となる立地条件を備えていた。また海流がぶつかるため、漁場としても優れていた。諸島の気候は基本的に寒冷で、平地が多いなだらかな地形のために強い風がしばしば観測される。
 他の地域から隔絶した場所にあるため人類未到地域であり、大東人が最初の一歩を記した。
 発見されたのは1624年で、見付けたのは直船で北大東洋全域を漁場とするようになった捕鯨船員だった。

 大東人の捕鯨の歴史は古く、縄文時代から沿岸捕鯨が行われていたし、時折砂浜に打ち上げられる鯨は、海の神々からの授かりものとして珍重されたりもした。つまり食べ物として鯨が扱われてきたのだが、時代の進展と共に別の用途が鯨漁を促進させることになる。ヨーロッパと同様の、油及び油製品の原材料としてである。大東の植物油として大東向日葵が有名で古くから栽培もされているが、グリースなどとして動物油も必要であり捕鯨発展を促した。
 石油の利用が一般かする19世紀半ば以後までの長い間、世界中での鯨漁の目的のほとんどは巨大な鯨が体内に持つ油にあった。
 大東人も、照明油、グリース、ろうそくや石けんの原材料として鯨油を使うようになる。特に戦国時代になると、需要が爆発的に伸びた。さらにヨーロッパから伝えられたガレオン船の技術が、捕鯨を沿岸から沖合、そして遠洋へと押し広げることになる。そして当時の大東周辺の海は、鯨の宝庫だった。16世紀の頃は、それこそ唸るほどの鯨が存在していた。
 当時の主な漁場は、大東南部沿岸、南部の引田諸島、琉球諸島、アレウト列島などである。漁場が南北に大きく分かれているのは、鯨は夏は北方で餌(オキアミ)を食べて過ごし、冬は南の暖かい海で子育てを行うためだ。
 そうした鯨を洋上で追いかけ回すのが当時の捕鯨船(※中型程度の直船)であり、彼らはまだ見ぬ鯨の群を探して海流や風にとらわれず北大東洋中を彷徨った。そのうちの1隻が難破した末にたどり着いたのが、西経155度付近に存在する先島諸島で最も東にあったかなり大きな島だった。
 この知らせは、すぐにも他の捕鯨船員を経由して大東国の政府にも伝えられた。そしてスペインなどに倣って、取りあえず政府の船を派遣して標識を立てて領土化する。ここで、先島諸島で最も大きい島は、当時の元号から”大彩島”と名付けられた。
 大彩島の面積は、四国の半分程度(約1万平方キロ)で現在では馬鈴薯の栽培が盛んとなっている。他の作物栽培は厳しく、牧畜も酪農と羊の放牧が若干行われる程度でしかない。それだけ寒冷な島だった。
 なおこの島には、海流の関係からかポリネシア人が到達しなかったと推測され、原住民は居住していなかった。ただし20世紀に入ってからの発掘調査により、人類の居住の痕跡が発見されている。一時期居住したのは、10世紀頃に大東または日本から流れ着いた遭難者とみられている。またこの遭難者と共に鼠も到来に成功しており、大東人が再び訪れた時には既に島中に繁殖していた。そして狡猾な鼠たちは、この島の固有種である鳥の多くを激減させるか、中には絶滅させている。一方では鼠という天敵を得た為、陸の動物、つまり人間に対しても一定程度警戒感を持つため、これがこの島の固有種の鳥の減少を最小限に抑えたと言われている。
 将来の事はともかく、発見からしばらく大彩島を中心とする先島諸島は、ほとんど放置状態だった。この島々に鯨も立ち寄らないからだ。しかし水の補給ができるし油を取るための薪も豊富にあった。さらに北に向かう船にとっての寄港地としての役割は担えるため、少しずつ捕鯨船、さらに毛皮商人によって活用されるようになっていく。
 その中で馬鈴薯(ポテト)栽培が少しずつ進められたのだが、これが先島諸島に立ち寄る人々の壊血病を防ぐ大きな役割を果たした。壊血病の原因はは19世紀になるまで分からなかったが、馬鈴薯は穀物ではなく野菜の一種のため各種ビタミンを含んでおり、食べやすく保存にも適しているので船にも積み込まれ、後の北大東洋航路の船員や水兵にとって、ある種の守り神となっていく事になる。

 ■新大陸への到達

 時折大彩島を使った大東人の中に、毛皮商人と彼らの使う船の船員がいた。彼らの目的は、ユーラシア大陸北東部でもいる陸上動物ではなかった。彼らの主な獲物は、ラッコだった。
 寒冷な海の上で過ごすラッコは、極上の毛皮として古くから珍重された。大東島に渡ってきていたラッコは、日本人が侵略してくるまでに一度絶滅していたほどだった。その後は、千島にまで捕りに渡ってもいた。そしてラッコの有用性を知っている北部の大東人達は、昔からラッコを求めて対岸のユーラシア大陸北東部に足を伸ばしていた。しかしそこも枯渇すると、さらに遠くへと赴くようになる。
 黄金を求めて北氷海奥地に入ったのも、ラッコを求めて彷徨った人の足跡を知っていたからだった。
 そうした海の狩人達は、千島列島から千島半島へ、そしてその先へと足を伸ばした。アレウト列島がラッコの繁殖地だったからだ。浅い海底には昆布が生い茂り、昆布を食べるウニが繁殖し、ラッコはウニを餌としていた。
 しかしどこに行ってもラッコの数は限られているので、人々はどんどん遠くに赴くしかなかった。幸い赴くための船も手に入れていたし、16世紀以後の大東は黄金に溢れていたし、17世紀に入って戦乱が収まると贅沢品の一つである高級毛皮は幾らでも需要があった。しかも17世紀に入り極寒の大地(麻臥団など)での大規模な黄金採掘が始まると、防寒具としても飛ぶように売れた。
 故に毛皮商人達は、アレウト列島を東へ東へと進み、ついに火依半島、つまり新大陸へと到達する。到達は1628年といわれている。その頃陸のご同業が、北極狐などを北の高級毛皮を追いかけて、大陸を分ける縁倶海峡へと到達しつつあった。
 とはいえ火依半島を先端部とする荒須加は、北氷海近辺と同様に荒涼とした極寒の地であり、タイガなどに生息する動物の毛皮以外に用はありそうになかった。新しい土地の噂を聞きつけて黄金を求めた山師もやってきたが、この時点では何も見付けることは出来なかった。
 その後も海の毛皮商人達は、新大陸を東へそして次に南に向けて沿岸部進み、18世紀に入るまでに農業が可能な土地にまで至ることになる。しかしそこは、海の毛皮商人にとって終着駅を意味していた。温かい海にラッコはいないからだ。それに、少しばかりという以上に遠くに来すぎていた。原住民はいたが、商売相手にもなりそうに無かった。
 このため毛皮商人達は一度もと来た道を引き返し、その後大東人はしばらくの間新大陸の西海岸北部にある温暖な土地について忘却してしまう事になる。