■■Daito カルチャー


 ここで少し大東の文化や生活について、主に衣食住の面から見ていきたい。

 ユーラシア大陸の文字通りの極東にある大東島は、基本的に「日本文明圏」の数における最大勢力であるが、歴史上の長い間、日本人にとってのフロンティア(新天地)でもあった。
 だが、大東島に住む人々は、征服者にして開拓者である日本人だけではなかった。縄文人の子孫と日本の弥生人の一派の混血と言える古大東人、後縄文人の一派であるアイヌ人、南方系(マレー・ポリネシア系)の茶茂呂人、どれも北東アジアの中核人種からは少し外れている。古大東人、アイヌ人は北方系人種の特徴を持っており、顔の彫りがアジア系としてはやや深く、北方系の特徴として瞳の色素の色が薄い場合がある。最も薄い場合は、琥珀色や翡翠色になる。茶茂呂人はマレー・ポリネシア系に属する人種の中で最も北方に住む人種とされ、顔立ちも南方系のハッキリした形をしている。日本人と混血が進んでも人種的な特徴は完全に消えることなく、現代に至るも引き継がれている。このため大東では、大きく北部、中部、南部で人種の違いを見ることができる珍しい島となっている。
 こうした日本列島よりも多用な人種が存在するため、大東の文化、生活、習慣はより多様性を増すことになった。

言語と文化

 大東島は、日本の文化圏、文明圏の一派であり、文明の祖となる日本列島と多くの特徴を共有している。
 何よりもまず、彼らは日本語を話した。
 日本語は表音言語で、表音言語は現在の地球規模で見ると珍しい。そして広義での日本人は、この珍しい言語を話す地球最大の勢力を形成している。
 また言語を表現するための文字は、中華大陸で発明された漢字を手本としつつもこれを大きく改良、改善したものだった。中華文明の漢字に「音読み」と「訓読み」を持たせている事そのものが、日本人の自分たちの言葉に対するこだわりを見せるものだと言えるだろう。また、漢字から派生した文字である「かな文字」の存在も大きな特徴となっている。これらかな文字と日本語化された漢字は、平安時代後期の日本で原型が完成され、その全てを大東も輸入して用いた。日本人にとっての新天地(フロンティア)である大東は知的な蓄積に乏しい為、文化の多くを日本から持ってくるしかなかった。

 言語だけでなく、文化風俗の多くも日本列島を発祥としている。
 12世紀末期に自ら日本列島からの自立を宣言するまでは、文化的には完全に日本列島の従属下にあった。原大東人や茶茂呂人、アイヌ人も独自の文化は持っていたが、それらの多くは新石器時代からあまり発展してはいなかったからだ。
 その後も、12世紀後半に移住した平氏の一門だった平経盛は文化面で秀でていたので、彼が中心になって持ち込んだ当時最先端だった日本風文化が大東では長い間もてはやされた。さらにその少し後に、平氏の残党が多数亡命してさらに厚みを増した。
 しかし大東が日本人移民の手で日本から独立すると、貿易と限定的な日本から大東への移民以外での交流が少なくなる。必然的に、大東独自の文化や習慣も増えていった。だが、まだ開拓地としての性格が強かった大東では、荒削りで純朴な文化しか育たなかった。そうした状況である意味大きな変化を与えたのが、「二十年戦争」だった。
 日本から大東への大規模な侵略戦争でやって来た日本の武士達によって日本の文化が大東に紹介され、また逆に大東の文化や習慣が日本列島に持ち帰られた。一方で大東島の人々の中に、西日本列島を嫌い憎むという感情が強まった。特に今まで「日本化」が進んでいた旧大東州中心部で日本軍が暴れ回ったため、二十年戦争後に「日本離れ」が大きく進む事になる。この結果、日本文化に対する憧れは薄くなり、独自文化を育てるという気運が感情面で高まった。
 それでも主に日本から大東への人の流れは一定程度に続いた事もあって、日本と大東が文化や習慣、言語などで大きな断絶をする事はなかった。
 なお、日本列島と大東島の海の距離は日本列島と朝鮮半島よりも広いので、本来なら国家が別となった以上、文化、習慣などで大きな変化と違いが起きてもおかしくなかった。
 しかし西日本列島を旅立った日本人が大東でも中心になった事と、日本語という共通の言語、東西の違いはあれどそれぞれ天皇という君主を中心に据えている事などの共通点が、常にこの二つの地域を結び続け、一つの文化圏、文明圏として認識される大きな要素となった。
 とはいえ完全に同じではなく、主に気候の違いから来る日本と大東の変化は、一部ではかなり大きな隔たりを見せることとなった。これが現代において「日本文明圏」と呼ばれる地域での多様性を作り出す事になる。

食の文化

 日本を経由しつつも、日本で消滅して大東で残り、そして発展したものも存在する。
 代表的なものが、牧畜産業、中でも酪農業になる。
 牧畜、酪農が大東で発展した理由の一つは、日本列島よりも降水量が少なく、穀物栽培での土地当たりの人口包容力が低い点を補完するためだった。また新大東州の北部で穀物栽培が難しかった事も、牧畜産業の発展を促した。このため日本人が大東に渡る以前から、北方での原始的なトナカイ放牧と「猪飼」と呼ばれる半ば家畜化された猪、つまり野豚に近い猪の飼育が行われていた。特にトナカイ放牧は、他からの伝搬ではなく独自誕生と考えられている為、大東は世界でも希有な自発的な農業発祥地の一つとも考えられる事もある。また、その後大東猪と外来種の豚の交配により、陸南豚などの新種が誕生している。
 そして日本人が到来すると共に、様々な種類の新しい家畜がやって来た。そしてその頃既に「遣唐使」が頻繁に行われていた為、北方騎馬民族の食文化が日本列島を経由して大東にもたらされる。それが乳製品の利用だった。
 「酪(らく)」や「醍醐(だいご)」と呼ばれる初期的な乳製品とその後の発展物は、保存肉と共にその後の大東北部での主要納税品目の一つにもなり、副食、カロリー補助としても広く珍重された。当然それらを用いた料理も多数作られ、大東日本人の食生活になくてはならない存在となっていく。乳製品はその後も発展を続け、ユーラシア各地の遊牧民族やヨーロッパからの知識を得ることで今日のチーズ、バターなどを作るようになっていく。保存の関係で納税品にはならなかったが、「酥(そ)」と呼ばれる初歩的な練乳やヨーグルトのような乳製品も、北部を中心にして食べられた。
 肉食についても、トナカイ放牧と「猪飼」によって狩りによらない肉食が一般化していき、15世紀に東南アジアとの貿易で豚を手に入れることでさらに広まった。大東固有種の陸南豚は、豚に変化(進化)しつつあった大東猪と東南アジア系の野豚の交配による品種改良で生まれたものだ。馬肉についても、特に禁忌がないため馬乳ともども古くから食べられていた。塩漬け、薫製の肉も一般的に食べられた。西日本列島に比べて魚が手に入りにくい事が、大東で肉食が進んだ背景の一つともなった。また旧大東州では、早期に森林の減少が進み自然環境が失われた事で野生動物が減少したため、これも牧畜による肉食が進む背景となった。
 そして牧畜、肉食という文化が存在する事が、大東人の仏教浸透を阻止する要因になったとする説が存在する。しかし宗教に関しては、日本列島に比べて大規模な自然災害の少なさが、先祖伝来といえる自然崇拝が続いた大きな要因と言われることの方が多い。
 肉食はその後も拡大する方向で続き、山羊、羊などを加えつつ、大東の重要な食文化の一角を占めるようになる。家畜化できる鳥も、家鴨、鶏などの飼育で一般化した。そして肉食、牧畜は、大東島全体で人口が飽和し始めると、土地当たりの人口増加を抑止する大きな要素となった。
 西日本列島では、どこでも蛋白源の魚を獲やすいという地理的環境もあってか徹底して米食(穀物食)が進み、土地当たりの人口包容力は米という収穫量の高い穀物生産によって限界にまで引き上げられた。これに対して大東では、農地の一部は家畜用飼料の栽培に充てられ、特に穀物栽培の難しい北部では酪農を中心とする牧畜が発展を続けた。豚などの飼育も同様だった。

 そして雨量が少ない事も加わり、平地での人口密度は大東島が日本に対して常に低い状態が維持される。
 日本列島内で人が利用できる平地、台地の面積はおおよそ10万平方キロで、江戸時代中期以後に総人口3000万から3500万人を養った。これに対して大東は、利用できる土地面積約55万平方キロに対して、19世紀初頭に約6000万人と日本列島の約三分の一で、寒冷な北部では特に人口密度は低いままだった。(※南部の旧大東州は、18万平方キロで約4000万人。)
 また、家畜の肉、乳製品摂取の影響で、大東島の北部に行くほど体格が大きくなる傾向が強かった。北部中核の駒城辺りだと身長だけなら当時のラテン系ヨーロッパ人種と遜色ないほどで、日本人から見ると大東人は背が高いという一般的な評価が育ったほどだった。また馬に乗る事が多い為か、手足の長さも大東人の方が若干長くなる傾向がある。

 話しが少し逸れたが、大東の食文化は日本列島同様に「米」を基本としつつも、北部に進むほど変化が見られた。単位面積当たりの生産高と人口包容力が高い米は大東島でも主要穀物として重宝されたが、米(=稲)が栽培できない地域では小麦、大麦、その他雑穀が中心とならざるを得なかった。だからこそ、カロリーを補完するために肉や乳製品を必要としたも言える。
 大東での小麦の食べ方は、小麦を粉にする石臼の登場を待たなければならなかった。でなければ殻の固い小麦は食べにくいからだ。それまで米の栽培が出来ない地域では、大麦、稗、粟が穀物として栽培されていた。これらは鍋で煮て粥にするか、当時の米の食べ方同様に蒸していた。
 獣の脂を用いて炒めるという日本列島には存在しない料理法は、やはり中華大陸から14世紀頃にもたらされたと考えられている。同時期大東では、木材資源の消費調整に伴って石炭が火力として用いられるようになっており、製鉄技術の向上もあって熱に強い鉄鍋を生産するようになっている。
 同時期、小麦と石臼が合わせて大陸貿易の過程で伝えられ、各種小麦料理と共に大東風のパン(=ブレッド)が作られるようになる。この食べ物はヨーロッパのものとは少し違っていたし、中に各種庵(肉などを炒めたもの)を詰めて蒸した、大陸でいうところのパオ、要するに肉まんのようにして食べることが多かった。焼いて食べる事も行われたが、焼くようになるには石炭の一般利用の広まりと、石釜の普及を待たなければならなかった。
 小麦、蕎麦などをさらに加工した各種麺類が広まるのは戦国時代以後で、大陸から日本に伝えられたものが豊臣秀吉の大東征伐で大東に来た兵士によって伝えられたと言われている。

 そして豊臣秀吉の大東征伐で大東に伝えられた当時の日本食の中で外せないのが、当時日本でも広まり始めたばかりだった万能調味料の一つとしても知られる醤油(しょうゆ)だった。醤油こそが製法が似ている味噌と並んで日本食の基本調味料であり、同じ調味料を用いる大東も間違いなく日本文化圏に属していると言えるだろう。
 なお醤油と同様に、豆腐など肉の代わりとして日本で作られた食材も多数もたされたが、それとは別に大きな影響があったのが「茶の湯」だった。
 既に大東でも中華大陸のお茶については知られていたが、当初は大東人はあまり興味を向けていなかった。しかし、当時日本の上流階層で流行していたものを、大東人も徐々に洒落ていると考えるようになって取り入れられた。そして茶の湯に連動して、日本の仏教僧侶が食べた肉を使わない精進料理が大東にももたされる事になる。醤油もこの流れで大東に渡ったと考えられている。
 基本的に大東での仏教は知識でしかなく、しかも既に廃れていたので戦国の中で忘れ去れれつつあったのだが、料理という媒介を通して再び少しばかり日の目を見ることになる。大坂などで生き残っていた仏教寺院のある程度の復権も、茶の湯など食文化においてだった。とはいえ、大東人が注目したのは料理や一部精神的な考え方(仏教哲学)だけであり、宗教としての仏教は結局見向きもされなかった。僅かに「禅」の理念が取り入れられたに止まっている。

 なお、西日本と大東の食文化の違いで、もう一つ重要なのが砂糖だった。砂糖の原料となるサトウキビはニューギニアの一部または南太平洋地域が原産で、その後インドに伝わりインドから中華地域、さらには中東、ヨーロッパ世界へと広まっていた。しかし日本には、遣唐使などが薬として伝えた以外では中華ルートからはほとんど伝わらなかった。だが大東島には、恐らく海流の影響で茶茂呂地方に古くからサトウキビが自生していた。茶茂呂人が、移住の際に持ち込んだという説も根強い。当然、古くから食用として用いられ、砂糖(黒砂糖)としての加工も日本人が初めてやって来た時には原始的な形で始まっていたと考えられている。大東の食生活の中にも、古くから甘味として取り入れられていた。
 この砂糖(黒砂糖)は、9世紀頃から日本にも少量ながら輸出されるようになり、砂糖ではなく石糖や溶糖として西日本の上流階層でも珍重された。
 砂糖栽培はその後人口の拡大と共に、気候が温暖な茶茂呂地方で一般的に行われるようになって、大東各地にも調味料として広まった。人口の拡大が必要だったのは、サトウキビ栽培(特に収穫)とサトウキビからの糖分抽出作業には、短期間のうちに多数の労働力が必要だったからだ。
 そして砂糖は、ヨーロッパよりも早いくらいの速度で大東で一般的な調味料となり、また補助カロリー摂取のための食材として広まり、大東人の一人当たりカロリー摂取量の増加にも貢献している。ただし白砂糖が登場するのは、ヨーロッパとの接触を待たねばならなかった。
 またミツバチの密に関しては、西日本列島と同様に大東島でも養蜂及び食用とされることはなく、大東での甘味の代表と言えばサトウキビであり続けた。

 一方、日本列島同様に、16世紀は大東がヨーロッパの文化に初めて触れた時期でもあった。料理についても同様で日本と同じような料理が次々に大東でも取り入れられたが、肉食の進んでいた大東の方が受け入れ度合いは大きかった。また日本はポルトガル中心だったが、大東の場合は海外貿易の関係からスペインが中心だった。加えて、スペインの大東洋航路の中継点の一つとなった事もあり、新大陸の作物も大東の方が早く到来し、栽培されるのも早かった。

 そして麹で出てきた発酵だが、温暖で湿度も高い西日本列島は発酵文化が大きく発展した。これに対して大東は、日本列島ほど発展する事が物理的に難しかった。とはいえ北東アジア一般程度には湿度も温度もあるため、主に日本列島から伝わった各種発酵食品、それらを先祖とする大東特産の発酵食品が生まれた。各種乳製品も発酵の産物だった。
 そして大東で発酵食品の発展を促したのが、その地形にあった。大東は平坦な地形が続き、陸地面積も島ながらかなり広かった。このため内陸部では、人体の維持に最も重要な「塩」が不足しがちだった。大東島の成り立ちから内陸部に岩塩もないので、塩は沿岸部で海水から作るより他無かった。このため塩の普及に、塩単体だけでなく塩漬けの魚、肉、各種膾(魚、肉の塩辛のようなもの)そして発酵食品の「味噌」が大きな役割を果たした。単に塩という形ではなく、加工された食品の形で内陸部に塩が運び込まれたのだ。
 一方では、大東を一つの国にまとめるのにも、公爵家の権力をそれぞれ維持するのにも塩は「税」として利用されており、大東での統治にも塩は欠かせない要素だった。塩を原因とした悪政や反発も、大東では一般的に見られた情景の一つだった。

 最後に、食と切っても切り離せないのが酒だが、これも日本と大東には少し違いがあった。大東の場合、北部での酒といえば、大麦または粟の醸造酒が中心だった。これは中華大陸の黄酒やヨーロッパ北部のエールに近い。
 南部から中部にかけては、日本と同様に米を醸造酒の原材料としていた。サトウキビの絞りかすも、醸造酒の材料となった。しかし15世紀、東南アジアでイスラム世界から伝わってきていたアランビク、つまり蒸留装置を手に入れると、さっそく酒の製造に投入した。しかも大東では南部に大規模な石炭の露天鉱床が存在するため、石炭を燃料として日本よりもずっと早くそして全国規模で蒸留酒が飲まれるようになる。特に北部は寒冷な気候なのでアルコール度の強い酒の普及は早く、様々な炭水化物を原材料とした蒸留酒が作られた。
 これがある程度一つの形になるには17世紀を待たねばならなかったが、馬鈴薯の伝来と普及が芋による蒸留酒、つまり大東酒とも言われる酒(芋焼酎)を作り出す事になる。他にも各種麦、米も蒸留酒の材料とされ、これらの蒸留酒を長期保存した古酒、つまりウィスキーの一種も17世紀には作り始められた。19世紀の産業革命の到来とヨーロッパ文明の導入によって、現在大東地域は世界有数のウィスキー生産国となるまでに発展していく。
 スペインとの接触があって以後、17世紀には茶茂呂地方など南部を中心にブドウの栽培とワイン生産も開始され、大東という一つの地域で多くの酒類が生産されるようになっている。
 なお西日本列島で発展した米の醸造酒は、結局大東ではほとんど発展しなかった。

衣服と髪型

 何度も取り上げたように、大東島は南北に長い。しかし衣服のバリエーションには、やや乏しかった。
 大きな原因は、羊の飼育が17世紀に入るまで行われなかったからだ。木綿の栽培が一般化したのも15世紀に入ってからで、戦国時代に一気に普及するまでは、様々な麻と毛皮(革)が主な衣服の原材料だった。
 もう一つの重要な衣料の絹は、基本的に品質の高い一部の高級品用と、繊維として用いることもできず綿の一種として使われる粗悪品しかなかった。絹の全体的な品質向上は17世紀に入ってから本格化するが、それまでは一般の人々が用いる衣服の材料にはならなかった。このため、大陸産の高級絹は大東でも長らく珍重されている。
 衣服の様式は、旧大東州と新大東州で違いが見られる。旧大東州は、日本列島とあまり大きな違いはない。湿度が多少低いので、その点での違いが見られるくらいだ。だが新大東州は、北にいくほど寒冷な気候となるため、日本式の衣服では夏はともかく冬が厳しい。このため下は脚絆(きゃはん)もしくは袴(はかま)を履くことが男女を問わず一般的で、外套として毛皮の分厚い衣服を羽織る。逆に温暖な南部の茶茂呂では、日本よりも薄着の傾向が強かった。
 17世紀以後は綿花を原材料とした木綿が一般化したが、17世紀中頃からはインド綿布のキャラコがもてはやされ、大量に輸入されてもいる。
 さらに同時期、大東でも羊の飼育が一般化して、新大東州を中心にして一気に羊毛が普及した。この影響で、それまで防寒具の主力だった毛皮は、価格の高さもあって一気に高級品となって一般の衣服としては廃れてしまう。この影響で、大東人の毛皮を求める海外進出が停滞するなどの少なくない変化ももたらしている。

 衣服の一種である靴やそれに類するものだが、一般的には日本列島伝来の足袋や草鞋、下駄のように簡単に作れるものが重宝された。大東の中央部でも、簡便な靴は庶民から親しまれた。だが寒冷な大東北部では、日本列島の様式では寒冷な気候に対応しきれないため、原大東人によって動物の革、毛皮を用いた厚手の靴が古くから用いられていた。そして下駄や草履よりも高級に作ることに向いているため、徐々に大東島中の上流階層、富裕層が履くようになる。
 そして北部では寒冷な地域での乗馬という事も多いので、ヨーロッパでのロングブーツや乗馬ブーツに似たものもかなり広く用いられた。これは大東の戦国時代でも、「駒城兵といえば」と言われるほどの特徴となっていた。

 最後に髪型だが、こちらも大東と日本の気候の違いが関わっていた。日本の場合、戦国時代末期から男女ともに「髷」とされる髪型が一般化した。
 しかし大東の場合は、特に女性の場合は西日本列島で言うところの「下げ髪」が一般的で、結い上げる事は殆ど無かった。このため、「編み髪」という今で言う三つ編みのような髪型は、古くから現代に至るまで行われている。これは大東の気候が日本よりも乾燥している為、湿気や気温で汗をかく頻度、日々の手入れの手間などの影響と考えられている。また上流階層では、髪を整えて綺麗に見せる事が一般的で、長らく整えられた長髪は富のステイタスともなっていた。
 男性も半ば日本人としての惰性で髷こそゆったが、戦国時代以後の日本のように頭髪の多くを剃ることはなかった。そもそも頭を剃り上げるのは、日本の戦国時代末期に西日本列島で広まっているので、豊臣秀吉の侵略の象徴でもあるため広まることは一切無かったと言える。
 そして日本よりも軽い髷を結ったうえで、様々な帽子を被ることが一般的だった。帽子の種類や様式で、身分と成人男子か既婚者かなどを分かりやすくするためだ。
 しかも茶茂呂人、古大東人の自らの伝統を重んじる一部の地域では、日本風の髪型が行われることはほとんどなかった。帽子の習慣は身分制度の問題もあったので広まるも、こちらも古大東人の厚手の毛皮帽など違いが見られた。
 また古大東人、アイヌ人の男子は、成人すると主に口の周りに髭を生やすことが成人の証とされる傾向が強かった。そして「二十年戦争」以後の日本離れの影響で髷が廃れ、髭を蓄える事が成人男子の特徴となっていく。
 成人に関する習慣をもう少し続けるが、日本の女性は既婚者は眉を剃ったり歯を黒く染めることで自ら既婚者であることを分かりやすく示したが、大東では耳に入れ墨を入れる習慣が古くから残されていた。これは古大東人の習慣でもあり、年齢や既婚を知るのにも使われていたため、直接的な分かりやすさを好む大東の日本人の間にも広まった。
 入れ墨は、男女を問わず見た目でも分かりやすい耳に入れることが古くから一般的で、古い時代は手の甲などにも入れていた。アイヌの一部は、古くは口の周りにも入れていたが、時代と共に廃れている。

建造物と住居

 大東島の文化の基本は日本人がもたらしたが、建造物についてはあまり当てはまらなかった。
 日本の建築様式は、基本的に東南アジア方面の風俗が色濃く残っている。典型的なのが、高めの床を作って靴を脱いで上がるという形式だ。これは明らかに東南アジアの様式であり、温暖湿潤気候の日本でも普及した。
 しかし大東島は、島の南部こそ亜熱帯に近いし旧大東州はかなり温暖だが、新大東州はそうはいかない。また島全般に降雨量が西日本列島より少ないため、湿度も多少低くなる。
 降雨量が少なく平地が多くて伐採が比較的容易いため、あらゆる原料資源となる原生林が消えていくペースも早かった。森林の方は営林の普及で何とか切り抜けたが、14世紀ぐらいから贅沢に木材資源を使うわけにもいかなかった。
 このため、徐々に南部の石炭を用いて作る焼き煉瓦が建材としても重宝されるようになった。耐火性と丈夫な事を求められる恒久的建造物、公共建造物において顕著で、大東中の城塞都市を最大規模として、神社、役所などから大商人の邸宅、大都市の一般建造物と広がっていった。地震の少なさも、恒久的建造物の普及に拍車をかけた。そして都市部では、大火事を防ぐ目的で政府の指導によって木造建築が大幅に減らされている。
 農村部でも、18世紀ぐらいから煉瓦造りが一般化するようになる。本来なら煉瓦はコストがかかるが、大東では木材を多用する方が長い目で見るとコスト高とあっては、一般民衆も選択の余地がなかった。
 南部から遠い新大東州では、比較的石材資源が豊富だったため、石(花崗岩など)を用いた建造物が古くから普及していた。そして北部は寒冷な気候のため、建造物は石材の内側を木材で覆う二重構造が基本だった。そうした北の家屋内では高い床は作らず、靴もしくは上履きをはくのが一般的だった。日本と同じ高床式の住居は、南部の茶茂呂地方の特徴となっている。

 なお大東島で最も目に付く建造物といえば、17世紀までに各地に作られた城塞都市の城壁になるだろう。最大規模で周囲20キロメートル以上にも達し、敵の侵入を完璧に防ぐために分厚さと高さを持ち合わせていた。そして、深い掘り作って石垣を積み上げ、その上に煉瓦造りの強固な城壁を作るため、今日においても一部が世界遺産や重要文化財とされるなどで残されている。
 それ以外となると、各城塞都市の旧市街、大貴族の郊外邸宅、そして16世紀半ば以後突如として出現し始めた、巨大な神社になるだろう。
 大東では民間信仰として神道が普及していたが、あくまで民間信仰であり、各村落、都市ごとに作られるだけの小規模なものが多かった。また、日本の神道が基本であるため、神社の社といえば木造が基本だった。世界各地の宗教施設のような巨大さや壮麗さは、全く求められなかった。権力も権威も必要ないのだから当然だろう。古いだけの神社建築がこじんまりとしているのは、ある意味大東神道の最も自然な姿だった。
 だが戦国時代に武装した巨大な神道勢力は、自らの権力と権威を信徒(民衆)に見せる必要があった。そして大量の人員と資金が投入出来たこともあり、まるで城塞のような恒久的構造を持つ巨大神社が各地に建立された。従来の木造の社やご神体であるご神木などは構造物の裏庭(※宗教上の理由で必ず露天)にひっそり存在するだけで、完全に石や煉瓦で作られた巨大建造物に飲み込まれてしまう。
 戦国時代が終わると武装神道は一気に廃れたが、巨大建造物のかなりは壊すのも面倒なのでそのまま使われた。そしてこれを見た各地の大東人は、巨大な神社を自分たちの地域や都市、村落の繁栄度合いを示す何よりのシンボルマークになるのではと考えるようになる。この結果、17世紀以後巨大で壮麗、そして見栄えの良い神社が大東各地に建立されるようになる。特に遠目でも目立つ高層建造物が好まれ、日本の神道とは大きくかけ離れた姿となった。建築技術も、短期間で格段の進歩を遂げた。当時スペインなどとの接触も始まっていたので、ヨーロッパ様式も積極的に取り入れられた。神社がエリア・シンボルとなったのだ。
 そしてこの巨大建造物は、大東の貴族達にも伝搬した。さらに貴族達は、西日本列島で安土桃山時代以後に建設された壮麗な「見せるため」の城塞にも感化され、巨大で壮麗な自らの居城作りに権威や権力付けの一端を求めるようになる。中には、首都東京のように、新市街を作るときに巨大城塞(この場合新御所)を新たな街の中心として作ったものまで存在した。
 現在にも残る各都市郊外の巨大城塞や宮殿、離宮、庭園などはその名残だ。
 ただし、巨大な恒久的建造物が大東で建設された背景として、大東全体での人口の拡大と経済の発展があることを忘れるべきでないだろう。
 なお、大東島は地震災害が少ない為、石や煉瓦を積み上げただけの高層建築が作りやすかった。特に島の東部はほとんど大きく揺れたことが無いため、高層建造物が多い。
 一般家屋も、城塞都市の狭い空間を有効利用するため、二階建て以上の建造物が一般的だった。今日においても、数百年間維持されている一般家屋というのも珍しくはない。

 また住居内の内装と調度品だが、室町時代以後の日本では高い位置に床板を敷いて、さらに裕福な場合は全面畳敷きとした。本来藁で出来た畳は、平安時代頃の日本での寝床や座椅子の役割を果たしていた。畳の語源も、簡単に片付けられるという意味合いそのものだ。だが時代の経過と共に部屋の中全体を覆う、絨毯のような屋内での一般的な敷物として変化していく。
 大東島でも日本から文化を輸入していたので、14世紀末の「二十年戦争」まではほぼ同じ流れにあった。しかし同戦争で広がった日本人憎しの感情と、大東の独自性を求める姿勢の強まりから、まずは権力者の側から生活様式を改める方向に傾いた。
 その結果導入されたのが、古大東人、新大東州に残されそして僅かばかりの発展を続けていた様式だった。
 床を高くせず靴もしくは上履きで暮らすのが一般的な古大東人は、中華大陸やヨーロッパ、中東の一部と同様に、床の上に机と椅子を置いた。就寝の際も畳の上ではなく、寝床(ベッド)を使った。そうした風俗はもとは大陸伝来のさらに日本からの伝来でもあった。だが、そうした古さも評価され、寝床、机、椅子を用いる生活が皇族、貴族、武士の間に取り入れられていった。そして羊の飼育開始と共に絨毯が使われるようになり、この傾向はさらに広まりを見せることになる。
 またこの背景には、西日本列島より湿度が低いという点も見逃せないだろう。
 とはいえ畳や高床式の住居が、完全に廃れることはなかった。特に畳みは寝床には寝床用の柔らかい畳を用い、座敷と言う形でも床に畳や茣蓙(ござ)を敷く習慣が南部の旧大東州を中心にして残った。もっとも北部では、羊毛の普及と共に絨毯が広く用いられ、藁を用いる畳は一気に廃れている。

移動手段

 大東と日本では違いが見られるので、補足として記す。
 大東島は、長い年月をかけて自然が作り出した平らな地形が特徴で、となりの西日本列島とは大きく異なっている。また島そのものが、日本列島の本州の約三倍の面積を有している。このため、陸上での移動をする場合、徒歩だけでは不足だった。河川での移動は「量」という面では有効だが、大東を流れる河川は大きい河川が比較的多いのだが、日本に比べれば数は少なく、流れも緩やかな上に季節によって水量がかなり違っていた。このため恒常的な移動及び運搬手段として「今ひとつ」というのが結論だった。
 そして選択の末に選ばれたのが、馬と馬がひく車、つまり馬車の利用だった。平坦な地形が多いので、ある程度の道さえ整備すれば、初歩的な馬車でも十分な運搬が可能だった。日本ではせいぜい大八車だった車輪を持つ運搬道具が発展したのは、大東の地形が大きく作用している。
 大東での馬車は、荷物の運搬、貴人の移動ばかりでなく、時代が進むに連れて一般の乗り物としても普及した。早くも14世紀には乗合馬車が出現し、17世紀中には全国規模での馬車網が張り巡らされた。農閑期の農家の副業としても、馬車業はかなり重宝された。そして馬車の普及が、馬そのものの飼育数の増加へ直結している。
 大東島での馬へのどん欲さはかなりのもので、17世紀前半にはスペインが大東洋で運行するガレオン交易船を使い、最初の西洋馬が大東に輸入されている。その後も、スペイン、イングランド(後のイギリス)などからの積極的な輸入と、自国産の馬との交配による数の増加、そして西洋馬単体での繁殖と品種改良までが19世紀までに進んだ。
 そして新大東州北部は馬の飼育に向いていた事も、馬の繁殖と普及に大いに貢献した。
 なお、こうして生まれた大東の新しい馬は、18世紀に入ると日本にも輸出されるようになっている。これは、今までの日本から大東へというものの流れを完全に覆す一例で、一部では日本列島と大東島の力関係の逆転を物語る典型例だとする説もある。

近世の都市

 大東の都市は、日本とは違って中華大陸やヨーロッパなどのような街を城壁で囲んだ城塞都市が中心だった。都市の規模は中華地域同様に大きい場合が多く、人口10万人を越える都市も珍しくなかった。都市の城壁は16世紀に入るまでは高く分厚い城壁だったが、戦国時代には大砲に対応したヨーロッパに近い星形の土を盛り上げたものに大きく変化した。都市内部は碁盤の目のような形状が主体で、戦闘よりも利便性を求めていた。河川の側に作られ、都市内部に堀を多数入れる事も一般的だった。
 大東島には、大東天皇の居城となる御所のある東京を始め、大坂や南都などいくつかの特徴的な都市があった。中でも東京は、17世紀中頃に総人口が100万人に達した。巨大な国の行政を中央集権の形で行うため、官僚が多数住んでいた事と、東京そのものが巨大な消費都市であり、尚かつ地域経済の中心都市、国内流通網の中継点にあったからだ。また大都市の多くが大河の海に近い場所に作られた港湾都市でもあった。
 「皇都」や「帝都」とも言われた首都東京は、まさに大東国を代表する都市だった。
 それ以外の代表的な大都市といえば、旧都・大坂、商都・南都、大東のへそ・境都、新大東州の要の央都と北府だろう。大東の代表的都市は、大坂を除いて必ず「都」か「府」が付けられている。大坂もかつては征東府と呼ばれていた。「都」と「府」は、首都もしくはそれに匹敵する巨大都市の事を示すのだから、当然と言えば当然の命名であると同時に、直接的な事を好む大東人らしい命名と言えるだろう。
 またどの都市も、大規模河川の河口部か中流域に存在しているのも大きな特徴だ。大東での輸送が河川を用いた水運を利用している為であり、都市丸ごとを防衛し易くするためでもあった。また街の中に多数の堀を作って流通網にも使われた。
 しかし戦国時代が終わり近世に入ると、大砲の普及と発展で城壁にほとんど意味はなくなり、経済面で有利となる河川に面していることだけが重要となった。そして以前にも増して、地域経済の中心として発展する。
 大坂、南都、央都の都市規模は東京に次ぎ、大東での人口拡大と共に都市規模も膨れあがり、どの都市も18世紀までに30万、19世紀には50万を越える事になる。そして都市規模の拡大に伴って城壁の外に広がりを見せ、都市の景観自体も大きく変化していく事になる。