■New Frontier


サザン・フロント

 17世紀(1600年代)も四半世紀を終わった頃、大東国を巡る国際情勢は少しばかり差し迫った事態になっていた。
 といっても、再び日本人が攻め込んできたわけではない。西日本列島は徳川幕府の治世下で平和を謳歌するようになり、その上限定的とはいえ鎖国に向かいつつあった。差し迫った事態とは、17世紀に入ってから東アジアにヨーロッパの新しいゲームプレイヤーが出現したのが原因だった。
 具体的には、日本では一般的にオランダ(阿蘭陀)と呼ばれるネーデルランド連邦(音照蘭土)とそのアジアにおける代行者である東インド会社(VOC)だ。
 
 オランダの東インド会社は、世界初の株式会社といえる組織で、喜望峰からマゼラン海峡という広大な範囲での貿易、植民、軍事の独占権をネーデルランド(オランダ)政府から認められていた、国策による海外植民地の為の経営会社だった。
 彼らは当時ヨーロッパ最大の軍事力と商船団を用いて、発足当初から活発な活動を行い、武装商船と雇った兵士を使い、次々と旧ポルトガルの海外植民地を武力で奪った。「海の乞食(ゼー・ゴイセン)」と言われたが、やっていることは乞食ではなく海賊、しかも当時世界最大最強の海賊のようなものだった。
 ジャワ、スマトラ、モルッカ(香料)諸島、セイロンなどを自らの勢力圏に組み込み、各地に拠点や支店を設けて、丁字、ナツメグ、肉桂など高級香辛料の対欧州取引を独占して巨万の富を築きあげた。そうして出資者に対して莫大な利払いが行われたことからさらに資本が集まり、17世紀のネーデルランド(オランダ)の覇権を確かなものとする原動力となった。最盛時の東インド会社には、各種戦闘艦40隻、商船150隻、兵員1万人が所属していた。
 また、北海でのニシン漁(※キリスト教により、一定の時期だけ欧州中が肉を絶ち魚を食べる習慣があるため莫大な需要がある)を切っ掛けとして隆盛したネーデルランド連邦自体は、最盛時の1650年頃に1万6000隻の船と16万3000人の船乗りを抱えていたという文献が残されている。この数字は、当時のイングランドの4〜5倍の数字となり、「欧州の運搬人」というあだ名を持っていた程だった。ニシン漁漁船の建造で鍛えられた造船力も破格であり、大小合計で年間2000隻もの船を建造していたと今に伝えられている。当時ヨーロッパでは、世界中の物資はネーデルランドの為にあると言った者がいたほどだ。17世紀前半のヨーロッパ経済の中心は、間違いなくネーデルランドだった。
 当時それほど勢いのあったネーデルランド(オランダ)だが、流石に地球の反対側に及ぼせる影響力は限られ、彼らが金儲けの面で「カモ」と見た日本(江戸幕府)に対する工作も貿易の独占のための謀略だった。
 しかし、オランダ東インド会社の謀略が通じない相手がいた。日本の隣国で同じ民族によって構成された大東国だった。

 大東国とオランダ東インド会社の関係は、大東国の商人とVOCによる東南アジアの香辛料獲得競争に始まる。大東側としては、武力を用いた独占などせず妥当な貿易さえしてくれれば、モルッカを支配するのがポルトガル商人でもオランダ商人でもどちらでもあまり変わりはなかった。そして大東の場合、どちらも良い取引相手ではなかった。
 16世紀半ば以後の大東の主な取引相手といえば、基本的に大東洋を周回するスペイン船だった。
 スペインは、新大陸のノヴァ・イスパニア植民地(=中南米)とフィリピン(=呂宋)を結ぶ大東洋航路を使う際に、中継点として大東島南端を利用した。長大な大東洋を東に向かう起点が、大東島の南端部だったからだ。
 そしてスペインの大型の交易ガレオン船は、大東で中華大陸の絹と陶磁器、新大陸または日本の銀を持ち込み、大東から高級毛皮や黄金などを手に入れていた。補給や修繕も欠かせない。その後大東洋を横断して新大陸のアカプルコに至るスペイン船は、別便でパナマに向かい、さらにパナマ地峡を越えてヨーロッパへと大東洋の物産を持ち帰った。生きた剣歯猫も、17世紀初頭にスペイン人の手でヨーロッパに紹介されている。
 大東にとってのスペイン、スペインにとっての大東は共に上客であり、最初の接触以来ずっと良好な関係が続いた。住み心地が良いので、大東に移民してしまったスペイン人も少なくなかったほどだ(※南部の茶茂呂地方は、適度に温暖な亜熱帯気候)。
 逆に、スペインと関係の悪い国と、大東の関係も思わしくなかった。主にスペインとポルトガルが同君連合となって以後の東アジアに生き残ったポルトガル商人と、スペインから独立を勝ち取ろうとしているオランダだった。
 17世紀はマイナープレイヤーだったイングランドと大東の関係はそれなりだったが、当時のイングランドは大東にとって殆ど関係のない相手でしかなかった。イングランドにとっても同様だった。
 そして大東商人が東南アジア進出の航路を変更した頃に衝突したのが、オランダ東インド会社だった。
 主な係争地はモルッカ。香料諸島だった。
 ここで大東は、武装した大型直船(ガレオン船)で船団まで組んで香料の買い付けに赴き、可能な限り適正価格でのやり取りを行おうとする。しかし現地を抑えたオランダ側は、人種差別に根ざして法外な要求を突きつけてくる事がしばしばな為、大東側は原住民と独自に話しを付けてオランダに隠れて買い付けることが多かった。この場合、原住民に武器を渡す事もあり、オランダ東インド会社との衝突が絶えることがなかった。
 時には海上戦闘に発展する事もあり、その場合多くはどちらかの側が仕掛けた海賊行為だった。これで東南アジアの海も、カリブ海と同様になったと言われた。何しろ大東の私掠船や軍艦は、ヨーロッパのガレオンとほぼ同じ能力を持ち、大砲や鉄砲で重武装を施しているからだ。しかも戦闘要員として乗っているのは、江戸幕府(日本)に居ることの出来ない浪人武士が多く、彼らは海の鉄人部隊としてオランダ人からも恐れられた。

 その後も大東とオランダ東インド会社による東南アジアでの対立は続くが、1648年にヨーロッパで「ドイツ三十年戦争」が終わり、スペインが事実上敗北してオランダが正式な独立を勝ち取ると変化が起きる。
 オランダとすぐにも対立を始めたブリテンが、インド洋にも商船を送り込んでいた大東に接触を求めたのだ。
 これに大東側も応えた。当時オランダは海の上では最強の存在であり、ブリテンはまだ小さな力しかなかったから、オランダの方を危険と判断したのだ。
 とはいえ、大東は日本との関係を重視する形で国が正式に動くことが無かったため、活動は主に商人レベルに止まった。また当時のブリテン(イングランド)の国力と軍事力ではインド洋に来ることも苦労が多いため、オランダのアジアでの優位は最後まで崩れることはなかった。しかし東南アジアでは大東が頻繁に海賊行為や拠点の襲撃を行ったため、オランダ東インド会社の消耗も非常に大きく、戦争にも影響を与えるほどだった。
 そうして17世紀も残り四半世紀になると、オランダはイングランド(+フランス)との戦争に敗北して大人しくなり、今度はイングランドがインド進出を強化し、同様の行動に出たフランスとの競争を始めた。
 大東としては取りあえず東南アジアの香料その他の貿易品が必要量だけ手に入れば文句はないので、スンダ地域(インドネシア地域)のオランダ勢力を出来る限り追い出しつつ、インド洋には限定的な貿易以上で手を出すことは無かった。大東にとってインド洋は、特に魅力のある市場ではなかったからだ。
 しかし大東の動きをヨーロッパの側から眺めれば、東アジア世界で唯一ヨーロッパ文明に匹敵する軍事力を持つくせにあまり積極的に動かない相手、と言うことになる。

 一方で大東人達は、日本が鎖国で切り捨てた東南アジア各地の日本人町を1630年頃から積極的に吸収するようになる。
 日本人町の中には人口1万人を越える街もあり、住民は基本的にあぶれ者であるため、ここから大東商人は傭兵や船員を調達することができた。また、大東国そのものも鎖国までに国外脱出した日本人の受け皿ともなり、大東の一部には日本人によるキリスト教徒が住むようになっている。
 そしてこの時の日本列島からの人の流れが、その後の日本から大東への一方的な移民へとつながっている。
 また東南アジアへの人の流れと定住は、日本列島からの流れが途絶えるも大東からの流れが続いた為、その後「日僑」と呼ばれるマイナーな移民勢力として生き残っていく事になる。大東による東南アジアでの勢力拡大、商業進出にも大いに役立った。
 大東からの人の流れが大きくならなかったのは、当時の大東島内にはまだまだ開発できる土地が有り余っていたのが主な理由だった。他にも理由はあるが、日本人にとっての大航海時代で鎖国しなかった大東が海外進出にあまり熱心で無かったのは、やはり大東島の開発がまだ不十分だった事が強く影響していた。

 ●ノーザン・フロント

 南方でオランダと衝突している頃、北の大地でも反対方向からやって来た人々との接触が起きていた。
 大東人とロシア人(コサック)とのファースト・コンタクトは、1632年に起きた。大東人が築いた冷那川中流域の夜久人(ヤクト)砦に、毛皮を求めて冒険的な旅を続けていたコサックの一団がたどり着いたのだ。
 ロシア人達は、北極海方面から冷那川を遡って現地にたどり着いたもので、規模は数十名に過ぎなかった。装備も鉄砲がせいぜいだった。
 この時の接触は、歴史的にも幸いと言うべきか友好的接触となった。互いに相手の言葉はさっぱり分からないが、相手の装備から文明人だと分かったので互いに軽はずみな行動に出ず、互いの毛皮、酒や食料を交換して出会いを祝ったとされる。また、今後別の集団同士が出会うことを考慮して、身振り手振りながら接触の際の友好的方法についての取り決めも行われた。
 そしてこの接触で、互いにこの先の事を知ることが出来た。そしてそれぞれにとって最も重要だったのは、これより東又は西に進んでも、有望な獲物(毛皮資源)に出会うことが難しいという事だった。
 当時北の大地で得られる高級毛皮は、ロシア人にとって有効な外貨獲得手段だった。大東人も半分は自分たちで消費するが、もう半分はスペイン人との有力な貿易品目だった。だからこそ、お互いに地の果てにまで足を伸ばしてきたのだ。
 そしてその後も、冷那川、エニセイ川、バイカル湖近辺で、たびたび大東人とロシアン・コサックは出会うようになった。
 しかしその後、ロシア側の毛皮を求める行動は過激に、そして武力を用いるものになった。早くも1643年には、大東人の目を盗んで北極海を東に進んで、北極海の出入り口である縁具海峡を通って、大東洋への航海すら行った。
 これを警戒した大東人達は、自分たちの持つ大陸での金鉱の存在を知られてはまずいので国家も乗りだし、本格的な警備隊の派遣、互いの境界線策定の為の調査を実施した。そして逆に、ロシア勢力圏への偵察や探検も実施され、こちらでも戦闘に発展する事があった。この偵察行では、ウラル山脈を越えた者もいた。
 また同時期、中華大陸の北部地域で女真族が台頭して満州族と名を改め、新たな中華帝国となる清帝国を作りつつあった。1636年の時点で新王朝を開くいた年に朝鮮王国を完全に属国化し、満州と名が付く土地全てについての領有権を主張していた。これは外興安嶺山脈までの黒竜江北岸も含まれるため、大東は外満州と名付けられた地域の金鉱を巡り、清帝国と紛争を抱えるようになった。

 こうして17世紀中頃の大東国は、主に商業レベルでの海外進出を強めただけで、東南アジアのオランダと合わせて3つの国と紛争を抱えていたことになる。そして外国との衝突は、可能な限り避けたいというのが大東の思惑だった。
 だが、17世紀中頃の北東アジア地域は、半ば匹子守を決め込んだ西日本人(江戸幕府)を除いて大きく揺れ動いていた。中華王朝の革命が進展しつつあったからだ。

 大東がユーラシア大陸北東部に入り込んだ頃、ちょうど女真族がヌルハチによって統合され名を満州族に改める頃だった。この頃の殆どの大東人は、中華世界の事にあまり関心を抱いていなかった。明帝国で内乱が頻発して、北部の草原で騎馬民族が活発化している程度は認識していたが、言ってしまえば「知っている」だけだった。大東人にとっての中華帝国とは、基本的に貿易相手でしかないからだ。このため、中華世界に対する大東国政府の動きは鈍かった。
 しかしまだ明帝国が存在している以上、清帝国は名乗っただけで新しい中華王朝ではなかった。このため金華と呼ばれていた頃の満州族と大東国の間では、外興安嶺山脈の金鉱を巡った小規模な戦闘が行われたし、貿易路にして交通路となっていた黒竜江でも戦闘が発生した。
 これを知っていた明朝が、李自成の乱とそれに続く清朝軍の進撃で北京から完全に負われることで変化が訪れる。
 この時大東国は、北京から落ち延びた明朝の軍人(海軍提督の周鶴之)から、援軍要請を受けていた。そして大東国と明朝の間に長年の貿易関係があった事を理由として、自分たちの権利を確保するべく「大陸出兵」が決定される。

 ●大陸出兵

 大東国の「大陸出兵」目的は表向きは明朝の救援だが、実際は新たな中華帝国となる清朝に大東国の国力と軍事力を見せて、既に自分たちが得た権益を認めさせることにあった。
 そして大東が選んだ自分たちの軍事力こそが、大陸国家が持ち得ない先進的な海軍だった。既に日本が鎖国(海禁)した現在、大東国こそが東アジア最大最強の海軍国だった。数や規模だけならまだ明朝の方が大きかったが、質が全く違っていた。
 ヨーロッパのガレオン船と同じ「直船」を保有して、アジア、大東洋広く活動出来るのは、日本人が外洋船の建造を事実上止めてしまったので大東だけとなっていた。
 この場合大東側の問題は、恐らく主戦場となる揚子江河口部の近くに自分たちの拠点が存在しない事だった。事が戦争なので鎖国をしている日本が寄港地を貸してくれるワケがないし、むしろ近寄るなと警告攻撃してきかねなかった。小琉球(台湾)には、ゼーランディアという拠点を持つオランダがいるが、こちらは現地の勢力は知れているが敵対的だった。ヘタな事をしてジャワ島のヴァタビアなどからVOCの艦隊でも来たら面倒だった。
 仕方ないので、明確にどちらの勢力にも属していない八重山諸島の入り江に拠点を設け、大型の甲型直船(※一等または二等クラスの大型ガレオン戦列艦・当時最強クラスの戦闘艦)の1個戦隊5隻を中心にした十数隻の艦隊と輸送船(補給用)を派遣する事になる。日本人(江戸幕府)もこれを知ったが、あえて無視した。一方黒竜江に対しては、河に入り込める中型直船を中心にした艦隊を夏の間に送り込み、清朝軍を牽制する事とされた。こちらは冬の間はほとんど凍結してしまう北氷海での作戦のため、春から秋にかけての短期間の作戦が予定された。
 この「援明艦隊」は、大東国の歴史上で国家として出した初めての正式な遠征艦隊であり、そして遠征軍だった。言い方を少し代えれば、文明国に対する初めての侵略戦争だった。
 だが陸兵を上陸させての長期戦闘は想定しておらず、あくまで海軍としての戦いが行われた。兵士が上陸することがあっても、基本的には相手が弱い場合、破壊できそうな拠点などの場合に限られていた。とはいえ甲型直船(大型戦列艦)は分厚い樫の木で作られているのに、乗組員と戦闘要員の合計は1000名にも達した。「援明艦隊」全体の兵員数も1万人を越えており、陸兵としても最大3000名が投入可能だった。
 しかしそれよりも、大航海時代にヨーロッパが世界を席巻したのとほぼ同じ能力を持つ大東謹製の甲型直船の戦闘力は高かった。というよりも、中華世界に対しては圧倒的だった。中華側の戦闘艦艇も、火縄銃や小型で青銅製の大砲程度は装備しているものもあった。しかし帆走能力、外洋航行能力は低く、基本的には後期和冦に対向できる程度の沿岸用艦艇でしかなかった。そして何より、艦1隻当たりの砲撃能力が段違いだった。
 またこの時の戦闘では、一時期のヨーロッパの軍艦と同様に大きなロケット花火のような構造のロケット砲も用意され、敵艦船や沿岸部の可燃物を燃やすことに多用された。このため大東の軍艦は、敵から「海龍」や「火龍」として恐れられた。
 そして大東の艦隊は、圧倒的火力を用いて揚子江沿岸、華北沿岸を荒らして回り、清朝軍と清朝側の船舶、港湾、沿岸部の都市などを攻撃して回った。この結果、清朝の海上戦力(ほとんどは寝返ったもと明朝軍)は大打撃を受け、壊滅こそ免れるも見つかりやすい集団で動く事が出来なくなった。港湾や一般船舶も、大東側が目に付いた側から攻撃したため、沿岸部と揚子江河口部の海運は壊滅的打撃を受けることになる。当然と言うべきか、揚子江の河口部から渡河する事は不可能となり、一定の時間だが清朝軍の進撃を止めることに成功する。

 この戦闘の結果、大東国は中華王朝となった清朝側から厳重な海禁対象とされ、大東船の寄港を完全に禁じられることになる。そして明朝救援も実現不可能と分かると、大東側も今後の事を予期した行動に移る。
 行ったことは、要するに大規模な海賊行為だった。
 それまでも「援明艦隊」は、相手国の通商破壊戦の一環として私掠船活動は実施していた。しかし今度は、戦闘や破壊を前提とせずに、掠奪を重点的に行った。そして何より今度は、陸地にも積極的に派遣して、様々なものを奪っていった。そして揚子江沿岸は、手工業の一大産業地帯だった。
 銀(貨幣)や陶磁器、絹織物などの完成した各種工芸品の掠奪は当然で、それよりも重視されたのが当時中華地域最重要の産業地帯だった揚子江沿岸での誘拐だった。対象とされたのは美女や屈強な奴隷ではなく、主に手工業の技術者だった。
 「援明艦隊」は艦隊挙げて大東国の私掠船となり、海賊艦隊として一年以上暴れ周って中華地域中心部に大きな惨禍を残すことになった。
 結果として大東には、陶磁器、絹織物、綿織物の職人、絹、茶の栽培主が多数さらわれ、大東で丁重に迎えられて手工業を発展させる大きな力となった。
 このうち陶磁器技術は、貿易を通じて日本人全体の間(含む江戸幕府)にも広まり、その後日本、大東の双方から、ヨーロッパにも輸出された。

 一方では、黒竜江やその流域を巡る戦闘は、清朝が有利に運んだ。揚子江沿岸部での大東の行いを知った清朝は怒り狂い、出せる限りの兵力を北に出して大東軍を攻撃した。しかし冬に海や河川が凍る以外の季節の制海権、制川権は大東側が握るため、清朝も完全に勝つことは出来なかった。また火力では大東が常に上回るため、清朝の誇る精鋭八旗兵でも攻めきれなかった。
 戦線が膠着すると、清朝側も辺境の大東よりもまずは中華地域の完全征服に力を入れた為、有耶無耶のまま大東と清朝の戦闘は自然休止することになる。

 一方、北部でのロシア人の進入と散発的な戦闘の方は年を経るごとに多くなり、両者の主張から境界線は領域にあまりの広さもあって確定しなかった。ロシア側の行動に業を煮やして、大東の側からエニセイ川やバイカル湖まで奇襲的に攻め込むこともあった。中には、モンゴル軍のような馬による進軍でウラル山脈を越えた部隊もあり、その部隊はトルコ帝国にまで至ってトルコ皇帝に謁見までしている。
 1689年にロシア帝国と清帝国が「ネルチンスク条約」でお互いの境界線を決めて以後も、ロシアと大東の間には結局正式な境界線は成立しなかった。
 しかしロシア側も、利益を下回る不毛な争いは避けたい為、冷那川とエニセイ川+バイカル湖の中間地域となる西サハ高原(ロシア名:東シベリア高原)を自然境界とする形が徐々にできていく事になる。

 ●大洋州と大東

 17世紀中頃、大東がオランダと対立を続けている頃、一つの海外進出の機会が訪れていた。
 西暦1642年、オランダのタスマンは新大陸を発見した。
 ラテン名「テラ・アウストラリス・インコグニタ」、オランダ名「ニュー・オランダ」、今の豊水大陸とその近在の島(※オランダ名「ファン・デ・イーメンスランド」=タスマニア島)の事だ。さらにこの時、ニュー・ゼーランド(=ニュージーランド)も発見されていた。
 しかし本当の最初の発見は、1522年にポルトガル人探検隊によって行われたという説がある。大東人の交易商人も、同時期に見付けていた可能性もあった。だが、金も香辛料もとれない荒地であるため、いずれも放置され、そして忘れられていた。

 大東国が最初に南の新大陸の情報を知ったのは、スペイン商人との取引上だったと言われている。
 両者にとっての宿敵ネーデルランド人が、南の果てに幻の新大陸を発見したという話が発端だった。ネーデルランド人の足を引っ張ろうとしたスペイン政府の謀略だったという説もあるが、大東にとっては文明人のいない新大陸が、すぐに出かけることの出来る場所に有るという事に意味があった。
 また一方で、新大陸の場所が自分たちが航路としている西大東洋の茶茂呂航路の南方にあることから、大東人は相応の脅威を覚えた。このため、立ち寄った場所がどのようなものか、オランダが拠点を設けていないかを調べることにした。
 大東国は、4隻の乙型直船(中型直船ながら航海能力に優れた船が選ばれた)で大洋探索衆(探検隊)を作り、約1500名が探検に従事した。
 赤道を越えた調査艦隊は、既に大東商人も進出していたティモール諸島に進み、ポルトガルの植民地で補給を終えた後に、噂の新大陸へと接近した。
 そしてパプア島とは明らかに違う大地の連なりに出る。そこは亜熱帯系の比較的乾いた大地で、パプア島の濃密な熱帯雨林とは大きく違っていた。このため、パプア島よりもオランダ人がいる可能性が高いと判断し、沿岸に接近して海岸線をなめるような航海が続いた。上陸に適した場所では、自分たちも上陸して調査を実施した。そして彼らは、約半年かけて新大陸をほぼ一周して調査航海を終えたが、分かったことは新大陸の多くの場所が入植地を作るのに向いていないという事だった。
 北部は亜熱帯ジャングルかサバンナ、南部と西部は砂漠か不毛な草原ばかりだった。人が住めそうなのは東海岸の真ん中辺りから南東海岸にかけてだが、念のため上陸して調べたところ沿岸部に住む文明程度の低い原住民に出会っただけだった。
 オランダ人の拠点は、痕跡すら見付ける事はできなかった。原住民と珍しい動物や植物には多数出会ったが、どれも土産話のネタ程度のものばかりだった。
 しかし予算をかけた探検で何の成果も無しでは話しにならないので、真水や生鮮食品(狩りの獲物)が手に入りそうな場所のいくつかに大東の標識を立て回った。その過程でタスマンが見付けた南東部にある中規模の島も発見され、茶茂呂島と名付けられた。新大陸の方は、オランダ人の名付けた名前では何かと問題があったので、独自性を求めた末に「豊水大陸」と名付けられた。
 この名は、最初の発見があった時に大陸南西部が雨期だった為だと言われている。実際は世界で最も乾いた大陸だったのだが、最初に発見した時には大陸の全貌など分かるはずも無かった。そして発見以後「豊水」の名が用いられ続けた為、そのまま正式名称になったという経緯になる。
 なお、大東国による命名だが、それほど深く考えられた行動ではなく、領有宣言をしたところで拠点を作ったり人員が滞在したわけでもなかった。
 しかしこの時は、大陸沿岸の航行を続けたため、オランダ人が見付けたというニュー・ゼーランドという場所を発見する事は出来なかった。このため、新大陸のどこかがニュー・ゼーランドなのだろうと推測された。これはタスマンが、ニュー・ゼーランドも大陸の一部と勘違いしていた事も原因していた。

 この時の大東の調査と探検、そして航海はこれで終わり、四半世紀ほど新大陸のことを忘れてしまう。
 大東国の官僚武士たちが思い出したのは1670年代末頃で、目的はオランダとの戦争ではなかった。思い出した切っ掛けは、インドネシア地域東部に出かける商船、武装商船が時折新大陸に立ち寄って真水の補給や修理のための木材、生鮮食料としての肉を獲得した記録であった。
 そして商船が立ち寄る地域は豊水大陸の北西部沿岸に集中しており、そこは大半が不毛の大地だと記されていた。これが東京御所の役人の目に止まったのだ。
 官僚達の目的は、新たな流刑地を獲得する事だった。
 17世紀に入ってからの流刑地といえば、基本的に北氷海の北に広がる極寒の大地だった。だがそこはロシア、清朝との係争地にもなっており、流刑地には不向きとなっていた。国としての開発も徐々に本格化していたので尚更だった。このため、別の場所に重罪人の流刑地が欲しかったのだ。
 この時の候補としては、別に荒州とも呼ばれるようになっていた荒須加もあったが、この時東京御所は特に重罪の流刑地に荒須加を、それよりも若干軽い流刑地に新大陸を充てようと考えた。新大陸がやや軽い流刑地として考えられたのは、遠い将来の入植地として新大陸が使えるかも知れないと言う思惑があったとも言われているが、記録にも残されていないので真相は歴史の闇の中だ。しかし大東政府が本腰を入れて動いたことは間違いなく、まずは測量、地図作製の為の探査艦隊が派遣された。
 この頃は、既にオランダはイングランドとの戦争に敗北寸前のため、大東の動きを邪魔するものもなく調査は順調に進んだ。この結果、約一年で豊水大陸のおおまかな地図、位置などが明らかとなった。同時に大陸周辺の地図作製も実施され、大東国は大洋州での圧倒的優位を得る事になる。この時の調査で新たに発見された島や諸島も多かった。
 そして1680年、南東部の一角に4隻からなる大東国の船団が到着。囚人と看守、合わせて1200名が上陸して、持ってきた資材を用いて開拓と自分たちの住む場所を作った。
 この時、特に囲いを作った刑務所や収容所のようなものはなかった。文明世界から隔絶した大陸そのものが、巨大な壁や掘そのものだからだ。そして囚人達は、現地での開拓による減刑と恩赦が約束されていた。がんばりによっては、祖国への帰国や豊水で土地を正式に取得する事も認められていた。

 一方、政府の話しを聞きつけた交易商人の一部も、いちおう政府の許可を得て豊水大陸に足を運ぶようになった。彼らは流刑地となった土地よりもさらに南、つまり気候の温暖な場所を選んで、そこを「征南」と名付けた。
 この商人達は、回船問屋つまり海運会社だった。しかも当時大東の交易が全体として縮小傾向にあったため、新しい「荷物」や「商品」を得ようとしての行動だった。つまり移民や流刑人の運搬は、「荷物」として以上に興味はなかった。
 しかし「商品」が集まらなければ意味がないので、かなり力を入れて大東国内での宣伝が行われた。特に、人口が急速に増えている旧大東州中原での宣伝に力が入れられ、新天地の噂が既に広がっていた事もあって、意外に容易く開拓移民の希望者は集まった。
 そして回船問屋は、集まった開拓希望者の有金をねこそぎ巻き上げて船に押し込み、目的地で降ろしたらあとは知らない、という無責任な行為を日常的に行った。
 一応は降水量や見た目などそれなりの場所に降ろされたが、豊水大陸そのものは大東島よりも厳しい自然環境だった。一見、木々が生い茂る肥沃な温帯平原に見えても、その大地の肥沃土は地球上の他の地域(大陸)とは比べものにならないほど貧弱だった。降水量も全般的に少なく、南東部はともかく大陸の過半は乾いていた。また数十年周期で気候が変化する場所が多く、継続した開拓と農業を妨げた。
 それでも開拓希望者の降りたった場所は、一見豊かな大地に見えた。原始的な先住民の姿はあったが、密度は少なく、とても遅れた生活をしていた。

 こうして豊水大陸での流刑と共に小規模な入植事業が開始されたのだが、十年ほどが経過して漏れ伝わってきた現地の話しは、かなり悲惨だった。一見木々が生い茂って豊かに見えた土地が数年から十数年で貧しくなり、一カ所に止まって農業を行うのが難しいというのだ。しかも降水量が少なく物理的に大規模な灌漑が難しいので、小麦栽培や陸稲栽培はともかく水稲栽培が出来る場所は殆どなかった。こうした現実が伝わると、苦しい移民をするぐらいなら本国に止まって慎ましい生活を維持する方がマシとする考えが広まった。何しろ17世紀末頃の大東島の大地は、まだ十分に開発する土地が残っていた。
 このため以後1世紀にわたって、豊水の征南入植地には年間数百人(平均400名)の開拓者しか渡らなかった。豊水に渡った者のかなりの部分は、本国に居づらくなった犯罪者やその家族で、いわば”自費で行く流刑植民地”のようなものであった。この点豊水南東部の本当の流刑地との違いはあまりなかったと言えるだろう。違いは、自ら行くか、行かされるか、だけだ。
 そして自ら行っても、約3分の1は短期間の間に何らかの理由で死ぬ上に、男女比率の問題もあって出生率は低く、百年後の18世紀末でも豊水の大東人人口は囚人と看守を含めても10万人程度しかなかった。
 そこはまさに地の果て、流刑地に相応しい場所だった。
 そして当然と言うべきか、大東政府は流刑地や「棄民」の場所としての豊水に長らく真面目に興味を向けることはなかった。