■■Daito モラトリアム


■大東と日本の貿易

 大東の隣の日本は、江戸幕府による強力な行政指導によって、1638年以後「鎖国」が実施されていた。
 16世紀の戦国時代は、武器売買を始めとしてお互い活発な貿易が主に商人レベルで実施された。この間日本、大東双方で貿易促進による競争原理と技術交換で、大きな前進が見られたりもした。直船(ガレオン船)、鉄砲、大砲の革新的とも言える発展は、ヨーロッパからの技術模倣だけでは不可能だっただろう。また船舶の発展は、両者の交流をいっそう活発にさせた。
 しかし豊臣政権による「大東征伐」で、貿易も一端途絶えてしまう。その後、西暦1606年に徳川幕府から大東政府への親書によって交流が再開。1610年頃からは、両政府がそれぞれ朱印状を出す事で一定規模の貿易が行われるようになった。
 貿易量は年々拡大し、人の交流や西日本列島から大東島への移民すら再開されるようになった。しかし日本自体は、大東以外との貿易や交流を減らし、ついには鎖国にまで至る。
 そして日本が大東船の貿易に制限を設けなかったのは、基本的に大東が輸入する側で決済に黄金を使うからだった。

 鎖国以後、西日本列島の江戸幕府は、西に帆からの出国を基本的に禁止した。その上で西日本列島に来る船を制限することで、自らの鎖国体制を作り上げた。場所は長崎と浦賀に限られるようになったが、浦賀を使えるのは大東一国だけだった。このため海外に開かれた門戸といえば、長崎に作られた出島と呼ばれる小さな埋め立て地だけだった。
 鎖国した日本が交流を持つ国は、大東国以外に清帝国、朝鮮王国、属国状態の琉球王朝、そしてヨーロッパで唯一オランダ(ネーデルランド連邦)となる。
 このうち、まともに貿易を実施しているのは、清帝国とオランダだけで、朝鮮王国は日本で将軍が変わる時に使節が来て、その時に贈り物の交換という形で貿易するという形式が取られているに過ぎなかった。琉球王朝は実質的に日本の属国で、しかも地方政府の薩摩藩(島津氏)の支配力が強かった。
 清帝国とオランダとの貿易も、江戸幕府が日本国内の金銀流出を警戒したため、時代を経るごとに規模は縮小した。鎖国して海外進出を完全に止めた日本(江戸幕府)には、海外で新たな金銀鉱山を探すという選択肢が無かったからだ。

 大東国との間には、大東島への一方的な移民という貿易以外の道もあったため、当時の日本人にとっての「外国」とは、基本的には大東国だった。とはいえ大東国は、同じ日本語を話す日本人が住むので、当時の日本人の価値観である旧国名で使われる時の「国」と感覚は近かった。
 そして日本列島内での人口飽和が見られるようになった18世紀前半ぐらいから、日本列島から大東島へと流れる移民の数は年々増加した。農家で次ぐべき土地のない長男以外、嫁ぐべき相手のいない長女以外が移民した。だが、大東への輸送を行うのは、外海に出る能力を持つ船を有する大東の回船問屋だったし、大東政府も質の低い移民に来て欲しくないので、浦賀の移民奉行での資格審査に合格したものだけが大東島へと旅だった。
 大東と日本の貿易では、日本から大東へ18世紀に入るぐらいまでは清から買い付けた絹の一部が、大東から日本へと転売されていた。これで日本はかなりの中間料金を取ることで、当時既に産出量が減っていた国内の金を大東から補っていた。またその後は、大東よりも先に日本の絹の品質が向上したため、18世紀中頃まで絹は大東への重要な輸出品となった。
 その後大東でも絹の品質は向上したが、大東は一定量の絹を日本から買い続けた。日本列島で生産される一部の絹の方が品質が良かったからだ。
 他には、品質の高い鉄、銅、各種手工業品が日本から大東に輸出され、これを大東商人が運んだ。また大東では、日本の清酒、醤油などの加工食品の大きな需要もあるなど、食文化の共通性を見せる面もあった。
 かなりの頻度で浦賀の港に入港する「大東船」とも呼ばれた一万石(1800トン)クラスの大型直船(ガレオン船)は、浦賀名物ですらあった。日本が保有しないほど巨大な船のために、大規模な護岸が作られたほどだった。

 一方当時の大東国は、既に世界の多くと接触を持っていた。
 日本(江戸幕府)以外の北東アジア各国のように鎖国はせず、海外進出もヨーロッパ諸国に準じるぐらい活発に行っていた。しかし海外進出することによる問題も多く、外交は大東の大きな問題であり続け、清帝国、オランダ、ロシアとの関係が悪かった。
 清帝国とは、全ての期間において国交断絶状態だった。北の僻地では、時折小規模な武力衝突もあった。当時の中華世界で、東夷(東の蛮族)といえば大東の事とされていたほどだ。
 オランダ(ネーデルランド=大東名「ネイ国))との関係は18世紀に入り修復するも、主にスンダ(インドネシア)地域での勢力圏争いのため、外交としての国交はあったが友好的な関係や貿易にはほど遠かった。東南アジアでは、18世紀に入っても双方の私掠船(公認海賊船)が一般的に見られたほどだ。ロシアとは、ユーラシア大陸の僻地で時折小競り合いをするが、同時に小規模な貿易は継続的に行われており、総合的に判断して相応の関係が築かれていた。大東にとってのロシアは、スペインに次いで友好的なヨーロッパの国とすら言えた。双方ともに、互いの領土へ移民していた者がいたほどだった。
 大東にとって最も友好的なヨーロッパ諸国は、間違いなくスペイン(エスパニア=エス国)だった。先にも上げたように、スペインの大型ガレオン船はフィリピンとノヴァ・エスパニア(北アメリカ大陸)南部のアカプルコを結ぶ「アカプルコ航路」の中継点として大東南部を利用して、大東船もやや北寄りの「アカプルコ第三航路」を使うことで大東洋を横断し、新大陸で貿易を行うため、双方の関係は良好だった。両者にとって利益がある関係で、あえて争う理由もなかったからだ。
 このため18世紀に入るまでは、スペインからヨーロッパの文物が大東に数多く伝えられた。18世紀に入りスペインが退勢するとスペイン側の交流が減ったが、逆に大東が新大陸や東南アジアを行き来する事が増えた為、両者の交流と貿易が完全になくなる事はなかった。大東が最初に商館を置いたのもマニラとアカプルコで、最終的にはスペイン本土のマドリードにまで商館を設置しているほどだった。
 なお、大東とスペインの最も高額な取引品目は、大東の黄金とスペイン(メヒコ)の銀だった。両者共に不足する貴金属を交換することが、大東洋航路の真の目的だった。だからこそ、両者の交流は長期間友好的に行われたと言えるだろう。

 そして日本と大東の貿易関係だが、大東は国内に流通する通貨の為に日本が持つ銀、銅を欲していた。どれだけ周辺地域を探し歩いても、金以外が見つからなかったからだ。一方の日本でも、金銀の採掘量は年々落ちていた。金については大東は自分たちの鉱山を持っていたので、17世紀半ば以後は貿易でむしろ日本に輸出してる形になっていた。そして大東から日本への主な輸出品となったのが、大東が世界中から手に入れた珍しい物産と並んで良質な鉄だった。大東島は火山がないため、採取される砂鉄の硫黄含有量が低く、日本の多くの地域よりも良質な鉄を精製できたのが原因していた。島内に火山がないため砂鉄の量は十分とは言えなかったが、不足する程でもなかった。
 そして日本から大東へと渡ってくる主な物産だが、様々な加工製品が主軸で中でも絹が長年最大の取引品目だったが、質量で最大のものが実は移民だった。
 大東の回船問屋にしてみれば、17世紀半ば以後に日本列島で乗せる最も有力な「荷物」が移民となっていた。大東島に移民と絹を送り込んで、大東が世界中から手に入れた物産(+決済用の黄金)を買い付けて日本に戻るのが、日本=大東航路の商人だった。
 絹と人(移民)以外だと、当時日本で豊富だった銅がかなり輸入されている。銀の方は、日本を頼らなくてもスペインとの金との交換貿易で必要量の輸入が可能だったので問題なかったが、銅だけが不足したため日本からの継続的な輸入が行われた。また加工食料品を中心に日本での買い付けが多く、移民を除けば日本の貿易赤字が常だった。
 そして日本から大東への移民は、渡ってくる人々が持っていた生活や文化だけでなく、技術も大東にもたらしていた。このため大東島では、大東と日本の技術が混ざり合ったり、より優れた技術や製品が生み出されるなど良性の変化がもたらされる事となる。大東が日本に対して技術的な優位を持つようになったのも、常に国を開いて時には戦争をしていただけでなく、こうした目に見えない変化が働いていた。


■日本の国内情勢

 江戸時代に入り限定化した鎖国政策を本格化させてからの日本は、江戸幕府の努力の甲斐もあって国内は完全な安定期に入った。18世紀序盤までは、人口に対して国土もまだ余裕があったので、人口の拡大と共に経済発展も続いた。国内で不足する金やその他の物産も、足りない分は大東商人が持ち込んでいた。
 なお、戦国時代が終わると急速な人口拡大が見られ、18世紀に入る頃から人口飽和が見られるようになった。だがそれも、17世紀中頃から本格化していた大東への事実上の移民によって、人口圧力は大きく緩和されていた。
 農村部で不要となった二人目以上の無事に育った若者達は、不必要に江戸や石山などの大都市に流れてそこで朽ちることもなく、一縷の希望を託して大東へと旅立っていった。江戸幕府がこの移民事業を推進し、移民船ばかりか支度金やある程度の道具などすら持たせて、大東に渡らせたりする事が日常化していくようになる。大東政府も、国内にまだ十分に開発余地があったし、諸外国との競争のための国力拡大を求めていた為、日本からの移民を積極的に受け入れた。大東政府も江戸幕府も、移民による危険はある程度考慮したが、日本から大東への一方通行のみとした事で、様々な危険を回避するようにした。
 そして大東へと移住した日本人達は、当人達の思惑とは全く関係なく、日本と大東という日本人社会の共通化、平準化に極めて大きな影響を果たしていく事になる。
 さらに一部の者は、大東が領有する海外領へと旅立っていった。
 また、日本国内での技術開発と改善に並んで、オランダと大東から一定程度の技術や知識が輸入されていたので、日本(江戸幕府)が世界の最先端から取り残されると言うことはなかった。特に同じ言語を用いる大東からの様々な書物は、一般向けとして重宝された。大東を経由した最も大きな学術上での変化は、アラビア数字(プラス計算符号)の導入だと言われている。
 海外の情報についても、オランダからだけでなく大東からも一定割合で世間一般にも流れ込む形が続いた。このため、日本人一般が自分たちの世界以外の世界の事に対して、全くの無知という事も無かった。大東から伝わる海外情報は、「浦賀語り」と呼ばれ江戸庶民の娯楽ですらあった。
 江戸幕府の中にも、主に大東を経由して海外情報を収集、研究する部署が置かれていた。また、交流の中には、移民した者と残った者の間の交流手段として、実質的には近代的といえる郵便制度が日本、大東の間で作られたりもした。移民した子供達に手紙を書くために、庶民の間で識字率の向上が見られるという影響もあった。この書面による交流は日本の鎖国に触れると考えられたが、検閲を行うことで江戸幕府も認めていた。これは江戸幕府が、増えすぎた人口を手紙によって移民に導こうとしたためだ。

 他方では、八代将軍徳川吉宗の頃(18世紀前半)に、大東から導入した馬鈴薯栽培が有守州北部の開発に大きな役割を果たすなど、外から持ち込まれた文物による変化も見られた。この結果、有守島のさらに北にある樺太島の探検や開拓が進むことにもなる。また徳川吉宗は、大東から武器の新技術輸入を図り、軍船(直船)、大砲、鉄砲の導入を行ったりしている。逆に日本からは、年々各種手工業品の大東への輸出規模が拡大した。このため西日本列島での手工業の拡大と発展が促進された。家内制手工業から工場制手工業の発展の早さは、大東への大量輸出がなければかなり違っていた可能性が高い。
 日本の貿易面で少し変化が見られたのは、18世紀後半の俗に言う「田沼時代」だった。
 田沼時代は、日本の江戸時代におけるちょっとした重商主義時代であり、大東との交易もさらに拡大した。
 この頃日本では、有守州北部とその北にある樺太島の開発も行われ、有守州の近海や北氷洋で捕れる豊富な海産物(俵物=乾物)が清帝国に輸出されて大きな富を生み出した。また大東との取引でも、絹や工芸品、加工食品(酒、味噌、醤油など)の輸出が伸びて、大東が勢力圏内から集めている豊富な金(金貨=黄金)が流入して経済活性化の要因となった。
 一方では、この頃から大東が江戸幕府(日本)からの移民の受け入れを徐々に制限するようになり、もう少し時代が進むと拒むようになっていた。大東国内でも、18世紀後半ぐらいからついに人口飽和が始まっていたからだ。
 またこの頃、有守州北部の千島列島を巡って、両者の間でほぼ初めてと言える国境問題も発生した。そして外交関係のこじれが、なおさら日本から大東への移民を減少させる事になる。この結果江戸幕府では、本来ならば産児制限や結婚年齢の上昇などに社会全体を特化せざるを得なかった。移民のための船を出すのが大東商人である以上、日本側にはどうにも出来なかったからだ。
 しかしこの頃、大東の側から別の提案もなされるようになった。大東島への移住は無理だが、他の新天地なら追加料金を足せば送り届けることができる、というものだった。
 そしてその新天地とは、大東国が領有する豊水大陸や北アメリカ大陸西部沿岸だった。

■大東の国内情勢

 大東が貿易によって自国の通貨について気を遣ったのは、地域、地方によって大きく異なる農業品目での納税の均衡が難しい大東島では、西日本列島以上に貨幣経済を必要としたからだった。大東では、日本で実施された米の単一品目による租税徴収と武士(=官僚・軍人)への給与制度は、したくても出来なかった。しかも、17世紀以後爆発的に増大する国内の人口と経済が、大量の貨幣を必要とした。

 新大東州北部にある金城近辺の大金鉱は、16世紀初めの発見から100年以上にわたって大規模に採掘され続け、予測総量約1400トンもの黄金を大東もたらした。当時の世界標準の金貨に換算して4億枚分にもなる。
 当時の世界標準、つまりヨーロッパ標準の金貨は北イタリア・フィレンツェで生まれた「フローリン金貨」で、同じだけの価値を持つ銀貨がドイツ南部で作られた「ターレル銀貨」だ。大航海時代の貨幣比較は、主にターレル銀貨(※スペイン名「ドレル銀貨」)によって行うことができる。なぜならヨーロッパの殆どの地域で、ターレル銀貨と同じ価値を持つとされる銀貨が鋳造されたからだ。そして大東もスペインとの交易があったため、効率を重視して同程度の貨幣を鋳造した。
 大東の場合は多くが金貨だが、当時の視点からだと膨大という言葉すら不足する金貨を輸出して、同じ価値の銀貨と銅貨を手に入れて、16世紀中には自国内の通貨制度を整えることに成功している。貿易や戦乱での流出、貴金属になった分を差し引いて、採掘されたうちの7割の価値を持つ貨幣が、17世紀初頭の大東では流通していたと考えられている。大東国内でも、スペインが鋳造するドレル銀貨は一般的に流通していた。また海外では大東政府が鋳造した金貨は(金虎貨)、純度の高さから非常に高い信用を持っていた。
 その後国内の金鉱がほぼ枯渇すると、ユーラシア大陸北東部の北氷海奥にある麻臥旦近辺に大規模な金鉱が発見されたため、ここが新たに大東の金蔵となった。さらにその後、18世紀に荒須加の濃夢海岸で大量の金が砂金の形で見つかり、さらにその後の荒須加内陸部(番楠)でも大規模な金鉱開発が行われた。おかげでその後の大東は、人口と経済、海外貿易の拡大に似合うだけの貨幣を増やし続けることに成功した。
 大東島は、西日列島本以上に黄金の国だった。
 そして経済さえ安定していれば、国内統治は安定しやすい。特に住んでいる地域が人口飽和しなければ、巨大飢饉でも起きない限り住民はなかなか文句は言わないものだ。島国で他国と国境を接していないなら尚更だ。
 16世紀末に成立した大東国の政府も、内政統治には相応の努力を傾けていた。統治の邪魔になりがちな犯罪者や無法者も、どんどん自分たちが持つ外の世界に流刑や「強制移民」の形で放り出した。国内で足りない資源や資材も、銀や銅と同じように可能な限り海外から調達した。大陸北部での林業は、大東経済に無くては成らないものだった。
 しかし、安定した時代、経済的にも安定した時代は、大規模な人口増加が起こりやすい。しかも16世紀以後は、世界各地から新たな有効な農産物(※馬鈴薯(ポテト)、甘芋(スイートポテト)、東黍(コーン)など)がもたらされたため、技術の発展と相まって人口は爆発的に拡大した。
 それまで穀物(米か小麦)の栽培に向かなかった場所では、甘芋、馬鈴薯が栽培され、温暖で雨量の少ない一部では東黍の栽培も行われた。どの作物も収穫量が多く、面積当たりの人口包容力が非常に大きかった。従来の小麦についても、世界中から集めた込た小麦を用いた品種改良が実施され、農法の改良も実施された。各種家畜についても同様で、優れた品種が次々に生み出された。北部の新大東州では、西ヨーロッパ最新の農法(混合農業)も、技術指導の「お雇い異人」を連れてきてまでして導入された。
 ここで少し総人口の推移を示して次に進もう。

 戦国時代開始頃(1560年頃):2,250万人
 戦国時代終了頃(1600年頃):2,150万人
 1700年頃:3,600万人
 1750年頃:5,100万人
 1800年頃:6,050万人

 19世紀初頭の大東島全体の総人口は約6000万人。人口密度は島全体だと約90人。南部の旧大東州は220人、北部の旧大東州は35人程度となる。ただし新大東州の北部は、一部がトナカイ放牧しかできないタイガ(針葉樹林)で覆われた亜寒帯に含まれるなど寒冷な気候のため、極端に人口密度が低くなる。
 ちなみに同時期の日本が約100人、当時ヨーロッパで最も人口密度の高いフランスが50人程度となる。
 年間降水量が少なく家畜の飼育が多いため、平地が格段に多い大東島の方が平地での人口密度は日本よりもかなり低い。このため全体の印象としては、日本よりも土地の使い方は贅沢となっている。何しろ日本の利用できる平地の合計面積は10万平方キロメートルほどしかないので、平地の人口密度は350人近くなる。大東島の最も人口密度の高い地域と比べても、1.5倍ほどあった。
 しかし約6000万人という数字は、近世末期の大東島の技術レベルでの本当の意味での人口飽和状態を意味していた。子孫への財産分与の考え方がないので同時期の中華中原よりはマシだが、楽観できる状態ではなかった。余った人は、都市部かさもなければ海外に放り出すより他無かった。
 大東での開発限界は、18世紀中頃から見られていた傾向で、17世紀末頃から増え始めた日本人移民が、大東島の人口増加をさらに押し上げていた。
 18世紀半ばからは、豊水大陸などへの「棄民」、疫病で勝手に人口が減ってくれる熱帯地域への事実上「棄民」が政府主導で徐々に拡大していた。連動して、18世紀末には日本からの人の流れも止めるようになる。この結果、日本では産児制限、結婚年齢の上昇などに特化し、少ししてから大東商人の手により豊水大陸、北米大陸などへ移民する流れが作られた。
 しかし19世紀に入る前後、大東の東京御所では本格的な移民、大規模な入植による本国の人減らしについて真剣に考えられるようになる。だが、近在の北極地域は入植には全く適さず、それ以外の場所への入植が本格的に考えられるようになっていた。豊水大陸以外にも、荒須加の東に広がる北アメリカ大陸北西部沿岸地域の調査も本格的に実施されたりもした。
 しかしその頃、ヨーロッパ世界は世界の果てまで欲望の手を伸ばそうとしていた。
 

■クックの探検

 18世紀末、大東国が本格的な大規模移民を考えている頃、世界情勢が大東にとって不利な方向に動き始めていた。
 まずはロシア。
 女帝エカチョリーナによって躍進していたロシア帝国は、1770年代に入ると再びシベリア(=大東名:沙波(サハ))の開発に力を入れるようになっていた。表向きの目的は商業の拡大だが、本当の目的が領土拡大なのは明白だった。凍らない海を目指すロシアは、東の果ての大東洋に出ることのできる海を、大東国から何とかかすめ取れないかと動いたのだ。
 しかし、当時のロシア領から最も近い大東洋側の海(北氷海)まで1000キロメートル以上あった。北極海から船で大東洋に出る事も、厳しい自然環境のため極めて困難だった。そして大東国は、武力で押しのけるには、十分な国力と高い技術力を持った大国だった。
 このためロシアの行動は、大東との間の交易を拡大して、大東がいまだかなりの量を産出し続けていた金を貿易によって獲得するというだけで済んだ。大東にとっても、当時スペインが元気を無くしていたため、ロシア人が持ってきたヨーロッパの文物はかなりの価値があった。
 そして互いの皇帝が親書を交換したり使節が行き交ったりしたので、歴史上の表向きは東露友好の時代と言われることもある。
 しかしロシアとの交渉では、ロシア側が交渉を有利にするために軍隊を境界線に並べたりする事もあるため、大東側は久しぶりに海外勢力からの脅威を感じるようになる。
 だが、ロシアよりも問題だったのは、イギリス(=イングランド=イングリッシュ)の行動だった。

 1770年秋、豊水大陸から戻ってきた定期便の早船(高速直船)が、驚くべき来訪者があった事を伝えた。
 イギリスのキャプテン・クック(ジェームズ・クック)がエンデバー号で豊水大陸にたどり着いたのは、1770年4月20日金曜日だった。この時たどり着いた場所に大東人は足跡を残していなかった為、彼らは百年以上前にオランダ人が発見した、「未知の新大陸」に到達したと思っていた。これは、大東が豊水大陸の事を諸外国に特に何も言っていなかったからで、大東側にも責任があった。
 しかしエンデバー号が北上すると、そこが原始時代のままの大陸ではないことが分かってきた。ヨーロッパら見たら未知かもしれないが、東アジア世界では未知でも何でもなかったのだ。
 彼らが高度な文明と出会った場所は、大東人が征南と名付けた入植地だった。
 そこには、既に1万人近くが住んでいると見られる東洋風の街並みがあった。港湾部は街の規模以上に整備され、大型のガレオン船も接岸可能な立派な岸壁も整備されていた。実際ガレオン船も接岸していたし、警備のための中型の軍艦も駐留していた。沿岸の要所には、多数の大砲を据えた石造りの沿岸要塞もあった。
 周辺部の土地もヨーロッパ人には多少違和感はあるが十分に開拓されており、現地人に案内された内陸部には田園や牧場が広がっていた。そこに住む人々も、ヨーロッパとは文化風俗は違いながらも十分に文明的だった。
 接近してきた事に気付いた「原住民」は外国船への応対の仕方も心得ており、敵意の無いことを示すと船の誘導を始め、無事接岸と友好的接触が実施された。言葉についても、スペイン語を話せる者がいたので互いの意志疎通もある程度可能だった。
 そこでようやくクック達は、たどり着いた場所が東の果てにある大東国が保有する入植地である事を知る。
 当時のヨーロッパでアジアを知る者にとっての大東国は、世界の最も東に位置する「ジパング」もしくは「チャイナ」の一地方で、諸外国とも広く交易を行う東アジアでは珍しい地域とされていた。少し物知りなら、スペイン船の寄港地だと知っていた。クックの祖国イギリスとの間にも、インド洋での貿易が小規模ながら行われていた。このため現地の大東人は、船がインドからやって来たものと思っていた。
 その後大東人の案内を乗せたエンデバー号は、大陸東部の大環礁を北上して豊水大陸各地を巡回し、大東人が築いた入植地や流刑地の案内を受け、自分たちがたどり着いた場所が未知の新大陸ではなく、既に開発された他国のコロニー(植民地)に過ぎないことを知る。
 しかしこの時の航海でクックが発見したニュージーランドには、大東人はたどり着いていなかった。少なくとも入植していないし、痕跡や標識も見付けられなかった。このため、この時の航海のすぐ後に、イギリスにより領有宣言が出された。そしてその後、1788年のはじめに前哨基地と囚人の入植地を設置するために、アーサー・フィリップ艦長率いる東方第一艦隊がニュー・ジーランドに上陸し、以後ニュー・ジーランドは正式にイギリスの植民地とされる。この事は、今日においても近世における大東政府の海外製作の失敗だと見なされている。
 ただし大東人がニュージーランドの事を知らなかったのではなく、凶暴な原住民がいる開発する価値の低い場所と判断していたため、進出を行わなかっただけだった。

 少し先まで追ったが、とにかく大東人はイギリスの探検隊がヨーロッパ勢力が今までたどり着かなかった場所に到達したことを酷く驚いた。
 しかもクックは、その後さらに二度探検隊として大東洋にやって来た。1772年から1775年の二度目は南大東洋だったので、大東の警戒は半ば杞憂に終わったが、三度目は大東にとって憂慮すべき事態だった。
 1776年〜1780年にかけて行われた航海では、1778年クックの率いるレゾリューション号、ディスカバリー号が大東洋を南北に縦断して羽合諸島に到達したからだ。

 当時羽合諸島は、大東の捕鯨船の一大拠点となっていた。
 16世紀末から活動を活発化させた大東の捕鯨船は、国内の旺盛な需要を満たすべく鯨の狩りを続けて北大東洋を彷徨い、いくつかの偶然と必然の結果、18世紀初頭にハワイ諸島に到達した。正確な年は分かっていないが、1705年頃だと考えられている。
 そしてハワイ諸島が鯨の夏の一大繁殖地だったため、周辺一帯での捕鯨が盛んとなった。クックらが訪れた時は、まさに最盛期で、年間約100隻の捕鯨直船が羽合諸島・小和府島の真珠湾を利用していた。
 こうした捕鯨船の船員を商売とする人々も大東島からやって来て、中には農業移民として移住する者もいた。家畜も多数持ち込まれ、現地人の生活、文化の多くも大東の影響を強く受けていた。文字も基本的には日本語のカナ文字を使うようになり、宗教ですら大東の神道が大きな影響を与えた。一方では、大東人が持ち込んだユーラシアの疫病の数々(天然痘や麻疹)が原住民を激減させ、接触時40万人程度いたと考えられている羽合の先住民は、四半世紀後には9万人にまで激減していた。
 そして大東人が訪れた当時の羽合は、最大規模でも一つの島を統治する「アリイ・ヌイ」と呼ばれる大族長による統治が行われていたに過ぎなかった。多くはまだ一族単位の族長レベルで、国家の形成にはほど遠かった。そこに疫病による感染爆発(パンデミック)が襲いかかったため、羽合の既存社会は一度崩壊の危機に瀕した。
 当然大東人が疑われ、捕鯨船員達の素行不良もあって各所で争いが発生した。そして小数の場合は、数の差で大東人が船ごと全滅に追いやられる場合もあったが、大東の捕鯨船とその業者の反応はかなり早いものだった。複数の船で船団を組み、傭兵を多数雇って本格的な戦闘を仕掛けたからだ。
 そして船には大砲が搭載され、傭兵は羽合人が加工法すら分からない鉄の武具を持っていた。しかも傭兵達は、厳しく訓練された優秀な兵士だった。
 何度かの小規模な戦闘のあと、小和府島のアリイ・ヌイと大東捕鯨船員の代表との間に話し合いが持たれ、幾つかの技術と交換という形で真珠湾とその一帯が大東人のものとなり、便宜上大東の代表者が真珠湾一帯のアリイ(族長)とされた。
 その後も捕鯨の活発化に伴って大東人の羽合での勢力は増えたが、侵略や併合、植民地化について大東政府は消極的なままだった。せいぜいが、移民の候補地にならないかと考えたぐらいだった。このため捕鯨を行う現地の網元や大商人が、幅を利かせていた。
 そしてクックが来訪する頃の羽合は、現地の人々が大東人の捕鯨を見つつ徐々に一つの王国を形成する動きを見せている所だった。

 羽合に至ったクックは、ここにも大東人が進出している事にかなり驚いたとされる。しかし、北極近辺に大東人が進出しているという噂を聞いていたので、大東の言葉(日本語)が分かる通訳を乗せ羽合での交流は特に大きな支障もなかった。
 そして羽合で補給と休養を取ると、その後クック達はさらに北を目指した。
 そして今度は、羽合の北にある先島諸島の大彩島を経由して、北アメリカ大陸北西部(現在:霧州)へと到達する。そしてここでも、大東人のコロニーを見ることになる。

 北米北西部に到達した最初の大東人は毛皮商人達だった。次にきたのは捕鯨船の船員だった。そしてクックが到達した頃には、既に定住移民(農業移民)が一定数住むようになっていた。当然と言うべきか、大東政府の施設も開かれていた。おかげでクック達は、新鮮な食料と水を補給して休養すら取ることが出来たが、この報告はヨーロッパ世界、特にイギリスに一定の衝撃を与えることとなった。新世界の僻地には、先にテリトリーを広げた者がいたからだ。
 しかも、その後クックらは新大陸沿岸を北に進むが、やはりそこかしこで大東人の姿を見付けた。航海の途中でも、数の激減したラッコを探す毛皮商人の帆船に出会うこともあった。
 北極に近づくと、今度は大東の捕鯨船にも出会った。何しろ荒須加の火依半島には、ごく短い夏の間だけとはいえ鯨の移動に合わせた大東捕鯨の一大拠点が存在していた。
 二つの巨大大陸の間にある縁倶海峡に至るまでも同様で、クックらは北大東洋北部一帯には既に東洋人の一派が進出している事をヨーロッパ社会に最初に伝える事となった。
 そしてもう一つクックがヨーロッパに伝えた事があった。
 大東洋の北部一帯は極東の東洋人の鯨の狩り場となっており、既に大西洋の鯨を取り尽くしつつあるヨーロッパ世界にとっての有望性はかなり低いという事だ。スペインなどが大東から鯨油を輸入していることが、何よりの証拠だった。
 クックの報告は、その後クックの調査にも同行したジョージ・バンクーバーによっても確認され、さらに彼はイギリスに新しい植民地を提供するべく北アメリカ大東洋岸の調査航海を指揮した。
 そしてクックらの大東洋探検は、1788年のイギリスによるニュージーランド領有と入植開始へとつながる。

■大東の対外政策

 クックの大東洋探検は、武力を伴わない平和的なものだったにも関わらず、大東に少なくない衝撃を与えた。
 ヨーロッパ世界と自分たちだけが活動している地域との距離の問題から、北大東洋奥地にヨーロッパ勢力がまともにやって来る筈がないと、先入観優先で考えていたからだ。
 しかしヨーロッパ社会全体の膨張が、ついに彼らの手を彼らにとっての世界の僻地へと伸ばさせる事になった。
 そしてさらに、大東本国では人口飽和が現実の危機となり始め、大東という国家にとって本格的な入植地が必要となりつつあった。
 この二つの要素が、大東に海外進出の歩みを少しばかり早ませる事になる。
 政策は大きく、「東南アジアでの自分たちの勢力圏の確定」、「北大東洋全域の領有宣言」、「ユーラシア北東部でのロシアとの境界線の確認」、「東の果ての新大陸(北アメリカ北西部)の調査と開発」、そして「豊水大陸への本格的な入植と詳細な調査」になるだろう。
 あと、さしたる期待も持たずに、西日本列島の江戸幕府に鎖国の緩和もしくは撤廃を勧める書簡を出してみた。そして大東の予想通り、他人の事に口出しするなと言ってきただけだった。日本が多少なりとも興味を持ったのは、日本よりも技術的に優れていた大東が一般的に使っている各種武器や船についてぐらいだった。18世紀後半で見れば、大東が使用している武器や艦船はヨーロッパの最先端から多少劣る程度でしかなかったのだから、興味を持つだけマシと言うべき状況だった。
 清朝についても、商人を仲介することで似たような書簡が出されたが、17世紀半ばの大東の干渉を覚えていた清朝は、大東が「東の果ての蛮族」と言うこともあり相手にもしなかった。
 そして大東は、アジアの他の国とはまともな関係が少ないので(※国交があったのは、東南アジアのシャム、大越、ブルネイぐらい)、仕方なく自国だけで来るべきヨーロッパ勢力の進出への対応を進めていった。
 なお、当時の大東の文明程度や技術程度だが、基本的にスペインやブリテンから技術や書籍を継続的に輸入していたので、当時既に世界最先端となっていたヨーロッパ西部と比べても大きな遜色はなかった。自然哲学(科学)についても、多くが有用な知識や技術に利用されていた。また、自分たちが赴いた先で様々なものや知識などを得ていたので、大東人自身が自分自身の身の丈については十分把握していた。
 だからこそ、大東は特に油断も奢りもなく、とにかく自分自身が今まで手を広げた先の「縄張り」の確保に動いたと言えるだろう。

 しかし18世紀も残り四半世紀の頃に限れば、西ヨーロッパに対して大東はかなり有利な位置にいた。
 それは人口と直結した国力だ。
 1780年頃、大東の総人口は約5800万人。これに対してイギリス(ブリテン)は800万人程度だった。当時ヨーロッパで最大の人口を有しているのはフランスとロシアだったが、それぞれ2500万人ほどだった。プロイセンを含めた神聖ローマ(ドイツ語圏)全体でも2000万人に届いていない。
 つまり単純な人口だけ比較すれば、後の国家でいうイギリス、フランス、ドイツを合わせたほどの人口を有していた事になる。イギリスの産業革命直前なので、この時点でのヨーロッパは基本的にアジアの国々に対して人口とそれに付随する国力面で劣勢だった。だからこそユーラシア各地の国々は、軍事力に優れた西ヨーロッパ各国の本格的な侵略を受けていなかった。
 総人口が最低でも4億人いた清帝国が世界最大の帝国であり、当時の清帝国皇帝が貿易を求めたイギリスの商人に、自分たちが海外から欲しいものはないと言ったのも偽りのない事実だった。大東の人口は流石に清帝国より少なかったが、それでもインドのマラータ同盟を除けば、清帝国に次ぐ人口大国だった。
 そしてこの場合、6000万人という数字と基本的に海運が盛んな島国だという事が重要だった。清帝国は巨大すぎる国内人口と、基本的に大陸国家であるため、国家としての動きが緩慢にならざるを得なかった。前工業時代となれば尚更だった。だが大東程度の人口ならば、島国で海運と商工業が発展しているという利点もあって、次の時代へと自力で進むだけの機動力と余裕があった。
 そして大東は、海外への大規模移民という手段を用いて国内の人口調整と国内安定に乗り出そうとしていた。同時に大規模移民は、海外領土の永続化を進める手段にもなり、結果として大東にとって一石二鳥の政策だった。
 そして大東には、西ヨーロッパの列強に対して「極東」という地の利があった。大東は地の利とそれによって得た時間を十分に使い、自分たちのテリトリーの確保を図ることができた。
 さらにまた、ヨーロッパ世界の情勢が一時的に大東にとって有利に働いた。イギリスとフランスは、北アメリカ東部とインドでの勢力争いにかまけた。さらにフランスに勝利したイギリスは、インド征服の戦争にのめり込むも、「アメリカ独立戦争(1775年〜1783年)」で一時的な後退を余儀なくされる。
 しかし、北アメリカでイギリスの足を引っ張ったフランスは、今まで積もり積もったマイナス要因に、戦費による国家の債務が異常なほど膨れあがり、ついに民衆の不満が爆発する。これが1789年に発生した「フランス革命」だった。
 そしてフランス革命から四半世紀の間、ヨーロッパ世界は大きな戦乱期に入る。